★ われわれの観点からみれば、プラトンはけっしてイデア的なものの「存在」を、あるいは知の基礎を安易に提示したのではない。実際、彼は哲学者=王を実践しようとして惨めな失敗をしている。彼は「不可能なもの」を想像的に実現したのである。この点からみれば、プラトンがその対話篇を、ソクラテスの殺害からはじめていることは象徴的である。以後の著作にソクラテスはさまざまなかたちであらわれる。しかも、われわれはたえず、そのソクラテスがすでに殺されたのだということを想起させられるのだ。そして、ソクラテスは彼を処罰した「法」の不滅性を証明するためにあえて自殺したことになっている。そのことは、イデア的なものの実現の「不可能性」を示すことであり、同時に、それを実現せねばならないという建築への意志を反復的にかき立てるものである。要するに、たんにイデア的なものの不可能性をいうことは、プラトンを否定することにはなりえない。
★ フッサールは、20世紀の形式主義が、数学だけでなく、あらゆる領域に浸透せざるをえないことを察知していたといってよい。それは今日ではコンピュータ科学や分子生物学に典型的にあらわれる。つまり、19世紀の人たちが、最後の牙城として残しておいた、精神、生命、詩といったものにそれが浸透するのである。1930年代には、それに対する反撥が「非合理主義」として爆発した。政治的には、ファシズムである。その渦中においてこそ、フッサールは、この形式のステータスを問うたのである。彼の周りには、社会そのものを党(哲学者=王)によって合理的に建築しようとするスターリニズムと、それに対抗して非合理的な情念的なものを解放するファシズムがあった。フッサールの姿勢は、そのいずれでもない。
★ 実体に対して関係を、同一性に対して差異を優越させる「哲学」は、すでにテクノロジーとして実現されている。われわれは、思弁的なものではなく現実化した「差異の哲学」に追いつめられている。たとえば、人間には機械と異なる「精神」があるということはできない。むしろ、コンピュータ(人工頭脳)を根底におくことによって、人間はいかなる意味で人間的なのかが問われなければならない。ロマン主義が神秘化してきた「生命」は、分子生物学によっていわば徹底的に形式化されてしまった。だが、むしろ、その上でこそ、生命を生命たらしめているものは何かが問われなければならない。
<柄谷行人『隠喩としての建築』(岩波・柄谷行人集2;2004)>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます