ひとは幻想を“抱いて”生きている。
あるいは“幻想にたくして”生きる。
その幻想は、“多様”である。
あるいはその幻想は、“単一”である。
幻想が、高度で入り組んだ“観念”であることもあるし、
有名“タレント”の顔や、立ち振る舞いであることもあるし、
あるひとを、“恋する”ことでもある。
ぼくはここで、“そういう幻想”の無効性とか、バカバカしさを言おうとしていない。
なぜなら、ぼく自身もそういう幻想に“とらわれてきた”し、現在でも“とらわれている”からである。
幻想とリアルという“テーマ”は、本質的(根源的)であると同時に、ますます“アクチュアル”である。
現在という時代を、“総幻想時代”と認識することもできる。
幻想の“圧倒的支配”というように。
たとえば“資本主義”とか“自由主義”とか“民主主義”とか“テロとの戦い”という幻想について、語るの好きなひとが、多い。
マスメディアは、それについておどろくほど多量な“言説”を生産している。
“これは幻想ではない、事実によって実証してみせる”という幻想的な言説も多い(笑)
あるいは、“サイエンスは幻想ではない”という幻想も多い。
しかしぼくがこのブログで書きたく思ったのは、そういう一般論ではなく、具体的な“事件”というものについての言説=幻想である。
“具体的な事件”である。
たとえば近日、“秋葉原無差別殺傷事件1周年”で、メディアには、さまざまな“言説”が出たようである。
ぼくはアサヒコムなどで、事件現場に来た人々の“発言”(それは多くは、事件前の犯人にかかわりのあった人々である)を見た。
それを読んでも、なにひとつこの事件についての“認識をもたらす”ような発言はみあたらない。
これは、インタビューされた人々が、“なんら認識していない”ということではないだろう。
彼らは、自分の思いを言葉にすることができなかった(言葉では言い表せなかった)のであり、しかも、マスメディアは彼等の言葉を数行に要約しているからである。
いったいこの繰り返される“悲惨な事件”について、なんらかの認識を得ることは、どうして可能か?
その認識を放置して、ただ“犯人”への報復(復讐)感情のみを語っていてよいのであろうか。
ぼくは“死刑”の問題は、その刑に値するか否かの実証や、報復感情の倫理性であるより前に、その事件自体の“認識”にあると思う。
それは“犯人の心の闇”というような言葉に収斂される“内的動機”と、彼のこれまでの人生における“経験”としての社会関係と、彼に直接関係ない(かのような)その時代の社会関係(世界関係)の“総体”への認識である。
ここに“ある現実に起こった事件”についての言説がある。
この事件を青山真治は、映画として小説として、“二度”認識しようとした(“ユリイカ EUREKA”)
この事件が実際にどうであったかを調べようとWikipediaの“バス・ジャック”などを検索したが、みつからない。
考えてみれば、この事件は、普通の意味では“たいした事件”ではなかったのである。
ぼくはこの映画をテレビで数回見たが(つまり途中からみたり、またその前を見たり)、その時は青山真治氏をとくに意識していなかった。
“才能”は認めたが、ほんとうに好きな映画とは感じなかった。
しかしこのブログにも書いたが『ホテル・クロニクルズ』でぼくは彼を発見した。
彼の中上健次に対する“思い”というのにも、注目した。
そこで、最初を読みかけただけで放置してあった『ユリイカ EUREKA』の“小説”をまた最初から読みはじめた;
★ 男は、その日の最初のバスを待って、石垣の下に座り込んだ。
ふたたび時を数え始めた。足の間に挟んだ紙袋の中の古新聞がささくれだっていた。
盆休みだというのに、近所の団地から会社勤めの男たちが、寝起きのけだるさをひきずって集まってきた。一、ニ、三人。お前たちは今日もやって来た。お前たちの生産営為には終わりがない。しかしお前たちはその終わりのなさにうんざりしているのに、終わらせる勇気を持たない。俺は違う。俺は終わらせた。そしてお前たちにもこの自由を享受させてやろう。男たちは話をするわけでもなく無防備にバス停に立っていた。まるでその男が本当に透明で見えないとでも云うように、背を向けて久留米行き始発バスの来るのを待っていた。だが今この場では名もない者らとして、お前たちもここにある。俺と同様に。
上記はバス・ジャックを行う前の犯人の“心境”である。
しかしこの小説は、“犯人(犯罪者)”のみを描いてはいない。
ある“事件”によって、幻想とリアルが、はげしく錯綜する“リアル(現場)”にこそ迫っていると思う。