Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

カオス

2009-06-07 18:54:44 | 日記

なんか“こせこせ”したことばかりで、気が滅入るので、ギリシア神話について読んでみよう。
引用元は呉茂一『ギリシア神話』(新潮文庫)である。
その神話の最初の部分の解説を読む。
なお原文のカッコ部分をかなり省略した(原文に失礼であるが、煩雑なため)

★ ヘーシオドスは彼の創世記を、詩歌の女神たちへの呼びかけと主神ゼウスの讃頌(さんしょう)ではじめ、ようやく116行目から「いかにも最初にまずできたのはカオス」で、それから今度は「広い胸をしたガイア(大地)ができた、万物のとわに揺るがぬ座であるところの」と歌いだす。このカオスというのは、ふつう無秩序な混沌と解されているが、本義はギリシア語の「口を開ける、隙間を作る」などいう語根Cha-にもとづき、空間や隙間の、何もない拡がり、あるいはもやもやと煙霧の立ちこめた無限とここでは解すべきようである。

★ この一段は先に神々の誕生を述べるオリエント系の創世記よりもやや哲学的な、フェニキアなどに見る、世界の初めを一面の煙霧と暗闇とし、その混和から引き続いて「あこがれ」ポトスが生じた、とする別な創世説話にそっくりである。すなわちここでも、このガイアとともに、地底にあっておぼろにかすむタルタロスと、神々のうちでももっとも美しい神「愛」エロースとができたとし、一方また別にカオスからエレボス(幽冥界)と、か黒い「夜」ニュクスとが生まれたという。

★ 以下は大体順調に運び、この「夜」がさきの「幽冥」エレボスと愛において結ばれ、逆説的に高空の光と輝きに満ちた灝気(こうき)アイテール(エーテル)と、昼日へーメラーを生んだとする。一方「大地」ガイアはまず、星をちりばめた「天空」ウーラノスを産み、これを「不死なる神々の確固たる御座(みくら)」として、くまなくおのが身の上を覆わしめた。それから高い山々、波の逆巻く海原ポントスなどを、ひとりでもって産んだが、その後ウーラノスと一緒に寝て、深く渦巻くオーケアノスや、コイオス、クリーオス、ヒューペリーオーン、イーアペトスらの息子、およびテイアー、レイアー、テミス(法、掟、慣例)、ムネーモシュネー(記憶)、ポイベー、テーテュースらの娘を産み、さらに最後に、いちばん年若ながら「狡智に長けた」クロノスを産み落とした、という。これらがいわゆるティータンの一族、英語のタイタンどもである。


笑えない

2009-06-07 17:10:44 | 日記
現在、ヤフーニュース、アクセス2位;

<笑えぬ“笑いの殿堂” 吉本興業で何が起きているのか>6月6日14時36分配信 産経新聞
 襲撃事件、脅迫電話、脅迫状…。吉本興業所属の漫才師、中田カウスさん(59)の周辺が慌ただしさを増している。脅迫状事件では、同社所属漫才師の前田五郎さん(67)=休養中=の関与が疑われる異例の事態に発展した。同社は平成19年、創業家一族と会社サイドの対立が週刊紙などで表面化していた。波乱の中、25日には株主総会を迎える。“お笑いの殿堂”でいったい何が起きているのか。
(以下略)

しかし“笑えぬ笑の殿堂”というのは、最近の事件で明らかになったことではないのである。

ぼくにとっては、“よしもと”というのは、もともと“笑えぬ”ところである(笑)
なにが、おかしいか、トンとわからぬ。

ちょっと前だがこういう記事もあった;

<吉本興業子会社が所得隠し 東京国税局、3000万円>2009/05/27 22:18 【共同通信】
吉本興業(大阪市)は27日、子会社でタレント本出版などを手掛ける「吉本音楽出版」(東京)が東京国税局の税務調査を受け、2008年3月期までの7年間で約3000万円の所得隠しなどを指摘される見通しだと発表した。 追徴税額は、重加算税や過少申告加算税など計約2000万円。「更正通知書を受領後、対応を決めたい」としている。 吉本興業や関係者によると、吉本音楽出版は02-03年、取引先を通じて吉本興業元会長(76)のファミリー企業に支払った金を経費として計上したが、東京国税局はこれらの支出の一部に対価性がないと判断。損金算入できない交際費に当たると認定したもようだ。 これとは別に、吉本興業も大阪国税局の税務調査で経理ミスなど申告漏れを指摘されており、近く追徴課税される見通しという。 07年、所属タレントの中田カウスさんが暴力団と交際しているとの週刊誌報道で一連の不正経理問題が表面化。吉本興業は不正支出を一部認める調査結果を公表していた。
<もっと知りたい ニュースの「言葉」;吉本興業>
1912年創業の興行会社。東証一部上場。創業者吉本せいの実弟、故林正之助会長は漫才を全国区にした“中興の祖”として知られる。西川きよしやダウンタウンら人気芸人を抱え、所属タレントは公称約800人。最近はファンダンゴやアール・アンド・シーなどの関連会社を通じ、コンテンツ配信など事業多角化を積極に進めている。
(以上引用)

また現在、ヤフーニュース、アクセス1位;
<逮捕の京都教育大生を採用 保護者会で批判相次ぐ>6月4日23時56分配信 産経新聞
というのも、“どここからみても”不快なニュースである。
元気がよすぎて集団強姦する“教育大生”が、市教委の“父”によって採用されるというのは、いかなる“合理性”であろうか。

この学生を含む“学生たち”は、“一気飲みダービーゲーム”とやらしか、遊び方を知らない模様である。
今回“集団準強姦罪”にとわれた6人の学生たちは、“陸上部やサッカー部、アメリカンフットボール部などの部員だった”らしいが、彼らは“スポーツ”で燃焼できなかったのであろうか!
また、“見ていてとめない”周囲の学生とは、いったいどういう根性の“若者”なのだろうか。

たしか“集団強姦罪”というのは、京大アメフト部でもおきている。
だからといって、ぼくはこういう“犯罪”と“お笑い風土”が関係あるなどと、推論するつもりはない(笑)
ぼくの“母校”でもたしか、“スーパーフリー”とかいう事件もあったようである。


楢山

2009-06-07 13:53:04 | 日記
率直に言って、ブログや掲示板に書かれている言葉に立ち止まることは少ない。

“よく知っている”数人の方々の言葉は、読み、“現実の”彼らを思い浮かべて、その時々の感想はある。
また、大新聞コラム、社説と少数の有名人コラムは、“批判の対象として”読む。

あとは、気まぐれに、その日の気分で見る(あるいは見ない)
その程度の巡回であるのだが、そこに書かれている言葉に、立ち止まることは少ない。

今日、そういうことがあった、ある難病掲示板の言葉である;

《楢山節考 あれからもう何年になるのかなぁ。深沢八郎を読んでたのは、高校生だから
しかし、あれからまったく変わってないな。ああ 私のお山は 何処にあるのか。》

(読み返して気づいた;上記は原文をコピーしたので、”深沢八郎”となっているが、これは”深沢七郎”である)

ぼくは昨日のブログで、“楢山節”と書いたのである。

ぼくが『楢山節考』を思い出したのは、先日の新宿紀伊国屋書店での日本文学と海外文学を集めた“フェア”で、その 文庫本を手に取ったからである(この文庫は、家のどこかにまだある)

ぼくもこの本をずいぶん昔に(つまり“若い”ときに)読んだ。
また木下恵介の映画化(ずいぶん昔に見たので記憶があいまいだが)にも衝撃を受けた(今村昌平による映画化は評価できない)

昨夜から今日早朝にかけて、ぼくは延々と3級映画を見ていた。
「ターミネーター3」、「ブラックダリア」、「ミミック」、「ドーン・オブ・ザ・デッド」である。
もちろんこれらの映画は同時刻にもやっていたので、“かけもち”で見たのである。

そして長かったサラリーマン時代の週末の真夜中にも、このように呆然とテレビで映画を見続けていたことを思い出した。

率直に書くが、このとき、ぼくは死ぬのが怖くなった。

“昔”、テレビを呆然と見ていた時には(ぼくは映画だけを見ていたのではない、サッカーも見ていた;笑)、ぼくの未来の時間は“無限定”だった。

しかし、いまは、ちがう。




Imagine

2009-06-07 13:04:14 | 日記

今日の天声人語が“ジョン・レノンの名曲「イマジン」”と書いていたので、ぼくもこの“名曲”について書く。

つまり、“imagine”とか“dreamer”という言葉が、いかに歴史のなかで風化したのか、腐食にさらされたのかについて考える。

そもそもジョン・レノンおよびこの“反戦歌”について、ジョンという人間はそんなに立派なひとではなかったとか、ジョンの“反戦平和思想”にはたいした根拠はなかった、というひとがいるなら、ぼくは賛成である。

ジョン・レノンというひとは、そんな単純なひとではなかったと思う。
それは、なによりも彼の音楽を、いま聴くことによってあきらかである。
もちろん、それは、彼が神でも英雄でもなかったということである。

ひとりの現実に生きた男を、なにかの象徴とすることは、できない。
彼に才能があっても、おどろくほど“通俗”であってもである。

むしろいま問題なのは、“イマジンするひと”として“dreamer”であるということ自体である。
ぼくたちは、“実証”や“サイエンス”によって、それを拒否することもできるからである。

“dreamer”というのは、マンガのセリフがはいるべき“風船”が空白のようなひとでもあるからである。
もしあなたがいつも“あらぬこと”ばかり口走っていれば、だれもあなたの言うことを聞かないであろう(このブログのように)

しかし、この世には“幻想産業(幻想資本主義)”とでも呼ぶべきものも存在している。
その“最新の成果”が爆発的ベストセラーになっているではないか。

マンガの風船に、“空白”しかないものが、何百ページも費やして、自分の痴呆の夢を語る。
“語る”のは勝手だが、それを商品として生産し宣伝するものがいて、それを喜々として買ってしまうものがいて、それを読んで“感動する”ものまでがいるらしいのである。

これが、“幻想産業(幻想資本主義)”である。

いまジョン・レノンの“dream”が、その幻想に拮抗し、それらの夢を打ち砕けるかどうかは、ぼくにはわからない。
たとえば“Imagine”を、“名曲”などと言って恥じない感性には、その可能性はない。

むしろそうであるなら、ぼくらは、この曲を、きっぱりと棄てるべきである。
あらゆる“イヴェント”で、この曲が合唱されるところへなど、ぼくは行きたくない。

この曲は真夜中にひとりで聴く。
いや今日のように爽やかな空の下で、ひとりで聴く。

なによりも、この曲の“意味”を聴くのではなく、ジョン・レノンの“声”を聴く。
これこそは、テクノロジーの恩恵である。
死んだ人の声を、いま、聴くことができる。

前のブログでこの曲の訳詞を試みたことがある。
“反歌”もつけた。
再掲載する;

<イマジン非公式邦訳(by warmgun)>

天国なんかあるわけないと想像してくれ
その気になれば簡単なことさ
ぼくたちの足の下に地獄なんかあるわけない
ぼくたちの頭の上には空だけがある
想像してくれみんな
ただ今日のために生きること

国家なんてないと想像してくれ
たいしてむずかしい想像じゃない
国家のために殺したり死んだりする理由はない
宗教のためにもさ
想像してくれ
平和に生きるということを

ああ、きみはぼくを空想家と呼ぶだろう
でもぼくがひとりそう思ってんじゃない
いつの日かきみたちがぼくの空想に結びつくことを望む
そしてこの世界はぼくたちのひとつの生となるんだ

私有財産のない世界を想像してくれ
きみに想像できるかな
貪欲や飢えのない世界
人々が兄弟となりうる世界
想像してくれ
すべてを共有する世界を

ああ、きみはぼくを空想家と呼ぶだろう
でもぼくがひとりそう思ってんじゃない
いつの日かきみたちがぼくの空想に結びつくことを望む
そしてこの世界はぼくたちのひとつの生となるんだ


<反歌>

やっぱ天国があったりして
たまにそんな気になる
地獄もあるかも
ぼくたちの頭の上には天使の影が射す
想像してくれみんな
ただ地獄に落ちないように生きること

国家はやっぱ不滅よ
想像力はいらない
永久に国家のために殺したり死んだりするのさ
宗教のためにも
想像できないよ
平和に生きるなんて

ああ、きみはぼくをリアリストと呼ぶだろう
でもぼくは誰かが言ったことをいってるんだ
いつまでもリアリストでいるっきゃない
そしてこの世界はいつまでもおんなじなんだ

私有財産のない世界なんてあるわきゃない
想像しなくてもわかる
貪欲なひとびとがうごめきおちこぼれが飢えてくこの世界
結局殺し合いジャン
想像できない
すべてを共有する世界なんて

ああ、きみはぼくをリアリストと呼ぶだろう
でもぼくは誰かが言ったことをいってるんだ
いつまでもリアリストでいるっきゃない
そしてこの世界はいつまでもおんなじなんだ


わからない文章

2009-06-07 11:21:18 | 日記
どうも頭の調子が悪いせいか、ぼくは今見たふたつの文章がわからない(最後に参考として掲げる)

普通、“わからない文章”を目にしたとき、ひとは、どうするのだろうか。
たぶん、すぐ忘れるのである。

わからない文章について、どうしてそれがわからないかについて、わざわざブログに書くひとも少ないだろう。

ぼくが、なぜ自分がわからない文章について、なんども書いているのかは、この“わからない”ということに、“こだわる”からである。

なによりもぼくに不快なのは、これらの文章が、“だれにでもわかるはずだ”というふうに書かれていることである。

つまり、今日の読売・編集手帳と天声人語を読んだ人は、以下のように“思うべき”なのである。
① でも、落とした財布はかなりの確率で届けられる。それに感謝して、世間を疑った自分を恥じる人がいる。日本もまだまだ捨てたもんじゃないね、と思う(読売・編集手帳)
② 忘れられていた人が再び、静かな光を放ち始めたようである(天声人語)

もし失くしたお金が戻ってきたなら、それはひとつの事実である。
もし映画「鶴彬 こころの軌跡」が公開されたなら、ひとつの事実である。
新聞はなぜ、その事実だけを報じていないのだろうか。

なぜいつもいつも、余計なことを言うのだろうか。
事実を知って、ぼくが自分で考えるべきことを、なぜ新聞は“先回りして”、ぼくが考えなくてよいように、語ってしまうのだろうか。

だいいち、このふたつのコラムの“結論”(つまり①②)は、端的に“まちがい”である。
① ぼくは“日本”に対して、《まだまだ捨てたもんじゃないね》などとは、決して思わない。
これは“日本”がまったくダメな国であるということでもない。
ぼくは“日本”に対してそういう感想-評価(“まだまだ捨てたもんじゃないね”)を持ってはいない。
② 《忘れられていた人が再び、静かな光を放ち始めた》とも思わない。
まったくそうではない。
ひとを忘れてしまうのは、現在のぼくの関心による。
もし忘れられたひとが蘇るなら、それは現在のぼくの関心によってよみがえるのである。
それはジョン・レノンなら“イマジン”であるというような、“符号”ではない。



以下に参考として、きょうの読売・編集手帳と天声人語の全文を貼り付ける;
6月7日付 編集手帳
 東京の高尾山で財布をなくし、途方に暮れていた女性の携帯電話に、家族から連絡が入った。山の案内所に落とし物として届けられた後、中の診察券を手がかりに、かかりつけの医院へ、自宅へと問い合わせがリレーされたらしい◆ご本人が昨年末、東京本社版の読者欄に感謝の投書を寄せていた。「カードを使われたらどうしよう、などと悪用されるとばかり考えていた自分を恥ずかしく思いました」ともあった◆同様の投書を今年初めの大阪本社版でも読んだ。JR奈良駅で盗まれたと思った財布は、実はベンチの下に落としていて、JRの関係者が見つけてくれたそうだ。こちらも感謝とともに「盗まれたと思い込んだことに自己嫌悪」と告白していた◆昨年、全国の警察に届けられた落とし物は1733万点あり、前年より36%も増えたという。現金は141億円が拾得され、97億円が落とし主に返った◆本来、100%戻って来るのが理想ではあろう。でも、落とした財布はかなりの確率で届けられる。それに感謝して、世間を疑った自分を恥じる人がいる。日本もまだまだ捨てたもんじゃないね、と思う。

6月7日付 天声人語
 去年の夏にこの欄で紹介した反骨の川柳作家、鶴彬(つる・あきら)の生涯をたどる映画が、このほど完成した。今年は生誕から100年にあたる。軍国の時代に反戦を貫きながら、知られることの少なかった姿が、志ある人々の熱意で今によみがえった▼その句は、軍や資本家の非人間性を突いてやまない。〈胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき〉は、夫が戦死した身重の妻を詠んだ。〈ざん壕(ごう)で読む妹を売る手紙〉は、兄を兵隊に取られ、妹は身売りという農村の窮乏である。特高ににらまれながら、怒りに燃えるように作り続けた▼映画は、特高に捕まって29歳で落命するまでを、いとおしむように追う。有志の寄付などの「超低額予算」で取り組んだ神山征二郎監督の思いがにじむ。そして鶴を最後まで見守り、支える井上信子を、女優の樫山文枝さんが好演している▼信子も、もっと知られてほしい人だ。川柳家の井上剣花坊(けんかぼう)の妻で、自身も句作した。没した夫を継いで川柳誌の発行人になった。鶴の〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉など多くの反戦句を動じずに載せ、何度も弾圧に遭っている▼日中戦争が泥沼化し、日米が開戦する前年には、70代で〈国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ〉と詠んだ。あの時代にジョン・レノンの名曲「イマジン」を先取りしたような、しなやかで、きっぱりした平和への意志があった▼揺るがぬ者への敬意が、つつましい映画「鶴彬 こころの軌跡」を流れている。東京では来月に上映が始まる。忘れられていた人が再び、静かな光を放ち始めたようである。