Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

メディア

2009-06-16 22:34:50 | 日記
いったい“メディア”とは、何のためにあるのだろうか。

“何のために”以下のようなことをいっていられるのだろうか;

《◆顧みれば国内といわず、東アジアといわず、中東といわず、世の安寧という〈同じ高嶺の月〉がいまほど切実に恋しい時もない》(今朝読売・編集手帳)

▼ 看板に偽りありを「羊頭狗肉(ようとうくにく)」と言う。不正は、いかがわしい団体に中身をごまかす羊の頭を与えたようなものだ。局長は否認しているそうだが、ならば誰の意思と行為が不正を生んだのか▼「政治案件」という言葉が、またぞろ聞こえてくる。官界の用語で、政治家の口添えのある頼まれ事の意味だ。最も憂うべきは、誰にも犯意のないまま偽造証明書が作られた場合だろう。それは政と官のなれ合いから、役所という組織そのものが産み落とした不正にほかならない▼局長は文字通りのキャリアウーマンで、舛添厚労相は「働く女性にとって希望の星だった」と言う。残念ながら、すでに過去形である。このまま事が進むなら、前島と違って後味の悪い、志半ばでの挫折ということになる。(今朝天声人語)


あなたは、こういう“文章”を読んで、“ほんとうに怒らずに”、なぜ、すむのだろうか。

あなたは、それほど“大人”であり、すべてに“諦観”(あきらめきっていること)したのだろうか。

どうせ“世の中こんなモン”と、高をくくっているのだろうか。

それとも、あなた自身が、この“おろかものども”と同じひとなのであろうか。

《局長は否認しているそうだが、ならば誰の意思と行為が不正を生んだのか》

などと、“ひとごと”のようにいっている場合ではないのである。

これが、“疑問文”であるなら、それを追求、解明するのが、メディアのお仕事なのである。
権力者に“ぶらさがって”その日本語として最低の“発言”を書き写していればよいのではない。

日本語が、まともにしゃべれず、書けない“人間”が、“愛国者”でありうることなど、不可能である。

カネのことにしか関心がないなら、こういう事件があったら、だれのところにカネが行ったかを究明すればよいのである。

ある事件があったとき、それで“いちばん得をする”人々が、誰であるかを“特定”すべきである。

それを、なんだらかんだら、ちんたらかんたら、やたらに“大昔の”偉い人の言葉や、“歌”を“ちりばめた”、サイテーの駄文で誤魔化すんじゃないぜ。

ほんとうに、いまメディアの中心にいる人々は、“人間”であろうか。

底が抜けた、人間の残骸としかぼくには思えない。

腐った人間からは、いつもいつも、腐ったアブクのような(屁のような)言葉が、もれる。

ただ、ただ、かぎりなく、もれる。

もれつづけるだけである、あなたは、そんなに屁の匂いが好きか?

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天木直人ブログ読む?

《もう一つの異様さは、突如表面化した村木厚労省局長の逮捕である。報道はこの女性官僚の犯罪容疑ばかりを書き立てる。そしてその背後にある民主党政治家の口利き疑惑をほのめかす。これは異常だ。明らかにある配慮が働いている。
 郵便料金割引制度の不正悪用問題の本質は、単に「凛の会」(現白山会)による不正にとどまらず、米国外資企業や朝日新聞広告子会社などを含め多くの企業が構造的に手を染めていたと指摘されていることだ。
(引用)

ぼくはこういう“事実関係”をまったく知らない(知るわけないだろうが)

しかし、ここに“朝日新聞広告子会社”とあるのを見逃すわけにはいかない。

朝日がこのニュース(村木厚労省局長の逮捕)報道に、きわめて熱心でないことは、ニュースをチェックしているぼくにも、“わかる”。

しかし問題は朝日だけではない。

まさにどこまでも“疑いうる”現在のメディアの底知れぬ腐敗構造こそが、問題なのだ。

ぼくたちは、現在すべての“マス”メディアの報道が、すべて“本質的に虚偽である”という事態に直面している。





そしてベストセラーを読んで、“癒される”。

“月が二つある世界で”、
《強く、深く、人を思い続けること。そのとき世界は空に浮かぶ月とは違って孤独ではなくなる。これは途方もない愛の物語である》(ある馬鹿書評)

というような“おはなし”を読むのである。

ああ、ぼくは、ほんとうにいやだ。

オウム取がオウムになる(“ミイラ取りがミイラになる”という言い回しがあるのよ;無教養なひとのために)

ぼくは、オカルトでない、まっとうな世界で生きたい。

つまり、ことばがストレートに発せられ、ストレートに“通じる”世界に。



<お知らせ>

このところぼくは本を買いすぎなのですが(なにしろ『1Q84』まで買ってしまったので)、もう財政的に本を買うまいとしていたのですが、今日2冊の新刊書を買ってしまいました。

けっして、ベストセラーにはならない本です。

片方はむかしむかし読んだ本の新訳であり、片方は初めて読む本ですが、この2冊が『1Q84』 より“良い本”であることは、確信しております(ぼくの首を賭けてもいいが、だれもぼくの首は欲しくないでしょう)

★ サルトル『自由への道』(岩波文庫6分冊の1巻目)
★ クロード・レヴィ=ストロース『パロール・ドネ』(講談社選書メチエ)

なんか最近、内田樹なんかが、“カミユ、カミユ”と叫んでいますが、カミユと言うなら、サルトルというひとがいたことも、思い出そうね。

それにしても、岩波書店は、いつも“遅れて”いますね。



みんなが、同じ本を読む必要はない

2009-06-16 08:42:20 | 日記
仕事に行く前で時間がない。

きょう“あらたにす”読売新聞“編集局から”を引用する;

村上春樹さんの新作長編「1Q84」は売り切れで、手に入りませんでした。しばらく我慢かと思っていたら、なんと本紙で村上さんの独占インタビューです。「オウム裁判の傍聴に通い、死刑囚の元信者の心境を想像し続けた。それが作品の出発点」と。朝刊1面に加え、文化面ではきょうから3回連載。たっぷりと思いを語ってもらいます。7年ぶりの新作をますます読みたくなりました。あちこちの書店を回ってみるつもりです。(三)

この書き手は、『1Q84』を、“買いそこねた”らしい。
なんとドジなひとであろうか。
ぼくはとっくに読み終わっている。

“ジャーナリストの感度”とは、この程度である。

しかし“ジャーナリスト”でないあなたが、この本を探す必用はない。

上下巻で、4000円弱するこの本を買うのなら、その4000円でもっと良い本が数冊も買える。

みんなが、同じ本を読む必要はない。

手渡せるものなら、ぼくの『1Q84』を、きみにタダであげる(笑)