Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

引用

2009-06-22 22:09:01 | 日記

★ そこで、彼(スピノザ)は「奇蹟」ということに対して面白いことをいっています。ユダヤ教であれ何であれ、奇蹟、すなわち反自然的なことが起こった時にだけ、それが神の仕業であるというのはおかしい、と。なぜならば、自然的な出来事、毎日太陽が昇ること、あるいはごく普通のありふれた自然界の現象のほうが神の仕業ではないのか、と。そのことのほうが奇蹟なのです。つまり彼にとって、そのような神の仕業を探究することが自然科学ということになるわけですね。ウィトゲンシュタインが同じことを述べていまして、「この世界に神秘はない。この世界があることが神秘だ」という言い方をしています。つまりこの世界、別の言葉では自然といってもいいのですが、そのことが神秘(奇蹟)だというわけです。その中に、あるいはそれを超えて、特別に神秘があるわけではない。

<柄谷行人“世界宗教について”―『言葉と悲劇』(講談社学術文庫1993>


★ 自分のエクリチュールをこんなふうにさらけ出すためには、狂人にならなければならない。本のなかに身を置き、本を売ること。自分をまっ裸にして人目にさらしている、ブーローニュの森にいる売春婦にだって、もっと羞恥心がある。書くことはもっとみだらなことなのだ。(・・・・・・)。それがそこにあるとき、あなたにほかの選択がないとき、全く当たり前にそれは行なわれるのだ。

<クリスティアーヌ・ブロ=ラバレール『マルグリット・デュラス』国文社1996によるデュラス発言>


★ 君は奴隷であるか。奴隷なら、君は友となることはできぬ。君は専制君主であるか。専制君主なら、君は友を持つことはできぬ。
あまりにも長い間、女の内部には、奴隷と専制君主とが隠されていた。それゆえ、女にはまだ友愛を結ぶ能力がない。女が知っているのは愛だけである。
女の愛には、彼女が愛さぬいっさいのものに対する不公平と盲目がある。また、知をともなった女の愛にさえ、そこにはなお、光とならんで、発作と稲妻と闇がある。
女にはまだ友愛を結ぶ能力がない。女はいまも猫であり小鳥である。最善の場合でも牝牛である。
女にはまだ友愛を結ぶ能力がない。しかし君たち男よ。君たちのいったい誰に友愛を結ぶ能力があるか。

<ニーチェ『ツァラトゥストラ』の“友”>


★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。

<ル・クレジオ『ロドリゲス島への旅』1986>


★ 知識人は難破して漂着した人間に似ている。漂着者は、うちあげられた土地で暮らすのではなく、ある意味で、その土地とともに暮らす術を学ばねばならない。このような知識人は、ロビンソン・クルーソーとはちがう。なにしろクルーソーの目的は、漂着先の小さな島を植民地化することにあったのだから。そうではなくて知識人はマルコ・ポーロに似ている。マルコ・ポーロは、いつでも驚異の感覚を失うことはなく、つねに旅行者、つかのまの客人であって、たかり屋でも制服者でも略奪者でもないからである。

<エドワード・サイード『知識人とは何か』― 今福龍太『クレオール主義』“水でできたガラス”より引用>


★でも、気が狂ってるというのは、やはり悲しいことですわ。もしほかの人たちが気違いだとしたら、その中でわたしはどういうことになるのかしら?
<デュラス1967『ヴィオルヌの犯罪』>


★ ぼくは生涯において、三人の異なった女性を知り、そしてぼくの内部の三人の異なった男性を知った。ぼくの生涯の歴史を書くことは、この三人の男性の形成と崩壊を、またこの三者のあいだの妥協をえがくことだろう。(ベンヤミン;1931年5月の日記)

<野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー1993)>


★ ぼくはひとりぼっちだ、ぼくはひとりぼっちではない。ぼくは耳を澄ます・・・・・・ぼくを構築したすべての砂、ぼくはそれらを知っている。猛り狂う血、数々の筋肉、毛深い四肢、鋭い歯をそなえた、三角形の重たい顎。下等な種族がぼくのなかにいるのだ・・・・・・(ル・クレジオ)

<今福龍太『荒野のロマネスク』から引用>


村上龍と自動車

2009-06-22 08:44:48 | 日記

たまたま“日経ネット”をみたら、片隅に某自動車メーカーの広告があった。
村上龍というひとが出ている。

この“もと作家”の顔が悪くなったのに驚いた(テレビなんか見てないよ)

村上春樹や坂本龍一もそうだが、もう歳とはいえ、なんでみなあんなに“老けた”顔になったのだろう(笑)

この広告には“龍の視点”というものがある、引用する;

《エンジニアは、相反する課題を、哲学をベースにして、ベストの追究ではなくベターを重ねることで解決していく。車にとどまらず、これからの商品開発の普遍的モデル。私たちユーザーは新技術や外観より、開発チーム、企業の哲学に反応する。 そして、やはり、企業全体としてむずかしいことに挑戦している時に、もっともトヨタイズムが発揮されるのだなと思った》(引用)

ハー、“するどい視点”ですね(笑)

この某クルマ会社開発者へのインタビューでも村上龍先生は、以下のようにおっしゃっている;

《村上 開発の原点についてのお話などを聞いているとフィロソフィーだけでクルマはつくれないと感じました。原点となった哲学と、ユーザーに走りのいいクルマを提供するための合理性とのせめぎあいからいいモノが生まれるのかもしれませんね。環境への配慮と利益の追求との関係など、相反する価値の葛藤のなかで生まれたものが、最後にフィロソフィーと融合するのではないでしょうか》(引用)

ぼくの疑問は、なぜ村上龍は、“哲学”とか“フィロソフィー”という言葉を、“使いたがるか”ということである。

つまり、““哲学”とかフィロソフィー”という言葉が理解できない“作家”にかぎって、それをアクセサリーのように使って、自己満足しているのだ。

村上龍も、顔が大きいだけのひとになった。