“あらたにす・新聞案内人”で鷲田清一氏が“臓器移植法「改正」について”書いている、一部を引用する;
「そもそも」の問題というのは、他の患者からの臓器提供を期待する、つまりは他者の「死」を前提とするような医療が、そもそも医療として適切なものかどうかという問題である。じっさい、わが国の難病、心臓病、人工透析患者を救うには、それに見合う怖ろしい数の脳死者が必要となる。が、ほんとうは交通事故の防止対策と、より充実した救急医療体制の確立によって、そうした脳死者の増加を(待望するのではなく)防ぐのも、わたしたちの社会に迫られたもう一つの課題であるはずである。
このように、一方には、なんとしてもこの人、この子のいのちを救いたいという、待ったなしの切なる要請がある。他方には、なんとしてもこの人、この子の死を、十分納得したうえで認めたいという思いがある。あるいは、納得できないまま、長期脳死状態にいる人の傍らで懸命に生きている家族の姿がある。臓器移植が医療の課題であるとしたら、それはそもそもこうした二律背反に引き裂かれざるをえないものである。
いいかえると、それらは両立しがたい要請である。それはまず、「時間がない」と「時間が要る」との背反だからである。それはまた、たんなる臓器の問題ではなく、いずれもたがいの要請に反するかたちで「だれ」という名をもったかけがえのない存在を(それぞれ反対方向から)護ろうとしているからである。
臓器移植という先端医療は、このように二つの生命のどちらかを二者択一しなければならない状況を生みだしている。あるいは、「人としての幸福」への希求と、「人としての尊厳」という倫理的要請とがここでは二者択一という対立関係に入っている、と言い換えてもよい。
臓器移植法改正の前と後にある二つの重大な問題を、次に指摘しておきたい。
まず事後の問題として危ぶまれるのは、これにより脳死が一律に人の死とみなされることによって、今後、移植を前提にしない治療でも脳死判定し、死亡宣告できるという事態が起こりうるということである。人の死が法律によって規定されることによって、本来、こうした医療従事者のうちにあるはずのジレンマが解消されてしまわないかということを、わたしは怖れる。
つまり、「このことで、失われゆくひとつの命が救われるのだからやむをえず」という、脳死者の臓器を待望してしまうまさにその苦渋がしだいに薄まり、「法律に則っているのだから問題はない」というふうに、その苦渋が免除され、「人としての尊厳」に無感覚になってしまいかねないということである。法律化されることによって、もやもやした倫理的な責めの意識が医療従事者からすっきり免除されることのほうを、わたしは怖れる。
(以上引用)
もっともな意見だと思う。
しかし、鷲田氏のような“哲学者”(肩書きにそうある)の“前提”はただしいであろうか。
つまり上記引用でいえば、《「法律に則っているのだから問題はない」というふうに、その苦渋が免除され、「人としての尊厳」に無感覚になってしまいかねないということ》と鷲田氏が書くとき、それは“これからのこと”(未来)として書かれている。
意地悪く言えば、現在はまだ“「人としての尊厳」に無感覚になって”いないことになる。
そうだろうか?
ぼくはすでに、“「人としての尊厳」に無感覚になって”いると思う。
そうでなければ、この上記引用のあとで、鷲田氏自身が書いているように、この法案が長い間放置され、“国民的論議”がさっぱり盛上がらなかったことを説明できない。
現在もそうではないか。
“難しい問題”については、だれも自分の意見を言わない。
ほんとうにその“問題”について考えてなにかを言うのではなく、自分の言ったことがマヌケに聞えることを恐れて、他人の顔色を見ているだけではないか。
自分が“正解”からはずれて、×をつけられるのに脅える小学生並である。
こんな状態では、どんなディスカッションもありえない。
まさにこのこと自体が諸悪の根源である。
ぼくは“民主主義”というのは、すべてのひとが、自分の意見を言う(言える)状態だと思う。
昨夜読んでいたドゥルーズの対談集で、彼は、フーコーについて述べるなかで、自分とフーコーの“共通する態度”として以下のように述べている;
《他人を代弁するのではなく自分のために語る》
仕事に行きます!(笑)