Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“不健康のままで生きさせてよ”

2013-06-06 09:38:53 | 日記

★ そのころに比べると、このごろは社会的迫害はないはずなのだが、「不健康な少年」として生きにくくなっているのではないだろうか。ひょっとすると、戦争中の「不健康な少年」が、少数派の特権として、差別されながらも認められていたのが、いまでは多数になって「社会化」しているのかもしれない。あるいは、「差別」はあってはいけないので、みんな「健康」であるべきなのだろうか。なんだかぼくには、「障害を持った弱者」が問題にされるとともに、「健康」であることへの強迫が強まっているような気さえする。

★ ぼくには、人間の身体のあり方とか、生き方とかについては、できるだけ幅がひろいほうが、よいような気がする。人類全体の生存としても安全だろうし、人間文化としてもゆたかだろう。「標準」的な規範に単一化するのは、危険なことじゃないだろうか。

★ たしかにぼくの子どものころだって、「健康な子ども」のイメージはあったらしく、ぼくのように、遠足の弁当をほとんど残したり、夜は寝つきがひどく悪かったりするのは、まさに「弱い子」のイメージにぴったりだった。しかし、そうした「弱い子」のイメージというのは、「不健康な子ども」のあり方のほうが、存在を主張できたこととも言える。

★ たぶん大人の世界のほうも、幅が狭くなっているのだろう。「健康」を求めることが、ほとんどビョーキのように、はびこってきている。高齢化がすすめばなおさら、「健康」が気にされる、というのも奇妙な現象に思える。

★ ほんとのところ、「健康」という概念が、ぼくにはあまり理解できていない。やせすぎず、ふとりすぎずとか、血圧は高からず、低からずとか、からだ中のあらゆる機能が、すべてにわたって「正常」であるというのが、ひどく奇妙な気がするのだ。どちらかの方向に逸脱しても、その形で生きていて、なぜ悪いのだろう。

★ それに、「正常」というものが、「異常」を持たぬことでしか、定義できないような気がする。これが、自分にはなにかの「異常」があるのではないかと、つねに気にかけずにおれない、健康強迫症の構造ではないか。

★ この構造は、みごとに「いじめの構造」と相同的である。集団のなかで、みんなが「正常」であらねばならぬ。それは、「異常」を探して、「異常」を排除することで、達成される。

★ 実際に病気をすると、本人は苦しかったり、まわりは経済的にたいへんだったりするのだが、小説のなかでは、病人のいる風景といったものが、いくらか好ましくえがかれている。このことは、だれもが「健康」であるばかりでなく、病人のいる風景のほうが、人間のよいあり方であることを意味しないだろうか。だれもが病人にならないようにすることより、病人であっても、その風景のなかで、あまり苦しまずに生きられるというのが、人間の風景と思うのだ。

★ たしかに、世間の人がみな「不健康」だと、この社会がまわらないかもしれない。社会を動かしているのが、「健康」な人たちだというのも、ある程度は正しいかもしれない。しかしながら、この社会というものが、「不健康」をも包みこむことで、よく生きているのも事実である。社会が「健康」なひとばかりになったら、それは社会がやせていることでもある。

★ だからぼくは、「子どもは元気に、健康で」などと、強制すべきではないと思う。「不健康」なら、それなりに生きていけばよい。
そして、学校のなかでも、あるいは町かどでも、いくらか不健康な子どもも見うけられる風景のほうを、好ましく思うのだ。

<森 毅“不健康のままで生きさせてよ”―『高校生のための批評入門』(ちくま学芸文庫2012)>







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