Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

吉本隆明

2010-01-07 11:01:40 | 日記


内田樹氏は新年からいそがしいのである。

★仕事始めに四本も原稿を書いてしまった。
なんだか今年も働きづめの一年になりそうな不吉な予感がするが、もちろん「誰のせいでもありゃしない」みんなおいらが悪いのである。<内田樹ブログ>


まさに、“みんなあんたが悪いのよ”と読み飛ばせばよい。

しかしなぜこのようなひとが、売れるのだろうか。
もちろん、それは、このひとの書いていることが<わかりやすい>からである。
すなわち<バカでも読める>からである。

もうちょっと“繊細にいいかえると”(大澤真幸氏の口癖)、<努力しないで読める日本語>だからである。
内田氏のブログの交友関係を見ていると、いま日本の“ジャーナリズム”で売れている人びとというのが、どっか<気が抜けたひと>であることが、わかる。
つまり、言っても言わなくてもおんなじことだけを言う人々である。
こういう人びとを読むことこそ、おカネの無駄だと思える(すなわち資源のムダであり、“環境問題”である)

以上のようなことを<言う>ために、このブログを書く必要はなかった。
この内田最新ブログに、ある<固有名詞>が出ていたのである、<吉本隆明>、引用する;

朝から母の家の居間で原稿書き。
最初に『ブルータス』の「吉本隆明特集」へのアンケート回答。
「最初に読んだ吉本隆明の本は何ですか?」というようなアンケートである。
私が最初に読んだのは『自立の思想的拠点』で、1967年、高校二年生のときのことである。
その頃、私のまわりには吉本隆明を読んでいる人はまだそれほど多くなかった。
70年に大学に入った時点でも、決して多くはなかった。
私は全共闘の諸君は全員吉本隆明の愛読者だと思っていたので、「誰、それ?」というリアクションに仰天した覚えがある。
大学に入って最初に「吉本っていいよね」という私の言葉にそっと頷いてくれた相手は意外にも民青の活動家だったウエムラくんであった。もちろんそのようなカミングアウトは彼の党派的立場からはありえないことだったのだけれど。
時代が経つと、「1968年には日本中の大学生たちはみな吉本隆明を熱狂的に読んでいた」というふうな「物語」が流布するけれど、それは(ほかの模造記憶同様)嘘である。
<以上引用>


ぼくは1966年、早稲田大学第一文学部に入学したが、そこで、周囲の“学友”から吉本隆明の名を聞き、吉本の本をはじめて買った(読んだ)。
記憶が正確ではないが、『芸術的抵抗と挫折』だったのではないか。
現在の妻も『自立の思想的拠点』を買っていたのではないか。

すなわち、<吉本隆明>の名は、ぼくの周辺で“圧倒的”であった。
しかし、<それ>が、“吉本隆明を熱狂的に読んでいた”ということを意味するか否かは、いまだかつてわからない。
つまり、<熱狂的>であるか否かなぞ、なんの問題でもない、どれだけ<吉本の思考>を読み込んだか、が問題である。

ぼく自身は1970年に大学を出て、サラリーマンになってからも、吉本の本を買い続けた。
“買い続けた”が、“読み続けた”とは、言えない(もちろん、ある程度は読んだ)
そして吉本が“マスイメージ”とかいい始めたころから、“シラけた”。
しかし<この間>は、結構長かったのだ。

ぼくは<あるひと(書き手)>について、“もう卒業した”というような言い方はしたくない。
どれだけ“読めた”かわからないひとを、卒業することは、できない。
“前向き”に言えば、いったん別れたひととも、また巡り合う可能性を排除しない。
そのようにして、ぼくは、<大江健三郎>を、ふたたび読み始める。
しかし、現在、吉本隆明を読みたいとは思わない。
しかし、吉本を再び手に取る必要を感じるときがこないとも断言できない。

実はぼくは、吉本の著作集(勁草書房)をはじめ、大部分の吉本の本を処分してしまった。
残ったのは、『吉本隆明詩集』(思潮社1963)など数冊である。
ぼくはここにおさめられた“転移のための十篇”が好きである;

この古びた本を取り出し、ページをめくる。
カバーは破れ、ページの縁は茶色っぽく変色したが、活字はくっきりと屹立するのだ;


不安な季節が秋になる
そうしてきみのもうひとりのきみはけつしてかえつてこない
きみははやく錯覚からさめよ
きみはまだきみが女の愛をうしなつたのだとおもつている

おう きみの喪失の感覚は
全世界的なものだ
きみはそのちいさな腕でひとりの女をでなく
ほんとうは屈辱にしずんだ風景を抱くことができるか
<分裂病者>


まるい空がきれいに澄んでいる
鳥が散弾のようにぼくのほうへ落下し
いく粒かの不安にかわる
ぼくは拒絶された思想となって
この澄んだ空をかき擾そう
同胞はまだ生活の苦しさのためぼくを容れない
そうしてふたつの腕でわりにあわない困窮をうけとめている
もしぼくがおとずれてゆけば
異邦の禁制の思想のようにものおじしてむかえる
まるで猥画をとり出すときのようにして
ぼくはなぜぼくの思想をひろげてみせねばならないか
<その秋のために>


ぼくの孤独はとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあうことをきらった反抗がたおれる
<ちいさな群への挨拶>




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4 コメント

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Unknown (堀裕嗣)
2010-01-08 00:51:22
相変わらず走ってますねえ~。2年振りくらいでしょうか。ふと想い出して「warmgun」で検索してこのブログに来ました(笑)。
内田樹は現場の先生はもちろん、教育関係の研究者にもものすごく読まれています。内田樹が〈わかりやすい〉ことには同意しますが、〈バカでも読める〉はぼくの現実に支障が出るので態度を保留します(笑)。また、時々、お伺いします。ブックマークしました。
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Unknown (warmgun)
2010-01-08 18:54:29
堀裕嗣様

堀君、ぼくももちろんおぼえているよ、“神に通じる少女”の堀裕嗣を(笑)

じつはDoblog壊滅のころ、君の<静かに水の流れが岩をけずる>に行ってみたんだが、”アカデミック“(笑)なので・・・
今見たら、ブログも継続しているわけだ、でも“お仕事日記”も“書斎日記”もあって、君こそよく書くねー(笑)
でも、これから時々のぞかせてもらうよ。

内田樹はドーでもいいが、君は“吉本隆明”はどうなの?(もう書いているのかもしれないが)

こっちは、マラソンしている村上春樹のような体力がないどころか、学生時代マラソンは大の苦手でね。
沿道の学友(女の子)の前を最後尾で冷や汗流しつつヨロケルのは、まさに人生のトラウマさ。
Doblogのころの“お友達”<ツナミン>が、ぼくの名はださないが、“どうしてwarmgunのような変態ができるのか?”と疑問を呈したが、warmgunの<精神分析>なんて簡単よね!

ところで、なんと今日は仕事で、東京女子大という所に行ってきたのね。
ぼくの母の母校なんだが、ぼくは生まれてはじめて行ったのさ。
思ったより感じよかったが(直接話したんじゃない)、圧倒的な子(娘)がいないねー。

むかしは小学校から大学まで、クラスにひとりは(あるいは数人)そういう子がいたんだが(笑)
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Unknown (堀裕嗣)
2010-01-08 20:28:27
僕にとっての吉本隆明は「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」ですね。しかも角川文庫の。そういう世代ですから。おじさんの嫌いな「マスイメージ論」はずいぶんと卒論に活かしましたね。ぼくらの世代にとっては喫緊の課題でしたから。全共闘にはるかに間に合わず、それでもどこかにまだ新しい「大きな物語」があるんじゃないか……なんてね。
僕、久し振りに去年、神に通ずる少女を担任しました。
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Unknown (warmgun)
2010-01-08 22:57:33
なに、《僕、久し振りに去年、神に通ずる少女を担任しました》

北海道には、まだこの絶滅種が生息しておるのか!!
やっぱ君、苦労は多いだろうが、うらやましき職業ではないか。

ところで(爆)、
《『マスイメージ論』を卒論に活かした》!
《ぼくらの世代にとっては喫緊の課題》!

どうもよくわからないが、吉本は“ロックがわからない”のに“スターリン”とかいうバンドを聴き、コム・デ・ギャルソンを着ると話題となり、埴谷雄高(この字だっけ?)との“論争”にまでなった。
はずかしながら、ぼくは、バーゲン半額のコム・デ・ギャルソンのスーツを着て、サラリーマンをやっていた(なんと<今年>そのジャッケトをジーパンの上に着ている)

ぼくもいちばんまともに読んだのは、『言語にとって・・・』と『共同幻想論』だが、どっちも今では、なにを言っていたのかわかんない(まあ“自己表出”と“指示表出”ね)
『心的現象論序説』にびっくりした個所があったんだが、それは“フロイト”だったのね。

ぼくはたぶん“精神分析”に親和性があることに、最近やっと気づいた。
“形而上学”じゃなくて<臨床>なのよ。

吉本の魅力は、“内容”じゃなくて、“大見得”(ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる)だったと思う、それはそれで悪くない。
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