いっしゅん膨らんだ風のなかから
獣たちがたくさん出てくる
ひとしきり
裏切りの鳥たちの啼きかわす夜
おたがいに
みわけのつかない恋人たちが
不安の骰子を背後に棄てる
花飾りの儀式のむこうの死の家に
失明の幻の火を盗み見て
とりひきの恋の泡だち
季節の継ぎ目にかれらは落ちる
ただひとり
狭すぎる廃墟のような 石に席とる
盲目の男のなかで
つるみあう鳥と爬虫
それでも
ふりかえらず風のなかへと
孕まれる贋の花嫁 花婿たち
ひとしきり
落日がはじまりを襲えば
そこここに散らばる夢の死骸
ありふれた恋
その物語の破れめを
死の舌でふさぎ隠すためにだけ
駆け落ちてきた悲鳴の残滓
ゆき倒れてなお
追われつづける身代わりたちに
ふりかかる
鎮めの雪 贋の雪
だがかえって黒ぐろと
浮かびあがるひとつの道 ひとつの視線
おれは不在 恋びとよ
おれは死体
<平出隆“花嫁Ⅲ-1”―『平出隆詩集』(現代詩文庫100、1990)>
ここに、ぼくが今年1月に書いた“詩のごときもの”を掲載する(Doblogに出した)
プロの詩に並べて、自分の“詩のごときものの試み”を出すのは、破廉恥であるが、二日酔いの自己嫌悪のさなかであることゆえ、許してくんろ。
<悪魔を哀れむ歌-21世紀ヴァージョン>
ヘイ!悪魔 21世紀だぜ
君 いただろう 昨日 暖房電車の座席の下に
ずるずる ぼくの臍のあたり まで はいあがって
なめたな
肛門期は 青春まで連なり
夜明けのコーヒーは 夜更けにゃ からっぽ
ぜんぜん ちがうチューンで バッド
バッド・フィーリングだぜ この抒情は
霧雨降る この郊外を通過して
一気に 一気飲み 100%アルコホール
めくらニャ 暗い夜道 も 快適
夕暮れ うすぐれ 針千本
土着は 未着で 宛先不明
書いたよ
書いたよ
ロングロング レター
悪魔め くたばれ めめめのメッ
政治家 官僚 太い腹 上役 下役 便所掃除
ガザガザ ガザで ガザガザ するなっ
根っから嘘つき ほんと わからぬ
やっぱ
抒情は 必要なんけ
しっとり しっぽり 濡れちゃい たいな
文芸部では 小便も洩らせぬ
解放は 午後1時5分前で
シュールレアルな夕焼けに ああ! と
うめき
真っ赤な唇の よーに 失神したい
わかりやすい抒情は やはり どーしても
苦痛で
痛みを知った あの日には 陣痛の苦しみも
かすかな 木霊さ 暗黒星雲が 無音で
炸裂するとき には
やあ 悪魔 まだいたか
かわいい顔で
知ってたか 詩は ポエジーは だじゃれ じゃ
ないのよ
そこの物陰の 影は 日陰の だれ じゃれー?
ケンジもシュウジも お昼寝 だから
キムチも ミノも 売り切れだから
今宵 鰻重にするか ?
ねえ 悪魔 まだ いたか そこに
大きな夕焼けのような便秘をかかえて
エンドレス
終わらせて
この“詩”を
言葉の浪費 口によだれ 夢には栗きんとん
女と男の舗道に 突然 落ちる 夕ぐれ
砂漠 快晴 雲 風 雷の時には
今日も几帳面にA型を貫通し 青函トンネルの開通にそなえる
あるいは シルクロードに 全東洋街道に
炸裂
悲鳴 白色光線 塵は塵に 君の破壊の手は外からも内からも くる
この 悲劇に テレビの 観客は 今日も 健在で 笑う
笑う
抒情は やっぱし ここでは 木の葉のように 落ちる
悪魔 まだ いたか?
<悪魔を哀れむ歌-21世紀ヴァージョン;パート2>
つまり夢でまでブログを書いてしまうというブログ中毒の現状では、その、眠りから醒める前のだね。
そのときも詩を書いている夢をみて、信じられない“フレーズ”が次々と湧き上がって、書けちゃう。
起きて。
それを書こうと思って、書いても、ぜんぜんちがっちゃう。
つまり、なんですな、“ぼくの脳”は、ぼくより頭が良い。
そもそも、“ぼくの脳”って誰れ?
どうも、よく知らない。
いつも思うんだが・・・・・・いつも思うんだが、このぼくが、ぼくであるというのは、根本的な“非自由”であったり、根源的“詐欺”ではないのだろうか。
なぜぼくは毎日、warmgunであり、鳥男では“ない”のだろうか?
なぜぼくは突然、イスラエルを支持したり、麻生に愛着を感じないのだろうか。
だいいち、ぼくはなぜ、毎日“男”なのだろうか。
なぜぼくは“スカイ・ダイビング”をしたり、朝青龍にコーフンしたり、ちょっとパチンコで稼いだり、カラオケ・パーティに行かないのだろうか。
なぜ毎日、本を読まなくちゃとばかり思って暮らしていて、“外出”といえば、いやいやバイトに行く以外は、“コンビニ”にまずいサンドイッチと煙草を買いに行く“のみ”なのであろうか。
なぜ、毎日、このだいぶヨレてきたThinkPadのキーを、いつまでも不器用に叩いているのだろうか。
そもそも・・・・・・
ぼくは、だれに、なにを、言いたいのであろうか。
ヘイ 悪魔 まだいたか(笑)
ちょっと自己紹介させてくれ、俺が悪魔だ。
さて、“ブレイク”するか、コーヒーはないので、紅茶で。
ジェイムズ・ジョイスについての本を読んでたら(また本で恐縮だが)かれは“ダブリン市民”で、自分の暮らしている都市-国の<麻痺>を書こうとしたとあった。
麻痺とは無気力のことだ。
ジョイスにとっては、それは当時のダブリンだった。
東京。
ダブリン-東京。
麻痺 無気力。
会話が成り立たない所。
人々は、伝わらない会話を、形式的につづけ、それに気づかない。
ここは“ガザ”ではない。
まったくガザではない。
だから、“人々”は、ガザに興味がない。
一片の“共感”をもたらす基盤がないのだ。
今日死ぬかもしれぬ人と、長寿を話題にする人々に、どんな、共通点がありうるだろう。
一生、テレビを見て、一生ケータイでコミュニケーションできれば安泰である人々に。
言葉の死に気づかぬ人々に。
適当に配置換えしておさまる人々に。
言葉は、指示する。
君の頭は首の上に。
君の臍は腹の真ん中へんに。
君の性器には適度の慰安を。
君の足は交互に動かせ、少しは前に進む。
手は、なんでも貪欲につかめ。
指先は金を数えろ(カネがあるときには;笑)
君の不恰好な身体は、小奇麗なファッションで誤魔化せ。
君の見られない顔は、洗顔石鹸で清めよ。
君の頭蓋骨には大切な脳味噌をちゃんとしまっておけ。
君の血は、洩らさず、適切に全身に循環させよ。
君の細胞の氾濫や腐敗は、すみやかに鎮圧せよ。
煙草は吸うな、酒は適度に。
君の精神とおなじほど身体をクリーンに保て。
言葉は、口をパクパクしたり、パソコンのキーを叩けば出る。
そうすれば、長生きできる。
獣たちがたくさん出てくる
ひとしきり
裏切りの鳥たちの啼きかわす夜
おたがいに
みわけのつかない恋人たちが
不安の骰子を背後に棄てる
花飾りの儀式のむこうの死の家に
失明の幻の火を盗み見て
とりひきの恋の泡だち
季節の継ぎ目にかれらは落ちる
ただひとり
狭すぎる廃墟のような 石に席とる
盲目の男のなかで
つるみあう鳥と爬虫
それでも
ふりかえらず風のなかへと
孕まれる贋の花嫁 花婿たち
ひとしきり
落日がはじまりを襲えば
そこここに散らばる夢の死骸
ありふれた恋
その物語の破れめを
死の舌でふさぎ隠すためにだけ
駆け落ちてきた悲鳴の残滓
ゆき倒れてなお
追われつづける身代わりたちに
ふりかかる
鎮めの雪 贋の雪
だがかえって黒ぐろと
浮かびあがるひとつの道 ひとつの視線
おれは不在 恋びとよ
おれは死体
<平出隆“花嫁Ⅲ-1”―『平出隆詩集』(現代詩文庫100、1990)>
ここに、ぼくが今年1月に書いた“詩のごときもの”を掲載する(Doblogに出した)
プロの詩に並べて、自分の“詩のごときものの試み”を出すのは、破廉恥であるが、二日酔いの自己嫌悪のさなかであることゆえ、許してくんろ。
<悪魔を哀れむ歌-21世紀ヴァージョン>
ヘイ!悪魔 21世紀だぜ
君 いただろう 昨日 暖房電車の座席の下に
ずるずる ぼくの臍のあたり まで はいあがって
なめたな
肛門期は 青春まで連なり
夜明けのコーヒーは 夜更けにゃ からっぽ
ぜんぜん ちがうチューンで バッド
バッド・フィーリングだぜ この抒情は
霧雨降る この郊外を通過して
一気に 一気飲み 100%アルコホール
めくらニャ 暗い夜道 も 快適
夕暮れ うすぐれ 針千本
土着は 未着で 宛先不明
書いたよ
書いたよ
ロングロング レター
悪魔め くたばれ めめめのメッ
政治家 官僚 太い腹 上役 下役 便所掃除
ガザガザ ガザで ガザガザ するなっ
根っから嘘つき ほんと わからぬ
やっぱ
抒情は 必要なんけ
しっとり しっぽり 濡れちゃい たいな
文芸部では 小便も洩らせぬ
解放は 午後1時5分前で
シュールレアルな夕焼けに ああ! と
うめき
真っ赤な唇の よーに 失神したい
わかりやすい抒情は やはり どーしても
苦痛で
痛みを知った あの日には 陣痛の苦しみも
かすかな 木霊さ 暗黒星雲が 無音で
炸裂するとき には
やあ 悪魔 まだいたか
かわいい顔で
知ってたか 詩は ポエジーは だじゃれ じゃ
ないのよ
そこの物陰の 影は 日陰の だれ じゃれー?
ケンジもシュウジも お昼寝 だから
キムチも ミノも 売り切れだから
今宵 鰻重にするか ?
ねえ 悪魔 まだ いたか そこに
大きな夕焼けのような便秘をかかえて
エンドレス
終わらせて
この“詩”を
言葉の浪費 口によだれ 夢には栗きんとん
女と男の舗道に 突然 落ちる 夕ぐれ
砂漠 快晴 雲 風 雷の時には
今日も几帳面にA型を貫通し 青函トンネルの開通にそなえる
あるいは シルクロードに 全東洋街道に
炸裂
悲鳴 白色光線 塵は塵に 君の破壊の手は外からも内からも くる
この 悲劇に テレビの 観客は 今日も 健在で 笑う
笑う
抒情は やっぱし ここでは 木の葉のように 落ちる
悪魔 まだ いたか?
<悪魔を哀れむ歌-21世紀ヴァージョン;パート2>
つまり夢でまでブログを書いてしまうというブログ中毒の現状では、その、眠りから醒める前のだね。
そのときも詩を書いている夢をみて、信じられない“フレーズ”が次々と湧き上がって、書けちゃう。
起きて。
それを書こうと思って、書いても、ぜんぜんちがっちゃう。
つまり、なんですな、“ぼくの脳”は、ぼくより頭が良い。
そもそも、“ぼくの脳”って誰れ?
どうも、よく知らない。
いつも思うんだが・・・・・・いつも思うんだが、このぼくが、ぼくであるというのは、根本的な“非自由”であったり、根源的“詐欺”ではないのだろうか。
なぜぼくは毎日、warmgunであり、鳥男では“ない”のだろうか?
なぜぼくは突然、イスラエルを支持したり、麻生に愛着を感じないのだろうか。
だいいち、ぼくはなぜ、毎日“男”なのだろうか。
なぜぼくは“スカイ・ダイビング”をしたり、朝青龍にコーフンしたり、ちょっとパチンコで稼いだり、カラオケ・パーティに行かないのだろうか。
なぜ毎日、本を読まなくちゃとばかり思って暮らしていて、“外出”といえば、いやいやバイトに行く以外は、“コンビニ”にまずいサンドイッチと煙草を買いに行く“のみ”なのであろうか。
なぜ、毎日、このだいぶヨレてきたThinkPadのキーを、いつまでも不器用に叩いているのだろうか。
そもそも・・・・・・
ぼくは、だれに、なにを、言いたいのであろうか。
ヘイ 悪魔 まだいたか(笑)
ちょっと自己紹介させてくれ、俺が悪魔だ。
さて、“ブレイク”するか、コーヒーはないので、紅茶で。
ジェイムズ・ジョイスについての本を読んでたら(また本で恐縮だが)かれは“ダブリン市民”で、自分の暮らしている都市-国の<麻痺>を書こうとしたとあった。
麻痺とは無気力のことだ。
ジョイスにとっては、それは当時のダブリンだった。
東京。
ダブリン-東京。
麻痺 無気力。
会話が成り立たない所。
人々は、伝わらない会話を、形式的につづけ、それに気づかない。
ここは“ガザ”ではない。
まったくガザではない。
だから、“人々”は、ガザに興味がない。
一片の“共感”をもたらす基盤がないのだ。
今日死ぬかもしれぬ人と、長寿を話題にする人々に、どんな、共通点がありうるだろう。
一生、テレビを見て、一生ケータイでコミュニケーションできれば安泰である人々に。
言葉の死に気づかぬ人々に。
適当に配置換えしておさまる人々に。
言葉は、指示する。
君の頭は首の上に。
君の臍は腹の真ん中へんに。
君の性器には適度の慰安を。
君の足は交互に動かせ、少しは前に進む。
手は、なんでも貪欲につかめ。
指先は金を数えろ(カネがあるときには;笑)
君の不恰好な身体は、小奇麗なファッションで誤魔化せ。
君の見られない顔は、洗顔石鹸で清めよ。
君の頭蓋骨には大切な脳味噌をちゃんとしまっておけ。
君の血は、洩らさず、適切に全身に循環させよ。
君の細胞の氾濫や腐敗は、すみやかに鎮圧せよ。
煙草は吸うな、酒は適度に。
君の精神とおなじほど身体をクリーンに保て。
言葉は、口をパクパクしたり、パソコンのキーを叩けば出る。
そうすれば、長生きできる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます