昨日のニュースだが;
【ワシントン=鵜飼啓】ゲーツ米国防長官は6日、記者会見し、最新鋭のステルス戦闘機F22の新たな発注中止やミサイル防衛の一部計画取りやめなど、高コストや無駄の多い事業の中断をオバマ大統領に提言すると発表した。日本政府はF22を次期主力戦闘機(FX)の最有力候補としており、導入計画の見直しは必至だ(アサヒコム2009年4月7日10時57分)
さて今日の話題。
天声人語である(笑);
▼ 全日本ろうあ連盟が、創立60周年の記念映画「ゆずり葉」を作った。世代を超えて引き継がれる、ろう者差別との闘いを、切ない恋や親子の愛を通して描いている。6月から各地で上映会がある
▼ 聴覚に限らず、ハンディを負う人が生きやすい社会は高齢者にも優しい。日本語の字幕を追いながら、ユズリハの営みを一人でも多くに伝えたいと思った。
(以上引用)
たいへん立派なことが書かれている。
そうだろうか?
ぼくはもちろん、“聾唖者(ろうあしゃ)”の実体を描いた映画が聾唖者自身の手でつくられ、それをひとりでも多くのひとが“見る”ことはよいことだと思う。
けれども、こういう話題を読むときにいつも“ひっかかる”ことがある。
それをうまく整理できないが、いちばん強く感じる点をあげておく;
★ “聾唖者”やいろいろな“障害者”は、映画のなかにだけいるわけではない。ぼくたちは、“日常”においても、“彼ら”に出会っているはずだ。なぜ彼らを映画で見なければ“認識”できないのか。
★ “聾唖者”やその他の“障害者”(交通事故や脳梗塞から復帰して身体や精神がマヒしたようなひとも含む)というような人々の“特殊性”は理解されなければならない。彼らが“ハンディ”を背負うなら、“健常者”は彼らを“助ける”べきである。しかし、“健常者と障害者”の差異は固定したものではありえない。健常者も潜在的な“障害”を抱えているし、いつしか障害者と成りうるからだ。
★ “映画”には、映画としての“自立した評価”があるべきである。その映画の“テーマやつくり手が正しければ”、その映画が“よい映画”なのではない。ここに(映画に限らず)“批評”の意味が(必要性が)ある。
天声人語氏のように、“ヒューマニズムならすべて良し”とするような感性-論理-モラルこそ、“ヒューマン・ファクター”の具体性を感受することを阻害(疎外)しているのだ。
次は読売・編集手帳である(笑)
今日の話題は“名刺”;
◆顔と名を記憶するべく、もらった名刺に相手の特徴をメモしておく人がいる。<落ちていた俺の名刺の裏に「ハゲ」>。何年か前、日本自毛植毛センターが募った「毛髪川柳コンテスト」の入選作にある
◆きのうの昼下がりに地下鉄を降りるとき、後ろから新社会人とおぼしき青年が脱兎のごとく脇を走り抜け、危うく突き飛ばされそうになった。約束の時間が過ぎていたか。彼のポケットにも小さな泣き笑いの種、初々しい名刺が納まっているだろう◆転んでけがをしないように。あわてて名刺を落とさないように。落とすなら、「イケメン」とでも書いた1枚を…と、らちもない忠告を内心つぶやく間もなく、青年の姿は改札口に消えていた。
(以上引用)
ぼくも名刺を渡すと、その裏に“ハゲ”と書かれるだろうから、名刺を渡さない。
”イケメン”と書かれることは、けっして、ないのである。
この読売編集手帳を書いているひとというのは、どうしてこうも“サラリーマン”なのであろうか。
かくいうぼく自身も30年以上サラリーマンを“やった”のである。
しかし、自分が(客観的に)サラリーマンであるから、心の底まで“サラリーマンである”必要はないのである。
せめてその程度の“複雑さ”は、人間であるのだから持ちたい(持続したい)ものである。
【ワシントン=鵜飼啓】ゲーツ米国防長官は6日、記者会見し、最新鋭のステルス戦闘機F22の新たな発注中止やミサイル防衛の一部計画取りやめなど、高コストや無駄の多い事業の中断をオバマ大統領に提言すると発表した。日本政府はF22を次期主力戦闘機(FX)の最有力候補としており、導入計画の見直しは必至だ(アサヒコム2009年4月7日10時57分)
さて今日の話題。
天声人語である(笑);
▼ 全日本ろうあ連盟が、創立60周年の記念映画「ゆずり葉」を作った。世代を超えて引き継がれる、ろう者差別との闘いを、切ない恋や親子の愛を通して描いている。6月から各地で上映会がある
▼ 聴覚に限らず、ハンディを負う人が生きやすい社会は高齢者にも優しい。日本語の字幕を追いながら、ユズリハの営みを一人でも多くに伝えたいと思った。
(以上引用)
たいへん立派なことが書かれている。
そうだろうか?
ぼくはもちろん、“聾唖者(ろうあしゃ)”の実体を描いた映画が聾唖者自身の手でつくられ、それをひとりでも多くのひとが“見る”ことはよいことだと思う。
けれども、こういう話題を読むときにいつも“ひっかかる”ことがある。
それをうまく整理できないが、いちばん強く感じる点をあげておく;
★ “聾唖者”やいろいろな“障害者”は、映画のなかにだけいるわけではない。ぼくたちは、“日常”においても、“彼ら”に出会っているはずだ。なぜ彼らを映画で見なければ“認識”できないのか。
★ “聾唖者”やその他の“障害者”(交通事故や脳梗塞から復帰して身体や精神がマヒしたようなひとも含む)というような人々の“特殊性”は理解されなければならない。彼らが“ハンディ”を背負うなら、“健常者”は彼らを“助ける”べきである。しかし、“健常者と障害者”の差異は固定したものではありえない。健常者も潜在的な“障害”を抱えているし、いつしか障害者と成りうるからだ。
★ “映画”には、映画としての“自立した評価”があるべきである。その映画の“テーマやつくり手が正しければ”、その映画が“よい映画”なのではない。ここに(映画に限らず)“批評”の意味が(必要性が)ある。
天声人語氏のように、“ヒューマニズムならすべて良し”とするような感性-論理-モラルこそ、“ヒューマン・ファクター”の具体性を感受することを阻害(疎外)しているのだ。
次は読売・編集手帳である(笑)
今日の話題は“名刺”;
◆顔と名を記憶するべく、もらった名刺に相手の特徴をメモしておく人がいる。<落ちていた俺の名刺の裏に「ハゲ」>。何年か前、日本自毛植毛センターが募った「毛髪川柳コンテスト」の入選作にある
◆きのうの昼下がりに地下鉄を降りるとき、後ろから新社会人とおぼしき青年が脱兎のごとく脇を走り抜け、危うく突き飛ばされそうになった。約束の時間が過ぎていたか。彼のポケットにも小さな泣き笑いの種、初々しい名刺が納まっているだろう◆転んでけがをしないように。あわてて名刺を落とさないように。落とすなら、「イケメン」とでも書いた1枚を…と、らちもない忠告を内心つぶやく間もなく、青年の姿は改札口に消えていた。
(以上引用)
ぼくも名刺を渡すと、その裏に“ハゲ”と書かれるだろうから、名刺を渡さない。
”イケメン”と書かれることは、けっして、ないのである。
この読売編集手帳を書いているひとというのは、どうしてこうも“サラリーマン”なのであろうか。
かくいうぼく自身も30年以上サラリーマンを“やった”のである。
しかし、自分が(客観的に)サラリーマンであるから、心の底まで“サラリーマンである”必要はないのである。
せめてその程度の“複雑さ”は、人間であるのだから持ちたい(持続したい)ものである。
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