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wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

書評「100分de名著 スタニスワフ・レム ソラリス(沼野充義)」

2017-12-17 21:34:13 | 書評(文学)


ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの作品ソラリスは1961年に発表され、日本のSFファンによる人気投票では今でも必ず上位に入る人気作品だという。1972年にはアンドレイ・タルコフスキーによって、2002年にはスティーヴン・ソダーバーグによって映画化されている。私は両方とも映画を見ていて、かなり感動したことをよく覚えているが、原作はまだ読んでいなかった。本書では、レムによる原作とタルコフスキーによる映画の違いを述べていて、それはかなり本質的なことのようなので、やはり小説を読んでみないといけないのだろう。
各回のポイントを抽出してみた。

第1回:未知なるものとのコンタクト
近現代の文学作品で名作として名高いものには、解釈の多様性を許すという共通点があり、様々な読み方が可能である。ソラリスもそうであり、様々の批評家が様々な解釈をしてきた。(ちなみに私が映画を見て強く感じたのは、過去のことが再び現れるとしてもそれはイリュージョンのようなものであり、けっして本当の意味でのやり直しはできない。そのことの哀しみ、無常観であった)この小説の一つの大きなモチーフは、心の中のトラウマが実体化された存在、「お客さん」とか「幽体F」と呼ばれるものの出現と彼らとのかかわりである。

第2回:心の奥底にうごめくもの
人間の深層にあるトラウマや人間関係などに焦点を当てる精神分析にも似ているが、この小説は人間に回帰しない。人間の理性を越えた、ソラリスという惑星の「海」という完全に不可解なるものとのかかわりが主題だという。

第3回:人間とは何か 自己とは何か
主人公のクリスの前に、自殺をしたかつての恋人ハリーが「お客さん」として現れる。クリスは悲劇に終わった関係をもう一度やり直したいという思いにとりつかれ、切ないラヴ・ロマンスの様相を呈してくる。この恋愛小説の要素がなかったら、「ソラリス」はこれほどの世界的ベストセラーにはならなかっただろうといわれている。ソダーバーグの映画はこのラヴ・ロマンスの部分に焦点を当てていたが、レムはそれに不満だったという。

第4回:不完全な神々のたわむれ
ハリーはクリスを愛するがゆえに自殺する。しかし、クリスは地球には帰らず、ソラリスの海という絶対的他者と向き合い続けるという選択肢を選ぶ。そして海を「欠陥のある神」ととらえる。一方、タルコフスキーの映画では、クリスは地球という懐かしいものへと帰っていくという描かれ方をしている。ここにもレムは大変不満で、議論の末タルコフスキーとけんか別れしている。映画と比べて原作は結末が難解になっているのかもしれないが、やはり読んで確かめてみる必要がありそうだ。

宇宙を感じさせる音楽を作り続けてきたのはこの人をおいて他にいないだろう。SF映画の主演をいくつもやっているが、生前「ブレードランナー2049」へのキャスティングも計画されていたという。さて、この曲とPVは、暗鬱でわけの分からないところが「ソラリス」のようだ。
David Bowie - Blackstar


書評「ポケットに名言を(寺山修司)」

2017-07-15 21:25:18 | 書評(文学)


言葉の魔術師の寺山修司である。唐十郎は彼を魔王とよんでいた。そんな寺山の選んだ名言だから、そうとう癖があったり、謎であったり、人間の裏側をえぐり出していたり、そんな言葉たちが並べられている。ただし、ほとんどの場合、並べられた「名言」について寺山の解説はないし、元の文章から切り取られた「名言」たちの背景や脈絡がわからないので、なにを意味しているか分かりにくいものも多いのが難点だ。一度読んだらしばらく寝かしておいて、また読んでみたら味わいがわかってくるのかもしれない。

寺山は「名言」などは、所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆくものだと言う。一方で、言葉は世界全部の重さと釣り合うこともあるだろう。そして、そんな言葉こそが「名言」ということになるのであると言いながら、次の言葉を紹介している。
『学生だった私にとっての、最初の「名言」は、井伏鱒二の
   花に嵐のたとえもあるさ
   さよならだけが人生だ
という詩であった。
私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度のりこえたかしれやしなかった。
...言わば私の処世訓である。』
この詩は、寺山にとっては既成概念や常識に対する決別を意味しているが、すなおにとらえれば無常観を表しているよい言葉だ。

『心は一種の劇場だ。そこではいろいろな知覚が次々に現われる。去っては舞いもどり、いつのまにか消え、混じり合ってはかぎりなくさまざまな情勢や状況をつくり出す。 デイヴィド・ヒューム「人生論」』
現代の脳科学が明らかにした脳のはたらき、雑念が次々とかってにわき上がってくる状態「デフォルトモードネットワーク」を言い表しているようだ。

『ここがロドスだ、ここで跳べ! ギリシア故事より』
私が鬱屈としていた高校生時代、あきらかに私とは違う元気で生意気な同級生たちは、この言葉をスローガンに学園祭を開いた。きっとこの本から見つけてきた言葉なのだろう。

「忘却」という章の「私のノート」において、寺山はこう述べる。
『私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである。』
私たちの常識的な感じ方をくつがえそうとする寺山らしい、これも名言じゃないだろうか。「忘れる」ことで思う、寂しさやはかなさを転じて、「愛」だと表現しているのである。

最後に寺山自ら作った言葉を紹介している中から二句を。
『なみだは人間の作るいちばん小さな海です 「人魚姫」』
『草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ 「歌集」』
こんな、純で切ない言葉も紡ぐ人だ。

ところで、寺山修司の言葉で思い出すのは、
『死ぬのはいつも他人ばかり』
もとはマルセル・デュシャンの言葉だそうでとても印象深く覚えているが、なぜかこの本には載っていなかった。
この言葉の解釈の仕方としては、単に、他人の死はたくさん見てきたが自分の死は一度も見たことがない、ということでもいいのだが、生きていると他人の死をたくさん経験しなくてはいけないので人生はさびしいものだ、というとらえかたもできる。私は、自分はいつになっても死なないなどと思っていると、とんでもないしっぺ返しを食らうよ、すぐ目の前に死が待っているかもしれないよ、という警鐘ではないかと思っている。

カルメン・マキ 時には母のない子のように


書評「痴人の愛(谷崎潤一郎)」

2017-05-28 12:19:19 | 書評(文学)


谷崎潤一郎、巨匠だ。ノーベル文学賞候補だったほどの大作家だが、非道徳な作風のためか学校で習うこともなかったし、その流れでずっと読んだことがなかったが、一度おさえておきたいと思って52歳にもなって初めて読んだのがこの作品である。

読む前は直接的な性描写がたくさん出てくるのかと思っていたが、実際に読んでみるとそういったことは描かれていない。そこのところは想像にお任せします、といった感じである。若い娘を家にかくまって自分好みに育てる話だから、世間から隔絶された自分たちだけの甘美な世界に浸るのかと思いきや、それも違っていて、思い通りの世界には到底ならなくて、その女ナオミはこっそり外にたくさんの男を作って遊びまくるのである。主人公の河合譲治はそんなナオミの行動が気が気でならない。読んでいてもつらくなる。あるときナオミのあまりにひどすぎる男遊びが完全にばれたとき、譲治はナオミを家から追い出して、ひと時気持ちが晴れやかになるが、それもつかの間、すぐにナオミがいないことでいてもたってもいられなくなる。あたかも麻薬の禁断症状のようだ。そう、これは女という麻薬に対する依存症の物語だ。最後に、譲治はナオミと再会し、ナオミの男遊びを容認し完全にナオミにコントロールされた状態で二人の生活を再開するのである。ここまでくると、もう突き抜けてしまっている。

谷崎は29歳で結婚、30歳で長女をもうけ、37歳でこの小説を執筆した。谷崎と妻の妹との関係がこの小説の原型になっているという。文学のために人生をささげたのか、生き様が文学を生んだのか、どっちだろう。

LINDA RONSTADT - OOH BABY BABY


書評「職業としての小説家(村上春樹)」

2016-12-29 09:50:36 | 書評(文学)


同時代を生きる稀代の小説家、村上春樹が自らの小説作成方法を明かした貴重な書だと思う。小説を書くときに彼の頭の中では何が起きているのかをくわしく教えてくれている。それは次のようである。

小説を書くのはそんなに難しいことではないが、小説を長く書き続けていくことは至難の業だという。それは、普通の人間にはまずできないことで、ある種の「資格」のようなものが求められる。それはもともと備わっている人もいれば、後天的に苦労して身につける人もいる。(だれでも人生でなにか特別な経験をしているから、それをネタに一つや二つくらいは小説が書けそうだが、小説を何本も書き続けるとなるとネタ切れして書けなくなってしまうだろうことは容易に想像される。)

小説を書くというのは効率の悪い作業で、それは「たとえば」を繰り返す作業である。一つ個人的なテーマがあったとすると、それを別の文脈に置き換えて、「それはね、たとえばこういうことなんですよ」と延々と続けていくことだ。最初のテーマがすんなりと明確に知的に言語化できない、そういう回りくどいところにこそ真実・真理が潜んでいると小説家は考える。

1978年4月のある晴れた日の午後、大好きなヤクルトの広島戦の野球を神宮球場で見ていた時、突然啓示のように何の脈絡・根拠もなく「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と思ったことが、村上が小説家になろうとしたきっかけである。それで最初に「風の歌を聴け」を書いたが、そのときはうまくかけずに満足もできなかったと述べている。

毎日朝早く机の前に座り、「さお、これから何を書こうか」と考えを巡らせる瞬間は本当に幸福である。ものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もない。小説が書けなくて苦労したという経験もない。

毎年、ノーベル文学賞受賞を期待されている村上だが、2016年度ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランについてはその受賞前から、自己革新力を具えたクリエーターだと評価する。

どういう小説を書きたいか、その概略は最初からかなりはっきりいていた。今はまだうまく書けないけれど、先になって実力がついたら書きたい小説のあるべき姿が頭の中にあった。

小説家になるために重要な訓練なり習慣としては、たくさん本を読むことで小説はどういう成り立ちなのか基本から体感として理解すること、そして自分が目にする事物や事象をその是非や価値を判断せずに子細に観察する習慣をつけること。そうした観察の結果、頭の中には大きなキャビネットが備え付けられていて、その一つ一つの抽斗の中には様々な記憶が情報として詰まっている。小説を書きながら、必要に応じてこれと思う抽斗を開け、中にあるマテリアルを取り出し、それを物語の一部として使用する。

小説を書く上で心がけたのは、「説明しない」ということ。(私も村上の小説を読んで、なんでもかんでも説明をしない、謎を謎としてそのまま残しておくことが、意図した執筆法だろうと感じていた。)それよりいろんな断片的なエピソードやイメージや光景や言葉をどんどん放り込んで立体的に組み合わせていく。それは音楽を演奏することに似ている。とくにジャズ。リズムのキープと和音とフリー・インプロビゼーションが大切で、そこには無限の可能性、自由がある。「書くべきことが何もない」というところから出発する場合、エンジンがかかるまでは大変だが、いったん前に進み始めると、あとはかえって楽になる。「何だって自由に書ける」ということを意味しているからだ。その人の持つマテリアルが軽くて量が限られていても、その組み合わせ方のマジックを会得しその作業に熟達すれば、いくらでも物語を立ち上げていくことができる。「自分は小説を書くために必要なマテリアルを持ち合わせていない」と思っている人もあきらめる必要はない。マテリアルはあなたのまわりにいくらでも転がっている。そこで大事なことは、「健全な野心を失わない」ことだ。

長い歳月にわたって創作活動を続けることを可能にする持続力を持つために必要なことは、基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること、自分の身体を味方につけること。

小説に登場するキャラクターは、話の流れの中で自然に形成される。キャラクターを立ち上げるのは、脳内キャビネットからほとんど無意識的に情報の断片を引き出し、それを組み合わせている。その自動的な作用を個人的に、「オートマこびと」と名付けている。そうやって書いたものは後日何度も書き直される。そういう書き直し作業は自動的というより、意識的にロジカルにおこなわれる。

登場人物をこしらえるのは作者だが、本当の意味で生きた登場人物は、ある時点から作者の手を離れ、自立的に行動し始める。それは多くのフィクション作家が認めている。小説がうまく軌道に乗ってくると、登場人物たちがひとりでに動きだし、ストーリーが勝手に進行し、その結果、小説家はただ目の前で進行していることをそのまま書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出する。物語は架空のものであり、夢の中で起こっているというのと同じことである。それが眠りながら見ている夢であれ、目ざめながら見ている夢であれ、自分に選択の余地はない。

以上のように、村上にとって物語を紡ぐという作業はかなりの部分、無意識というか自動思考によって勝手に進んでいくようである。シュルレアリスムの自動手記のようである。それを書き直し作業によって意識的に調整していく。だから、その無意識から物語を引っ張り出してくる能力、つまりは脳のはたらかせ方なんだろうが、そこに極めて長けているということなのだろう。

書評「乳と卵(川上未映子)」

2016-09-19 16:44:55 | 書評(文学)


私の誕生日は8月29日である。同じ誕生日の有名人にはどんな人がいるのか調べてみた。まず出てくるのが、マイケル・ジャクソン。たしかにビッグスターだが、音楽的にはあまり趣味じゃないし、なにより精神を病んだ人だった。そして、タレントのYOU。彼女は生年月日までいっしょだ。だけど、うーんちょっとね、という感じである。もっと調べて出てきたのが、エリザベス・フレイザー。元コクトーツインズのボーカリストで好きなバンドであり、むかし来日コンサートに見に行ったこともある。私はイギリスの歌姫の一人だと思っている。これはうれしい。次に見つけたのが、川上未映子。芥川賞受賞作家で、どうやら新時代の日本文学を作っているらしい。こりゃあ、どんな小説を書いているのか読んでみなきゃならないと思って読んだのが、この「乳と卵」である。

この本には、芥川賞受賞作の「乳と卵」と近い時期に発表された「あなたたちの恋愛は瀕死」の短編2編が収められている。文庫版で133ページなので、あっという間に読めてしまう。よく、文体が読みにくいという評があるが、私にはそんなことはなかった。関西弁と、読点で区切られて長く続く文章の形態は、慣れれば小気味よく読めるし、独特の味わいもある。「乳と卵」にはまともに男性が出てこない。もはや女性だけで世界が描かれている、そこが新しい文学だと言われている理由の一つかもしれない。いちおう姉の娘には父親がいるのだが、自分勝手な利己的な人間のように描かれている。この小説の主題は、母と娘の間の心の葛藤、いいようのない親子愛だと思うので、それをこの短い小説の中で浮き上がらせようとすると男性が出てくる余地はなかったのかもしれない。

「あなたたちの恋愛は瀕死」では、主人公の女性は、男性を恋愛の対象というより、1回限りの性交の相手としてのみ夢想する。そして、見つけた男性に声をかけたあと、衝撃の結末が訪れる。どうやら生物学的には、目の前に現れた異性に対しては、求愛するか攻撃するかという両極端な反応をするようであり、ショウジョウバエの研究では、ある1種類の脳細胞のスイッチがオンになるかオフになるかだけで、相手を求愛するか攻撃するかが決まるそうである。

2編とも男性は生物学的オスとして描かれており、それはそれでおもしろいのだが寒々とした世界観である。