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wakabyの物見遊山

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坐禅中に出てくる雑念はどうすればいいのか(3)マインドフルネス編

2016-07-25 21:30:46 | 瞑想・仏教
最近脚光をあびているマインドフルネス瞑想という心理療法があります。私も最近取り組み始めました。もとは、東南アジアで伝統的に受け継がれている上座部仏教(原始仏教)が行ってきた瞑想法を現代の医学に取り込んだものです。その創始者であるジョン・カバットジンの著書(マインドフルネスストレス低減法」北大路書房)には「日本の読者の皆さんへ」の中で、鈴木大拙、鈴木俊隆、道元といった日本の禅師たちに大きな影響を受けたことが述べられています。だから、このマインドフルネス瞑想法の中には、「呼吸法」、あるいは「呼吸に集中する静座瞑想法」という坐禅にとても近いエクササイズがあるのは不思議なことではありません。そこでは、雑念の扱い方についてじつに明確な説明がされています。

「自分の心が呼吸から離れたことに気がついたら、そのたびに呼吸から注意をそらせたものは何かを確認してから、静かに腹部に注意を戻し、息が出たり入ったりするのを感じとってください。心が呼吸から離れてほかのことを考え始めるたびに、呼吸に注意を引き戻すのがあなたの仕事です。どんなことに気をとられようとも、そのたびに注意を呼吸に引き戻してください。」(呼吸法のエクササイズ1-正式なトレーニング、p.89)
雑念が浮かんだら呼吸に注意を戻すことが呼吸法の重要な作業だということで、臨済宗で言われていることと基本的に同じことが勧められています。

「心の中を常にさまざまな思いがよぎっていること、そして、その思いは自分が意識的に考えようとして生じてきたものではないということがわかれば、その思いは瞑想をさらに深めていくための大きな一歩になるはずです。」(心にわいてくる思いをどう扱うか、p.101-102)
「自分の思いを手放すというのは、おし殺すという意味ではありません。瞑想とは自分の思いや感じを閉めだすことだと思いこんでいる人もいますが、これはまちがいです。何かを考えてしまうことが“悪い瞑想”で、何も考えないことが“良い瞑想”である、というふうに考えてはいけません。思い違いをしないように強調しておきますが、瞑想中に何かを考えるのは、悪いことでも望ましくないことでもありません。問題は、考えていることに気がつくかどうかということ、そして気がついた時点でどうするかということなのです。」(心にわいてくる思いをどう扱うか、p.103-104)
瞑想中に雑念が浮かんでくることは悪いことではなく、それに気づいて雑念を手放して呼吸への集中に戻れることが重要であると言われています。そして、その雑念は自分が意識して考えたことではないこと、自分の考えではないということに気づくことが大切だと述べられています。その雑念とは自動思考とか無意識といってもいいのかもしれません。それに気づくこと、重要視しないこと、受け流すこと、そこにマインドフルネスの根本があるように思います。(完)

坐禅中に出てくる雑念はどうすればいいのか(2)曹洞宗編

2016-07-24 07:24:23 | 瞑想・仏教
坐禅中の雑念について、曹洞宗ではどう考えるのでしょうか。

永平寺で修行した曹洞宗僧侶の星覚(せいがく)氏の著書、「坐ればわかる 大安心の禅入門」文春新書、p.65-67を見てみます。「私は最初、坐禅とは『無』になることだと思っていました。雑念をどんどん減らしていき、心の動きが全くなくなったところに、スッキリと開けた悟りの境地が現れる。坐禅にそのようなイメージを持っていました。しかし坐禅中『無』になれ、あるいは『無心』になれ、といったように心について指導されたことは今まで一度もありません。…永平寺では就寝前の坐禅の最後に、『普勧坐禅儀』を皆で声に出して読みます。前述のようにこれは道元禅師が記した坐禅の注釈書のようなもので、…心については『思考が及ばないものを思考しなさい。どうすれば思考が及ばないものを思考できるのか、それは思考にあらず』と言っています。こうしてみると息と心に比べて身体のことについての記述が圧倒的に多いことが一目瞭然です。たいていの人は無心になるとは、心を扱うことだと思いがちですが、道元禅師は頭でいくら考えてもその境地には達することができないと、この短い文で表現しているのでしょう。むしろ身体を知ることが禅を学ぶうえで大きな助けとなりますと書いています。」
とにかく、身体をととのえることに専心し、よけいなことは考えるなということのようです。だから、曹洞宗は只管打坐(ただひたすら坐れ)というのでしょう。無心を目指しているようではあるのですが、無心になることを意識するなとも言われているようで、これはかなり難しそうです。

また、曹洞宗僧侶で庭園デザイナー、文筆家でもある枡野俊明氏の言葉を見てみます。「坐禅とは、まず姿勢を整え、次に呼吸を整え、最後に心を整えること。この三つが整ってはじめて坐禅となります。物事を頭にためず、浮かんでは流れるままにして坐禅を組んでみてください。…坐禅を組んでいるときには何も考えてはいけない—そう言われますが、これはなかなか難しいものです。基本的に、坐禅を組むときには…さまざまな考えが頭をよぎります。普通は、それが当たり前です。そもそも『考えてはいけない』と思っていること自体が考えているのですから。しかし、坐禅を少し経験すると、一瞬ではあるけれど何も考えない瞬間が必ず訪れます。『あれ、今自分は何を考えていたんだろう』と。そして、『自分』という感覚さえも忘れてしまう。これこそ、何も考えていない瞬間です。」(「禅、シンプル生活のすすめ」知的生きかた文庫、p.53、57)
いろんな考えが頭に浮かんでくるのを止まらずにそのまま流していくうちに、何も考えていない瞬間がやってくるということです。あまりよく覚えていませんが、瞬間だったら自分にもそんなときはあったかもしれません。もう少しそんな瞬間をしっかり捉えてみたいものです。

坐禅中に出てくる雑念はどうすればいいのか(1)臨済宗編

2016-07-23 07:41:30 | 瞑想・仏教
坐禅をしていると、かならず雑念が浮かんできます。数息観(すそくかん)のやり方で1から数えて10までたどり着く前にすでに雑念がわき上がっています。私が坐禅を始めたのは2012年7月のことなので、もう4年くらい続けてきたことになりますが、完全に呼吸に集中することなんて至難の業です。自分は正しく坐禅ができているのだろうか、坐禅をやってきてすこしは進歩したのだろうか、といつも気にかかります。この、坐禅をしていてわいてくる雑念をどう扱うべきかは、坐禅、ひいては瞑想を行ううえで根幹に関わることのように思われます。では、禅僧たちはこれをどう考えているのか、見ていきましょう。

臨済宗ではどう考えるのでしょうか。
まずは、臨済宗僧侶で作家の玄侑宗久氏の言葉から。「坐禅をしているときは、『何も考えるな』などと言われます。しかし、これがとても難しい。何もすることがないので、つい、いろいろなことを考えてしまいます。いわば、考えないことがいちばん難しい状態で、考えないトレーニングをするわけです。それができれば、どんな時でも習慣的な思考に依らず、優れた直観力を発揮できる、ということなのです。ただし通常坐禅では、何も考えるまいとするのではなく、意識を一つの事柄に集中していきます。そのうちにその一つの事柄も忘れた時間、つまり何も考えていない時間が訪れるのです。」(「『いのち』のままに 心の自由をとりもどす禅的瞑想法」徳間書店、p.52-53)
坐禅は意識を一つのこと(呼吸)に集中していくことで何も考えない状態にするトレーニングだけれど、とても難しいというわけです。とにかく、難しいことは間違いないようです。修行僧が何千時間も坐禅修行をすることで会得できることなのかもしれないません。

玄侑宗久氏は、伝統的な禅宗の枠組みを越えて、脳科学など様々な現代の英知を取り込んで禅仏教を説明するところがおもしろいのですが、別の著書(「禅的生活」ちくま新書、p.114-115)では、「まずは坐禅について、ごく簡単にいうと、『雑念(妄想)をはらう』という意識によって右脳の『意思の座』である前頭連合野が活動しはじめる。詳しいことは省くが、それによって普段は無意識的なはたらきに任されている自律神経系が抑制的にはたらきだすわけだが、瞑想が深まり、しかも雑念をはらう努力が継続していくと、抑制機能はやがて限界に達し、どうもそのとき神経学的な『決壊』が起き、興奮系まで一緒に活性化してしまうらしい。そして急激に入力情報が遮断されるというのだ。これによって生じるのが、さっき述べた『絶対的一者』の感覚であり、禅の『三昧』、あるいは『お悟り』状態ということになる。」と述べています。
どうやら、雑念をはらうという努力をすること自体、意味のあることのようです。前頭連合野が活動しはじめて、自律神経系が抑制的にはたらきだすということです。だから、雑念が浮かんでははらいのける、ということをずっとくりかえし続けることだけでも脳科学的には意味のあることなのかもしれません。


(写真は円覚寺の一般向け坐禅堂「居士林」)

修行僧の坐禅には厳しいものが求められます。円覚寺管長の横田南嶺氏は修行僧に向かって次のように言っています。「坐禅の修行というのは『この心は辺際なき虚空の如くである』と体得することです。…刀を大上段に振りかざして自分の心をかっと見据えて、一念を起こしたら叩き斬るという気合いを持って坐禅をするのです。ネコがネズミをとらえるがごとく、かっと目を見開いて一瞬の隙も見せない。ネズミがちょっとでも動くものならかみ殺すという気迫を持って坐禅をやらなければどうしても、己の煩悩、妄想に引きづり回されてしまう。サムライが真剣をといて相手と斬り合うがごとく、一瞬でも油断をしたなら一刀両断になってしまう。それくらいの緊張感を持って自分の一呼吸一呼吸を貫いていく。」(円覚寺居士林だより、2015年1月23日《武溪集提唱》僧堂攝心「この心は辺際なき虚空のごとし」
ここでいうネズミとは煩悩や妄想といった雑念のことでしょう。雑念が出てきたら一瞬で叩き斬ろ、というわけです。ものすごい気合を入れて雑念を斬りまくれという激しい檄が飛ばされます。

このように雑念を意識して払いのけていくのが臨済宗のやり方のようです。

久しぶりの円覚寺坐禅会

2016-06-18 22:30:36 | 瞑想・仏教
久しぶりに円覚寺土曜坐禅会に参加してきました(2016年6月11日)。

円覚寺の坐禅会に参加したのは3月27日以来のこと、今回でトータル参加回数19回目です。
アジサイの季節ですね。アジサイの名所、明月院お目当ての観光客で北鎌倉界隈はたいへんなにぎわいでした。


北鎌倉駅から円覚寺の前を通って明月院に向かう道はたいへんな混雑です。



円覚寺境内でもきれいなアジサイが見られます。


妙香池(みょうこうち)にはカワセミがいました。



ここでカワセミを見るのは二回目です。


坐禅会が終わった後、洪鐘(おおがね)のところまで上り、東慶寺方面を望みます。
緑の深さが気持ちいいです。
円覚寺の坐禅会に参加するとプチ観光気分も味わえます。


帰りに総門のところに来ると、円覚寺名物ネコのかなちゃんが寝ていました。
人にさわられてもまったく気にとめません。
禅寺のネコだけあって、迷いも恐れもふっきれているみたいです。



ひさしぶりの円覚寺参禅で管長サイン入り書籍を購入

2015-10-17 21:30:00 | 瞑想・仏教
ひさしぶりに円覚寺へ参禅しました(2015年10月11日)。

今回で円覚寺への参禅は15回目。この日はいつもの土曜坐禅会ではなく日曜説教坐禅会に参加しました。


今日は雨。8:20頃、大方丈前の門を通過します。


会場の大方丈。9時開始です。


坐禅会の入口で、横田南嶺管長が最近出版された本「禅の名僧に学ぶ生き方の知恵」を購入し、目の前で著者のサインを書いていただきました。いずれ買おうと思っていたのでちょうどよかった。いろいろ読みたい本がたまっているし遅読なので、これを読めるのはしばらく先になりそうですが、読んだら書評を書くつもりです。円覚寺に関係した禅僧を中心に紹介されています。


これが横田管長のサイン。

このあと、横田管長による説教会と、坐禅会がありました。
坐禅会では朝比奈教務部長が警策担当でした。この方は土曜坐禅会の担当の方と比べて思いっきり強く叩いてくれるので、かなりインパクトを受けます。正直痛いです。いつもは家で一人静かに坐禅を組んでいるので、たまにはこういう警策を受けると目を覚まさせられるというか。まあ、修行僧と比べたら全然生ぬるいことをしているだけなんですが。
坐禅会に参加すれば深い禅定に入れるからというわけではなく、むしろリセットするために来ているような気がしています。安倍首相だけでなく中曽根さんも坐禅会には参加していたそうです。円覚寺ではないですが。


さて、円覚寺ではモミジが少しずつ色付いてきました。


鎌倉の紅葉は京都ほどきらびやかではありませんが、円覚寺は紅葉の名所の一つとされています。