18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

そして何のために働くのか?

2007-07-18 23:50:24 | 
ちょっと間があいたが、「何の為に働くのか、何の為に勉強するのか」の続き。



 結論だけ先に書こう。それは、自分の夢を実現する為である。



 前に書いた通り、信念、精神力、優しさが事業を成功させている人たちの共通のエッセンスであると考えているが、この3つは、黙っていても集まってくるものではない。普段の生活の中でももちろん、学生時代なら学校生活や部活動。社会人ならば仕事や同好会、あるいは社外の人との付き合いのなかで生まれてくる。


 また、こういう生活の中で“目標”や“夢”が徐々に明確になって積み上がってゆく。早い人なら学生時代に、遅くっても構わない。夢の実現には年齢は関係ない。


 しかし、ただ単に、歌手になりたいとか俳優になりたい、漫画家になりたい、では目標の持続には不十分だ。なぜ歌手になるのか?なぜ俳優になるのか?自分が俳優をやって誰をよろこばせたいのか?をしっかりじっくり考えて、そして何が何でも絶対に俳優になる!と思えるような目標の持ち方が必要だと思う。


 自分の場合、昔から絵が上手いと言われた。今でもそうである。美大出身?とも言われるが全くそんな経験はない。見る人が見れば分かる絵だが、そうでない周囲から見れば上手い方である。一般のコンクールにも応募したが、入選ぐらいはするレベルはある。

 しかし、自分のなかで“何のために絵を描くのか”が明確になっていないから、絵を描くことを職業としては選ばなかったし、いまも画家になることは目標でも夢でもない。勿体ないかもしれない、しかし自分自身の中で確固たる信念をもって画家になる意義を見いだせないのだから仕方がない。でも絵を描くのは好きなのは変らない。3年~5年に一度描きたくなったときに描く。

 
 自分の夢に一時的にはしばらく触れないようにしなければならない時もある。子どもを育てたり、会社の仕事が忙しかったりと、なかなか自分の夢の実現に直接結びつかないような事が多くある時は、仕方がない。

 しばらくは静かな気持で待つようにするのだ。焦ってはいけない、熟成期間が必要なのだ。徐々に進めてゆけばいい。夢や目標が明確なら、そういう時期も有効に使える筈である。



 気持が焦っている時は、敢えて立ち止まるべきである。焦りは冷静さの欠如。ろくな結果を生まない。チャンスは、焦りがない、平常心のときに来るものだ。だからみんなチャンスを逃す。平常心の時から、目標や夢がシッカリ意識されている人はチャンスが掴める。

 また自分の夢がいくつあっても良い。決めきれないというのも悪いことではない。ただ忘れない事とあきらめない事はしっかりと心に固く誓うべきだと思う。そして1つだけ、自分の力で叶えられるとしたらどの夢を選ぶか。選択しなければならなくなったときに、直感でもなんでもいいから選ぶことが出来るようにしておくことをオススメする。そして選んだら、もう後ろを振り向かない。

 目標は、小さな事のように思えることだっていい。必ずしも大事業だとか有名になるだとかである必要はない。あきらめないことが必要だ。小さくても夢を持ち続けること、そしてその実現に向けて行動し続けること。年齢は関係ない、夢を持っている人はいつまでも若々しくて元気だ。夢を持てない若者は、元気も覇気も無い。実に勿体ない。エネルギーはいっぱいあるのに・・・。無駄にならないうちに夢を見つけて進むべきだ。










 最後に




 自分の夢は、声でメッセージを伝えること、そして文章でメッセージを伝えること。 

 これをいま少しずつ進めている。



カッとなって・・・

2007-07-17 00:36:08 | 風景
 何だかなぁと思う事件が相変わらず多いのは、幼児というか乳児に対する虐待である。

 「泣きやまないから、カッとなってやった。」というのが圧倒的な理由。

 なんでも思い通りに行くと思っている事自体が間違い。ましてや、乳児は親の保護を必要とはするが、親の物ではない。別の人格、別の人だ。だから落とそうが何しようが虐待は罪だし死なせれば殺人である。

 たいぞう議員が生後2ヶ月の赤ちゃんをおいて出かけたという話があったが、こういう行為を無責任と感じないのが今の親の世代なのかと呆れてしまうというか哀しささえ感じる。




 生まれた赤ん坊は、手に触れた親の指を本能的に握る。立つことも出来ないのに、足の裏を手で触れただけで足をバタバタとさせる。もちろん首も据わらない。保護が必要なのだ。

 赤ん坊は親が全身全霊をかけて守らなければならない存在なのだ。その包容力、忍耐力、そして愛情が親には必要なのだ。ひとかけらの疑いもなく親に愛情を求める。親にはそれに答える義務がある。答えることで親になっていくのだ。



 親の側にも言いたいことはたくさんあるだろう。イライラすることだってある。ハラが立つ事もたくさんある。でも、だからといってそれを弱い存在に向けてはならない。絶対にいけない。




 子どもは親の所有物ではない。好き勝手にしていいものではない。躾という理由の虐待もどきはやってはいけない。ビンビン、ぎゃーぎゃー泣きわめく子どもに、カチンとくることだってある。その時にその子に手をあげるか、ただ優しく抱きしめるか。その違いである。


 赤ん坊がなかなか泣きやまなくても、心配する必要はない。泣き疲れて寝るから。

 赤ん坊が泣いたなら、抱き上げて話かければいい、赤ん坊はしっかり聴いているから。

 こちらが愛情をもって話をすればいい、赤ん坊は泣きながらもしっかりと聴いている。それが赤ん坊の本能だから。

 
 赤ん坊は自らに何かの働きかけがあることにとんでもなく敏感なのだ。それはお腹の中に居るときからそうなのだ。 

 
 話しかけて、音楽を聴かせて、会話して・・・。だから生まれ出たあとも同じように接すればいい。

 どれだけ泣いていても、赤ん坊は親が嫌いだから泣いているのではない。

 お腹がすいた。おむつが気持ち悪い。どこかが痛いなど、何かを言うことができないからしかたなく泣き声で伝えている。

 親はしっかりと聞いてあげよう。カッとなる前に。




新潟地震

2007-07-16 18:57:54 | ニュース
 台風が去って、雨も上がった今日天気も回復気味なので、ちょっと新宿に出かけた。新宿には紀伊国屋もジュンク堂もあって、本の種類も多いし、思う存分立ち読みができるので重宝している。

 その帰り道、歩行者天国で新潟地震の号外を配っていた。

 手にとって、ふと、12年前の阪神淡路を思い出した。号外紙のトップの写真を見ているとデジャブに近い感覚に陥った。

 阪神淡路地震の時、日本におらずジャカルタにいた。NHKニュースで神戸市内の惨状がテレビで中継されていた。呼吸を忘れて見入ってしまった。なんと言うことが起きたんだということしか頭に思い浮かばなかった。

 当時、関西地区に居なかった人たちにとっては全くの他人事だったろう。しかし、今朝の新潟で起きた地震の号外をもらった自分が東京にいることに、複雑な思いがした。遠くで起きている自然災害と、新宿の喧噪。ジャカルタに居た自分とテレビで見た惨状。そして号外を手にしている今の自分。

 家屋の倒壊も200軒を超えている様子。死者も出ているようだ。またこれから多くの人が復旧の道を歩むことになる。

 死者にはご冥福を祈りたい。家屋が倒壊してしまった人には、希望を捨てずゆっくりと立ち上がることを願って止まない。政府は地震や自然災害に対する体勢強化と支援強化を今まで以上にもっと打ち出して欲しい。

 被災地の人の心に安堵の光が早く灯りますように。



何の為に働くのか、何の為に勉強するのか

2007-07-15 19:08:47 | 
 SBIの北尾吉孝氏による本が本屋の店先に置いてあった。「何のために働くのか?」

北尾氏によると、人生の殆どの時間を働くことに使っている、故に働くことは生きることに通じるとのこと。

 この意見には全く賛成で、働くだけでなく、勉強すること、余暇を過ごすことだってすべて生きることに通じると思う。

 つまり、余暇をだらだら過ごせば、勿体ない人生だし、余暇を有効に使えば人生そのものも充実したものになる。

 だからといって北尾氏のようないわゆる有名人や大物と目される人たちのマネをする必要はない。


 たとえば、ワタミフードの渡辺氏、ソフトバンクの孫氏、問題にはなっているがグッドウィルの折口氏など若くして事業を成功させる人たちと私たちのような普通の仕事をしている人たちとの差は何なんだろうかと振り返ると、彼らに共通するのは、(1)確固たる信念、使命感にも近い信念があり、(2)かつその為に多少の苦難があっても乗り切る精神力、(3)加えて人に対してオープン、つまり優しいという特徴だと思う。


 これらを比較的若いうちに身につけて、その為に殆どのエネルギーを注いだ人たちが彼らである。



 つまり、そういうエネルギーと行動力があればいつだって彼らと同じように成功できる可能性がある。


 ここで話を2つに分けることにする。1つはではなぜ多くの社会人はチャレンジしないのか?もうひとつは、タイトルにもつながる、何のために勉強するのか?という話である。

 ここでは後者の話につなげる。


 さて、成功する人たちに共通している3つの要素(エッセンス)、つまり信念、精神力、オープンネスという優しさ。これを培う為には何が必要なんだろうか?

 信念を培うには人生上の経験がモノを言う場合が多い。極貧生活だったり、身内の死であったり、事故や事件だったり・・・。物事を当たり前と捉えている感覚では、強い信念は生まれない。なぜ・なぜ・なぜを繰り返していくなかで、見つけたモノに対して、どうすれば?を考え抜いてゆく中で生まれるように思う。

 この考え抜く力、なぜという疑問を探求する力を付ける為には、知能と教養が必要になる。ゆえに勉強は必要なのだ。

 精神力は、何かをやり続ける中で生まれてくる場合が多い。スポーツだったり自己鍛錬だったり。身体に痛い事や辛いこと、精神的な苦難を乗り越える強さは、普段の生活のなかで“逃げて”いるとやはり培われないと思う。なんらか言い訳を見つけて、決めたことをやらない。自分で設定した目標に向かって進むことをやめてもだれも何も言わないとした状態で、どれだけ継続し続けられるかがいわば精神力だ。

 最初から精神力が備わっていることはなかなか無いので、どこかに先生がいてそこに通う事で継続する力を徐々に付けてゆく。世の中にさまざまな学校があるのはそのせいである。もし、世の中に自動車学校(教習所)が無いとしたらどれだけ多くの人が運転免許を取っただろうか?そう考えると、教えてもらう“場”の力は大きい。え?自動車学校に行かなくても運転免許が取れるの?って?取れますよもちろん。運転免許試験場で、学科と実技に合格すればいいのです。

 さて、3つめの優しさ。実は、確固とした信念があって、強い精神力がある人の多くに欠ける傾向にあるのが、この優しさである。やさしさは、自己肯定が無いと生まれない。つまり人も自分も優しくされると嬉しいし、心を開くものである。自己否定が強いと、自分の弱さを認めなくなり、相手にもそれを求めてしまう。素直な優しさを表現できなくなるのである。厳しくすることも優しさの1つであるが、オープンネスと敢えて書いた通り、単なる優しさではなく、己も人も受け入れるという優しさが必要である。


 この優しさはどうやって身につけるのだろう?


 できればこれは、集団活動の中で見つけるのが良い。分かりやすく言えば学生のクラブ活動や学級生活である。つまり“なんでもやれる人”と“そうとうな努力を積んでもなかなか出来ない人”が、混在している集団。そんな中で、試合などがあったときに、“なんでもできる人”がミスをして、たとえば試合に負けたとする。そういうときにどう対処するのか?“お前のせいで負けた”と簡単に言うか“俺がミスしたら、どれほど落ち込むだろう、ここはちゃんと声をかけてやるべきじゃないか”と思うか。

 学級生活でも、そうである。簡単にいじめに発展してしまうちょっとしたケンカや、いざこざも、相手の気持を考えて、一言、“ゴメン”とか“悪かった”とかが言えるかどうかが、優しさを培うように思う。その一言を言う為には、自分のプライドを捨てなければならない時もある。それでも言える、オープンさ、心の広さが必要だと思う。


 はずかしながら、最近、やっとそういう事に気がついた。少しずつだが実践しているとやっぱりいいことがある。そして、ちょっと気を許すと、また以前に戻っていたりもする。でもちょっと分かっただけでもよしとして、またそんな自分の弱さも理解した上で、目標をもって進むことができればいいかと思う。

 ちょっと長くなったが、何のために勉強するのか?に対する自分なりの答えを書くことが出来たと思う。 

 次回は、何のために働くのか?を続けてみたい。




ハリーポッターと不死鳥の騎士団

2007-07-14 22:10:45 | 映画
 観てきました。先行上映。もっと混雑するかと思ったのだけど、全然心配要らなかった。MI:3(ミッションインポッシブル3)の時もそうだったけども、案外先行上映ってねらい目かもね。




 さて、映画本編の話ですが・・・










 ネタバレな話はしません。








 でも、ちょっとだけ(^^ゞ















 まずのっけからハリーが退学!?というツカミ。周囲の理解が得られない展開は、これまでの作品に共通するのだが、今回は最大の理解者であるダンブルドア校長も炎と共に消えてしまう!さあどうなる!










 しかし、登場人物が何しろ多い映画だ。エキストラの数は“学園物”だから多いけども、回を重ねるたびに登場人物が増えていくし、シリーズの終わりに近づくに連れてそれぞれの登場人物とハリーやハリーの両親との繋がりが分かるようなストーリーなので仕方がないが、いずれにしても今回は多い。次回作はどうなるんだ?と思える。アズカバンの囚人ぐらいまではそんなに大量の登場人物は出ていなかったのだが・・・。


 毎回、楽しい魔法やファンタジーの世界をみせてくれているこのシリーズだが、今回の秘密のファンタジックな仕掛け、たとえばペシャンコになっちゃう二階建てバスとか、や、新しい魔法などについては、いくつか新しいものはあるのだけども、ちょっとありきたりな感じで、新鮮さというか、ファンタジー映画の本領をもっと発揮して欲しかったなと思う。ファンタジーさについては、ハリーポッターファンには物足りなさを感じるのではないかと思う。

 


 全体的には、ハリーポッターシリーズを外していない、安心してみられる映画。




個人的な点数としては、甘めで75点かな。