18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

20数年ぶりの

2007-09-30 23:17:32 | 
 学生時代の友人と20数年ぶりに逢った。アメリカからの一時帰国でタイミング良く逢うことが出来たのが20数年ぶり。


 その間といえば、手紙やメール。


 でもよくもまあ、とぎれなかったものだ。



 お互いに20年分の歳を重ねている筈なのに、逢った瞬間からもう学生時代と同じ感覚での会話。5分と経たないうちにタイムスリップしている事に気が付いた。けども、さすがに話の内容は子どもの事だったり仕事の事だったりと話題はそれ相応。


 あっという間の3時間。先週逢ったばかり?なんて言うぐらい普通に会話もはずみ、時間が過ぎてしまった。


 学生時代の友達というのは本当に貴重な存在。なぜか自分のちょっと弱いところも素直に出せたりする。そういう人はたくさんいなくてもいいけどもやっぱり大切にしたい。









人間完璧じゃない・・・とは言え

2007-09-29 00:53:35 | 
 今日、職場の部下とある会話をした。詳細は書けないけども、私の言動に気持が振り回されていてついて行けないという。

 

 数日前から「おかしいな」と思いながらも様子を見ていた。大変な仕事をお願いして、申し訳ない気持もあったり、休日に出勤してもらったりがあったので、家庭の事を含めて問題を作ってはいないか?を心配していたが、原因が自分自身にあったのは不幸中の幸いというか、まあ家庭に問題を作ったわけではなかった分すくわれた気持だ。



 正直なところ、自分自身の言動にはムラがあることはある程度理解していたが、これほどのストレスを与えていたとは思いも寄らなかったし、部下から直接言ってもらったことは本当にありがたい事だと思っている。だれもなかなか指摘しないことでもあるし、また人から指摘されないと一生理解出来ないことでもあるからだ。




 入った溝は簡単には消えない。いや一生消えないだろうけども、それでも言ってもらえた一言は大切にしたいし、自分自身をきちんと律して対応してゆきたい。






 自分自身が、自分自身の感情によってある程度動くことは決して悪いことばかりではないと思っていた。というか、まさか周囲がそんな感覚でいたなんて想像もできなかった。感情は時にはエネルギーにもなる、抑圧された中で、仕事以外のストレスを感じるのは嫌だという理由からだったが、この自分の考えが、周囲の人い仕事以外のストレスを与えてしまったのは、なんと言えばいいのだろう。申し訳ない気持とショックな気持である。






 でも、これからはしっかりと今日のことを肝に銘じて行かなければならない。常に鏡でチェック。



 人間は決めたとおりになんでもできるというわけではない。完璧じゃない。だけども今日の事はきっと神様が送ってくれたメッセージ。自分自身が変るべき時期に来ていて、その1つの気づかせだったと思ってしっかりと心に留めておきたい。



 ありがとう。








団塊の世代

2007-09-27 00:01:39 | 
 昭和22年~24年生まれを一般に団塊の世代と認識されている。こういう呼称を付けたがるのもこの世代の特徴かもしれない。

 名付けたのは堺屋太一の1976年の著書「団塊の世代」である。この世代は今の年齢でいえば、ちょうど58才~60才。団塊ジュニアと言われる人たちの年齢が大体28~40才である。

 以前にも書いた事があるが、最近の「子殺し・親殺し・妻殺し・夫殺し」などの犯罪が、この団塊ジュニア世代に集まっているのをご存じだろうか?

 さらに学校で行われている陰湿ないじめは、この団塊ジュニアのジュニア世代に集中している。





 何が言いたいのか?



 
 

 何に価値を求めて、何で勝った負けたを決めてきたのか?を1つ間違えればこういう社会にしてしまう事もあると言うことである。





 これと同じ誤った価値観で国全体が1つの方向に向かっていた時代があった。いわゆる軍国主義・大日本帝国を標榜した時代である。





 両方の時代ともたくさんの悲惨な事件を生んだ。




 
 だれも望んでいないが、社会が勝手に進んでしまった時代と言われているがそれは違う。その時代はその時代の人達が作ったものなのだ。そういう事実を受け止めるべきだ。





 
 いまの時代はそういう「自分のせいでこうなったんじゃない」なんてことは許されない時代。自分自身の価値観を持ち、流されないで生きることが重要な時代。自らの手で進む時代なのだ。



 そういう時代なのに、なんでもかんでも他人のせいにすることに何の違和感も無いとしたらそれは、あるまじき鈍感である。そういう価値観のままでいて、やれ負け組とかいうのはまさに愚かである。負け組以前の、不戦不参加組である。評価に値しない、欄外にいる存在である。



 また逆に「自らの」力と「幼稚な社会性」を一緒くたにした奴らがいる。ホリエモンなどがその代表例だろう。自分の論理が正しい・・・というよりも、社会のルールを知らないだけで、ルールの揚げ足取りをして、自分には力があると錯覚していたりさえする。



 団塊の世代はそれ以前の世代に育てられた。団塊の世代は団塊ジュニアを育てた。団塊ジュニアはいじめ世代を育てた。




 こういった距離感で時代を見れば、これから定年となる団塊の世代が何をやるべきか見えて来るが、当のご本人達は、気づいるのだろうか?








 団塊か何か知らないが、ゆっくり落ち着いている場合ではない。やるべき事はまだちゃんと残されている。定年後の宿題という形で




神戸いじめ自殺事件

2007-09-26 01:36:34 | 社会・経済
 いじめによって自殺に追い込まれた高校生、いじめた同級生が逮捕されて教育現場は大混乱の様相。

 当初、この高校から発表された「いじめの事実は無い」という内容に怒りを覚えたが、次第に事の重大さが分かってきたのか、学校長を始め非を認めて、いまは対応に追われている。

 ニュースでは学校名が出ては居ないが、今回の事件が起こったのは神戸市須磨区の滝川高校である。地元でももちろん県下でも知られた高校。既にこの学校のHPには学校長名による謝罪が発表されている。

 
 学校側としては、事実確認の際、生徒を一方的に追求するのも難しく、どうしても希望的観測で見たいだろうし、見てしまうのはしかたないと思うが、現実に起こったことを正面から受け止めれば、そんなことは言ってられない筈である。こういう時こそ先生は父兄と合意のもとに相当の覚悟をもってしっかり究明しなければならない。

 死をもってでしか訴えられなかった生徒の気持を、関係者は真っ正面から逃げずに受け止めるべきである。

 いじめた生徒にしては、事の重大性はまだ理解できていないかもしれないが、それでは駄目である。いじめた子どもの親たちは、すべてのことをなげうってでも自分の子どもに分からせなければならない。


 「自分はそんなつもりは無かった、自殺するほどの大したことをやってない」などと言おうものなら、繰り返し同じ事をやる可能性は500%以上あると考えなければならない。


 「やったことの大小ではないのだ。」ということを親は子どもに教えなければならない。以前にも書いたが、「10円のガムを万引きしただけ」という感覚では、駄目なのだ。どんな些細なことでも、犯罪は犯罪。やってはいけないことは絶対にやってはいけないと教えなければならない。





 理屈ではない、条理である。モーセの十戒の時代から語られ続けている条理である。


 
 何度でも繰り返し繰り返し教えなければならないものとして、親は子どもに教える責任がある。


 良い学校へ行かせて、良い大学、良い企業に入ることを教えるよりも、もっともっと大切な話である。




 繰り返されるいじめ。




 いじめた側の親、いじめられた側の親、そして学校内で生徒の様子を見ている教師それぞれがもっと子ども達の様子をしっかり見られないものか?


 

 親にそういう気持の余裕が無ければ、強制的にでもそういう時間を作るべきではないか?




 親と子の間の会話が出来ないのに、先生に生徒の変化を見て欲しいというのは親の怠慢である。  



 「いじめ」は親とのコミュニケーション不足が原因だといったら、それをどれほど素直に受け入れられる親がいるだろうか?




 いじめをなくすには、もしかしたら、そういう所からスタートしなければいけない気がする。




ことなかれと思われてもしかたない神村学園

2007-09-16 10:11:52 | スポーツ
 鹿児島県の神村学園高等部サッカー部の部長による暴力事件が報じられている。どういう規定があるのか分からないが、テレビのニュースなどでは、28才の教諭としか報じられていない。

 もう、インターネットの時代だから、当然だがちょっとググってみればすぐに名前はでる。辻慎介という人物。東福岡出身だそうだ。

 神村学園サッカー部紹介のHPからは既に名前が消されている。すばやい対応だが、でも暴力事件を起こした教諭を、依願退職させるのは学園の対応としてどうしたものか?

 保護者も、「暴行」として訴えても良かったのではないか?





 スポーツを中心にいわゆる「体罰論議」があるが、こういうことを放置するから「体罰」なのか「指導」なのか曖昧なままになる。



 「頭の中が真っ白」という教諭のことばが本当なのかどうか分からないが、保護者から預かっている子ともに対して、「自分のプレッシャーのはけ口」のような形で暴力をふるうというのは、依願退職で済ませて良いはずがない。


 こういう教師には「まちがったことをした」ということをシッカリ認識させないといけない。


 たった10円の品物でも万引きは万引き。金額の大小ではないというのは常識である。だから親というのは、子どもがどれほど悪気が無くても、店へ連れて行き、その店に行き、発覚していようが居まいが、きちんと謝り、子どもには「これは犯罪」であること、やってはいけないことを認識させる。


 この教諭のやったことをこういう形で終わらせるのは、「本人も反省しているし、事情もあるから」といって「犯罪」であることを本人に分からせないままにしているのと同じである。





 この学校長もしっかりとした対応をすべきではないか?サッカーの名門だか何だかしらないが、はっきりいって「基本を教えられない」学校だということがよく分かる。



 こういうののケジメというのではないか?




 まるで子どものような教諭と学校側のことなかれ主義のような対応は、大事にしたくない、なるべく避けて通りたいという「優等生」主義的な側面が伺われる。



 「優等生」とはいけないことをしたときにごまかしても良いとされる「特待生」の事か?それとも当たり前に悪いことをしたら「責任を取る」ことができる、「正直者」の事か?


 神村学園、答えられますか?