18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

ドライブと言う楽しみが奪われたら…

2022-04-14 14:29:00 | 
目の病気になって改めて視力と言うものが自分の生活に対してなんだかんだと重要なんだと思い知らされてます。

なんらかの病気や障害によって視力が弱っていたり視力が失われている人の生活がどれほど不便か、たかだか片目を患っただけなのに思い知らされている。

車の運転は出来なくもないが、慣れてない視野に事故でも起こしたらと今は控えている。

まだまだ免許返納を周囲から言われる事はないが、もし返納してしまって車を運転することがなくなったら、いままで気楽に出かけていた所にはもう行けないんだなと思ったりもしている。

そんな事態に備えて、車のない生活を疑似体験することになっているが、車がないと相当行動範囲が制限されてしまう。


車がないこと一つでこんな思いを抱くなど全く贅沢な体になったもんだ。


いづれ免許は変更しなければならなくなるだろうけど、どう備えるかもう少し考える時間はありそうだ。








2016-10-01 09:14:00 | 
心に刺さった棘

誰かがさした棘、自分がさした棘

抜けないままで、ズキズキ痛みを伝える

ほんのほんの小さな棘

それが、体の中心から、指先まで痛みをじんじんと伝える

昨日、おとといの忙しさだけが痛みを忘れさせてくれる

明日、あさっての空は痛みを思い出させるだろう

素直で痛い気持ちが、棘の存在を大きくする

棘の痛み

小さくなったとしても、決して消えない



あの日 小保方晴子 マスコミという暴力の実例

2016-03-27 14:42:00 | 
「あの日」を読んだ。

元理研の研究員である小保方晴子氏の一連の騒動二関する手記である。

この本を読んで感じた事を記す。決して本書の感想文ではない。

まず、この本を読みもせずに批判しているテレビコメンテーターもいる様だが、そう言う連中は一時が万事その程度の知識しか持ち合わせていない程度の低い連中である。
テレビがこういう連中を使い続けるというのは、本来なら報道機関の自殺行為に等しいが、残念ながら未曾有のテレビ不況である。無責任であっても視聴率がとれるコメンテーターを使うのがいまのテレビマスコミである。これはしっかり覚えておくべきである。

一般的に言っても、事実を客観的に調べることはとても難しいと言う事と、事実の確認には最新の注意を払わなければならないと言うことは間違いがない。
だから、単なる報道を聞いただけで、ロクに勉強しないコメンテーターのコメントを何の責任感もなく、ダダ流しにするテレビマスコミには注意が必要である。

この本は、たった一人、その当事者である小保方晴子氏が、自ら事の真相をそのままつづったものであり、身の潔白を証明する目的でもなんでもない本である。この本を読んでもなお「小保方氏は他人に責任を転嫁しようとしている」とコメントしている連中は、明らかに国語能力と知力に欠ける連中だといえる。この本を読む力がない連中だと言い切っていい。

人生の中で、物事を客観的に伝える難しさを経験したことがないと、平気で「責任転嫁している」というコメントができるものだが。それ相応の勉強をしたことがある連中なら、客観事実の証明を文書にする際に、憶測を排除し、誤謬の可能性に対しても十分な配慮をすることの難しさがわかるはずである。

くその役にも立たない2流3流大学を出て、せいぜい修士程度の論文作成能力しかないのであれば、仕方がないが、小保方氏の文章は必ず、一般論を置き、自分のおかれた特殊性を並列していることに気づかないとしたらこれはもはや、小保方氏批判依然に知能指数の問題ではなかろうかと思ってしまう。


まず本をよく読め。バイアスなく理解しろ。議論はそれからだ。



次に、本書から理解したことは、STAP細胞の研究はまず小保方氏単独のものによるものではないと言うこと。これは重要な点である。マスコミはこれをきちんと伝えていない。

また小保方氏には論文作成に脇の甘さがあったにせよ、ハーバードなりでも研究参加できる基本的な研究経験を持ち合わせていたこと、STAP研究の動機、きっかけがきわめて自然に一研究者として持っていた事。本来やりたかった研究がSTAPのあとに控えていたこと。これらも彼女の言いたいことを支える重要なファクターである。

本書内では彼女の研究生活のほんの一部が記述されているだけだが、おおよそ彼女自身が名誉欲にかられる様な人物では無いことがわかる。研究者としてもまだまだ経験が足りないことは明らかであり、そのやり取りを見ていると名誉欲以前に、一研究者としての未熟さを恥じていることが多々見受けられる。STAPの事件が報道された時、「彼女の動機は何か?」と色々考えたが思い当たらなかった。30代の若手女性研究者が、どんな欲望でどんな動機でSTAPをでっちあげなければならなかったのか? 研究者の30歳はひよっこレベルである。50代、60代になってようやくまともに扱ってもらえると考えるべきで、30代で野心、野望、名誉というのは研究者の常識としてありえない。身の回りに研究者がおおく居た時期があるが、多くの人たちは身の程を知っている。研究者とはそんな世界である。
しかし、マスコミは一切そこに切り込まない。動機はなにか?という特集も組まない。不幸にも小保方氏はマスコミの格好の獲物になってしまったのである。


寧ろ、動機は明らかに若山氏のほうにあるはずだ。かれは自らを安全な場所におくために研究の責任者でありながら、それをうまく隠蔽し小保方氏批判にまわり自分にとって都合のよい偽情報をマスコミに流し続けたのだから。

本書でも語られているが、マスコミの集中砲火はもはや社会全体が小保方氏をリンチにかけたと言っていいというのが実際であろう。
かの報道の異常さから考えても、マスコミの関心は小保方氏の糾弾だったのは間違いない。糾弾してマスコミは何を得たかったのか?

「真実を求めていたのです」なんてきれいごとは通用しない。

その証拠に、未だにSTAPの真実を追いかけているマスコミはどれほどいるのかが表しているではないか? なぜ若山氏へ取材しない? なぜ小保方氏の動機を検証しない? それをするとこれまでのマスコミ報道との整合性がほころびるからだろう。

かれらの興味は、虫も殺さぬ顔をした、女性研究員がスキャンダラスな事件の当事者という視聴率や発行部数の為の格好のネタでしかなかったのだ。

マスコミはこの本を見て、自らを批判せずに本書を紹介できずにいる。自身の批判ができないマスコミの何が信じられよう。


本書の感想はいろいろあろう。


しかし、言えることは、マスコミの報道は「小保方氏糾弾が目的」だった。
なんら真実を求めてもいないし、報じてもいない。
真実を知りたいなら少なくとも本人の著したものを読むべきである。
残念ながら、現在は小保方氏の著書しかない。若山氏が言及した著書がでることを願う。

またSTAPに関連して小保方氏を批判の的として追求しつづけたTBSの記者 NHKの取材連中は、自らの手で再取材をして検証すべきだろう。結局偏った報道を続けた記者やマスコミは「どの面下げて」という批判に耐えられないから、きっと無言を通すだろうが、かれらが行った小保方批判はそんなレベルのものではない。

人を追いつめて何が楽しい?


マスコミのエゴ、記者のエゴ、誤報道でもきちんと修正しないいいかげんなマスコミの姿勢が本書により明らかになった。


小保方氏本人は、マスコミ批判をするつもりもないのだろうが、マスコミは必ず本書を手に取り自らの姿勢をただすべきである。


政府批判も所詮批判キャンペーン。なんら信念を感じないということと、今回の小保方氏批判とは同じものが流れているはずである。


インターネットで騒いだ連中も、マスコミで無責任コメントを繰り返した連中も同類である。

醜い、どすぐろい醜悪な連中である。





神戸新聞の100日

2016-01-24 12:35:00 | 
阪神淡路大震災から21年が過ぎ、東日本大震災から5年目を迎えようとしている。
そんな中で改めて「神戸新聞の100日」を読み返す。

神戸新聞の記者たちの行動、苦悩、神戸新聞社が命がけで新聞発行の為に奔走した記録でつづられた本文は、人と人の繋がり、人生、家族といったものに対する真実であり問いかけである。

震災のさなかで神戸の街の人たちが、その時どう動いたか、どう感じたか例え僅かでも知る事は大きい。

淡々と事実を伝えるだけの文章が、真実をそのまま伝えてくれている。

被災者が被災者として声を上げること、何が必要なのか助けを求めることがいかに重要か。
無常にも救助にも優先順位があること。
だれもその時の行動を非難できないこと。

東南海地震などの発生確率が上がっているが、果たしてどれくらいの人たちが、被災地の現実を積極的に知ろうとしているだろうか?

東日本大震災が発生した日、自分自身は六本木にいた。自宅のある江戸川まで徒歩で帰った。
気になったのは、阪神淡路のときのような橋や高速道路の倒壊である。
橋が落ちていたら、帰宅できない。
地盤のゆるみからくる液状化も、海抜の低い地域故の浸水なども心配だった。
長い長い距離だったが、急ぎ足で帰宅して。

途中、都内の公共交通機関が止まるなか、多くの人たちが、しゃべりながら歩いていた。
すれ違い様に聞こえたのは、普段のおしゃべりだった。


「知らないって怖い」


とそう思った。

神戸の震災を知っていれば、交通機関の寸断がどういう意味を持っているのかすぐにわかる。


途中、川が下流から上流に向けて流れているのを眺めていた。

なぜか、その時に近くを歩いていた会社員の男性と言葉を交わした。

「どちらまで?」
「江戸川です」
「私は、川越なんですけど、帰れないので会社に戻ります」
「会社はどちらですか?」
「荒川です」
「それでも結構ありますね」
「川越より近いですから」

その男性は黙々と先を歩いて行った。


みんながみんな、意識が低いわけではないが、東京都の1000万人以上の人たちが、
阪神淡路のような地震に見舞われたら一体だれがどうそれを報じ、助けるのだろうか?

そのことをどれくらいの間、報じ続けるのだろうか?
首都圏だから重要なのか?
人命には差はない、生活にも差はない、むしろ防災は整っているはずだから被害は
少ないかもしれない。

しかし・・・阪神淡路も、「関西には大きな地震は来ない」という過信があったではないか?




震災のあった地に居ないと伝わらない部分も多いはずだが、是非一度手にとって読んでみるべきである。







フォルトゥナの瞳

2016-01-11 20:53:00 | 
百田さんの小説はまだ2冊しか読んでいなかったが、3冊目として手にしたのがこの「フォルトゥナの瞳」

主人公が、ある時人の体の一部が透明にすけてみえてしまうことに気付く。それは特別な能力で実はそれは、その人間の死期が近づいていることを伝えているのである。

この能力を持て余しながらも、その能力の意味に気付いてから主人公は「見て見ぬふり」を決め込むことができずさまざまな事に絡んでゆく。


主人公の生い立ち、周囲の登場人物などが無駄なく物語のキーになり、構成されまた主人公の心の葛藤がこれでもかと繰り返される様は、小説の中盤からクライマックスにかけてずっと、ハラハラさせられてスピーディーに展開するマラソンの様相である。

ときおり胸の苦しみも感じ、このあとこの登場人物はどうなるのかとハラハラさせられる物語である。




さて、この本では、人間の選択と良心、人間はどこまで自分を優先して生きていいのか?について問うている。

死期が迫っている人間の運命を変え、誰かの命を救うと、自分自身の命を削ることになるとしても、そのどこの誰ともわからない人を救えるだろうか? 

自分の選択がだれかの命を左右する。無関心でいることも、関心を寄せて関わることも選択で
きる。自分が何もしないとその人は死ぬ、自分が何かをすれば死なずに済むまさに他人の命が自らの手の中にある状態なのだ。そんな大それた力をもった主人公は、愛する人を見つけ、そして物語のクライマックスに進む。



こんな重たいテーマを扱いながらも、このスピード感で展開させていることに本当に感心する。





フォルトゥナの瞳:百田尚樹著

おすすめです。


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