18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

世界に一つだけの花

2006-05-29 20:35:17 | 社会・経済
 もちろんSMAPが歌って大ヒットした曲。この歌が流行ったときに多くの大人達、特に経済人達は”あまったれた”歌だと言ったことを思い出した。

 ちょうどTokyoFMを聴いているとこの曲が流れてきた。槇原敬之バージョンで聴くのもなかなかのもの。この曲を聴く度に、”甘ったれた歌”と評した経済評論家だったか、実業家だったかを思い出す。

 でも振り返ってほしいのだ、いまの世の中、経済はバブル期並に回復し、銀行も軒並み最高業績になった今、豊かで富んだ生活をしているはずのこの日本でおこっている事。

 自分自身に価値観を見いだせず、負け組扱いをされて、引きこもり、定職にも就かず、そして弱い物虐めに手を染める。

 このゆがんだ現実は、単に一部の人たちだけが創った物ではないって言うことを本気になってわからなければならない。

 例えばごく一握りの”成功者”。それに群がる成功者崇拝者たち。崇拝者達は自らの存在を、成功者と同等、つまり仲間になったつもりになって、そうでない、仲間でない人たちを卑下した目で見る。

 例えば、学歴も同じだ。会社も同じ。良い会社や良い大学に入ったら、どっかでエリート意識が芽生え、片方でそうでない連中を、排他的に扱う。そして、一方的な論理で、「自分たちは、死ぬほど勉強して今の地位を手に入れた、手に入れられないヤツはだから能力が無いのだ」と決めつけるとは呆れたというか、人間がなんと狭いことだろう。

 人ぞれぞれに価値感があってあたりまえ、人それぞれに個性があって当たり前、肉体的なハンディキャップを持つ人もいれば、精神的にハンディを持っている人もいる。

 わたしには、ハンディは無いと思っているひとがいたとしたら、それは傲慢そのもの。ハンディが無い人など絶対に居ない。それはその人が自分のハンディに気づいていないという、大きなハンディがあることを表している。

 そんな風に、多かれ少なかれ、人それぞれに違いを持っているにもかかわらず、同じであるように教育されるなんて、”んなアホな!”と文句も言いたくなる。

 文部科学省がどれだけ偉いのか、教育審議会がどれほどのものなのか、各都道府県の教育委員会なんて如何にも名前だけみれば、すごくて立派で、間違いなさそうだけども、結局おっちゃん達の集まりでしかない。一人一人の個性を大切にするよりも、画一であることを標榜しているような考えしかできない、個性を認める、つまり個性を立派なアイデンティティーとして認めることさえできない、人たちの集団。もちろん、”存在目的”自体の問題もあるが、自ら変えることができない集団なのだから、偉くもなんともない。自己改革や自己変革できない人たちに、教育だとかをがたがた言ってほしく無い。

 話を戻すと、結局”あまったれソング”だとか言ったヤツも、結局画一的な見方しかできないかわいそうな、無能なヤツと言っていいのだ。

 人の個性を認め、それぞれの中で持つ厳しさややり方をしっかり持って、前に進むことを認めることができれば、この世の中どんなに住みよくなるだろう。

 何かが少々できないから、おちこぼれだとか、無能だとかとしか言えない世の中に幸せなど無い。そんな世の中が”良い”とした奴らこそ無能だ。画一性の結果がもたらした良い面しか認められない無能者。

 こうじゃなきゃいけない、他人と同じじゃなきゃ安心できない。そんな世の中のどこがいいの?どこが子育てに良い環境と言えるの?だれがそんな世の中を作ってしまったの?
中途半端な、いまの成功者もどき達がつくっただけの価値観や世界観で、自分の大切な人生をむちゃくちゃにされてたまるか!と言いたい。

 世界に一つだけの花は甘ったれソングではない。画一的な価値観しか持っていない、アホ連中をあぶり出すリトマス試験紙。あるいは踏み絵だ。

 絶対的な存在ではない人間が作った世の中に絶対なんて生まれるはずがない。それが製品であっても、価値観であっても。





カメラ

2006-05-25 22:03:12 | 風景
 とうとうキャノンも事実上フィルム式カメラの開発を凍結するというニュースが報じられた。やはり寂しく残念だ。

 長年フィルム式カメラを使い続けてきた。中学生の時に、友達と一緒に鉄道写真を撮りに行くことを父に話したときに、中古のミノルタSR-T101を買ってもらったのが最初だ。ミノルタSR-T101といえば、知る人ぞ知るミノルタのベストセラー機だ。

 解放測光、フォーカルプレーンシャッター、1/8回転マウントなど当時としては画期的な機能満載のカメラだった。ミノルタはそんなふうにじっくり煮詰めて良い物を世に送り出す、派手さは無いが良いメーカーだった。

 高校生になると、友人が写真部に居たこともあってアルバイトで稼いだお金でモノクロ写真の現像、焼き付け用具を買ったり、もらったりして写真を撮っては焼き付けていた。安いフィルムを買うために当時カメラのナニワまで出かけて200ft巻きだったかの缶に入った35ミリフィルムを友人と買っては、パトローネに巻き直していた。

 大阪の街中や京都まで出かけて撮影しに歩いたこともあった。フィルムの感度や粒子の粗さ、印画紙のタイプの違いを友達と議論しながら楽しんだものだった。

 そんな風にフィルムカメラの感覚になれているからか、どうしてもデジタルカメラには、フィルムカメラのような、写真の質感が感じられない。

 もしかしたらデジタルカメラは、きれいに写りすぎるのかも知れない。デジタル処理ということはつまり人為的な補正である。それがコンピュータを使って行われるからだれが撮っても同じような感じになるし、だれが失敗しても同じような失敗にしかならないように思える。

 本来なら、誰が撮ってもきれいに写るというのは良いことの筈なのだけども、自分自身全くそれに喜びを感じないし、ちっとも良いとも思えない。

 プリクラで友達と一緒に、彼や彼女と一緒に写真を撮る気軽さももちろんデジタル写真の良いところ。カメラ付携帯で簡単に写真を撮って旅先の記録を残したり、メールするのもデジタルカメラの良いところ。気軽に写真が撮れるって良いことの筈なのだが何とも言えない不満が残る。

 カメラに対する感覚の違いといえばそれまでだけども、なぜかもう一つ満足できずに居る。

 この間のゴールデンウィークに奈良の明日香村近辺に出かけたのだが、その時実は本当に久しぶりにフィルムカメラを持って行った。やっぱり感覚としてフィルムカメラの方がしっくりするのは、人間が古いせいかもしれないけども、まだまだフィルムカメラにはがんばってほしいと思っている。

 個人的には、ニコンのレンズは、極めて優等生的な写り、キャノンはやや堅め、くっきり感が強い。ミノルタはややソフトという印象である。それらのレンズの特性にフィルムの種類が加わると表現の種類がさらに増えるし、被写体を狙ったときの光量、絞りとシャッタースピード、被写界深度の深さなどで生まれるボケ味など、本当に表現のための要素がぎっしり詰まった感じなのだ。きっとそういうのを求めている部分があるのだろう。

 十分に成熟したデジタル一眼レフカメラを手にしたわけではないから、これらの感覚がどこまで得られるのかわからないが、まだまだ本音ではフィルムカメラを手放したく無いのが正直なところである。

 やっぱりいつの日かフィルムカメラも、フィルムも印画紙も無くなってしまうのだろうか・・・


村八分

2006-05-16 19:11:36 | 社会・経済
 ヤフーの読売新聞記事によると、山口組の歴代組長の法要が、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で行われたことに対して、「今後の法要は断る」としたということが報じられた。

 いわゆる”ヤクザ”なんだから、そうなっても当然とも言えるが、いやいや、そもそも宗教は人を選んで良いのか?という疑問がその前に湧く。

 村八分ということばがあるように、普段は一切のつきあいをしないのだが、火事と、葬式だけは別、つまり十分のうち八分はつきあわないけども、この2つ、の二分だけはどれほど、付合わなくても、例外というものだ。

 昔からある、こころ豊かに生きる知恵でもある。

今回の法要とそれに絡む全国の暴力団の上納金、そもそも暴力団という存在そのものを問題視している警察の存在と、また驚いたことに約30年前に全日本仏教会(というのがある!)が暴力団の排除を決めていたから、延暦寺としても「今後は断る」としか言いようが無かったのだろう。

 天台宗やその成り立ちの詳細は天台宗のホームページを参照してもらいたいが、誤解を恐れずに言えば、大乗仏教である天台宗の総本山として比叡山延暦寺が今回の法要を受け入れた事は非難出来ないと思うのだがどうだろう?もちろん日本仏教会での取り決めを破ったのは問題であるが・・・。

 また今後受け入れないと意思表明したが、本当にそれで良いのだろうか?という疑問も湧く。改めて仏教のあり方を問いたい。



選外

2006-05-15 22:10:27 | 
 サッカーワールドカップ2006ドイツ大会の日本代表発表が華々しく行われた。この華々しさと同じく、選ばれた23人は身の引き締まる思いを胸に秘めながらも、やはりこの為にやってきた、それが認められたうれしさでいっぱいである。

 しかし、一方選外になった選手にとっては、その発表が華々しくまた日本中で注目されればされる程に、なんとも説明できない重い気持ちが胸にずっしりとその存在を本人にいやがおうでも認識させることになったに違いない。

 選に漏れる。選ばれない。そういう経験は多かれ少なかれ殆どの人たちが経験済みの筈である。

 運動会などでのリレーの選手、水泳大会の学校代表、クラブ活動のレギュラーポジション。例えそれが学校の授業や行事であっても、選外となることはやはり悔しい。

 会社の企画の提案、お客様へのプレゼンテーション、プロジェクトチーム参加など、仕事のシーンでも同じである。ましてや、降格、左遷となると”ダメ”のレッテルを貼られたのと全く同じである。”おまえには用はない”と言われると、それまでが真剣であれば、あるほど、すべてを犠牲にして打ち込んできた程、そのひと言は恐ろしいほどにこころに重い何かを生んでしまう。

 今回代表に漏れた選手にもきっと同じように、本当は一人にしておいてほしいと思うほど、大きく落胆した人がいたに違いない。

 選外になって落胆している人に安易にかける言葉はない。ただただ本人が、自らの気持ちを奮い立たせるまで待つしかない。

 多くのスポーツ選手や、多くの障害や苦難を乗り越えて成功を収めた先達達の姿や、けっして光を失わなかったその強い気持ちを、何かをきっかけにして自分のエネルギーに変えるまで待つしかないのだ。

 だから腫れ物にさわるような態度や接し方は不要である。事実を事実として普通に振る舞う。そして本人が動き出しやすいようにしてあげるのが一番である。


 選外になったとたんに、進むべき道を見失い、自信喪失におちいり、なにをやるにもやる気が出ないようになるかもしれない。何もかも捨て去りたい気持ちになるかも知れない。自分の人生の選択を恨むかもしれない。

 しかし、どれだけ落ち込んでも、落胆しても、そこから動き出さなければ何も変らない。どれほど後悔しても、自分の選んだ道を過去にもどることはできない。

 それに心の底から気づいて、動き出して、初めて光が射し始めるのだ。代表選手達だけではなく、すべての一時”選外”になった老若男女すべてに、そして自分自身にも、そう言いたい。





やったね!世界記録

2006-05-15 00:16:50 | スポーツ
 ラグビーという日本では結構マイナーな扱いを受けているスポーツで、大畑選手が世界記録達成の快挙!なんとテストマッチで通算トライ数65を達成した!

 こういうのは素直に喜ばなきゃねー

 テストマッチとは国の代表同士の試合のこと。日本代表であり続けることも必要なので大変な記録!

 場所がら今回のグルジア戦は見に行けなかったけども、近くでラグビーが開催されるときは結構出かけるようにしている。テレビで見るほうがずっと楽なのはわかっているけども、やっぱりスポーツはライブが最高。

 この大畑選手、年と共にバックスとしてのセンスが磨かれて、たくさんの経験を積んでここまで来ているのはもちろん、何しろ走ったら速い!トップスピードに乗るまでが短い上に、加速するもんだから、試合を見ていてもボールをもった大畑選手に、素手の選手が追いつかないことが何度もある。

 ラグビーはOne for all, all for one.という精神が根底にあるから、彼の65トライはそれこそall for 65triesなのだろうが、彼の俊足こそ数を押し上げていることになっているのも誰も否定はしないだろう。まだまだトライ数は伸びそうなので楽しみである。

 さて、次回この大畑選手が見られるのは、東京秩父宮ラグビー場で6月11日(日)に開催される、今回とおなじリポビタンDチャレンジ2006の対イタリア戦である。