18年にもなりますか

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前原さんすべての責任は自分にあると・・・

2006-02-28 23:31:10 | 風景
 結局民主党の「ホリエモンメール」はどうやら偽物という事で、民主党が全面的に謝罪しておわりそうだが、この一連の報道の中で「メールは極めて信憑性が高い、自分がすべての責任を持っている」と言ってたのは他ならぬ前原民主党代表だった。鳩山さんの慰留をしている場合ではないのではないか?

 この一件。今後のすべての民主党の提示する「証拠らしい代物」に対してすべてその裏付けと信憑性の高さを証明しないといけなくなったことをわかっているのだろうか?つまり民主党は、一人の議員が「個人的に真実」と思ったものをそのまま「国会」で与党を追求する材料として使うような政党だということをやってしまった。

 いまや日本のすべての人たちが、政治家って全面的に信頼しうるものとして観ていないからまあいいじゃないか、何をいまさら、という意見もあるが、これで良いはずがない。

 例えば、一連の三菱ふそうトラックのリコール事件も。過去からいままでの隠蔽体質そのものが問われているのであって、リコールが取りざたされたわけではない。トヨタもホンダも日産もスバルもみんなリコールを出している。大量生産される車の宿命でもある。問題なのは、そういうリコールを認めなかった。真実を認めて自らをたださなかったことなのだ。結局体質が疑われてしまっているのだ。

 今回の民主党の謝罪は。さて、どうだろうか?特に前原代表になってからの民主党の”幼稚さ”加減はちょっとひどいと思っていたら、結局こういう結果になってしまった。これは証拠がどうこう(と性懲りもなく永田議員が言っているのも信じられないが)、という問題ではなくて、民主党のいい加減さが取りざたされているのだ。これがわかってないのなら、本当に永田議員は辞職すべきだとおもう。


 民主党も本格的に政権を獲りたいのならば、メールがどうだとかいった従来の野党がやってきた古い戦術(と呼べるものとは決して思えないが)、は一切捨ててまじめに常に如何にあるべきかをもっともっと事実に基づいて国民に知らしめるべきなのではないか?そういういままでの野党がやらなかったスタイルで進めることが信頼を得る最大の近道なはず。自民党がいかにダメな、お金で魂を売るような政党といったところで、民主党がなにも持っていなければ、それなりの説得できる世論をもっていなければそれは、「おまえのかあちゃんデベソ」といってるだけにしかすぎない。こう考えればいかに幼稚なのかがわかる。

野党が選挙期間だけ政策論争をしてもそれでは絶対に勝てない。なぜなら、実際に与党は選挙と選挙の間ずっと政策を敷いて国政を動かしているのだから。ましてやテレビの放映も、ホームページも選挙期間中は制限されるのであればなおさらである。

 選挙があろうが、なかろうが、常に、地に足のついた政策を展開し、民主党が考える政策はどこがどういいのか?なにがよくて何が難しいのか?を訴えかけないと政権をとるなんて無理なのだ。みんなで相手の欠点を突くことに時間を使っていてはダメなのだ。それは政治をやる人の仕事ではない。

 普段、売る気が全然無いのに、バーゲンの期間だけ人気のある店並にか、あるいはそれ以上に売上を伸ばす為に「うちの商品のほうがいいのだ」とその期間中だけ言ってもそんなのはうまく行くはずがない。例え売上が伸びてもそれは一時的なはずみと考えるべきだ。普段から積み上げた信頼がやっぱりモノをいうのだ。

 いまいちど、きちんと政権をとるのだというのなら、記録に残る形で、国をどうしたいのかどうあるべきかを恐れないで掲げるべきだ。野党が政権を獲るというのはそういうものだと心すべきだ。





大丈夫かいな民主党

2006-02-21 01:12:30 | 社会・経済
 本人不在の状態で、ホリエモンメールが国会でも民主党と自民党の攻防で話題になっているが、少し前、テレビで民主党前原代表と若手議員が、小泉首相に対して”天下りした元官僚による談合疑惑”をどのように追求するのかを取材した番組が放映されていた。

 チャートを使って、わかりやすく説明して、小泉首相に詰め寄ろうという作戦。チャートを使うだとかなんていうのを時間をかけて現役の議員さんが打ち合わせているという風景に違和感を感じながら番組を観ていた。

 作戦は、成功し、小泉首相自らが、未だに天下り談合が行われている事実について、「事実があれば改善を徹底したい。」と認めた。

 その国会中継を見ていた民主党の若手議員達が作戦成功に喜んでいたのだが、ん?ちょっと待てと思った。結局国会ってそういうことをやるショーなのか?と言うことと、もう一つ。小泉首相が素直に認めたことを喜んでいる点である。

 今回のホリエモンメールもそうなのだが、結局国会中継は、自民対民主、与党対野党、水戸黄門と悪徳代官、ウルトラマンとバルタン星人の図式を見せるショーなのか?選挙期間中は、我が党はどういうことをやってきたのかを必死にアピールしたり、マニフェストが大事だとか言っているが、大切な政策論争の時間をホリエモンメールみたいなものでつぶしてしまっていて本当にいいの?と言いたくなる。

 どっかのテレビ局で、一度やってもらいたい。政策に関係ないテーマを貴重な国会や予算委員会で取り上げ、無駄な時間を使った党別の時間集計をやってみる。そして選挙期間中に各党の党首を出演させてそれについて弁明してもらう。

「言うてることと、やっていることが違いませんか?」そんな政党が本当に効率よい小さい政府が実現できるのか?あるいは本当に無駄なものをどんどんとカットできるのか?


また、もう一つの疑問の、小泉首相の答弁で喜んでいた議員。のらりくらりと明言せずに、嘘を連発するようであれば、追求するのも良いかも知れないが、素直に認めた小泉首相の姿をテレビ中継で観て喜んでいるというのは、程度が低すぎる。

何も民主党が嫌いというわけではないが、テレビで報道された民主党の”風景”があまりにも幼稚である。政権を取っていない政党はそれなりに時間があっていろいろと画策したいのだろうけども、税金つかってなにしてるの?と思ってしまう。

ちょっと成績や学歴に自信があって、大したことの無いプライドを持っている者が、政権政党相手に、”へへっ、してやったり”と喜んでいるなんとも今後に期待が”もてない”姿をさらしただけだ。

民主党。もっとしっかりしろよ。テレビで取材されてるんだから。前原代表も、そんなのでよろこんでいてはダメ。どれだけ自分が日本や国民の事を思っているといったところで、まったく誰も信用しない。周囲の目は驚くほど自分の事を見通しているのだから。


 






老若男女

2006-02-20 00:35:55 | 風景
 ひどいニュースが重なっている。景気も回復の兆しを見せている様子だし、トリノオリンピックやドイツワールドカップがあったりと、元気がでそうなニュースも多いのに。なぜなんだろう?

 滋賀県の幼稚園児刺殺事件、宮城県での刺殺事件などを含めてあまりにも簡単に”刺殺”が繰り返されている。

 この日記でも書いたが、神戸の少年Aの事件や、九州のバスジャック事件、つい最近判決が出た宮崎勤事件などの事件の時は、”異常性”が取りざたされていたがいまや少年ではなく”大人や同じ年の子供を持つ女性”にまでその異常性が広がっているように思える。

 なぜそんな簡単に人を刺せるのだろうか?

 どこか”こうあらねばならない”といった社会の暗黙の認識、あるいは強制が人を知らず知らずのうちに抑圧された状況に追いやっているのだろうか?
 それとも、自分と同じ価値観でないと、力ずくで排除するという考え方が一般化してきたのだろうか?
 もしかしたら、”我慢・辛抱・忍耐”なんていう言葉をどこかに置き忘れて、自分の運や人生を恨んでいて、その憂さ晴らしで人を刺すのだろうか?

 モーセの十戒という言葉は殆どの人が聞いたことがあるだろう。必ずしも宗教的な意味ではなく、当たり前の十の約束だ。

1.ヤハウェが唯一の神である
2.偶像を作ってはならない
3.神の名をいたずらに取り上げてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.偽証してはいけないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと
(プロテスタントの主な宗派における数え方による)
  WikiPediaより

この5から10。何千年も前から言い続けられていることだということを2つの面から改めてここに記したい。

 1つは、何千年も言い続けないといけないぐらい人間はこれらの事を守れない。
 もう1つは、人間が社会で生きてゆく限り、これらのことはやっぱり守らなければならない。

 老若男女問わず改めてきちんと認識すべきだし、堂々と胸をはって守るべき事だと思う。



ホリエモンという男

2006-02-08 01:40:03 | 
 「稼ぐが勝ち」という著書を書いておきながら、「稼いでなかった」ことがわかった今となっては、彼の青臭さしか印象にのこらない。稼ぐってそういうことをいうの?と敢えて訊ねたい。

 彼のやっていることが仮に正しくて社会的にも問題がないとしても、それは、所詮営業外収支で稼いでいるだけ。つまりバブルなのだ。

 バブル全盛期のころは、社内に眠っている預貯金・現金を財テク(懐かしい言葉だ(;_;))を駆使して増やさないのは間抜けだと言われた。銀行も企業に本業以外の部分でもどんどん貸し付けてきた時代。本業がどっかへやられて、1日で何千万円、何億も差益がでるようなバブルな感覚でいた時代。本業で社員全員でよってたかって営業利益を何千万を稼ぐのを尻目に、財テクで何億もの利益を出していた時代。冷静に考えれば、”麻薬”の味を知ってしまったに等しい状態。それがバブルではなかったか?その後バブルがはじけて多くの企業が伝統ある事業を手放さざるを得なかったり、二度と社会の中で再生できなくなったりした例を私たちは見てきたはずだ。

 翻って、彼の財テクぶりは、えっと、ライブドアって何の会社だっけ?と思わせる程である。あげくの果てに株による収益を営業収益として付け替えたという愚挙ともなれば、ほとんど社会のルールを無視した、唯我独尊状態。そこまでやると逮捕されても仕方がない。

 子供の論理を振りかざし、大人の社会に進入してきて、さんざ暴れ回って結局ルール違反で挙げられた。かなり幼稚な図式が浮かぶ。

 「法律で決められてないから、違反じゃない!」というのもなんとなく納得出来そうなのだが、よくよく考えてみれば、法律が無いと”あたりまえな判断”ができないと言ってるようなもの。つまり”ルールが無いと、動けません”と言っているのと同じ。もしも精神的に社会的に成長したならば、本当は法律なんかなくてもいい人間関係はできるはず。

 つまり某氏は、法律ぎりぎりを突いて稼いだようだが、普通の良識ある人たちはそういうマネをしない。それは”法律がなくてもやっちゃならない事はやっちゃならいのだ”という分かり切った良識を知っているからで、それを世間では”大人”というのだ。

 未だに反省の色がない彼だが、実際にも、自分は悪いとは思っていないのだろう。つまりまだ子供だということだ。





辞める理由

2006-02-02 01:01:21 | 
 なんだかんだと言っても、人間のやることだからたまにはうまく行かないこともある。でも、それが続くとやっぱりストレスになるからやっかいだ。

 考えれば考えるほど難しいのが、”人間らしく生きること”というテーマ。結局結論は一つではないし、暫定的な答えをもって日々暮らしているのだが、なぜそんな話をするかといえば、またまた退職の話があがってきたからである。

 会社という組織は時代とともにいろいろな問題を抱えながら成長したりあるいは分散したりする。多くの人たちが集まり、仕事をする場としての会社という見方もあるし、あるいは社会の公器という考えもある。また会社のオーナーたる株主は、会社の企業としての価値があがって、投資家(株主)にリターンが帰ってくることを期待している。

 そんな会社のなかにはいろいろな人間模様がある。働く人、一人一人がそれぞれ違う事情をもっているのと同じく、仕事に対する価値観だって異なる。そういう価値観がちがう人たちが集まって一つの仕事をするのだから、いろいろあって当たり前とおもわないとやってられない。

 さて、今回の”退職希望者”は、10年間専業主婦をやって、離婚、それから生きてゆくために働き場所を探して今の会社に来た。それで今回このままでは・・・と一念発起して改めて”学校”に行き直して資格を取って、ある仕事をするのだという。

 でその彼女に、「それは、やりたかった仕事なの?」と尋ねたが、答えはNO。少々今の会社にも不満、あるいは、この社内での与えられた仕事をどれだけ全うしても、何も変らないと思ったのか、いずれにせよ、場所を変えたいという事と。なんとなく漠然とした不安が頭をよぎるのだろう。本人としてはしっかり考えた事らしいのだが、話をきいてもやっぱり何となくしっくり納得できないでいる。

 原則は、その人それぞれの人生をどうこうする立場では無いが、でも、きっとそういうきっかけでは、続かないだろうなぁと心配してしまう。よほどの事がないかぎり、ある場所にいて、そこでの仕事に対するスタンスは、別の場所でも同じようにでるものだ。会社を辞める時にいつも訊くのが”やりたいことをやるためにやめるの?”という事。もしそなら、喜んで見送る。例えそれが嘘だったとしても。でも、やりたいことの為じゃないんだったら、この会社を辞める意味は殆ど無い。学校だったら夜間だって行ける。彼女には子供が居ないから急いで帰らなきゃならない理由はない。

 そんな事もあり、まだ全く納得できていないのだが、仕方がないのでもう少しはなしをしてから見送るつもりだ。

 今の会社で何もできなくて、他のステージに行って何が出来るの?と素直に、本当に素直に自分自身の胸に手を当てて考えてみてほしい。いったい何に不満で、何がいやで、やめるのかを。

 最近の人たちは、特に、決まったことに対して抵抗することなく受け入れる様子を見せる。しかし実際は、不満に思っている。そしてある日突然やめる。なんとなく幼稚なロジックに見える。

 退職を考えている人がいたら、もう一度問うてみればいい。環境や上司や部下や周辺の出来事や決まったことを”言い訳に”して自分は悪くないという考えに陥っていないだろうかと。