18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

柴田淳

2004-10-27 02:05:47 | 音楽
最近の受験生のラジオ人気はどうなのかはわからないが、私も中学高校時代、しばらくラジオにはまった時期がある。深夜のラジオを試験勉強をし"ながらで"聴いていた。AM放送でだいたい夜の10時から、遅いときは夜中の3時ぐらいまで。大概は午前1時ぐらいまでで寝てしまうのだが、夜中の1時を過ぎたあたりからは当時の自分自身にとっては未知の時間帯へのちょっとした冒険であった。

高校を卒業してからはしばらくラジオとは縁がなくなって、次にラジオを聴いたのは結婚した当初ぐらいだ。休日の朝から昼過ぎと、夕方ぐらいにFMラジオをつけることが多かった。神戸方面に買い物に出たときなどはラジオの生放送をしているブースを見に行ったりもしたし、リクエストやレターを出したこともあった。

それからまたしばらくというか結構間が開いていま再びラジオを聴くことが増えてきた。そのラジオで印象に残ったのが、"柴田淳"というシンガーである。太陽石油が提供している、「柴田淳の月と太陽」という30分番組なのだが、土曜日のお昼前に聴くにはちょうどいい雰囲気を漂わせてくれる。

このブログで「静止画像」について書いたが、ラジオはテレビにくらべて画像がないぶん、リスナーの思いが入る余地があってなかなかの存在である。音楽とおしゃべりだけでリスナーをファンにしてしまうその魅力は一体どこにあるのだろうかと思う。ただただひたすらしゃべっている訳ではなく、ちょっとした”間”をうまく入れながら、話し手の個性をうまく出してリスナーを引きつける。大変な芸当である。

流行りのテレビ番組のように、「これでもか」と笑わせるシーンを一方的に流されてしまって、こちらの感性を踏みにじられて、なかば強制的に笑わされるというのはまっぴらごめんである。何年か前から、笑い声や「へぇー」っという歓声さえも効果音として使われている娯楽番組の、目の回るような段取りと忙しさばかりに付き合っていると、ラジオのテンポの方がここちよく感じられるというものだ。このブログを見てくださっているみなさんもぜひとも”たまには”テレビを消して、ラジオを流してみてほしい。

柴田淳の話にもどるが、最初にラジオからそのおしゃべりの声を聴いたときは、正直昔好きだった女の子の声にそっくりだったので、ちょっと気になっていたのだが、何度か続けて聞いているうちにすっかり”しばじゅん”の世界にはまってしまっているのである。楽曲もけっこうナイーブなものが多くて、アルバムも楽しませてもらっている。彼女の宣伝をするわけではないが、一度聞いてみてはいかがだろうか?「夢」「少女」「未成年」「ふたりでいた日々」「月光浴」などがおすすめである。「Chemistry」「嵐」など他のアーチストへの楽曲提供もしている。



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他の人と違うということ(3)

2004-10-22 01:40:24 | 
「他の人と違うということ」が、特に子育てでは顕著にマイナス扱いされているが、こと芸能界やショービジネスにおいては全く逆であることはあえて説明はいらないだろう。

芸能界では、「他の人と違わないと」やれ二番煎じだとかと言われてしまうし、うまく生き残るのも難しいのが現実だ。世襲制度や襲名などの伝統を持つ古典芸能の世界の代表である歌舞伎の世界でさえも「初代と二代目」を比べて違いを楽しんだりするのだ。やはり「個性」や「人と違う」ことは大変貴重なのだ。芸能界で大成功しているのは大抵、前例がない場合が殆どだ。歌手でいえば浜崎あゆみ、美空ひばり、山口百恵、もう亡くなった人も引退した人も、現役で活躍中の人も、その人と同じような2匹目をねらってデビューした人は多いが、その本人はだれにも似ていないし、だれとも違っている。

例えば、遺伝子がいわゆる有性生殖により生物を誕生させるという手法をとる前は、単純な細胞分裂により生物を増殖させる方法をとっていた。つまり単純なコピーによる増殖である。自分と同じものをもうひとつ作るといった方法だったが、それには問題があった。以前と同じもののコピーだと、環境の変化に適合できなくなった場合に、その生物は死滅することになるからだ。

極端な低温化や高温化といった自然環境の変化に適合できずに種が死滅してしまう。種は自身を遺す為に、人の叡智では考えられない方法を思いついた。 そこで"遺伝子"が知恵をしぼったかどうだかはわからないが、考え出したのが、有性生殖である。つまり雌雄それぞれから遺伝子情報を出し合って別の一つの生命を誕生させるという方法である。

 さまざまな雌雄の組み合わせやそもそも雌雄それぞれが提供する遺伝子情報のわずかな違いなどにより生まれてくる生命にはそれこそ天文学的な種類の違いが期待できるようになる。もちろん組み合わせによっては生命そのものとしてなりたたない場合があるが、そういう場合は"自然の摂理"で途中でその生命の成長をやめるメカニズムも組み込まれている。
そんな、ほんとうに"神"の存在を認めざるを得ないような、遺伝子の仕組みによって、昆虫や植物などあらゆる生命が生まれているのである。ある本によると、トンボは古生代から生き長らえてきているらしく、記憶がただしければその種類は8000種類以上もあるのだそうだ。

 こんな工夫の上で他の人と違うように生まれてくることになっている人類に、よこならびを強制したり、他の子供と同じでないと許さないなどというのは、大自然の知恵に対してあまりにもこざかしい抵抗にしか見えない。 いったい何を考えてそんなことを言ってるのか?と忠告の一つもしたくなるというものだ。ちっぽけなヒトが考えたこざかしい「みんなと同じでなければならない。」という意味のないことに強いられて、またそれが絶対守らなければならない社会のルールであるかのような錯覚に陥ると人はどうなるか?すでに社会問題になっているとおり、いわゆる"引きこもり"や"社会不適合"、"将来を悲観しての自殺や無理心中"などなどである。

 人は、他の人と違うべく生まれてくる。であるのにもかかわらず、同じになることを良しとされる。よくよく考えるべきである。ただし、だからといって短絡的に考えて、社会のルールさえ守らなくてもいいというものではない。社会のルールとはいわば自然の摂理であるから。



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いじめと安心

2004-10-20 02:40:46 | 
 いじめに関する心理的背景をいくつか書いたが、その対局にあるかのような"安心"という気持ちは、いじめと決して無縁ではない。

 心が安まると書いて安心。なぜかみんなおなじように心安まることを求めている。心安まらない日がないわけではないが、一向に安心出来る状態にはならない。いろいろと突き詰めて考えるとどうも"遺伝子"レベルの話になりそうだが、今回の"安心"もそんなアカデミックなものではない。

 この"安心"を追いかけてやまない人間は、じつは"絶対的な安心"よりも、一時しのぎでもいいし、ほんのつかの間でいいから、"安心"を味わいたがっている。それの最たるものが、先にも述べた”いじめ”である。

 近代日本に生まれると、生まれたとたんに”標準かそうでないか”のふるいにかけられて、”標準だと安心”、でそうでないと"不安”になるように何十年もかけて育てられてしまっているのだから仕方ないといえばその通り。しかしながら、この怪しげな策略にまんまとはまってしまうと、じつは”いじめる側”に立たざるを得なくなってしまうのだ。

子どもが、お互いの人間として、関係づくりをはじめる1対1の状態から、1対n(複数)の関係になってしまうとき、n側に立たないと、”おかしな奴&”;扱いされたり、”;いい子ぶってる”と言われ、n側から排除されてしまったり、1側の立場に置かれて、n側からいじめられてしまうことになるのだ。

 もともとn側でも1側でも無いのだけれど、自分の”安心”のために、n側に回って1をnの他のメンバーと一緒になっていじめるのである。いわゆる踏み絵を踏まされてしまうのだ。
n側の大将は、取り巻きや賛同者を増やすことで安心し、逆らう奴や気に入らない、どこか自分にどこかが似ていたり、それは本人の意識の働かない世界での事なのだが、どうしても認めたくない相手を見つけ、みんなで”いじめて”仲間意識の確認をして”安心”したがるのである。

 こう書くと、本当に意志の強い奴は”いじめる”なんてことはしない筈なのだ。人をいじめて安心感を得ても、時間が経過すればやっぱり不安になり、前回よりももっと露骨ないじめや無視をし始めるだけである。

 なぜ、時間の経過がより露骨ないじめを生むのかの真の理由は、別の専門家にお任せして、いま事実として言えることは、いじめる側はいじめられる側よりも”不安”で"心細い”といえるかも知れない、自らが”標準に漏れている”かもしれない不安、いつ”標準外になってしまうかもしれない”という不安、そのことを”いまさら素直に認められない”という事などが図らずともいじめを生んでしまうのである。別の見方をすると、いじめる側は”標的”にされてしまう子どものことを深層心理の部分で、“こいつには勝てない”と感じているのかもしれない。だからこそ”仲良くなる”という知恵を使って人間は生きてゆくはずなのだが、残念ながら昨今のニュースはそういう事実は伝えてはいない。

 いじめる側もいじめられる側も”お互いに不安”な心細い存在ならば、本音の部分で共感し会えるはずなのだから、なんとか仲良くなれる関係をつくれるように、本人たちも、大人を含めた周囲も考えて行くべきではないかと思う。

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いじめのきっかけ

2004-10-16 15:09:35 | 
 いじめの発生の背景はこのブログに書いたほど単純なものではないが、決して否定はできないと考えている。わかりやすく言えば、親も子も一緒になっていじめの構図の中にいる当事者なのである。計らずもいじめた側になってしまった親はもっと自分のこどものやったことに責任を感じ、親子で謝罪し償うべきである。

 全国のいじめによる痛ましい事件を一つ一つつぶさに検証してゆけば、当事者達が意識しているか、していないかに関係なく"心理"としていじめを起こす"劣等排除"や"異物排除"の価値観を持っていることに心当たりがあるはずである。

いじめ発生のメカニズムの心理的背景は説明したことがすべてではないが、それとは別に、いじめの芽が出てしまう部分には、"引っ込みがつかない"という心理がある。もともといじめるつもりなんて全然なかったにもかかわらずいじめは生まれる。最初はなんの悪気もなかったし、ちょっとしたあまのじゃくな気持ち、できごころ、ほんのささいなことがきっかけになって、"いじめの前哨戦"をやってしまうことがある。やった本人はたいへんばつが悪く、本当は素直に謝りたいのだけれども、"ごめん"の一言が言えないでいる。"ごめん"が言えずに収まりがつかなくなっているそんな二人の問題に、しだいに周囲がそれに気づいて、さらに収まらなくなる。周囲が"あやまりなよ"と言えばいじめに発展せずに終わるのかもしれないが、これがちょっとタイミングがわるく、"あやまりなよ"というどころかみんなでその本人の"味方に"なってしまい、いじめられた一人対いじめた側+その取り巻きの構図を作り出し、集団いじめのきっかけにさえなってしまう。謝りたくてしかたない本人、ここまで大げさなことになるとは思っていなかったと後悔してももう遅い。完全な第三者がとめない限りどんどんエスカレートしてしまうのである。

昔、子供たちがあそんだ鬼ごっこ。近所の子供たちがあつまって集団でやるのだが、必ずしも同世代の子供が集まるわけではない。小学校1年生の弟をもつ小学高学年のお兄ちゃんたちが考え出した、いっしょに遊ぶ知恵のひとつに「ままこ」というルールがある。例えば「太郎君は、鬼に背中をタッチされても鬼にはならない。なぜなら太郎君は小学1年生の"ままこ"だから。」
という具合だ。これなら一緒に楽しく遊べるし、弟のめんどうを見なければならないお兄ちゃんも責任を果たせ、みんなと遊べるのである。

このルールをどんなふうに呼ぶかは別として、似たようなルールで遊んだ記憶を40代の大人諸氏は持っているはずである。ところが最近は核家族化や少子化、テレビゲームなどの普及が原因なのか、年齢の違う子供の集団が一緒に遊ぶなんていう機会が奪われて、そんな知恵さえ出なくなってきている。それどころか、「おまえは邪魔なんだよ。」と弟を遊び仲間に入れなかったりすることさえある。明らかに年齢や成長に起因しているのだが、自分達が遊ぶことを中心置いたとき、"弟くん"の能力が低いことが邪魔になってしまうのである。自分よりもか弱い存在だから守らなければならないということはわかっていながら、友達と遊ぶことを優先してしまって、友達から嫌われたくない、排除されたくないという気持ちも当然あるのだろう、弟が邪魔な存在になってしまっている。この場合、お兄ちゃんもお兄ちゃんの友達も「相手を思いやる」部分が完全に抜け落ちている。

自分が相手と違う、相手が自分と違う、そういうことを認めあって、お互いに協力しあうことこそいま子どもたちに教えることではないだろうか?


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いじめの背景

2004-10-15 07:23:59 | 
最近ではニュースにさえもならなくなった感がある「いじめ」だが、いじめの発生する背景として大人の持つ価値観が子供の心を左右しているということは否めない。
いじめの心理に「異物排除」と「同質に対する嫌悪」があるが、すでにこのウェブログの「他の人と違うということ」で書いたように「異物排除」は外的要素により醸成される場合が多く、そこに親の価値観が介在することも少なくないのである。

 隣の家と同じでないと「不安」、「隣の子供よりも劣っているとだめ。」自分の子供の方がほんの少しであってもいいから「優位」に立っていないと、「どうしてあなたは××ちゃんみたいにできないの?」といってこどもを叱ってしまう。親がそんな心理なのもだから、自分の子供がよその子供よりも、例えば成績だとかで優秀だったりすると、「××ちゃんよりも成績がいい」ことを知らず知らずのうちに口にしていたりする。知らず知らずのうちに「成績至上主義」になっている。そうすると、子供は素直なもので、成績が悪いやつよりも自分は「えらいんだ」と思ってしまう。成績の悪い子は存在価値がないかのごとく、「いじめ」始める。子どもの心の中でも、親に認められたいという不安感がある分、自分の成績が少しでも落ちることを心配し、つねに自分を優位に立たせなければならないストレス下に置かれてしまい、ちょっとでも自分よりも成績のよい子を見つけると、その不安感をごまかす為に、その子の事を「生意気」だとかいって、まわりをも巻き込んで「いじめる」のである。

 本当は自分自身が本当にその子よりも優位なのかわからない。単に親から与えられた価値観で、親から評価されているだけで、自分自身に対する自信や、生きる上での価値観が十分に発達していないものだから、心理としては常に不安なのである。心やすまらない子どもがいったい何をしてしまうかは、すでにニュースで報道されているとおりである。社会性や協調性、つまり忍耐強さや相手のことを理解すること、物事の価値観の多様性などは、躰や心の発達とともに成長してゆくものなのだが、それが偏ってしまっていることで様々な事件が起こっている。

 すでに、「いじめ世代」「いじめられ世代」は20代、30代として親になる時代になってきている。これからも常に親も含めての”教育”が必要なのは明らかである



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