18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

阪神タイガース セ・リーグ優勝!

2005-09-30 00:17:28 | 風景
 吉田義男の時の優勝と、星野仙一の時の優勝と、岡田監督の時の優勝。それぞれ違いがあって面白いと感じた。

 2軍の優勝経験のある岡田監督らしい、JFKの継投などは、一軍の選手がいやがりそうでなかなか実践できないものだが、実際には岡田監督はやってのけて、それが試合中盤以降を締まった物にして安定感につながったのは明らかだ。

 そういう投手起用法も見事だが、打線も幅ひろいバリエーションで多様な攻め方を魅せてくれた。このあたりも2軍経験が生きているように感じる。どこかの球団のように、投手以外全員4番バッターのような打線をお金の力で揃えた考え方とは好対照である。

 しかも選手にもけが人が少なく、金本にしてもかつての衣笠を彷彿とさせる鉄人ぶりである。そういえば、衣笠も広島カープの選手だったが、なんらかの関連があるのだろうか?

 とにもかくにも、優勝はすばらしいこと。140試合をこなすスタミナ、体力、気力が続いたチームであることは当然だが、その環境の中で勝ち続けてリーグトップの成績を残す事は、並大抵の努力ではできない。ひいきチームのふがいなさには、おもいきり野次を飛ばすのも良いが、いやいやこの現実を知ると勝っても負けても本当にご苦労様である。

 まずは、おめでとうである。そして20年ぶりの日本一の座を是非獲得してもらいたい。



コミュニケーション

2005-09-29 00:01:05 | 
 人が別の人に”言いたいこと”を伝えるのはなかなか難しい。これがコミュニケーションの難しさであるが、最近気がついたことを一つ。

 衆議院総選挙で自民党が大勝し、民主党が議席を大きく減らした。比例代表、小選挙区並列なので、とんでもない事態は避けられたが、小選挙区だけでは全く一方的な結果であった。民主党は謀らずや、比例代表制に助けられた格好になった。

 さて、この勝敗分析をいろいろなメディアでやっているが、どんな風にメッセージを送り出したか、つまり”言いたいこと”をどれだけうまく伝える事ができたか?ということそのものについては勝敗の原因を求めていない。

 マニフェスト選挙といわれていたが、残念ながら単純に”私たちはこういう事をやります”ということを愚直に訴えるだけでは何の意味もない。

 選挙などでは顕著にわかるが、結局、メッセージを通じていかに”考えさせる”ことに成功したかがキーポイントなのだ。

 たとえば、「国にこれだけの借金があります。」「借金は返さなければなりません」「そのための施策を持っていて、それを実行できるのはxx党です。」と言ったところで、”あっそう”となってしまう。

 ところが、「国にこれだけの借金があります。」「借金は返さなければなりません」「返す為には、xxxな削減をするのです。」「削減の為には民間企業がやっている自助努力を国の事業にも求める必要があります。」「皆さんがおわかりのとおり、国であるかぎり、それを求めるには限界があります。」「よって民営化して、みなさんのやっている当たり前の努力をしてもらうのです。」「その為の政策がxxxで、それを必ずやり遂げるのはxxx党です。」

 というと、民間企業がしている努力と同じ企業努力を求めるのは良いことだ。そして色んな面で優遇されている措置が、民間企業と同様になるのは良いことだ。と自分たちの視点に立って物事を考えるようになる。

 コミュニケーションでは、結局は、相手がこちらの言い分を聞いてどう感じるか?もっといえば、こちらが感じてほしいことを感じてもらえるかということが重要なのだ。

 日本人の場合、一般にはこのあたりの、”わかってほしい”という発信を表情や言葉のニュアンス(イントネーション)などで伝えようとするし、聞き手もそれを受け取ろうとする傾向が強い。それがうまくできないと、”ひとの気持ちのわからない奴”になり、仕事のできない奴扱いされるし、”女性の気持ちのわからない人”になって振られてしまう。さらに、これが表情や言葉のイントネーションが伝えられない、メールなどだったりすると、もっと大変だったりする。

 いずれにしても結構切実な問題だったりするが、やはりポイントはその言葉や文字からあいては何をどのように感じるか?なのではないかと思う。

  




携帯電話に感謝

2005-09-26 02:57:01 | 風景
ほとんど毎月のように発表される携帯電話。単なる電話の領域を越えた端末になって
いる。ちなみに一般に端末とは大きなホストコンピュータに接続された入力操作を行
う装置の事で、例えばインターネットに接続されたパソコンも端末と言ってもいい。
一般にある電話器は厳密には端末とは言わない。

さてその携帯電話。あまりにも身近に存在する物なので意外というかやっぱりという
か、全ての機能を使いこなしている人は少ないらしい。

 テレビが見られて録画も出来る、ラジオも聴けるし、音楽が楽しめてインターネットに接続できて、メールもできる。最近ではお財布代わりに使えたり、道に迷ったときのナビにもなって電話もできる。さてこの装置はいったいなんだろう?

 ドラえもんが四次元ポケットから色んなアイテムを取り出すときその名前を高らかに言うが、さてこの”装置”を単に”携帯電話~♪”と言って取り出してもちょっとどこか違和感がある。名前とできることの間にあまりに乖離があるからだ。

 さて、この装置はいったいどこまで発達するのだろうか?そのうち”埋め込み”型か着る携帯電話が登場して、手を使わずに”脳”からの指令を直接受け付けてダイヤルしてくれたり、インターネットに接続したりするようになるかもしれない。そういう研究はすでに進められているから簡単に”絵空事”では片づけられない。

 便利になるのは良いことだが、”過剰な便利”は本当はよく無いのだと思う。つまり”しんどさ”や”苦労”を知らないで、便利さを享受することで、その”便利さ”に対する感謝やどんな工夫や技術でこれらの苦労をせずに”便利”さを享受できているのだろうかという興味や関心が無くなるのは一方で問題なのではないかと思う。

 便利になって、高機能になる携帯電話もあれば、会話に徹する電話もある。いずれにしても文明が生んだ偉大な発明なのだから、感謝しなければならない。だれにか?それはそのような技術を一所懸命になって考えて実現した人に対してだったり、あるいは、会社内の反対を押し切って企画を通して、私たちがサービスとして気軽に利用できるようにがんばってくれた人たちに対してだったり、安く携帯電話を持つことができるようになった商売の仕組みや、携帯電話本体の開発をしてくれた人たちにである。



 

日本の歴史

2005-09-19 20:27:39 | 風景
 9月18日にフジテレビ系で放映された「日本の歴史」。全体感を把握するには結構良いと思ったが、もともと4時間でできる物ではない。そういう意味からはかなり挑戦的だし、フジテレビとしてはかなり神経を使ったに違いないと思われる。

 こういう番組を通じて改めて思うのは、歴史を何のために学ぶのかと言うことだ。ただ単にこの時代にこういうことが起こったということだけを記憶していればいいのであれば、それはそれで単純な記憶があればいいし、これでテストの点数が良ければOKというのならちょとどうかと思ってしまう。

 歴史を学び、国の成り立ちや、どのようにして時代が変るのか、大きな視点で”歴史に学ぶ”ことをしないと、やっぱり同じ過ちを繰り返してしまう。それは明らかに愚かしいことであるということを学ぶべきではないか?
 
 古代史ならばロマンに浸っているのもいいのかもしれない。しかし中世あたりからの歴史からは、人間のエゴや国家観や世界観。天下統一を夢見る事に対する別の視点が必要だと言わざるを得ない。そうでないと歴史を学ぶことの意義が失われてしまう。

 奈良県の明日香村に出かけた時に見た酒船石や、石舞台などは古代のロマンの領域だが、聖徳太子が十七条憲法を制定したあたりからその背景となった日本の社会構造に目を向ける必要があるのではないかと思う。

 もう一度、歴史は何のために学ぶのか?を親子で会話してみるべきではないか?単なる興味で終わらせるのも良いが、もっと深く抉ってみると単なる勉強の領域だけではまかない切れないだろう。

 歴史を学ぶこと。それは将来を作る事につながるべきである。



英語

2005-09-18 08:24:28 | 風景
 子供が中学生ぐらいになれば、親としては学業が気になるところ。国語、数学、英語などの中心科目があるが、さて”成績重視”で勉強させるのがいいか、”習得重視”でやらせるのがいいか、悩ましいところである。

 特に、英語はもっとも”実践”する可能性が高い科目なので注意が必要だ。英語の本質は、”ことば”だから、英語そのものを目的にしてはならない。つまりコミュニケーションをとることができて、初めて習得の意味があるのだ。しかし、テストの点を上げるにはある程度、英語そのものを目的にしなければならないから難しい。中学生にはそのあたりの加減はわからないだろうし、一方で本格的に”ことば”としての英語をどうやって学ぶかという問題もあるのでよけいに教え方が難しかったりする。指導要領に実践性が少しずつ採り入れられれば採り入れられるほど、現実の受験英語への対応が問題になる。

 ちょっと話はそれるが、コミュニケーションは、伝えたいことがあるかないかが重要になるが、これを常に意識することも習得と同じぐらい難しい。そういう意味では普段から毎日でなくても日記をつけるだとか、多くの本を読んで感じたことを記しておくだとかは大変重要な事だといえる。


 さて、こんな風に考えながら、子供の勉強を見ると、”学問”と”実践力”のバランスの難しさを感じざるを得ない。

 最近、特に仕事で英語を使うことが多くなってきたり、また通勤電車の中の、まったく赤の他人の会話でも”英語”で少々問題を抱えていることがわかる。

 しかしだからといって意味なく英会話教室に通うのはどうかと思う。資格取得も必要だが、英語はくれぐれも目的にしてはならない。

 TOEICやTOEFL、英検などでどれだけ高得点を取っていたとしても普段の生活で英語を使い続けられる環境に居ない限りは、英語(によるコミュニケーション)力は次第に落ちてくるし、またどれだけ能力があっても、話の内容が無ければ、それこそ意味がない。

 英会話教室のCMが多くながれることそのものは問題は無い。しかし特に大人の場合、英語はあくまでも目的ではない事をもう一度考えてから習うことを選択しても良いのではないかと思う。