18年にもなりますか

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ユニバーサルサービスってさぁ携帯電話税だよね

2006-11-30 23:34:41 | 社会・経済
NTT東とNTT西の一般電話回線と公衆回線、緊急電話(110,119など)の維持の為に、携帯もPHSもIP電話も1契約税抜き7円の負担をするというこのユニバーサルサービス制度。法律をあとでくっつけて通信事業を保護する為に作った、”携帯電話税”じゃないか!


 この調子で行けば、例えばいま話題のNHKだってユニバーサルサービスだとか言って、国民一人当たり300円ぐらい徴収できる法律を国会議員に作らせるかもしれない。

 おー恐っ!

 これもNHK税なんて名前でも付いていれば国民みんなが敏感に反応するけども、電話の様に”ユニバーサルサービス制度”なんてやわらかい名前にされると、とたんに反応が鈍くなる。

 パソコンなどの回収、自動車の新車購入時にも”廃棄代”を支払うことになるが、これも言ってみれば”税金”。

 そのうち野菜にだって、遺伝子合成でない野菜を作る農家を守る為の”ナチュラル農産物制度”なんていう制度ができて1商品ごとに1円ずつ支払わされるかもしれない。

 いずれにしても違和感がある。保護育成を目的とするならば、期間を切ってその間に自己努力で維持運営できるようにしないといけないのではないかと思う。

 いまおおよそ日本全国で約8000万台の携帯電話、PHSの加入者があるのだそうだ。だから単純に月に5億6千万円ものお金がNTT東とNTT西に渡るということだ。年間で67億2千万円!そのお金をコストダウンの為の研究開発に使うのか、単に維持だけに使うのか?その当たりが見えないままで進んでいる。税金じゃないから使い方をとやかく言われないから余計にやっかいだ。国民の問題ではなくて、NTTとNTT以外の通信事業者が合意すれば継続できてしまうのだ。

 ユニバーサルサービス・・・言葉に惑わされてはいけない。これは明らかに税金である。


車中にて

2006-11-23 06:10:20 | ノンジャンル
最近見る事が少なくなった高校生の電車内での、座り込み。見掛けた時は“他人の迷惑になっているかも知れない”と言う想像力がないのかと見ていたが、今日それに近い風景を目にした。

場所は都営大江戸線車内。大江戸線と言えば通常の地下鉄よりも規格が一廻り小さいいわゆるミニ地下鉄だ。大阪で言えば、長堀鶴見緑地線を走っている地下鉄のサイズ。神戸でいえばポートライナーぐらいのサイズを想像してもらえばいい。

その車内で50代の男性がなんと自分が座っている座席のとなりに大きなスポーツバッグを幅広に置き、自分自身も腰を浅めにし少し斜めに座っているものだから都合二つ半程の座席を占領している状態なのだ。さらにミニサイズの地下鉄なのだから通路幅が広くないにもかかわらず、脚を組んでいて、つまさきが通路の半分ぐらいのところにまで届いている有様なのだ。

車内がそろそろ混雑してきそうになっているにもかかわらず、ヘッドホンステレオを耳に我存ぜぬといった態度。

いい大人が…と思うのだが、情けないかなこう言う無神経な人達は案外年齢に関係なく多い。

若い女性が電車の車内で化粧をしているのを恥知らずだと書いていた一流出版社の週刊誌があったが、その週刊誌の中心読者層のオジサンたちもなかなかマナーの悪さでは負けていない。

以前書いたが、下車する駅に着いたら無言で人を邪魔だと言わんばかりに押し退けて下車するオヤジたちも多い。

マナーでいえば歩きタバコもおなじで圧倒的にオヤジたちが多い。タバコ自体のの善し悪しではなく、歩きながらタバコふかしたら、その煙が誰かを直撃するかも知れないなんて考えて見た事も無いのだろう。タバコをやらない人達は大変迷惑をしているのを知ってやっているのか、知らないままなのか、分からないがいずれにしてもこれだけ喫煙マナーが叫ばれているのに、少しでも考えてないとしたら無神経というより開き直りに近い。

マナーを守るのは、老若男女や肩書きを問わないはずだ。会社の社長だろうが、平社員であろうが関係ない。

マナーは罰則規定のない社会のルールだ、これが守られているかどうかでその人の成熟度が分かる。

たまには自己点検してみてはどうだろうか?


パワー

2006-11-20 22:56:10 | 社会・経済
 最近、仕事の関係でSkype(スカイプ)というインターネットを利用した、まあいわば電話サービスの接続をすることになった。

 インターネットだから無料。IPフォンの大規模な仕組みと考えればいい。もちろん音声以外に映像やチャットもできるから、いままでのインスタントメッセンジャーと同系列とも言える。ただ違うのは、有料になるが、一般電話や携帯電話とのやりとり(発着信)が可能な点だ。これがインターネット電話といわれるゆえんである。

 さて、このSkype。”世界中のどんな人とでも会話してもいいよ”という場合は、自分のステータス(状況)を”Skype me”という状態にしておく。そうすると、海外から遠慮無くアクセスしてくるのだ。

 もう既に3件ほどアクセスがあったのだが、いずれも中国人からだった。みんな日本語の上達の為にコンタクトをしてくる。しかも女性ばっかり。

 ある女性は、山東省、青島生まれで、台湾の企業に勤めているが、勤務地はベトナムホーチミン市だという。家具のメーカーで検品立ち会いとか来客の応対をしているのだそうだ。
 
 以前の社長は台湾人だったそうだが、いまのホーチミンにきてからのボスは日本人だと言っていた。多くの日本人とのやりとりが必要だそうで、日本語を山東大学で習ったと言っていた。もっと日本語を使って上手くなりたいということでSkypeでコンタクトをしてきた。みんな一所懸命なのだ。

 びっくりするくらいに日本語が上手い人も多い。シンガポールからコンタクトしてきた中国人とチャットで日本語でやりとりしたこともある。日本語を入力するためには、日本語環境が必要だし、どう発音するか、それはどういう文字かも分かっていないとできないはずだが、違和感ない速さでチャットができるのには恐れ入った。

 私たち日本人は、日本で中学高校大学と6年から10年ぐらい英語を習うが、チャットで違和感ない速さできれいな英文を打つなどそう簡単にはできない。

 真剣に勉強しているのだなぁと関心しきりである。もちろん日本の若い人たちにも、欧米やアジアに出かけて、自分たちの将来の為に頑張っているひとも多いと思うから、中国人が頑張っていて日本人が頑張っていないとは思わない。

 しかし、自分自身のことを振り返ると、英語やっただけで満足して、そのほかの言葉に関心を持たないでいることに、ちょっと恥ずかしさを感じた。

 

教育とは考えさせること

2006-11-19 09:24:58 | 
 女優高木美保の那須高原での生活は、前回書いたとおりだが。あるとき彼女の那須の家に親戚か友人の家族が都会からやってきたそうだ。その家族には小学生ぐらいの男の子が居て、虫やカエルがたいそう気に入ったそうだ。

 そして、どうしてもカエルを持って帰りたいと言って、ペットボトルにカエルを入れたのだが、高木美保が、「カエルってどうやって生きているか知ってる?」「虫を食べるんだよ。」「虫を捕まえて、あげなきゃいけないんだよ。」「ちゃんとできるかな?」と彼に話をしたのだそうだ。最初は、「ちゃんとできる。」と言っていたそうだが、よく考えてみれば、都会にハエや蚊がそんなに簡単に見つけられるわけでもないことに気づいて、最後には、やっぱり田んぼに帰して上げることにしたのだそうだ。
 
 高木美保曰く、カエルの事を考えて上げるか、自分の”持って帰りたい”という欲を優先するか、幼いながらも彼は”哲学”していたのがよく分かったのだそうだ。

 こういうシーンは昔、よくあったように思う。子どもに問いかけ、考えさせて、自分の気持と、でもやっぱりカエルの為には、という2つの葛藤のなかから1つの選択をするのを待っている大人の姿。

 高木美保が、那須の生活をしているからこそ、子どもに対してそういう接し方ができたのかもしれないが、でも、田舎に住んでいながらも都会的生活をしていたり、都会に住む私たちは、子どもにたいしてそんな接し方が十分にできているのだろうかと改めて考えさせられた。

 親が子どもに考えさせずにすぐに結論を出す。こどもの中で”葛藤”そして”辛抱”ということを繰り返すこともなく、ただ単に”辛抱”を強要され、いや、最近だと、”辛抱”を強要されることもなく、”欲望”のままにいろんなものを手に入れることができる、モノに恵まれた生活になんの疑問も抱くこともなく子どもが成長する。

 その子どもたちがいまちょうど30代の親の世代になっている。いまこの世代の人たちを中心に、何が起っているのかは改めて書くまでもない。そうなのだ幼いままなのだ。

 詰め込み教育が疑問視され、偏差値教育が社会の批判を浴びて、ゆとり教育を提唱しても、教育の本質をしっかり見据えていない限りは”実”を付けることは決してない。

 学校がすべき教育、家庭ですべき教育、それぞれがそれぞれの場でしっかりと子ども達に対して”考える”ことを増やさなければならない。

 親としてやるべきことの一つに子の教育があるのだが、家庭での教育は単にルールを教えたりするだけではなく、生活の中で考えさせることもじっくり時間をかけなければならない。
 
 また学校でやるべき教育も、進学の為の教育だけではなく、集団生活を通じて、さまざまな考え方の違いや、個性をどのように認め活かすのかを考えさせなければならない。

 異質を排除するだとかなんて言語道断である。そういうことを理解している教師や校長はいったい何人いるのだろうか?

 学校教育の中で教えるべき事はなにですか?と教師ひとりひとりに問えばいい。もちろん学校長にだって問えばいい。そしてその事に対して具体的にどのような事をしているのか訊けば、学校で何が起っているのかが分かるはずだ。教育の本質をしっかり押さえていない、学校教員という肩書きをもつ事務員達には教育を任せてはいけない。学校長という事務員にも用は無い。教育委員会という名の事務所は要らない。

 教育とは家庭でも、学校でも考えさせることなのだ。その為に授業があり、クラブ活動があり、学級があるのだ。その為に家庭での会話があり、お正月があり、お盆があり、家族旅行があり、年中行事があるのだ。


豊かさのひとつ

2006-11-19 09:10:55 | 社会・経済
 ラジオを聴いていると、いい話が良くある。「ふんわりの時間」という番組に、ゲスト出演した女優の高木美保が語ったエピソードを紹介する。

 高木美保は、那須高原に居を構えてはや9年になるそうだ。もともとは田舎にひっこんでゆっくりした生活ができることを期待していたそうなのだが、実際はまったく逆だという。

 彼女は、その那須で畑や田んぼで野菜を育て、稲を育てて、みそ造りや納豆作りまでやっているとのこと。都会ではお金を出せばすぐに買えるものが、田舎では1つ1つ育てなければならない、畑の手入は少しでも手を抜くと虫が付くし、田んぼは手で苗を植えて、鎌で稲刈りをするのだそうだ。そりゃ早朝から忙しい筈だ。

 こういう生活では”なにもやることがない”時間なんて一つも無いのだけども、時間はゆっくりと流れている。都会では、時間がおそろしく早くながれていて、自分自身の事さえゆっくり考えることができず、何かに追いかけられるようにして生活しているのに、でもどこかに”渇望感”がある。

 豊かさの定義はいろいろあるのだろうが、どうだろうか?モノにあふれる都会、自分自身の事さえ見つめる時間がない都会、すべてのモノは自らが動き手に入れ名ければならない生活、しかし時間はゆっくりと流れてゆく。

 世の中にはそういう生活感もあるのだ。