joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「ひたむきに“治す人”をめざせ 小児心臓外科医 佐野俊二」『プロフェッショナル 仕事の流儀』

2006年01月18日 | テレビ
昨日の『プロフェッショナル 仕事の流儀』では、小児心臓外科医の佐野俊二さんが取り上げられていました。内容は、小児心臓外科というひじょうに困難で危険な分野で佐野さんが懸命に医療に携わる現場を追ったものです。

病院の組織などを扱ったものではなく、医者である佐野さんが一心不乱に働く姿を追ったものなので、新しい視点といったものはないように感じましたが、やはり命を扱う仕事の責任の重さをこの医師の先生は感じているということが伝わり、それなりに見応えがありました。

一つ印象的だったのは、この方は現在では小児心臓外科で天才と言われるほどの人だけど、32歳を過ぎても医者として不遇に扱われていたという事実。同期や年下の医師が出世していく中で、メスも持たせてもらえず、ずっと成果をあげることができなかったそうです。

そこから彼は世界的な権威の先生のいるニュージーランドに留学し、そこで失敗を重ねながら、今の地位についたようです。

私たち世の中はどうしても“若き天才”というものに憧れ・嫉妬します。しかし実際は、世の中の殆どの分野では“若き天才”というものは生じにくいものだと思います。

彼は教え子を育てる上でも、彼らに簡単にはメスを持たせません。自分が味わった医師の責任の重さを感じてもらいたいからだそうです。番組では、8年間も手術をさせてもらえず下積みをしている研修医に佐野さんがついに手術を任せる場面がありました。

その研修医が30歳を過ぎても薄給であるという組織の問題はもっと問題視されたほうがいいと思いますが、医者になっても10年近くメスをもたせずに弟子を育てるという姿勢は印象的でした。


涼風

『クリック募金 クリックで救える命がある』

2006年01月18日 | 日記
『クリック募金 クリックで救える命がある』というサイトがあります。ご存知の人も多いと思います。

1クリックするだけでスポンサーが1円を社会貢献に支出するという仕組みですね。1企業に1日1回クリックできます。現在は8企業がスポンサーになっているので、1日8円の募金ができます。

以前ぼくは毎日このサイトを覗き、全部の企業の募金をクリックしていました。そうしながら、「日本人全員が毎日このクリックをすれば、数億円が毎日社会貢献に使われることになるなぁ」と思っていました。今も思うことがあります。総理大臣が推奨すればいいのに。

しかし、これが毎日は続かないんですね。すべてクリックしても1分ちょっとで済むのに、そのうち面倒くさくなって、そのサイトを覗く気が失せてくる。

貢献というのは、難しいですね。たとえ1分でも、他人のために毎日それを支出するのは惜しくなるものなのです。

最近はまたクリックするようになりました。

涼風

完璧主義と攻撃

2006年01月17日 | reflexion
ちょっと鬱々気味です。外にも出ないし、一月なので暗いし、自分のことを考えたりすると余計に気が滅入ってしまう。

クリストファー・ムーンさんは、

完璧主義を手放し、自分がつねにベストを尽くしていることを認識してください。

と述べています(「夢を生きる、豊かさを生きる」)。

家族や他人を攻撃したり、数多くの失敗を犯しても、それはその人にとってそのときにできる限りのことをしていると認識することは難しい。他人がそうしていると認識することはできても、自分にもそれが当てはまると考えるのは難しい。

チャック・スペザーノさんは、「人はいつも他人よりも自分をきつく罰している」と言っているけれど、今はそれが分かる気がする。

自分は一番大事なために、自分の間違いというのは見逃せないのではないだろうか。


涼風

ER

2006年01月16日 | 映画・ドラマ
最近になって“ER”にはまりつつある。BSと総合の両方でをやっています。あまりにも反応が遅すぎる>自分。韓国ドラマも今頃見だすし。

このERってシカゴ・ホープとは違うのかしら?舞台はシカゴか、NYか?ウェブで調べたらやっぱりシカゴだった。とにかく寒そうだもの。

何がいいのだろう?それは、やはり理想の職場に見えるからじゃないだろうか?とくに人間関係がいいわけじゃないのに、なんとなく暖かい場に見える。そのあったかい場所で、医師や看護士が職を得て給料を得ながらけな気に頑張っている。その小市民的な幸福の姿が、視ていて心地いいのじゃないだろうか。

アメリカの病院というのは、官僚的で医者個人の裁量の範囲がとても狭いと聞いています。知り合いの病院関係者の話では、今では医者というのが人が憧れる職業ではなくなっているみたい。

日本でもここ数年で医者の卵の人たちの激務と薄給が話題になっていますよね。

成績のいい子がとりあえず医学部に行くという傾向はもちろん改まったほうがいい。でも、普通に医者として働きたい人が離れてしまうような職場にどうしてなってしまうのだろう?


涼風



悪を視る

2006年01月16日 | reflexion
私たちは、「大人」になり、自分や周りの人や社会について知るようになるほど、何が「正しい」か、何が「間違い」かを知るようになります。

そのことを知るほど、私たちは「正しさ」と自分との齟齬に耐えられなくなり、自分の「間違い」を他人に投影するようになります。

自分についての反省が深まるほど、自分の中にある微妙な「間違い」に気づくようになり、それを認めたくないために、他人にその「間違い」を投影します。

成長すればするほど、他人の中に微妙な「悪」を視るようになります。「正しい」ことをしている人がいれば、その人の動機にまで遡って「悪」を見出そうとします。

その見出し方はより微妙・複雑になります。


涼風

観たい映画が目白押し

2006年01月16日 | 日記
観たい映画が目白押しだ。

『スタンド・アップ』『プライドと偏見』『ホテル・ルワンダ』『輪廻』などなど。

もちろん全部観に行くような思い切りはない。ドイツにいたときは映画代が600円だったので、全部観に行っていただろうなぁ。


涼風

語学とか

2006年01月15日 | 語学
こころなしか語学のリスニングが前よりラクになってきた気がする。CDブックを聴いていても分かる部分が増えてきた。

といっても、自分が外国語には「外国語」として身構えて接する癖があるようだ。本を読むときもCDブックを聴くときも「これから外国語を学ぶのだ」という特別な気持ちで接している。

でも、そうせずに自然に外国語に接している人もたくさんいるようなので、そういうのは生まれながらのものなのかな。それとも心理的な抵抗感が僕には強いのか。

心理的な抵抗感は強い気がする。


最近は僕も韓流にはまりつつあるのだけど、韓国語ってきれいですね。なんだかそよそよとした川の流れのようだ。勉強してみたい。

でも、今まで辞書と参考書を買って挫折した語学にフランス語とイタリア語があります。中国語の辞書ももっていたりする。


日本と中国は明らかに文化的な差異があるけれど、韓国と日本はやはり似ている。韓国映画を観ていても、町の風景や人の振る舞いなんかがとても似ている。


涼風

ちょっとした違い 『ユダヤ人大富豪の教え』

2006年01月14日 | Book
 買い物に対してのちょっとした態度の違いが、金持ちと貧乏人を分ける。私の言うことをすべて忘れても、これだけは覚えておきなさい。欲しいものが出てきたら、一週間待ちなさい。それでも欲しいものは、もう一週間待ちなさい。それでも欲しければ、そこで買ったらいい。この少しの時間を待つクセがあれば、余分なものを買う確率がぐんと減る。

(本田健『ユダヤ人大富豪の教え』p.136)

これはベストセラー『ユダヤ人大富豪の教え』の中でもなぜか印象に残った言葉です。なぜだろう。大富豪のアドバイスの中でも一番単純で、身に覚えがあり、実践しやすいことだからかもしれない。

これを読んだからか、「欲しい!」と思った瞬間から実際に買うまでに時間を置くようになったような気がする。

精神科のカウンセラーの人の話では、患者さんが何かをしたいと言い始めたとき、3週間待ちなさいと言うそうです。そうやって時間を置くことで落ち着かせ、本当にその人の進みたい道にソフト・ラウンディングさせやすいみたいです。

「早く決断しなさい」という言い方もあります。ただ、それが正しいのは、自分が欲しいものをそれまで考えていて、ずっとそのチャンスを待っていて、そのチャンスが来た時に躊躇せずに掴みなさい、ということだと思う。

それに対して、時間をおくことが重要なのは、自分の欲しいものが定かでないときに、ゆっくり自分の内部が求めるものが輪郭を作るまで待つということだと思います。


涼風


悪口

2006年01月14日 | reflexion
他人の悪口を言うのは降参したということ、と誰かが言っていたけれど、ホントそうだ。悪口を言うということは、もう自分にできることを考えなくなったということなのだから。関心がすべて相手の方に向いてしまい、自分の可能性について考えなくなっている。そのとき人は悪口ばかり言うようになる。


涼風

圧力を表現するif節 『ハートで感じる英文法 会話編』

2006年01月13日 | 語学
昨日の木曜11時ごろに、NHK教育で『ハートで感じる英文法 会話編』をしていました。講師は「イメージ英文法」の大西泰斗先生。『ハートで感じる英文法』の続きですね。

途中から見たのですが、昨日の話は「if節」の文章で、後に続く文の時制の違いで文章の印象がどれほど変わるかが説明されていました。

例えば

If you can't give me a better price, I will look elsewhere.



If you can't give me a better price, I look elsewhere.

の違い。

お店などで使う表現ですが、ネイティブの人たちは上の文章はとても自然だそうです。

I will look elsewhere.

の“will”を使うことで、「他のお店を見てみたいと思う」というニュアンスになるのだと思います。willは、事実・断定というよりは、意志・主観を表わすからです。それによって「もうちょっとまけてくんない?」というお願いの意味になるわけですね。

それに対して、

I look elsewhere.

は、ネイティブの人たちにも不自然な印象になるそうですが、あえて使うとすれば、「もう他のお店に行く!」という断定的な調子になり、「もっと安くしろ!」と相手にきつくプレッシャーを与える感じになるということです。

同じif節の文章でも、後の文が助動詞か現在形かで、印象がまったく違うということですね。

助動詞を入れることで抑えた・控えめな表現になると言うのは、この助動詞を過去・過去完了にするほど、より控えめな表現になっていきます。


涼風

参考:大西泰斗サイト “English@Heart”

「信じる力が人を動かす 経営者・星野佳路の仕事」『プロフェッショナル 仕事の流儀 』

2006年01月12日 | テレビ
おとついの夜に『プロフェッショナル 仕事の流儀 』というNHKの番組を見ました。ビジネスの現場の事例を紹介する番組です。番組紹介では 

《「プロジェクトX」は過去の業績に光をあてましたが、「プロフェッショナル」は、今と未来を描くドキュメンタリー。現在進行形だからこそ、現場発の「仕事に役立つ情報」と、視聴者のみなさんが「自分も頑張ろう」と思えるような「明日への元気」をお届けします。》

と述べられています。

僕は『プロジェクトX』をそんなに見ていなかったけど、番組の狙いはすごくいいと思っていました。ビジネス書で取り上げられるような成功事例を映像化して見せてくれるのだから、視聴者にとってラクに情報を得られる番組だと思ったのです。

しかし、取り上げる内容が良くても、あの演出方法やナレーションは、せっかくの事例を台無しにしているように思いました。

だから、演出をもっと真面目にすれば長寿番組になるとも思っていました。この『プロフェッショナル』はまさにそんな番組です。

初回の事例は、リゾート再生会社の社長の人の使い方です。負債を抱えた旅館・ホテルなどをいかにして建て直していくかが扱われていました。

その取り上げられていた再生の方法は、社員に権限を与えてどんどん自身の最良で仕事をさせること。会議でも社長は決定を下さず、すべて社員同士で結論を出させます。

彼・星野さんがこういう方法を採るようになったのは、家業のホテルを継いだときに大量に社員に辞められた経験があったため、どうすれば社員に会社に残ってもらえるかを考えた結果だそうです。

彼が出した答えとは、社員に仕事にやりがいを感じてもらうこと。しかし給料を上げるわけにも休みを増やすわけにも行きませんでした。そこで最終的に残った手段は、社員に仕事を与え、その決定権を社員に委ねることでした。給料でも休みでもなく、仕事を与えることにしたのです。

ただ、番組を見ていると、一方的に社員に決定権を与えているだけではなく、議論の結論は社員に出せますが、その結論を出させるためにどう議論すればいいかを星野さんは社員達に提示していました。

例えば負債を抱えた伊東の温泉の社員も、再生のためにどうすればいいか話し合おうとしても議論を切り出す人はいません。

そこで星野さんは、この温泉の主要客は誰なのか、そのお客は何を求めて温泉に来るのかについて材料を提示しました。するとそれだけで社員達は、与えられた問題には自分達で答えを出そうとしました。

このプロセスはまるで“お話”みたいで出来過ぎの物語に思えました。しかし、ともかく星野さんのしていることは、問題とそれに答えるためのデータは提示しますが、そこから引き出す決定はすべて社員に任せること。同時にその結果に対しては星野さんが責任を取ることでした。

社員達は、いつの間にか自分で答えを導き出し、様々なアイデアを活発に出し合っていました。

星野さんにとって経営とは、いかに社員に面白く仕事をしてもらうかにあるようでした。そうするのも、彼が、会社に社員に残ってもらうことがどれだけ大事かを、家業を継いだときに身に染みて感じたからそうです。


涼風

参考:「『人材は「不良(ハミダシ)社員」からさがせ―画期的プロジェクト成功の奥義 ブルーバックス』」“joy”

3時間では足りない 『キング・コング』

2006年01月10日 | 映画・ドラマ
映画『キングコング』(公式サイト)を観ました。

内容は言わずもがなのキングコング。野生の巨大ゴリラがニューヨークに連れてこられる悲劇を描いています。

(ネタバレあり。と言っても、筋書きはみなさんご存知だと思います。)

最初の1時間は大恐慌時のニューヨークの悲惨な状況が、女優アンと映画監督カールの不遇な事件を通して描かれます。アンは舞台での仕事を失い、カールは映画制作の打ち切りを命じられます。

しかしカールは出資者の意向を無視し無理やり謎の島での撮影を強行すべく撮影隊を連れて出港します。その直前に偶然アンを見つけた彼は、主演女優として彼女をスカウトし、船に乗せます。

この最初の1時間だけでもスリルと迫力たっぷりです。CGを使ったという当時のニューヨークの光景や、映画監督カールの破天荒な行動は観ていて痛快です。

しかし、そうした映画としての面白さは、キングコングの住む謎の島に到着してから一変します。

それまではあらすじや登場人物たちの生き生きとした演技を楽しむことができました。しかし謎の島に着いてからは、とにかく異様な映像が次から次へと出てきます。その迫力は映画史に残るものでしょう。『ロード・オブ・ザ・リング』を遙かに凌ぐ映像が連続します。

その映像のすごさについては実際に見てもらうしかありません。ただ心臓の弱い人にはお薦めしません。本当にショックを受けかねません。私は途中で正視できなくて目を背けていました。えげつない映像が続きます。

そういうシーンに至っては、映画としての面白さというものを逸脱し、映像としての迫力を追求するとか完成度の高い映画を作るとか、そういった一般的な映像の作り手の意図を超えて、監督ピーター・ジャクソンの完全に個人的な趣味の世界が繰り広げられるのです。

ここで私は、その映像に圧倒されひっくり返りながらも、違和感を感じてきました。私が見た『キング・コング』(ジェシカ・ラング、ジェフ・ブリッジズ主演)もほぼ同じストーリーをなぞっていますし、当時としては驚きの特撮で巨大ゴリラを再現していました。

しかし当時の映画では、あくまで白人女性と巨大ゴリラの心の交流に主眼が置かれていたのです。野生の島のシーンのほとんどが、ゴリラと女性との交流のプロセスが丁寧に描かれていたため、一種の人間ドラマとして見ることができました。

しかし今回の映画では、野生の島の映像ではただひたすらに監督の趣味的なグロテスクな映像が続き、必ずしも女性とゴリラの交流が深く描かれていないのです。

この違和感は、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』を観たときに感じたものとな時です。第一、第二の『ロード』が傑作だったのは、その映像の迫力と同時に、映像だけに負けないしっかりしたストーリーがあったからです。しかし『王の帰還』ではストーリーの展開がなくなり、ただ大規模な戦闘シーンが続くだけになっていました。それゆえ『王の帰還』は『旅の仲間』『二つの塔』ほどの傑作にはなりえなかったというのが私の感想です。

この『キング・コング』も、ゴリラと女性の交流のプロセスを丁寧に描くことを疎かにし、野生の島での恐竜やら巨大昆虫やらをひたすらマニアックに描いており、その映像自体はものすごいのですが、人間ドラマとしての『キング・コング』がどこかに置き去りにされ、単なるスペクタクル映画に落ちかかっているのです。

もし、アンとゴリラとの野生の島での交流がもっと描かれていれば、この映画は完璧なものになっていたと思います。

しかしそうした不満も、後半のニュー・ヨークのシーンで緩和されます。NYでのアンとの再会、巨大都市で戦闘機に抵抗しようもなくただやられていく巨大ゴリラの悲しさ。自己表現を力を通じてしか行えないものが、自分の無力さを思い知らされるとき、そこには哀れだけが残ります。その悲しさとアンへの愛情が重なり、ラストのキング・コングは人間に運命を翻弄された者の悲しさを表現しています。同時にこの場面で、ゴリラとアンとの交流が再度描かれることで、このドラマが単なるスペクタクル映画ではないことを観客は再確認することができます。


涼風

参考:「キングコング凄ぇ!」『たけくまメモ』

   「キング・コング」『映画瓦版』

   「キング・コング(日本語吹替え版)」『映画瓦版』

男性性の攻撃性

2006年01月10日 | Book
社会学者アンソニー・ギデンズは、男性と女性がもつ攻撃性の違いを、その養育経験の違いから説明するチョドロウの見解を引用・支持している。

人間の持つ攻撃性は、彼の親密性研究の大きな論点だった。 

「(社会学者の)チョドロウは、男性か女性かを自覚する学習がごく幼少期の経験であり、子どもの両親に対する愛着にはじまる、と主張する。さらに、チョドロウは、フロイト以上に、父親よりも母親の重要性を強調している。母親は子供がまだ幼い頃には確かに最も影響力を及ぼす人間であるため、子どもは、情緒的に母親と結びつく傾向がある。

 女の子は引きつづき母親ともっと緊密な関係を保つ-例えば、母親を抱きしめてキスしたり、また母親の行いをまねする-ことができる。母親との明確な断絶がないために、女の子や、後の成人女性は、他者とのもっと連続性のある自己意識を発達させていく。女の子のアイデンティティは、もうひとり別の人間の、つまり、最初は母親の、さらにその後はひとりの男性のアイデンティティに、融合していくか、あるいは依存していくことになる。チョドロウの見解では、この点が女性に感受性や思いやりの心といった特質をもたらすことになる。

 男の子は、出生時からの母親との明確な結びつきをもっと徹底的に拒絶することで、自己意識を獲得し、女性的でないものをもとにして男性性の理解を作り上げていく。男の子は「女々しい子」や「おかあさん子」にならないことを学ぶ。その結果、男の子は、他の人たちと緊密な関係を結ぶことに相対的に未熟で、世の中に対するもっと分析的な見方を発達させていく。男の子は自分たちの人生についてもっと積極的な考え方をし、業績を重視するが、その過程で自分自身の感情や他人の感情を理解する能力を抑制してきた。

 男性のアイデンティティは(母親との)別離をとおして形成されていく。それゆえ男性は、その後の人生で他者との感情的に緊密な関係性に巻き込まれると、自分のアイデンティティが危機にさらされる感じを無意識にいだく。一方、女性は、他者との緊密な関係を欠くことを、女性の自己評価にとって脅威と感じていく。

 女性は、主に関係性によって自分自身を表現し、また定義づける。男性は、こうした(他者との関係性への)欲求を抑制してきたために、世の中に対して女性よりもコントロール的な態度をとる。

 チョドロウの考え方は引きつづき重要である。その見解は、女性の本質についての多くの点を教示しているし、また、いわゆる男性の非表出性-男性が他者に自分の感情を表わす際に直面する困難-の由来を理解するうえで有用である」

アンソニー・ギデンズ著『社会学』第3版p.131-2  現在第4版

もちろん、こうした攻撃性は男性だけに限られるものではない。現在のビジネス社会は、男性と女性に対してとともに「感情の非表出性」を促していると言える。むしろ、ビジネス社会が個人に強いていく攻撃性は、より女性の「感情の非表出性」を顕著な現象にしている。

これは、子供の頃から女性は男性に対して敵意を感じているため、ビジネス社会という戦場において、「今こそ私は男のように強くなった」という万能感をもたらすのかもしれない。

そう考えると、いずれにしても男の持つ攻撃性・優位性が、男女ともに「強い男」になることへの憧れを生むのかもしれない。

こうした人間の持つ攻撃性は、とくに現在の政治・経済の表舞台にいる人たちにみられる現象です。

このような攻撃性は、もっと憂慮すべき問題として取り上げられるべきです。単にセンセーショナルな話題としてではなく。

このような攻撃は少なからず社会全体に伝播するように私には思えます。


涼風

 




繊細なケア 『第三の消費スタイル』

2006年01月09日 | Book
先日紹介した『第三の消費スタイル―日本人独自の“利便性消費”を解くマーケティング戦略』という本では、日本人の買い物における行動パターンを、

1. プレミアム消費
2. 徹底探索消費
3. 利便性消費
4. 安さ納得消費

の4つに分類していました。

そこでは、例えばプレミアム消費の例として、最近のドラッグストアの取り組みが紹介されています。その取り組みとは、顧客一人一人に対して、専門の栄養士や薬剤師が、その人に合った健康のための薬の摂取や食事などをきめ細かにアドバイスするというものです。

わたしは、ドラッグストアはある面では「利便性消費」を追及した業態だと思います。従来の薬局は個人商店で、狭い店舗に多くの薬が並べられていて、お店に入るなり店主の目が監視のようにお客に注がれます。そこに軽い圧迫を感じていた人は多いのではないかと思います。

ドラッグストアは、そんな薬局のイメージを一新しました。その多くは天井も高く、面積も広く、店内が明るく、歩くスペースも十分あり、お客がゆっくりと解放された気分で(つまり店主の監視を感じずに)、自分のペースで薬を選べるようになったのです。

さらにお菓子や飲料・化粧品や他の多くの日用品も並べられることで、薬に特化しないことによって、より気楽なイメージが店内に行き渡るようになりました。そうすることでドラッグストアは従来の薬局よりもお客の心理的負担を軽くし、買い物のついでに気軽に寄れるような場所に変化しました。

そこでは、従来の薬局の店主の個人的な圧迫が、チェーン店の開放的な雰囲気によってなくなったのです。チェーン店を経営するのはあくまで法人という非個人的な組織です。

しかし、同時にその非個人的な組織が運営するチェーン店が、今度はお客一人一人にその人に合った“個人的な”アドバイスをするようになったこと、またそのことをお客が求めていることというのは、興味深い事実に思えます。

本来は個人商店のパーソナルな、お節介で圧迫的な雰囲気を私たちは嫌っていたはずなのですが、非個人的な法人の社員である栄養士や薬剤師には、極めてパーソナルなケアを求めているのです。

三浦展さんは『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!―マーケティング戦略の狙い目はここだ!』という本の中で、「現在のマーケティングのキーワードは“ケア”だ」と述べています。つまり今の私たちは消費において、単なるモノやサーヴィスではなく、それらを提供される際に、個人的に自分の感情をやさしくケアされることを求めているということです。

ケアされるとは、つまり、モノを買うときでも、セールスマンに、それを買うことであなたの生活はよくなりますよ、あるいは今はそれを買わないほうがあなたの人生にとってはいいかもしれませんね、とカウンセリングをしてもらうことです。

私たちは、あるモノやサーヴィスを買うときに、それを買うことで自分の人生がよくなるかどうかということをひじょうに知りたがっており、そのことをセールスマンに優しく細かく説明してもらうことで、「安心」というものを貰いたがります。

一方では私たちは従来の個人店主のお節介で監視的なアドバイスを嫌います。しかし他方では、法人によって組織されたサーヴィスには、自分の感情をやさしくケアしてもらうことを欲しているのです。

例えばアマゾンでは、ある商品をクリックすることで、次にアマゾンを訪れた際には「あなたの関心のあるジャンルの商品」が自動的に提示されます。これなども、インターネットという非個人的な媒体を通じたお店でありながら、同時にひじょうにパーソナルな情報・アドバイスをお客に提供しようとしているのです。

(映画『マイノリティ・リポート』の未来都市では、主人公がお店に入ると、その人物のIDを察知したコンピュータが瞬時にその人に合った情報を提供していました。)

私たちはたしかに消費においてケアを求めています。英会話の教材を買うとき、セールスマンの人に「これで大丈夫ですよ!」とやさしく言って欲しい。量販店でコンポを買うときも、セールマンに「これ、すごいいい音ですよ」と安心させて欲しい。

私たちは、一方では自分の心にズカズカと売る人に入ってきて欲しくないのですが、もう一方では初対面にもかかわらず売る人に親身に自分のことを考えてもらいたがっているように思います。


涼風

参考: 考えない私たち 『第三の消費スタイル―日本人独自の“利便性消費”を解くマーケティング戦略』

    『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!―マーケティング戦略の狙い目はここだ!』

相互関連 『完全なる経営』 A・H・マズロー(著)

2006年01月08日 | Book
社会科学の観念として、道徳的な良し悪しと客観的な分析とは区別されなければならないというものがある。このことを端的に打ち出したのがマックス・ヴェーバーです。『職業としての学問』の中で彼は、第一次大戦中のドイツの情勢に関して、平和主義を貫くことで戦争が長引く可能性がある場合、それを指摘することが社会科学の仕事であることを指摘しています。

このヴェーバーの観念は今でも多くの社会科学者に受け継がれています。

奇妙なのは、ヴェーバーはこの「平和主義を貫くことで戦争が長引く可能性」というものを分析したわけではありません。彼はただ、社会科学というものが道徳とは切り離された中立なものであることを強調したいがために、自分が分析しているわけではない「平和主義を貫くことで戦争が長引く可能性」という仮定を打ち出し、社会の認識は道徳やその人の持つ価値観に左右されないことを述べたのでした。

わたし自身はこのヴェーバーの主張には“嘘”があると思いました。「平和主義を貫くことで戦争が長引く可能性」という仮定をいきなり持ち出すところに、最初から道徳や平和主義的価値観を批判しようという彼の意図を感じたのです。また、社会の認識がその人の持つ価値観・感情に左右されないという言明にも、最初から道徳的な価値観を拒否しようとする意図が彼にあり、それに左右されない「客観的な認識」というのは、ヴェーバーの好戦的な価値観と結びついたものだと思いました。


アメリカの心理学者・マズローは、人間と社会というものを公平・客観的に分析するほど、人間の内面に自己実現と善への希求がみられると述べました。また彼は、こうした善への希求or悪への希求というものは、周囲に伝播するものとみなしていました。つまり、好戦的なものは好戦的な事象をひきつけ、善的なものは善的な事象をひきつけるのです。


「地域社会の改善が製品の優秀さに何らかの影響を与えないとすれば、どこかに不具合があるのだ」

「現実の姿はこうだ。

  企業、例えばノンリニア・システムズ社は、地元の地域社会に属している。

  そしてこの地域社会は、南カリフォルニア地区というより大きな共同体に組み込まれている。

  さらに南カリフォルニア地区はカリフォルニア州と明らかに機能的な結びつきを有しており、

  カリフォルニア州はアメリカ合衆国に、

  アメリカ合衆国は西欧世界に、

  西欧世界は全人類と全世界のうちに組み込まれている。

  たとえばノンリニア・システムズ社は、警備のためにマシンガンと大砲で武装した三千人の私設軍を置かず、たった一人の夜間警備員を雇っているだけである。これは当たり前のことだと考えられているが、そう考えることができるのは、前述の関係が上手く行っている場合だけである。

  ノンリニア・システムズ社の社員が路上で殺害される危険があるということになれば、同社が存在しえないことは言うまでもない。

 はっきりと理解しなければならないのは、ノンリニア・システムズ社が、一見当然だと思われる結びつきやサービスなどの織り成すネットワークの中に存在しているという事実である。

 連邦政府は陸軍やFBI、米国議会図書館などを維持し、アメリカ合衆国に関するあらゆることがらを処理しているが、こうした組織や機構がなければノンリニア・システムズ社は崩壊し、存在しえなくなる。同様のことがNATOや国際連合などについても当てはまる

 これを別の言葉で言い換えれば、ノンリニア・システムズ社に生じた変化は、その良し悪しにかかわらず、デルマー市をはじめ、南カリフォルニア、カリフォルニア州、アメリカ合衆国、西欧世界、さらには全世界に何らかの影響を及ぼすということだ」

 「もっといい世界になれば、国家ももっといいものになり、また地方政府が、企業が、管理者が、労働者が、そして製品がもっといいものになる」

 「製品がもっといいものになればなるほど、労働者が、管理者が、企業が、地域社会が、州が、国家が、世界が改善される」

(A.H.マズロー『完全なる経営』P.186-191 日本経済新聞社)

マズローにはヴェーバーと対極にある点が多くあるのですが、この文章もその一つだと思います。


涼風