joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

こころを考えるか、ケーキを食べるか

2004年10月11日 | reflexion
「本当は、自己改革を目指したり、他人を変えようとしたり、その他さまざまなネガティヴな緊張を使って自分の構造体を強化するよりも、もっと楽しいゲームが沢山あるのです」(タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』より)。


最近、ある人から、人間は本来受動的な生き物だから、あまり能動的に自分がどうなっているか・自分の心はどうなっているかとか考えないほうがいいよ、と言われました。これは、わたしが元々心理学が好きでそういう話題をするからです。

たしかにそうかもしれません。心理学も本来は自分を気持ちのいい状態にするために手を伸ばしたのですが、そのうち自分の心をつねに分析するクセもついてしまっている気もします。

まあ、これは両刃の剣ですね。じゃあ、なにもしなきゃいいのかと言うと、なにもしてこなかったから苦しくなって、心理学の本を読むようになるわけですから。

一番いいのは、心について理解すると同時に、心の仕組みがどうだとか気にならなくなるのがいいような気がします。

心について学びながらも、心よりも外の気持ちいい風の方が気になると言うか。そういうのがいいのかもしれませんね。

『マンハッタン・ラブストーリー』他(英語・ドイツ語学習の教材についてなど・・・)

2004年10月07日 | 語学
『マンハッタン・ラブストーリー』を借りてきて観ています。昨年放映されていたドラマです。

TVドラマには、奇跡のように思える作品がある。キャスティングから音楽から脚本からすべてマッチした傑作がときどきあらわれる。まあ、個人的な趣味に合致しているだけとも言えるけど。

『マンハッタン・ラブストーリー』はそんな奇跡の一つだと思う。こんな奇想天外なあらすじなのに、どうしてここまでドラマとして成立しているのだろう。どうしてこんなに演出と編集が絶妙なのだろう。どうしてこんなに役者たちは場面にはまっているのだろう。

脚本があまりにもはちゃめちゃだからこそ、演出と編集も徹底的に大胆にし、役者たちもドラマの世界に入り込んだ演技をしているのだ。

観たことのない人は、試してみてください。ぶっとびます。



英語の勉強のため、本を買っている。でも、リスニングの教材は図書館で借りてすましています。こういう語学の教材については、やっぱり公共の図書館で充実させて欲しい。語学なんて一、ニ冊勉強してもものにはならないのだから。

今日は、『語源とイラストで一気に覚える英単語 』を買いました。中々カルチャーショックな本です。語源を軸に様々な単語を整理して分類し、単語の便利な習得法を提案しています。こうやって見てみると、無数にある英単語もすっきりとグループ分けして覚えるもののように思える。

こういう語源で英語を勉強する仕方は最近になってポピュラーになったものらしいです(詳しくは『TOEICスコアアップ』をみてください)僕が高校で英語を勉強していたときは知らなかった。

英語の勉強に関する本を見ていて思うのは、じつに様々な本があること。今まで知らなかったけど、その多様さには驚くし、中にはとても面白いものもあります。単に単語や文法・文章をならうのではなく、英語の感覚を掴んで学ぶようなものもあって面白い(例えば『ネイティブスピーカーの英文法―英語の感覚が身につく』大西 泰斗 (著), ポール・マクベイ (著) など。と言っても、他にはまだわかりません(笑))

それに比べてドイツ語学習の教材のなんと貧弱なことよ。本屋の棚を見ても、大抵は初心者用のものしかない。

これはたんにドイツ語学習者の数が少ないことに起因させてよいのだろうか?しかし、本屋の棚を見てみると、それらの初心者用の教材も出版されたのは最近だったりする。ということは、あまり改善の見られないまま、相も変わらず同じような教材が(一応、他の執筆者によって)出版されていることになる。

でも、上記の英語の教材にしたって、基本的にビギナー向けの本なのだ。ビギナーに向けて、無味乾燥な受験的な学習ではなく、もっと生きた英語に近づくための学習を提唱している本なのです。おそらくそれらの本は、専門的な語学研究を踏まえて、それを一般の人が学ぶために役立てようと執筆者たちは工夫してくれている。

なのになのに、ドイツ語の教材については全然工夫が見られないのはなぜなのでしょう?受験参考書的な本ばかりで、一般の人に全然アピールしていないよ。まあ、ドイツ語をわざわざあ勉強しようなんていう人は、本にアピールしてもらわなくても自分から気合入れて勉強するような人たちが多いのかもしれないけど。

でも、専門的にドイツ語を研究している人は日本の大学にも一定数いるのだから、もっと目からうろこが落ちるような学習教材を作って欲しいのだ。

上記の大西 泰斗さん、ポール・マクベイさんの英語の説明なんかは、とても英語の感覚がわかりやすく説明されています。同時にそれらの説明は、ドイツ語を理解するうえでも、じつは役に立つんじゃないだろうか、とも思えます。ということは、ドイツ語の規則を単に教えるのではなく、もっとドイツ語の感覚をわかりやすく教えてくれる本があってもいいはず。また専門的な研究者なら、そういう感覚を知っているはず!

そういう良質なドイツ語学習の本を知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。

大きな灰色の空

2004年10月05日 | 見たこと感じたこと
昨日の天気のよさに比べ(風はきつかったけど)、今日は朝からどんよりした曇り空で、おまけに雨まで降ってきました。こういう朝はネガティヴな気分が胸の中を覆うようになります。

朝にいいことを想うとその日一日がよくなると本にはいつも書かれているけど、私には朝は一番ネガティヴな気分に支配されやすい時間です。

午前中はそのネガティヴな気分をずっと感じていました。そのとき頭には、小学生の頃の自分が思い出されました。

何か具体的なエピソードではなく、曇りを感じていると、自分が小学生だったときのように感じるのです。空は曇りで、何も面白いことがなく、何をしていいかわからないような感じです。

大人は無理にでもすることを見つけ出すことができるけど、子供にはそうはいかなかったようです。退屈なときや面白くないときは、ほんとに何もすることがなく、そのつまらなさや心細さに耐えていなくてはなりません(勉強熱心な子供はやること一杯かもしれないけど)。

その子供の頃の自分を感じていると、どんよりした灰色の空がなにかとても大きなもののように感じます。宗教なんか全く知らなくても、知らず知らずのうちにそこに何か大きなもの、悪魔のようなものを感じ取っていたのかもしれません。

神や悪魔というのは、生まれたときから人間がもっている観念なのか? よくわかりません。

曇り

2004年10月03日 | 見たこと感じたこと
今日の日曜日は、ずっと曇りでした。空の色は鉛色で、その空の色が世界に住む人々の気分を支配しているような感じでした。今日のような日に幸せ一杯だったという人は、いったいどういう体験をしていたのでしょう。これは皮肉ではなく、素朴にそんな疑問が出るような日でした。

04/10/3 22時5分

小金持ちは幸せor幸せな人は小金持ち?

2004年10月03日 | 日記
先日、“Money is flow”という文章を書きました。そこでは、お金とは紙幣や硬貨ではなく、私たちのこころや身体を維持して喜ばせてくれる流れだということを考えていました。

お金を好きになるとは、お金を欲張りに溜め込むのでもなく、お金を投げ捨てるように豪遊するのでもなく、自分を喜ばせるようにお金を得てそして使っていくものなのだと思います。

本田健さんが一連のベストセラーとなっている著作で言いたいことも、そういうことなのだろうな、と思っています。

おそらく本田さんの本意を汲めば、なにも起業して成功することが幸せだと言いたいのではないのだと思います。ただ、自分が喜ぶようにお金を得る方法の一つが起業であるということなのでしょう。本田さん自身はご自身のコンサルタントという経歴から、起業は幸せにお金を得る方法であることをしっていたので、自然にそのことに焦点を当てたのだと思います。

「幸せな小金もち」になるとは、小金もちになれば幸せになるという意味ではなく、幸せにお金を得る方法を実践すれば(起業すれば)、小金持ちになることもあります、ということなのでしょう。

小金持ちになることを目的にすれば、得たお金をただ散財するか、もっと膨らませるかだけを考えるけど、幸せにお金を得ることを実践できれば、幸せにお金を使うことも自然にできるのかもしれません。

お金を好きになるとは、幸せにお金を得て、幸せにお金を使うということなのかもしれません。

“Eleven Minutes” (『11分間』 パウロ・コエーリョ(著)) 

2004年10月02日 | Book
パウロ・コエーリョ著“Eleven Minutes”を全部読み終えました。ペーパーバックを最初から最後まで読み通したのは初めてなんじゃないだろうか。少し満足。

分からない単語を飛ばして読んだけど、これは今までのパウロ・コエーリョとはかなり趣が違うように感じました。正直に言えば、『アルケミスト』『星の巡礼』以外のコエーリョの作品には、僕は少し物足りなさを感じていた。

失望・落胆・恐怖を経て新しい道を見出すと言うプロセスがどの作品でも描かれてきたけど、なんだかそれが予定調和のストーリーにも感じられたのです。

この“Eleven Minutes”にも似た部分はあるかもしれない。でも、なにかちがう。コエーリョのほかの作品のような大げさな発見・再生ではなく、主人公が心の中で、微妙な変化を重ねながら新しい道をみつけていく、そのプロセスがより一般の読者に近づきやすいものに感じられているように思う。

主人公のような体験をしている人は多くはないかも知れないけど、でも一人一人がその心の微妙な変化を感じ取れるような、そんな作品に仕上がっているような印象を受けました。

新聞

2004年10月01日 | 見たこと感じたこと
基本的に、新聞には物騒な話が多い。どれも「だれがどんなわるいことをしたか」という話ばかり。そういう話を朝からみたくないので、基本的に僕はテレビ欄とスポーツ欄しか見ない。

とくに我が家の新聞は読売なので、最初の1面と2面はとても強気な国家主義の言葉が並ぶことが多い。

そこでやわらかい記事の多い雑誌を食事時に読もうとしたのだけど、これはあまりうまくいかなかった。たとえ雑誌と言えども、そこにはなんらかのポリシーという主張が多いので、食事をしながら読むのになんだか合わないような気がする。

それに対して新聞は、基本的に「ニュートラルに、幅広い話題を客観的に取り上げます」というスタンスを取っている。それは、たとえ読売新聞でもそう装おうとしている(もっとも、そんな仮面をかなぐり捨てることも多いのだけど、この新聞は)。そのスタンスがあるから、食事をしながら読むことにある程度耐えられるのかもしれない。

新聞と言うのはやはり特殊なメディアなんだ。