joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

その道はただ一つ

2004年10月23日 | reflexion
先日(10月19日)のブログで、

「起業ブームにのって、他人の冒険物語を、自分の冒険物語と思いこんで歩んでしまうことは、ボクはとても悲しいと思う。
それはアウトローにみえて、実際には、常識に染まってしまっているじゃないかな?」

という神田昌典さんの言葉を引用しました(『神田昌典の毎日が奇跡』10月10日の記事より)。


彼の言うように、わたしたちが「成功」を夢見るとき、それは多かれ少なかれ、既存の成功物語に憧れているのだと思います。誰もが手探りで生きるわけですから、最初は、自分の道を示してくれそうな物語を私たちは自分の支えにします。

しかし、もし「失敗」したとします。とても悲しいですね。自分はその「成功」のために頑張ったんだと思っているのですから。

ただ、じつはこの「失敗」も、「成功」と同じように、既存の「失敗物語」を鵜呑みにして「自分は失敗したんだぁ」と嘆いている場合が多いのではないかと、昨日ふと思いました。


絶望や悲しみがわたしたちを襲うことがあります。言い争いであいつに負けた、会社に正当に評価されなかった、恋人に振られた、経営が上手く行かなかった、家族関係が上手く行かない、夢が挫折した、等々。

もちろんこれらの事実は「いいこと」ではないでしょう。ただ、今の私たちはこれらのことが起きたときに、世の中に流布する「失敗物語」に影響されて必要以上に悲しんでいるのかもしれない、とも思えるのです。

オーディションに落ちたこと、経営が上手く行かないこと、恋人が去っていったこと、これらは一つの事実です。でも、それらが何か社会的な敗者であるかのような烙印を押す風潮が今は日本では極端に強まっているように思います。「勝ち組負け組」とか「ダメ出し」とか、レッテル張りの風潮がとても強いように感じます。

それらの失敗について、個人の無責任さとか、社会的状況とか、さまざまなストーリーをメディアや世の中は作り出して、その「失敗」の経験を一つの週刊誌の記事のようにしてしまいます。

こうしたレッテルを貼られると、それを剥がすのがとても難しく感じるんじゃないでしょうか。レッテルってそういうものですよね。


じゃあ、一体どうすればいいのでしょう?

僕が思うに、まず、自分の失敗を、世の中に流布している「失敗物語」で解釈せずに、ちゃんと自分固有の「失敗」として解釈することじゃないでしょうか。

世の中の「失敗物語」は、失敗者に“烙印”を押すので、抜け道が見えにくくなってしまいます。一度押された跡は中々消えないように。

でも、その失敗が自分にとって固有であること、社会的にどう解釈されようと、その失敗を経験したのはたしかに自分であり、その経験もひっくるめて自分という人間が存在することを身体で感じることができれば、それはあなただけの失敗になるのじゃないでしょうか。

結婚できない人はたくさんいますし、昇進できない人もたくさんいます。そしてその原因を現代の人々の心理に求めて説明する学者もいるし、社会的制度に求める評論家もいます。

しかし、その経験をしているのはたしかにそのひとだけなのですから、まずそのひと自身がその経験と自分の人生が結びついていることを感じることが大切なように思えます。

そして、その失敗がこの世界で唯一つのものであるように、あなたが生み出せる「成功」も世界で唯一つのものでしかありえないでしょう。

そう考えると、失敗も成功もじつは同じものなのかもしれない、と思います。どちらも、その人が固有に体験したものであり、それはただ一つだけのその人が通ってきた道なのですから。