天気予報は良くあたり、夕方から雨ですわ。
水曜、木曜の陽気で一気に咲いた桜も、この雨で散り始めたりして。
もう少し、咲いてて欲しいけどなぁ~

雨に打たれてる、疎水沿いの桜。
琵琶湖から流れ出る河川は、ひとつは瀬田川で、
もう一方が人工的に造られた、琵琶湖疎水です。

琵琶湖疎水は、明治維新になって都が東京に移って、
沈みきった京都に活力を呼び戻すため、計画されたらしいです。
琵琶湖の水を引く、京都の夢やったらしいですよ~
明治18(1885)年に建設を開始、5年後の明治23(1890)年に第1疎水が完成しました。
水力発電を採用したことで新しい工場が生まれ、路面電車も走り出し、
京都は活力を取り戻したそうです。
それから20年後には、北側に第2疏水を建設し水道と市営電車を開業、
今日の京都のまちづくりの基礎ができあがったと言われています。
もちろん、現在も琵琶湖疎水は、京都市民の生活用水として使われてますよ。
行く前にしっかり予習してなくて、行ってみて気付いたんやけど、
疎水のトンネルの出入り口に、なにやら文字が描かれてるんですね。
扁額、というやつです。
疎水の出口にあった掲示板によると、
第1疎水の建設当初に3つのトンネルがあり、それぞれの出入り口に、
明治の元勲(げんくん)が文字を書いた扁額を掲げたのだとか。

第1疎水第1トンネル、大津側にある扁額は・・・
氣象萬千(きしょうばんせん)
伊藤博文の筆による文字やとか・・・ちょっと文字がわかりずらいけど。
意味は、千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい、ということで
宋の「岳陽樓記」の一節らしいです。

藤尾側の、出口にある文字は・・・
廓其有容(かくとしてそれいるることあり)
山縣有朋の筆による文字。
疎水をたたえる大地は、奥深く広々としている、という意味らしい。
今回は途中でリタイヤしたので、また今度、続きを歩いた時に、
第2、第3トンネルの扁額を確かめてきますね~
そういや、第2疎水のトンネルにも扁額があるとか。
そっちも、確かめてみようっと。
さて、扁額でたどる疎水もいいねんけど、
小関越えの途中、峠を越えたあたりで旧道の細い道を降りるんやけど、
その途中に、疎水工事の名残のようなものがありました。

シャフト、と呼ばれる竪杭の跡です。
第1トンネルは、大津側と藤尾側の両方から掘り進められたそうですが、
同時に、藤尾側よりのところに竪杭を掘り下げ、底の部分から、
大津、藤尾、それぞれの出入り口に向かって掘りすすめ、開通したそうです。
竪坑は、工事の促進、換気、採光のために掘られたもので、
一番の難工事であったとか。
こうして、当時で一番長いトンネルができたんですね。
ホンマに手で掘ったんやから、すごいね。
さてさて、京都の方が桜も早いみたいやし、
今週末でおしまいかな~ 名残惜しいわ。
今度、続きを歩く時は、新緑かな~
水曜、木曜の陽気で一気に咲いた桜も、この雨で散り始めたりして。
もう少し、咲いてて欲しいけどなぁ~

雨に打たれてる、疎水沿いの桜。
琵琶湖から流れ出る河川は、ひとつは瀬田川で、
もう一方が人工的に造られた、琵琶湖疎水です。

琵琶湖疎水は、明治維新になって都が東京に移って、
沈みきった京都に活力を呼び戻すため、計画されたらしいです。
琵琶湖の水を引く、京都の夢やったらしいですよ~
明治18(1885)年に建設を開始、5年後の明治23(1890)年に第1疎水が完成しました。
水力発電を採用したことで新しい工場が生まれ、路面電車も走り出し、
京都は活力を取り戻したそうです。
それから20年後には、北側に第2疏水を建設し水道と市営電車を開業、
今日の京都のまちづくりの基礎ができあがったと言われています。
もちろん、現在も琵琶湖疎水は、京都市民の生活用水として使われてますよ。
行く前にしっかり予習してなくて、行ってみて気付いたんやけど、
疎水のトンネルの出入り口に、なにやら文字が描かれてるんですね。
扁額、というやつです。
疎水の出口にあった掲示板によると、
第1疎水の建設当初に3つのトンネルがあり、それぞれの出入り口に、
明治の元勲(げんくん)が文字を書いた扁額を掲げたのだとか。

第1疎水第1トンネル、大津側にある扁額は・・・
氣象萬千(きしょうばんせん)
伊藤博文の筆による文字やとか・・・ちょっと文字がわかりずらいけど。
意味は、千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい、ということで
宋の「岳陽樓記」の一節らしいです。

藤尾側の、出口にある文字は・・・
廓其有容(かくとしてそれいるることあり)
山縣有朋の筆による文字。
疎水をたたえる大地は、奥深く広々としている、という意味らしい。
今回は途中でリタイヤしたので、また今度、続きを歩いた時に、
第2、第3トンネルの扁額を確かめてきますね~
そういや、第2疎水のトンネルにも扁額があるとか。
そっちも、確かめてみようっと。
さて、扁額でたどる疎水もいいねんけど、
小関越えの途中、峠を越えたあたりで旧道の細い道を降りるんやけど、
その途中に、疎水工事の名残のようなものがありました。

シャフト、と呼ばれる竪杭の跡です。
第1トンネルは、大津側と藤尾側の両方から掘り進められたそうですが、
同時に、藤尾側よりのところに竪杭を掘り下げ、底の部分から、
大津、藤尾、それぞれの出入り口に向かって掘りすすめ、開通したそうです。
竪坑は、工事の促進、換気、採光のために掘られたもので、
一番の難工事であったとか。
こうして、当時で一番長いトンネルができたんですね。
ホンマに手で掘ったんやから、すごいね。
さてさて、京都の方が桜も早いみたいやし、
今週末でおしまいかな~ 名残惜しいわ。
今度、続きを歩く時は、新緑かな~