CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

歌っちゃいけないんだ、やっぱり。。。

2016-02-17 11:06:22 | 表現にからむ様々なこと
今日も朝から、段取りがいい。
不安だなぁ、嵐の前の静けさではないだろうか。
私が、こんなに落ち着いているのは、変だ。
あわてんぼうで、粗忽者・・・どうしたことかと不安になる。
今日も無事に終わることを祈っている。

さて、異常なほど段取り良かった昨日。

レッスンはいつも2時間なのに、1時間のレッスンを急遽、設定した。
なにか大ポカをやらかしはしないかと思ったが、
その一時間も、自分の目的にそった落ち着いたレッスンだった。
確認すべきこと、
自分が目指しているものに近づくために今すべきこと、それができた。
充分だとは言えないけど、いい時間だった。

そのレッスンで再確認したことは、歌っちゃいけないということ。
『歌う』ということの認識が一人一人違うから、
共通認識になかなかならないかもしれない。
私が『語ってる』と思っていることが、
『歌う』ということなのだと思う人もいるだろう。
そして、楽譜をキチンと歌うことが、
歌うことだと認識している人もいるだろう。
楽譜をキチンと歌って、気持ちをそこに込めることが、
歌うことだと思う人もいるだろう。

どれも、間違っていない。
それは、表現には、正解や終点が無いからだ。
常に探求し続ける、自分の思うところを・・・それでいい。

例えば、ララファビアンは、天性のもの声と心(感受性)を持ち合わせ、
そこに専門的な教育も加わり、技術を身につけ、圧倒的な表現力を手に入れた。
そのララファビアンの歌を聴いて、なんて素敵な歌なんだと思って、
いざ自分が歌うと・・・素敵なはずの歌が、とんでもないことになる。
全く別物の下手歌になる。

もともとセルジュラマの歌『Je suis malade』
日本では『灰色の途』あるいは『病の果てに』私の訳詞は『私は病気』
ララファビアンみたいにカッコ良く歌いたいなぁ~なんて思っちゃいけない。
セルジュラマは、歌い上げない。
せつなさ、胸の痛み、寂しさが・・・心情が伝わってくる。
じゃあ、岩下邦子はどう歌うんだ、この歌を!
そういうことなんだ、大事なのは自分がどう歌いたいか、表現するかだ。

歌わない!語るんだ!
てか、歌下手すぎるし。
感情の高まりを音階が上がるとともにリット。
そんな形で表現されているところで、
その感情を自分なりに込めようとしたりして、音がぶれる。
歌えないくせに歌おうとして、技術も体も弱いからぶれる。
聴くに堪えない事態となる。

一番苦しんでいたこの歌『私は病気』が、少しほぐれ始めた。

おにぎりは、固く握りすぎるより、
ふわっとする感じで崩れない、それが美味しい。

歌もそんな感じが、いい。

ふわっとしていて、しっかりしてる。
聴く人に味わってもらうために。。。

歌っちゃいけないんだ、やっぱり。
私は、語る。
それが、私が歌うってことなんだ。

3月10日に歌う予定の曲を返しながら確認して、
『私は病気』を確認して、『俺はスノッブ』のキー確認。
最後に少し時間が残り、何にする?と先生に言われ、
迷わず『黒い鷲』にした。

これも試したいことがあったから。
うん、邦子の『黒い鷲』が少し見えた。
この曲も、がんじがらめだったが、動き始めた。

いろんな事に刺激を受けて、次を目指して。
歩みはゆっくりだけど、確実に変化しています。
良いレッスンになりました(^_^)v

あまりに、うまく事が進んでいる。

エレベーターの隙間に定期を落としたりしないように、気をつけるとしましょう!