白鵬の九州場所での『カチアゲ』が話題になっている。
私が書かないのは、良くないなと思うので、書くことにした。
このブログ・・・歌関係より、相撲関係の愛読者が多いことは間違いないからなぁ・・・
さて、カチアゲについておさらいしておこう。
カチアゲを立合いで使う関取としては、玉鷲、高安などが思い浮かぶと思う。
身体の前に腕を三角巾で吊ったような状態にしてみてほしい。
脇をしめる。
前に出る時に前腕部で相手の身体を起こす動作。
玉鷲は、ぐっと力をつけて番付を上げてきたとき、
このカチアゲでの立合いがものをいった。
出足のスピードと角度、すべてがはまり、力を相手に十二分に伝える見事なカチアゲだった。
高安のカチアゲもまた素晴らしいものがある。
体(たい)とともにぶち当たっていく。
というわけで、私はカチアゲそのものを相撲の技ではないなどというつもりは毛頭ない。
が、白鵬の『カチアゲ』はカチアゲというにはほど遠いのだ。
肘で相手の顔面をめがけて・・・破壊しに行く。
相撲協会の見解は『反則ではない』らしいが、
ちゃんちゃらおかしくって臍が茶を沸かすってんだ!
ここで言っておくが、『相撲』は文化だと私は思っている。
スポーツであると同時に文化なのだ。
では、ここでいう『文化』とは何か?
人類の理想を実現して行く、精神の活動。
ということに尽きる。
だから、相撲をスポーツとして観ている人とは観方が全く違うということなのだ。
相撲協会は、そのことをもう一度考えてほしいものである。
格闘技でありながら、人類の理想を実現していく、精神の活動・・・なのである。
これは、極めて珍しいスポーツの在り方だと私は思っている。
だから、横綱である白鵬のあのカチアゲ、張り差し・・
とにかく横綱としていかがなものかと声を大にして言わなければならないのだ。
白鵬自身も『後の先』などと口にしていたが、
『後の先』を白鵬の立合いで感じることは少ない。
白鵬には、だれも何にも言えない・・・そんな状況を耳にするようになって久しい。
このままでは、相撲という文化は潰えてしまうのではないかと、危惧している。
それは、現役力士の頂点である『横綱』によって、つぶされてしまうのではないか・・・と。
各力士に奮起してほしい。
それは、私もそう思う。
しかし、幕下の立合いに張り差しが多くみられる昨今、
それは立合いとしては好ましくないと、
まっすぐ当たることの大切さを
踏み込むことの大切さを、指導しなくてどうするのだ。
横綱をみんな目指している。
その横綱があんな乱暴な立合いをしている。
土俵が、乱れ切っている。
その中でも愚直に相撲を、相撲文化を全うしている力士たちがいる。
あの横綱をいただく日本の相撲界において、一縷の望みはそこにこそある。
白鵬が美しい相撲を取っていた姿を私は忘れない。
いつから、変わってしまったのか・・・私にはわからない。
しかし、今の白鵬を育てたのは日本の相撲界である。
相撲とは何かをもう一度考える時・・・なのかもしれない。
白鵬がその機会を与えてくれたともいえる。
文化としての相撲・・・精神・・・
心技体の『心』について、しっかり見つめ直すときなのだと思う。
そのことを愚直にまで訴えてきた人は、去ってしまった。
しかし、そのことを胸に秘めている人がいると私は信じている。
私が書かないのは、良くないなと思うので、書くことにした。
このブログ・・・歌関係より、相撲関係の愛読者が多いことは間違いないからなぁ・・・
さて、カチアゲについておさらいしておこう。
カチアゲを立合いで使う関取としては、玉鷲、高安などが思い浮かぶと思う。
身体の前に腕を三角巾で吊ったような状態にしてみてほしい。
脇をしめる。
前に出る時に前腕部で相手の身体を起こす動作。
玉鷲は、ぐっと力をつけて番付を上げてきたとき、
このカチアゲでの立合いがものをいった。
出足のスピードと角度、すべてがはまり、力を相手に十二分に伝える見事なカチアゲだった。
高安のカチアゲもまた素晴らしいものがある。
体(たい)とともにぶち当たっていく。
というわけで、私はカチアゲそのものを相撲の技ではないなどというつもりは毛頭ない。
が、白鵬の『カチアゲ』はカチアゲというにはほど遠いのだ。
肘で相手の顔面をめがけて・・・破壊しに行く。
相撲協会の見解は『反則ではない』らしいが、
ちゃんちゃらおかしくって臍が茶を沸かすってんだ!
ここで言っておくが、『相撲』は文化だと私は思っている。
スポーツであると同時に文化なのだ。
では、ここでいう『文化』とは何か?
人類の理想を実現して行く、精神の活動。
ということに尽きる。
だから、相撲をスポーツとして観ている人とは観方が全く違うということなのだ。
相撲協会は、そのことをもう一度考えてほしいものである。
格闘技でありながら、人類の理想を実現していく、精神の活動・・・なのである。
これは、極めて珍しいスポーツの在り方だと私は思っている。
だから、横綱である白鵬のあのカチアゲ、張り差し・・
とにかく横綱としていかがなものかと声を大にして言わなければならないのだ。
白鵬自身も『後の先』などと口にしていたが、
『後の先』を白鵬の立合いで感じることは少ない。
白鵬には、だれも何にも言えない・・・そんな状況を耳にするようになって久しい。
このままでは、相撲という文化は潰えてしまうのではないかと、危惧している。
それは、現役力士の頂点である『横綱』によって、つぶされてしまうのではないか・・・と。
各力士に奮起してほしい。
それは、私もそう思う。
しかし、幕下の立合いに張り差しが多くみられる昨今、
それは立合いとしては好ましくないと、
まっすぐ当たることの大切さを
踏み込むことの大切さを、指導しなくてどうするのだ。
横綱をみんな目指している。
その横綱があんな乱暴な立合いをしている。
土俵が、乱れ切っている。
その中でも愚直に相撲を、相撲文化を全うしている力士たちがいる。
あの横綱をいただく日本の相撲界において、一縷の望みはそこにこそある。
白鵬が美しい相撲を取っていた姿を私は忘れない。
いつから、変わってしまったのか・・・私にはわからない。
しかし、今の白鵬を育てたのは日本の相撲界である。
相撲とは何かをもう一度考える時・・・なのかもしれない。
白鵬がその機会を与えてくれたともいえる。
文化としての相撲・・・精神・・・
心技体の『心』について、しっかり見つめ直すときなのだと思う。
そのことを愚直にまで訴えてきた人は、去ってしまった。
しかし、そのことを胸に秘めている人がいると私は信じている。