CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

相撲とは何かをもう一度考える時・・・なのかもしれない。

2019-11-27 08:57:51 | お相撲(スポーツ)のこと
白鵬の九州場所での『カチアゲ』が話題になっている。
私が書かないのは、良くないなと思うので、書くことにした。
このブログ・・・歌関係より、相撲関係の愛読者が多いことは間違いないからなぁ・・・

さて、カチアゲについておさらいしておこう。

カチアゲを立合いで使う関取としては、玉鷲、高安などが思い浮かぶと思う。
身体の前に腕を三角巾で吊ったような状態にしてみてほしい。
脇をしめる。
前に出る時に前腕部で相手の身体を起こす動作。
玉鷲は、ぐっと力をつけて番付を上げてきたとき、
このカチアゲでの立合いがものをいった。
出足のスピードと角度、すべてがはまり、力を相手に十二分に伝える見事なカチアゲだった。
高安のカチアゲもまた素晴らしいものがある。
体(たい)とともにぶち当たっていく。
というわけで、私はカチアゲそのものを相撲の技ではないなどというつもりは毛頭ない。

が、白鵬の『カチアゲ』はカチアゲというにはほど遠いのだ。
肘で相手の顔面をめがけて・・・破壊しに行く。

相撲協会の見解は『反則ではない』らしいが、
ちゃんちゃらおかしくって臍が茶を沸かすってんだ!

ここで言っておくが、『相撲』は文化だと私は思っている。
スポーツであると同時に文化なのだ。

では、ここでいう『文化』とは何か?

人類の理想を実現して行く、精神の活動。

ということに尽きる。
だから、相撲をスポーツとして観ている人とは観方が全く違うということなのだ。

相撲協会は、そのことをもう一度考えてほしいものである。

格闘技でありながら、人類の理想を実現していく、精神の活動・・・なのである。
これは、極めて珍しいスポーツの在り方だと私は思っている。

だから、横綱である白鵬のあのカチアゲ、張り差し・・
とにかく横綱としていかがなものかと声を大にして言わなければならないのだ。

白鵬自身も『後の先』などと口にしていたが、
『後の先』を白鵬の立合いで感じることは少ない。

白鵬には、だれも何にも言えない・・・そんな状況を耳にするようになって久しい。

このままでは、相撲という文化は潰えてしまうのではないかと、危惧している。

それは、現役力士の頂点である『横綱』によって、つぶされてしまうのではないか・・・と。

各力士に奮起してほしい。
それは、私もそう思う。
しかし、幕下の立合いに張り差しが多くみられる昨今、
それは立合いとしては好ましくないと、
まっすぐ当たることの大切さを
踏み込むことの大切さを、指導しなくてどうするのだ。
横綱をみんな目指している。
その横綱があんな乱暴な立合いをしている。
土俵が、乱れ切っている。

その中でも愚直に相撲を、相撲文化を全うしている力士たちがいる。
あの横綱をいただく日本の相撲界において、一縷の望みはそこにこそある。

白鵬が美しい相撲を取っていた姿を私は忘れない。
いつから、変わってしまったのか・・・私にはわからない。
しかし、今の白鵬を育てたのは日本の相撲界である。

相撲とは何かをもう一度考える時・・・なのかもしれない。
白鵬がその機会を与えてくれたともいえる。

文化としての相撲・・・精神・・・
心技体の『心』について、しっかり見つめ直すときなのだと思う。

そのことを愚直にまで訴えてきた人は、去ってしまった。
しかし、そのことを胸に秘めている人がいると私は信じている。

五十肩・・・と暮らす日々。

2019-11-27 00:22:04 | 華麗なる加齢 あるいは 身体
四月の下旬から、違和感が始まっていた。
が、ゴールデンウイークとやらは、
私の職場が忙しくなる日で弱音を吐く暇がない日々なわけで・・・
あぁ、『日本人』だなぁと思うけれど、
とにかく、走り抜けなければならない。
左肩の違和感を感じながらも、特に何もしなかった。

そして、5月21日は、Bitches BrewでCuniCo's Gig の日。
痛いとかなんとか言ってられないべってわけけで・・・
そのうち、夜も眠れないほどの痛みとなり・・・
まったく、腕が動かなくなり・・・
とにかく、つらい日々だった。
違和感を感じ始めたのは、
腕立て伏せを頑張った後な気がしないでもない。

が、原因は、はっきりしない。
はっきりしているのは腕が全く動かないってことだけ。

6月8日には、近所の中国気功に行き、
カッピングもしてもらい、6月9日の渋谷ライブに備え・・・たが、
もうすでに固まっている肩には、あまり良い影響はなかった。

その後、近所の接骨院に週3回通うようになり、
電気と筋膜リリースと、施術・・・大体30分コースを続けることになる。

少しずつではあるが、動くようになる。

とはいっても、運動をする気など、起きるはずもなく、
あれよあれよという間に、スイカのようなおなかになってしまった(^^ゞ
9月初めまで接骨院に通ったが、その後行かなくなってしまった。

少し動くようになったことと、やはり、忙しいということがあった。

五十肩とともに暮らし始めて半年たった。
電車のつり革に手が届くようになった。
それだけで、大いにうれしくて、まぁ大丈夫だろうと思っていた。

ふと、腕を横にあげてみる・・・
この動き、普段あまりしないことに気付く。
そして、左腕、30度しか上がらないことにも気づいた(>_<)

これ、やっぱり、ひどいかも・・・
接骨院に再度通い始めることにした・・・
まぁ、週1回でもいいから、やっぱり意識することが大事だと思った。

と、意識しすぎたためか、忙しかったからか、日曜日、仕事中に右肩に違和感。

まずい、絶対まずい、と思って、慌てて職場近くで、
身体をほぐしてくれるところはないかと、探した。

てっちゃんが急逝してから、私の身体のメンテをしてくれる人がいない。。。
6月に行った中国気功の先生は、どうも合わない。

早番勤務が終わってから、予約して、職場近くでみつけた、中国気功へ。

ふ~む、この先生なら、いいかもしれない。

「五十肩、甘く見てました。かなりひどいね・・・あと二回くらいかかります。」
というではないか。
いやいや、これでもよくなった方なんですけど・・・と思ったけど、
とにかく、どうやら、現状でも『ひどい五十肩』らしい。

実は、そこで施術してもらってから、五十肩はともかく、すこぶる体調がいい。
久しぶりに、休みだったこともあり、
身体も心もゆっくり過ごしたからかもしれないが・・・体調がすこぶるいい。

接骨院で、肩を診てもらい、
中国気功で、肩を含めた全体のケアをしてもらう。
自宅では、軽いトレーニング復活できている。

スイカのお腹は、なかなか戻らないかもしれないが、
まずは、中から綺麗にしていかなくっちゃと思うわけで、
遅番から帰宅し、寝る前に午前0時くらいに、
たくさんご飯食べてしまうという情けない状況も改めることにした。

五十肩と暮らす日々は、自分の身体を意識しなくてはならないわけで、
ある意味、ゆっくりゆったり、ケアの大切さを認識する日々なのかもしれない。

まぁ・・・のど元過ぎれば、なんとやらではあるのですが(^^ゞ

五十肩と暮らす日々、一喜一憂しながらも、加齢を受け止めつつも、
元気で、フルスロットルでいたいものだと思う私なのでした。

けが人続出の九州場所に思う。。。

2019-11-18 10:32:23 | お相撲(スポーツ)のこと
ラグビーのことも、ボクシングのことも、
書きたいことたくさんあったのだが、
blogに向き合う時間がなかった。
もちろん、相撲のことも、
あれやこれやありすぎるくらいあったが、
書くことを躊躇し、書かずじまいになったことたくさんあった。

久しぶりに書きますかな。。。
相撲のこと・・・あれこれ(^.^)

とにかく『場所』が、しまらない。
きりっとしない。
ばらけている。
つまり、集中ってものが足りない。
稽古でもっともっとたたき上げなければ、
大相撲は、崩れていってしまう。

それぞれの競技には、それぞれのルールがあり、
それに見合った練習(稽古)を積んだものにしか立てない場所がある。
野球もサッカーもバレーボールも卓球も
ラグビーもそうだし、ボクシングもそうだ。
特に、直接拳を交えるボクシング、
あるいは身体でぶつかっていく競技、ラグビーや相撲には、独特な鍛え方があるはずだ。
肉体面だけではなく、精神面も含め、
ぶつかっていくからには、常識を超えた鍛錬も必要だったりする。
それがなくては、成立しないものがある。

ラグビーの世界で、
ボクシングの世界で、
そして大相撲の世界で、
その歴史と伝統の中で築き上げたものがある。
それをないがしろにしてはいけないと私は思う。

多くの批判を浴びるかもしれないが、あえて書きたい。
相撲の稽古で竹刀で身体を叩くシーンがSNSでアップされ非難された。
相撲の稽古は、『限界のその一歩先』を常に求めて行われている。
と私は思っている。
もう、死ぬ・・・と思ったその一歩先。
それを、見つめる親方の目は、真剣である。
ギリギリまで鍛え上げるために、そのギリギリを見極める目だ。
だから、身体が限界を迎えたときに、その先へ精神力で立ち上がる。
さらにその先へ・・・身体の反応を引き出してその先へ、行くのだと私は思っている。
それが、竹刀だ。
そういう鍛え方をして、つちかったもの・・・
それが、前へ出る相撲を取らせるし、怪我をしない身体を作る。

友風が大怪我をした。
私は、常々、友風の引く相撲が気にかかっていた。
いつか大きな怪我をするのではないかと、気にかかっていた。
ずっと勝ち越しで順調に番付を上げてきた友風だが、
前に出る圧力が、幕内ともなれば、全く違う。
その中で、身体に染みついた引く相撲・・・怪我をするのではないかと気になっていた。
痛いのは、身体だけではない、気持ちもダメージが大きいと思う。
そして治療して再び土俵に立つときに越えなければいけない『恐怖心』との闘い。
これは、想像を絶するものがある。
心から応援したい。
そして、前へ出る相撲を我慢強く追及して、また幕内でその雄姿を観たいと思っている。

その世界にはその世界を創ってきたものがある。

その中でしか通用しないこともたくさんある。

『なぁ~にやってるんだ!ばかもん!故郷(国)へ帰れ!』
師匠に、親方にそう言われても、負けるもんかと稽古に励むくらいでなければ、もたない世界。
そういう世界があることをあることを、もっと理解しなければ・・・いけないのではないだろうか。

そう言われて、我慢できないなら、帰ればいい。
相撲だけが人生ではないのだから。
自分で決めるきっかけをもらえたと思い、相撲をあきらめればいい。

暴力を容認しているのではない。
ただ・・・
あまりにも自分の『常識』でしかものを見ず、
その世界を理解しないまま批判をする人たとの多さに、辟易としてしまう。
もちろん、変えるべきところもあろう。
しかし、厳しい稽古には、意味があるということなんだ。

厳しい稽古をする先代阿武松親方だが、力士たち一人一人をしっかりと見つめていた。
頸椎を痛めた力士が引退するとき
「本人が一番悔しいと思います。けれど頸椎は命取りです。人生を棒に振ることになります。
これからというときに悔しくてならないと思いますが、涙をのんで引退を決めることとなりました。」
そう挨拶されていた。
預かった子たちを大切に、本当に愛情をもって育てていた。

大相撲協会を退職する前にお話ししたとき、
「私を応援してくださる方の中にも賛否はあります。
けれど、私は土俵に女性が上がれないというのはもう古いと思っている。
自分の最後の仕事は、なんとか女性が土俵に上がれるようにすることだと思っていた。
それができずに、とても残念なんです・・・」とおっしゃっていた。

私は、結構、女性の権利を訴えたり、差別に敏感だったりするのに、
こと、このことに関しては保守的な人間であった。

先代阿武松親方が、女性が土俵に上がれるように・・・と思っていたとの話を聞き、
それこそ立合いで踏み込まれてまわしをしっかり取られて、寄り切られる感じだった。
肩でしっかり押されて、一気に寄り切られた感じである。

貴乃花親方が去り、先代阿武松親方が去り、これから、大相撲はどんな姿を見せるのか。

昨日の土俵上での横綱仕切りをみていると・・・前途多難な気がしてならない。

場所の土俵での集中力。
昨日の貴景勝のしきりに一縷の望みを見た私である。
相撲とはなんぞや・・・
それをじっくり考える時なのかもしれない。

あ、やっぱり長くなってしまった(^^ゞ
昨日は、不知火親方が後半の勝負審判で土俵下にいて・・・
私はそわそわしてしまった(^^ゞ
忙しくてビデオも溜まっているが、ぽちぽち観ています。
若山、いい相撲だね。
どうやら千田も頑張っている。
元亀がちょっと元気なく心配。
阿武咲は書くときりがないからやめておこう。
阿武松部屋を引き継いで健ちゃんも女将さんも頑張っている。
先代阿武松親方の教えをかみしめながら、阿武松部屋、みんなで頑張れ!!

というわけで、相撲忘れたわけではありません。
ちょっと、いろいろあり過ぎて書けずにいただけなのです。

先代阿武松親方が結婚されたときには、もうすでに部屋を構えていた。
つまり、おかみさんと結婚したときには、もう力士という立派な子どもがそこにいた。

引退したら、初めて水入らずの新婚ですね。
というと、お二人で照れていた・・・その時の写真(^.^)



親方の体調も思わしくない中、ゆっくりと過ごすことがまず第一。
温泉でも行かれては?というとおかみさんがおっしゃった。
「何か計画すると、必死に考えてしまう人だから、しばらくは、何もせずに・・・かな」

何事にも真摯にどこまでも突き進む先代阿武松親方の体調が快復し、
お二人が、ずっと仲良く過ごされることを願っています。

大由鬼山さんの尺八と紡ぐ時間・・・

2019-11-15 15:27:16 | 表現にからむ様々なこと
毎月21日に白楽のBitches Brewで、Gigを敢行してきた。
紆余曲折があったが、なんとかきっちり、休まずに敢行してきた。
今年はあと2回。
ご一緒するのは、都山流大師範 大由鬼山さんだ。
「尺八はフロントだから、vocalとやるのは大変。」
と、師匠に言われたが、私にはあまりよくわからない。
このわからなさ加減が、ミュージシャンからしたら、
いやでたまらないということもあるだろうなぁ・・・
だから、私とご一緒してくださる方は、
それを面白がってくれるミュージシャンでないとならない。

で、結果・・・度量と器量と技術を魂を持った方とご一緒することとなる。
もちろん、合う合わないってあるから、それだけではないのだけれど、
こんな私を面白がってくださる方でないと、無理なわけだ。

なにしろ、とんでもないからな・・・私。

先日、ご一緒した山口コーイチさんも、
あれま、こいつ、どうなるんじゃろかい・・・と思っただろうなと思う(^^ゞ
でも、そんなCuniCoをしっかり見守り、寄り添い、ある意味、一緒に闘ってくれた。
感謝しかないなぁ・・・
10月10日のライブは、山口コーイチさんでなければ成立しない時間を紡げたと思っている。

さて、話を戻そう・・・

大由鬼山さんとのGigが今年のラストを飾る。
大由さんと出会いは、本当に私にとって、大きいものとなった。

フロント楽器とvocal・・・その難しさなんてよくわからないまま、
尺八を理解しないまま、無理なこと、たくさんお願いして、やっていただいた。
大由さんは、私に「できません」と決して言わない。
どんなに尺八とは相いれない曲であっても、それを演奏するための精進を重ねる。
そして、私が、納得するのを待ってくださる。

なんとか、尺八でこの歌唄いたい。
奇想天外な私の想いは、どうしても通用しないことがある。
それでも、私が、納得するまでやらせてくれる。

大由さんは、家人に言ったそうである。
「邦子さんは、やりたいようにやらせること・・・です。」

まったく本当に、頭が下がる。
そして、私に言ってくださる。
「だれが何を言おうと気にしなくっていいんです。」と。

わからないまま、突き進んできた尺八と紡ぐ時間。
ただの尺八ではなく、大由鬼山の尺八だ。
それは、ある意味私にとって宝物のような時間である。

いや、きっと生まれてこの方、たくさんの出会いそのすべてが宝物であることは間違いない。
だからこそ、いまの私がいて、そんな今の私だからこそ、出会えたってことなんだ。

ぜひ、立合っていただければ・・・と思う。
私の表現の時間を仕上げるために、白楽へ足を運んでいただければと思う。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

そうだ・・・シャンソンつながりでこのブログを読んでくださっている方もいる。
シャンソンの歌い手の方がよく歌うロシアの曲『鶴』も尺八とともに歌っている。
訳詞は、私のもので・・・
実は、横浜のデュモンで樋口悟さんが歌うロシア語の『鶴』を聴いて、
この歌は、まだまだ私には歌えない・・・と思っていた歌だった。
この『鶴』を大由さんはレパートリーとして、ロシアでも演奏している。
そのことを知って、そして大由さんから『鶴』の話を伺い、訳詞をした。
そして、歌っています・・・『鶴』
この曲が、私の大切なレパートリーとなったのは、大由さんのおかげでもある。

11/21(木)19:00start
12/21(土)15:00start
3,000円(1drink付き)
@Bitches Brew

CuniCo's Gig with 大由鬼山
1st 金の輪 作:小川未明 構成:岩下邦子
2st 歌と語りと尺八と
語り・歌:CuniCo 尺八:大由鬼山


そして、もちろん、来年も毎月21日 CuniCo's Gig は続いていきます(^.^)

自らを律しコントロールすることで生まれるもの・・・

2019-11-06 11:48:45 | 表現にからむ様々なこと
音楽は、命のあるところにいずるもの。
表現は、人間の命とともにいずるもの。

書き留めておきたくなった。

このことだけは、今、書き留めておきたくなった。

インプロ、即興というものが、そこに生まれる時・・・
それは、意識と無意識の混沌の果て、
つまりその瞬間に反応しながらも、
その反応は、その人の意識下にあるものであることを忘れてはならない。

自由を得るためには、何もしない、ただ感じたままでいいということではない。
自らを律しコントロールすること、
それは、技術に裏打ちされたものであるからこそ、『即興』が表現となるのである。

私には、そう思えてならない。

ただし、その表現が自由であると同時に
観客、受け止める側にも自由がある。
拒否する自由もあるわけだ。

ただ、その表現の機会は、できる限り与えられるべきものだと私は思う。
ただし、その表現の機会は、権力者によって奪われることがあってはならないと私は思う。

垣根は、ない。
クラッシックもジャズもシャンソンも現代音楽も子どもが奏でる笛の音も。
音楽は、命のあるところにいずるもの。
表現は、人間の命とともにいずるもの。

カナダからの即興演奏家がやって来る。
その音に一人でも多くの人が包まれることを、
感じることができることを願ってやまない。

自らを律しコントロールすることで生まれるもの・・・
それが『自由』、まさに『フリー』なのである。