CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

叱ると怒る

2020-02-14 14:43:51 | 日記
久しぶりに、叱ると怒るについて考えたりしている。

子どものサッカーチームのコーチ。
4人の子どもを男手一つで育てていた。
彼は子どもを叱るとき・・・
怒ってはいけないと、
手を出してはいけないと、
自分をコントロールするために
お膳を真ん中にして子どもと対峙するといっていた。
自分を冷静にするワンクッションをそこに入れる。
これ・・・結構、有効だなぁっと思ったものです。

私は、子どもが小さい頃、
どちらかというと感情をぶちまける、あまりよくない母親だった。
ただ、ぶちまけた後に、すごく後悔したり、考えたりした。
自分がいつも間違えている・・・
というマイナス思考は、ここではプラスに働いたかもしれない。

まぁ、バランスの取れた母親ではなかったが、
あっちこっち振り切れながら、いろいろ考えたもんだ。

もう記憶もあいまいだが、
ある日私は、子どもを怒っていた・・・
その次の瞬間、あれ?私、この子のために怒ってない。
自分の世間体のために怒ってる。
自分がダメな母親だと思われなくないから怒ってる。
と気が付いたことがあった。
あの瞬間背筋がさむくなったなぁ・・・

私には、自分のものと他人のものを認識するのが苦手な子がいる。
今はいっぱしの大人である。
で、ある日・・・保育園でお友達のジャンバーを着て帰ってきてしまった。
いやはや、我が家のジャンパーはおさがりのちょっと薄汚れたジャンパーで、
そのお友達のジャンパーは、同じ色だけれど、ブランド品・・・(^^ゞ

夜・・・抗議の電話がかかってきた・・・
「お宅の子は泥棒だ!まったく、どんなしつけをしているのか!」と。
「お宅の薄汚れたジャンバーと家のジャンバー、同じに見えるわけがない!」
受話器を放しても充分聞こえる声で・・・怒鳴られた。

う~ん、間違えちゃったもん、しようがないじゃないか・・・
う~ん、おんなじ色なら、おんなじに見えちゃうよ・・・
そんなこと、考えながら、相手が怒鳴りまくって電話を切るのを待った。
もちろん間違えた我が子に非がある。
謝ったけれど、御免なさいという気持ちより、そのすごい剣幕に驚いた・・・

このとき、子どものことは、あまり怒らなかった。
ただ、話をした。

△△ちゃんのジャンバー綺麗だね。
でもこれ、似てるけど○○のジャンパーじゃないよね。
似てるから、わからなかったね。
でも、△△ちゃんは、このジャンバーを着て帰りたかったみたい。
あした、間違えてしまってごめんねって言おうね。
こんどから、間違えないように○○のジャンパーには印付けようね。。。

そんな風に話した覚えがある・・・

叱る・・・とは、こういうことなんだと思うわけだ。

まぁ、大人に対して『叱る』ときには、
こうはいかずに、怒ってしまうことが多い。
それは、「なんでこんなこともわからないのか!」
という怒りという感情が頭をもたげるからだろう。

昨日、もう日が落ちて暗くなった道で母親が声を荒げていた。
「何言い訳してんの!」
「なんで嘘つくの!」
「もう、時間ない!」
「あんたは走りなさい!」
学童保育からの帰りだろうか・・・
どうやらふざけっこしていて、お友達を傘でつついてしまったらしい。
「ふざけてたなんて、言い訳にならない!」
「傘でつついたって聞いてるんだから、嘘つくな!」

そんな言葉を聞きながら、私はその横を通り過ぎる。
働きながら三人の子育てをしてきた私には、お母さんの気持ちが痛いほどわかる。

私など、ひとり親だったりしたから、『母子家庭だから』といわれることへの恐怖もあった。
だから、子どもにしっかりしてほしくて、周りから何か言われたくなくって、頑張った。
けっか・・・
叱らずに、感情をぶちまけて怒ってしまうこともたくさんあった。

もう、いったん坂を転がりだした『怒り』の感情は雪だるまのように膨らんでいく。
堰を切って流れだした『怒り』の感情はコントロールが効かなくなる。

歩いていると、少年の走る足音が、近づいてくる・・・
思わず、頑張れ!と小さな声がでる。
その後ろから母親の自転車が追い抜いていく・・・
「あんたが反省するまで乗せないからね!」

反省してないのだろうか・・・
彼はきっともうすでに自分が悪いことをしてしまったことに気付いている。
ふざけあっていたことも嘘ではない。
ただ、結果、相手に痛い思いをさせてしまったことに気付いている。
ねぇ、お母さん・・・あなたの子どもは、もう充分反省していると思うよ。

と思いながらも、もちろん、かかわることはできずに、道の先に消えていく親子を見送った。

余裕がないんだよな・・・そうなんだよ、わかる。

でも、絶対的な力関係がそこにはあるよね・・・
だから、やっぱり、子どもは、つらいと思うな・・・
いちばん好きなお母さんにわかってもらえなくって・・・

人間は、感情の動物だ。
だから、感情に支配されるときも、感情が優先されるときも、ある。
でも、そういう動物で、それが優先されちゃうことがあり、
そのことが、あまりよくない方向に働くこともあるってことを、たまに考えると良いんだよな、きっと。

聖人君子になんてなれない自分をよく知っている。
いや、それでこそ、人間でしょ。
と思いつつ、そのうえで、怒らずに叱ることのできる人になれたらいいな。

こんなに先行きの見えない社会じゃ・・・ついつい、怒ってしまうこと多いけど、ね。




これからの時間を笑顔で過ごすための準備が終活(^.^)

2020-02-07 11:17:01 | 日記
ゆっくり、いろいろ考えるに、
この頃、あまり、欲がなくなった。
つまり、そこにいきつく。
情報量が処理能力を上回っている。
そんな時に、自分は何をすべきかを考えたとき、
『スルー出来ること』が、大切な気がしてならない。
『すべきこと』が『何もしないこと』ってのが、
なんか矛盾しているようだが、そうでもない。
自分にかかわらないことはスルーして、まず自分の周りを大切にする。
他人のことは考えないってことでもないし、
社会のことはどうでもいいってことでもない。
なにしろ、私の周りは、他人だらけで、その人は自分の周りにいるし、
社会の中で生きているからには社会がどんな社会なのかは、自分にかかわってくる。
だから、思考し、行動することには、何ら変わらないのだが、
自分が本当に最期になるときにかかわる人が、
しあわせなように、シンプルでクリアにいたいなって思い始めた。

私は、群れることが苦手で、組織をきらう。
自身の力以上のものを感じて、盛り上がっていく共犯幻想をきらう。
集団が苦手だ・・・

それなのに、社交的な人間だと思われるし、
好感度も高めなので、いつも間違えてしまう。
周りも、私自身も。

私は一人が好きだし、私はじっとしているのが好きだ。

我がDNAを受け継いだ子たちも、わりとその要素を持っている気がする。

年末年始、メンタルに大きな負担が生じたために
今、私は結構、自分をゆるくしてあげている。

がむしゃらに頑張らなくなっている。

単純な方がいいと思い始めている。

そして、子どもたちは自分にとって、とっても大切で
ナニモノニモカエガタイということを再認識している。

子離れできない親でいいじゃないか。
そう思う。
依存し過ぎないということは大切だけれど、
やっぱり、大切なんだな・・・子どもたち。

私は、小さなころ、母に抱かれたことがない。
だからって、特にどうってことは無い。
母は母だ。
自分にできることは限られていて、特に何もできないが、
母は母だ。
会いに行くとなんとなく、あぁ似ていると思う。

だから、何もできない私を恨んでもいないし、
あぁ・・・私の子だと思っているのだろうなぁと思う。
そして、私の子だ・・・と思ってくれる、
思い出してくれるのもあとどれくらいなんだろうと思うくらい認知症は進んでいる。

そんな母をみていると、シンプルでいいのだなということをつくづく思う。

つまり、これから歳を重ねる間・・・
シンプルであることが究極だと思う。
誰かに認知されることでもなく、
誰かを認知することでもなく、
私という個をシンプルに生きること・・・なのだと思う。

他人の力を借りてこの生命を維持しなければならない状態にいつなるかわからない。
だから、シンプルにしておかなくてはな・・・と思う。
自分ができることはしておかなくてはと思う。

終活って自分がより楽に、つまり笑顔で生きるための作業で、
決して、死ぬための準備ではないと思うわけです。

とはいえ、先立つものが、まったくないから・・・
不安だけは膨らんでしまうっていう現実があるんですけどね(笑)