うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

新しい「中世」

2021年03月30日 | 本と雑誌
田中明彦 日本経済新聞社 1996年
現在は講談社学術文庫にも収録されているようです

冷戦後の世界秩序を新たな視点から見据えたものとして、名著の誉れが高い、と言われている。もっとも、それを知ったのは恥ずかしながら6,7年前のことだ。
刊行されてからちょうど四半世紀が過ぎた。今年はソビエト連邦の崩壊から30年が経ち、コロナ禍のなかで世界情勢が著しい変化を遂げようとしている。
今年の正月ごろ、そんな感慨を抱きながら昼休みにちびちびと読んでいた。

1996年をつい昨日のようだとは流石に思わないけど、既に携帯電話もデジカメもあったし、一応うちでもインターネットが開通した年でもある。当時既に日本の地盤沈下のような議論はあったとは思うが、今本書に掲げられている各種の経済データを見ると、ちょっとため息が出る。95年に一人当たりGDPが世界第5位だった日本は、今は25位(2019年)である。シンガポールは当時日本の7割ぐらいの水準だったのが、今は日本よりも1.6倍も高い。

本書の論点は、国同士のイデオロギーの対立であった冷戦時代の終結後、民主主義と市場経済、グローバリゼーションが普遍的な価値体系として人々の間で受容されつつある世界の姿が、普遍的イデオロギーとしてのキリスト教のもと、各主体が多様に存在しえた中世ヨーロッパと共通性を持っている、という点にある。

中世以後、近代国家が確立した16世紀から20世紀にかけての世界は、近代主権国家(=今日の人々が国家として心に描くもの)が圧倒的優位を持ち均質化し、イデオロギーの対立によって時には戦争となり、また時には力の均衡による平和があり、という時代を過ごしてきた。その一方、経済的な相互依存関係は技術や交易の発展とともにより緻密になり、世界を統合していった。

冷戦後の新しい「中世」では、自由主義的民主制と市場経済が成熟、安定し、その中で多様な主体―時には国家であり、またはグローバル企業、或いはNGOなどの活動―が相互横断的に活動する。人々の帰属意識も、必ずしもナショナリズムに基づいたものだけではない。あるときには国際企業の一員として世界各地の同僚たちに仲間意識を感じ、別のときには地域活動に精を出したりする。

ただし、地球上のすべての国がこのような成熟した自由主義的民主制と市場経済ののもとにあるわけではない。未だに近代を引きずっている国々、あるいは国家としての秩序すらない混沌の段階にある国々が混在している。

したがって、現状、国と国との相互関係として近代世界の方策を捨てるわけにはいかないが、現状を維持しながら、いずれは世界中が新しい「中世」の方向に向かうことを期待していく、という論理である。

これは、僕を含むごくふつうの人が「グローバリズム」と呼ぶ概念とだいたい近いものだとおもうが、少なくともこの25年間の半分以上の期間は、おおむね田中氏の描いていた概念を是として、世界はうごいていたものと思う。

そして、今はどうなったか。

残念ながら、普遍的な価値観として共有されているはずだった自由民主主義と市場経済は、いまその内側と外側から攻撃を受け続けている。成熟と安定には程遠い実情だ。。

本書で長期的に衰退しつつあると論じられてきたアメリカの「覇権」は、前政権において壊滅的とまでは言わないがかなりのダメージを受けてしまい、もはや素人目にも痛々しい姿をさらしつつある。
一方、急速に台頭しつつある中国は、かつてアメリカが握っていた「覇権」を―アメリカはそれを自ら望んで意図的に獲得しようとしたことはなかったと思うがー獲得しようと露骨に動いている。

動きは急だ。ほんの数年前まで、中国がアメリカのGDPを追い越すことはかなり困難という声が主流だったが、今年に入って早ければ2028年には実現、と報じられるようになった。アジア太平洋地域での米中軍事バランスは既に中国側に逆転しているといわれ、軍事用の艦船数は中国が世界一になったという。

バイデン大統領は、21世紀は民主主義と専制主義との戦いだ、みたいな事を語っていたが、どうやら「中世」の再来は少なくとも当分の間はない、ということだろうか。。

と、ここまで頭のわるそうな感想文を書いてきましたが、個人的には日本のような国が、これまで培ってきた国際間の信用を力に変えて、「中世」の「夢」を追求し続けてくれたらいいな、とは思ってはいる。
アメリカが今外交の面で見せている綻びが、軍事的な面でもはっきりするようになったら、やはり日米関係はいまみたいな状態であり続けることはないだろう。本当にこの先10年で、色々変わるんじゃないかな。。
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ニュース番組 改変

2021年03月29日 | テレビ番組
きょうからNHKのニュース番組が改変になり、キャスターが新しい人に代わったりしている。

僕はだいたいNHKのひとなので、朝のラジオ(早いときは深夜便の終わり頃ー古楽の楽しみ辺り)並行してワールドニュース、夕方はその日によるけど、早いときは5時台のBSニュース、6時台の首都圏ニュース、7時のニュース、少し開いて8時45分のローカルニュース、9時のニュース9、BS10時台の国際報道、そのあとBSニュース、11時15分になったら総合でニュースきょう一日と、ニュース番組にチャンネルをあわせている。。

いやもちろん延々上記の番組を見ているわけではない。その日によってどこかの時間のニュースを見ているという話だ。といっても、けっこう漫然と同じ内容のニュースを繰り返し見てることも多いかな。。

お察しのとおり?いちばんのショックは井上あさひさんの「ニュースきょう一日」が終わってしまったことだ。番組の終わりにいつも「あなたの明日がよい一日でありますように」と笑顔で言ってくれるのがとてもよかった。
井上さんはこれから日曜討論と、BSのサイエンス番組を担当するらしい。

世間的にはニュース9の有馬キャスターが降板したことが話題になっていた。昨秋菅総理へのインタビューで、総理が有馬氏の質問に激怒したせい、とかいう噂がまことしやかに囁かれていたことが関係しているのかもしれない。。

夜10時台BS1の国際報道2021もメインキャスターが変わった。池畑キャスター、アメリカにも中韓にも詳しい人で、様々な国際ニュースをこの人がどう解説するかな、と楽しみにしていた。

この国際報道は今は40分の番組になってしまったが、以前はもっと長かった。ウィキを見ると数年ごとに時間帯等が変動しているので、かんたんには言えないが、2000年代前半、合計2時間の枠でやっていた頃のことは覚えている。前半が世界各地のニュースで、後半はドキュメンタリー的な特集、最後は別番組で経済関係のニュースを15分ほど(神子田解説委員がキャスターをやっていた)。もっと長かった時代もあったようだが、さすがに毎日全部を見るのはできなかったと思う。

それがだんだんと短くなって。。長ければよいという事もないだろうけど、なんとなく寂しい感じはするな。。

そういえば有馬さんも国際報道のキャスターでしたね。黒木奈々さんという、若くして癌で亡くなられた方と一緒にやってました。あの頃のキャスターさん、藤田真奈美さんとか、佐野仁美さんとかの名前はなぜかまだ憶えているな。

まあ番組改編は必ず定期的にあるし、最初は違和感でもそのうちすぐ慣れてしまうものだけどね。。

さてさて、週明けというのに朝からずっと気の重いことが続いた一日でした。
でも、皆さんの明日が、よい一日でありますように。
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こんでました

2021年03月28日 | まち歩き
都内に買い物の用があって、ついでに少し足を延ばしてみた。
すこし、にしてはだいぶのびてるけど。

詳しいことは鉄道部のほうに書きますが、浅草から隅田川を渡るだけの電車に乗って、上から桜を眺めてみました。

今日は大変混んでいる、とアナウンスしていましたが、電車は座れるだけしか乗せないのか?座席がそこそこ埋まる程度の乗車状況でした。立客がいると展望ができなくなるので、どこかで締め切ったのかもしれません。

河川敷の辺りもかなり人がいましたが、隅田公園のほうもそうとう人がいて、芝生に蓆を敷いて飲食?している人もいるようでした。。

上野のほうは通行制限したり、いろいろしているようでしたが、こちらはそれほど規制はしていなかったのかもしれないです。

浅草寺界隈も、以前と同じような賑わい方をしているように見えました。
とはいえ、コロナ前の今の季節と比べるとどうなのかはわかりません。

ツーリストはいないと思いますが、おそらく在留の外国人の方々なのか、けっこう見かけました。とはいえ、この界隈で中国語がほとんど聞こえてこないのは、むしろちょっと違和感を感じたりしますね。。

ほんとうに、一時は外国人すごくたくさん見かけたけど、あれはあれで大切なことだったとは思います。日本が平和で楽しいところだから来てくれていたんです。この先、国と国との間で諍いなど起きないことを、切に願います。。

若い女の子たちはいつの間にか春めいた服装になっているのと、なにより和装の子たちがとても多いのが目立ちます。若い男の子も和装が多いですね。こちらは年齢を問わず挑戦できるので、そのうちやってみたい気もするのですが。。


折しも感染状況が反転増加傾向にあるので、ちょっと4月上旬の状況が心配ですね。。いちおう「日本の庶民はこれまで賢明に対処している」とふだんは思っている、のですが、こういうのをみると大丈夫かな、という気はします。

毎年訪れている所。もう夕方になっちゃったけど。
今年は一部の樹が伐採されて、多少寂しくなってしまいましたが、まだ桜の中を走る電車は見られます。
地下化されるまであと数年でしょうか。
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けんしん

2021年03月25日 | 健康・病気

今日はお休みを頂いて一日人間ドックに行ってきた。

健保組合の案内をもらったのは1年以上前のこと。当初は初夏の受診を予定していた。しかし、御存じのコロナ禍に加え、新しい職場の健診受診のルールがどうもわかりにくくて、ついつい先延ばしにしていた。
気がつけばもう社会保険年度の終わりに近づきつつあり、ようやく重い腰を。。

腰が重いのは健診に限ったことじゃなくて、さいきんどうもめんたる的に気が重くなっていて、後手に回ることが多いです。。

前にも3月ぎりぎりで受診ということがあった。9年前のことだ。あのときは自分が保健関係の手続きをする立場にあった。自分を含む3人がまだ受診していないことに気がつき、慌てて当時お願いしていた健保組合の診療所に聞いてみたら、当年度の分は暮れまでに終了していた。仕方ないのでオフィスに近い提携医療機関を探して、あるクリニックにお願いした。

それが縁で毎年そこに社員全員の健診をおねがいしたり、健康関連の公演を聞きに行ったりとかしていた。
まあそれはいいのだが、足掛け8年、同じクリニックに健診をお願いしていたのだ(皮膚科その他の診療も、個人的にお願いしてた)。ので、健診データはある程度蓄積されていたし、いろんな要領もわかってるから、本当はそこで受診したかった。

しかし、新しい健保組合はその医療機関と提携していない。自宅の近くにもないし、オフィスの近くにもない(産業医は近くの診療所のひとだが、そこは提携していない)。
ひとつだけ、昔たぶん使ったことのある診療所をみつけたのでそこにした。この辺の診療所選びも、今回腰が重かった理由のひとつだ。

送られてきた問診票にはオプション検査がたくさん並んでいたが、あまり見ないで標準コースにしてお願いした。

ちょっと誤算だと思ったのは、胃の検査が胃カメラじゃなくてバリウムだったこと。前のクリニックの講座で、バリウムよりは胃カメラを推奨していたので、毎年そうしていたのだが(しかし好きではないーまあ好きだという人はいないと思うが)、10年以上ぶりにバリウムを飲んだ。
例のひっくりかえってぐりぐり、げほ、だが、まあ胃カメラに比べれば気持ちは楽。そのあとがね。。下剤飲むでしょ。

終わると食事券をくれたので、24時間ぶりに食事をする。
前から思ってるけど、一定時間食事しないと結構体がやすまるというか、そのあと体調が良くなったりするんだよね。

なのだが、このときは(前夜帰りが遅かったせいもあるのか)ひどく疲れた感じがして、早く帰って寝たくなった(じっさい、帰ったら思い切り昼寝してしまった)。その前にちょっと公園で休憩。

公園、いつの間にか花でいっぱいになっている。
この界隈、懐かしいです。さいしょの職場があったビルが、今日掲げた写真のどこかに映っています。

ニュースで聞いたけど、帝国は本館もオフィス棟も建て替えになるんだってね。。


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日清焼そば

2021年03月23日 | 食・レシピ

スーパーの入り口の目立つところに、日清焼そばの5袋入りが山積みになっていたのでひょいと買ってみた。2月くらいのことだ。

袋麺の焼きそばを買うのはものすごく久しぶりだ。30年ぐらい買っていないような気がする。もっと前だろうか。子供の頃自分で作った記憶はある。
カップ麺の焼きそばだって、もう思い出せないくらいくらい昔に食べたきりだ。スーパーで調理済みの焼きそば(つまりお惣菜)はここ数年何度か食べたな。。

なので、調理法がいまひとつ頭に浮かんでこなくて、買ってもすぐ手を付けられなかったのだ。

作り方は短く言うと、フライパンでお湯を沸騰させてそこに乾麺を入れて戻す。軽く炒めてソースを絡ませる。
お好みで炒めたキャベツやイカ、エビなどの具材を加える。

5袋パックのパッケージにはさらに、おいしく作る3つのコツ!も記載されている。

その1:具材はあらかじめ炒めて塩コショウで味を調えておくと味が薄くならない。
その2:麺の塊は二つ折りになっているので、片面が柔らかくなったら箸で開くとまんべんなく湯につかり、ほぐせる。
その3:粉末ソースを入れる直前にサラダ油1/2を入れてもおいしい。

これらの説明は懇切丁寧、かつ明快でわかりやすい。

にもかかわらず😓 

(BGM: Rainbow )

冷凍庫から1月ごろ買った豚薄切り肉を出してきた。あとはキャベツをざっくり切って、塩コショウで炒めた。薄切り肉、脂身がちょっと多くて量も多めだったが、致し方ない。

このあと、麺をもどさないといけないのだが、既に具材が調理中なのでそこに水220ccをぶっかけて、フライパンの真ん中辺に場所を作って麺をこん、と置いた。
しかしながら、具材も水を吸ってしまうし、30㎝のフライパンでは水深が浅すぎて、麺がなかなか戻らない。フライパンを傾けながら悪戦苦闘して、ようやく何とかなった。なんとなく、お湯につけるとすぐに水を吸ってやわらかくなると思っていたが、そういうことはない。

それに具材は調理したらいったん別にしておかないと。水浸ししたら塩コショウも飛んでしまう。。

どうやら水分は飛んだが、フライパンには豚肉から大量の脂が抜けて、お皿が油浸しになってしまった。。

流石にこれは問題なしとすることはできない。

麺を戻す過程を、あえてフライパン上ですることもないのではないかと考えた。

普通のインスタントラーメンのように、鍋にたっぷりのお湯を入れ、麺を浸して戻した。あるていど柔らかくなったら、スパゲッティのようにいったんざるにあけ、それを、具材を調理していたフライパンに入れて炒めた。

お肉もふつうの豚肉細切れにしたが、100gパックでも多すぎのようだ。

麺のもどしはこちらの方が無理がない気がするが、インスタントにしてはいささか調理行程が煩雑に過ぎるようだ。日持ちさせなくてよければ、生めん買ってきて焼いた方がむしろ楽だもんね。。

ウィキペディアを見ると、日清焼そばは1963年に世界で初めて発売されたインスタント焼きそばだそうだ。チキンラーメンはその5,6年前に発売されている。カップヌードルは今年発売50周年らしいが、やはり数年遅れてカップ焼きそばも発売になっている。

日清からは1976年に焼きそばUFOが発売になった。松鶴家千とせやピンクレディーがCMで宣伝したもので、これは覚えている。独特の調理法がさいしょわからなくて、なんか失敗したような記憶があるんだよな。。

以来、インスタント焼きそばについてはカップ麺の形式が一般的になった。お店で袋めん焼きそばをあまり見かけないのも、作ってみるとわかるような気がする。。

しかしながら、今回せっかくあと3袋あるので、もう少し調理法を考えてみよう。

ひとつは焼き肉用の塩だれを買ってきて、塩だれ焼きそばにしてみること。
余った粉末ソースは、乾麺のうどんをつかって焼うどんをつくってみたい。

もうひとつは、レトルトのあんかけ(中華丼などの)を買ってきて、麺は油で焼いてカリカリにしてかた焼きそばにしてみること。乾麺のまま戻さないであんかけかけたら、そいつは流石に食えないでしょうね。。
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せけんのわだい2

2021年03月21日 | 社会・経済
体調もあまり良くなくて(対自分比)冴えない週末です。鳥の体調も少し心配。
昨日の続きです。

大分市の歩道で2017年9月、歩いて登校中の女子中学生(当時)とぶつかって転倒し、後遺症が残ったとして、80歳代の女性が約1150万円の損害賠償を求めた訴訟で、大分地裁は中学生に約790万円の支払いを命じた。府内覚裁判官は「歩行者の安全に留意する義務を怠った」と中学生の過失を認めた。15日付。(出典:読売新聞)

このニュースはFacebookのタイムライン上に流れた。記事自体は簡潔なもので、地裁の司法判断を淡々と述べであるだけで、訴因となった事故についてはあまり言及はない。

興味深いのはFBのコメント欄だ。酷い判決だ、中学生が可哀想だ、というのが続き、原告80歳女性を貶す表現をした人も多かった。

ツイッターでも記事を引用して感想を述べた人がおり、それに対する反応も同様のものだった。むしろツイッターの感想の方が原告女性への敵意が強く、これを擁護する、あるいは冷静な立場で語る人は見られなかった(ざっと見る限り)。

もともとSNSのコメントは極論が多くて、それはそういうものなのだが、それにしても、地方のベタ記事に過ぎない話題に妙に熱心に書き込む人が多いことが、ちょっと気になった。

コメントの中には、原告80歳女性ではなく、高齢者一般に批判というか、高齢者を忌避、もっといえば憎悪の対象にしているような書き方をしている人が複数いた。将来もある中学生が可哀想というのはまあ、心情としては一般的な感想かもしれない。しかし、もし原告が80歳女性ではなく47歳男性、あるいは5歳のこどもだったら、これだけ人々のコメントが集まっただろうか。

年配の親を持つ僕の視点から見ると、親と歩道を歩くとき、若い子たちには特に神経を遣う。不注意にぶつかってくる可能性がないとは言えないからだ。2,3歳くらいの子供が、親のもとを離れて走り出したり、お父さんからお母さんのもとに行こうとする場面に遭遇すると、不測の事態を想像して立ち止まったりする。
歩道には色々な人が歩いている。ごく一般的な大人でも、病気やけがで機敏に動けない人もいるし、友達との会話に夢中な小学生だっている。それが普通だ。

個人的な感想だが、これらのコメントにはなんとなく、いまの青年層が年配者をどう見ているか、という意識が表れているような気がする。上の世代が社会的にも金銭的にも恵まれ、人口比でも優位なのに対し、青年層は(極端に言えば)その犠牲になっている、という意識がどこかにあるのではないか。
もちろん若者が既存勢力(=高齢者)に立ち向かう構図はむかしもあったけど、今の若い子たちの感覚は少し違うのかもしれない。


アメリカのバイデン大統領が、テレビのインタビューでロシアのプーチン大統領を人殺しだと思うかと聞かれ肯定したことに対し、プーチン大統領は「彼の健康を願う。これは皮肉ではない」と述べ、独特な表現で切り返しました。バイデン大統領の判断力に問題があるとみていることを示唆し、不快感を示したとみられます。(出典:NHK)

昔風のいい方だと「ふところ手にして云う」という表現が似合う感じで、そういってはなんだがプーチン大統領らしいというか。。ニュース映像を見たが、プーチン氏はオンライン会議の席上でこの発言をしている。非常に淡々とした受け答えで;
「・・なんと返答したらしたらいいのか・・・体に気を付けてほしい。彼の健康を願う。これは皮肉ではない。。」
ちょっと、あっちの人系っぽい言い方ですよね。。

そもそもバイデン氏の「人殺し」発言も、記者の「人殺しと思うか?」の問いかけに「ああ、そう思うね」と答えたもので、外交儀礼云々という前に、ひじょうに乱暴な受け答えだった。

サキ報道官は大統領は(発言を)後悔していないとフォローしているが、おそらく政権内では相当泡食って大騒ぎしているのではないか。。つまり、かなりダメージのでかい失言だったんじゃないかな、という気がする。。

同じ会議上でプーチン氏は悪口をいうやつは自分に返ってくるものだ、と言い、先住民虐殺や広島、長崎を例示してアメリカを非難した。
他方、バイデン氏とオンラインで直接対話を呼びかけたとされているが、こちらについての続報はない。

バイデン政権は対中外交に関してはかなり周到な準備をして望んでおり、日米豪印(Quad)首脳会談、日本および韓国との2+2会談を経て、中国外相との会談に臨む(アジア歴訪の帰り道に、中国をアンカレッジで迎えて・)という手続きを踏んでいる。

この会談が冒頭かなり異例の荒れかたをしたことはご存知の通り。お互いのメンツがかかわるという事情はあったと思う(とくに中国は)。
中国の近年の圧力外交や諜報活動、人権問題などはたしかに問題だが、中国側の反論にはいささか味わい深いものを感じた。。特に;

「アメリカにはアメリカの民主主義があり、中国には中国の民主主義がある。だいたいそのアメリカの民主主義だって、アメリカ国民全体に支持されてないじゃないか」
「あなた方は世界の世論を代弁する立場にはない。アメリカの代表にすぎない。上から目線はやめろ!」(以上は記憶に基づいて書いたので、正確には違うかもしれない)

という発言には思わず失笑してしまった。

ただ、こういうのは言いたいこと言っちゃったほうがお互いあとぐされない?ような気がしないでもない。2日目の会談はそれなりにじっくり話し込んだようでもあるし。

ロシア外交は、どうするんすかねえ。。

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せけんのわだい

2021年03月20日 | 社会・経済
なんだか仕事の流れがよくないのだが、いまじぶんでどうすることもできないので、静観している。あわくったってしゃーあるもんか、というやつだ。

テレビを点けると相変わらず新型コロナウィルス関連のニュースがおおいけど、ほかにもいろいろ考えさせられるニュースが散見される。

札幌地方裁判所は17日、同性婚を認めないのは「違憲」とする判断を示した。
日本の憲法24条では、婚姻は「両性」の間で成立すると規定されている。世界の主要7カ国(G7)で同性婚を認めていないのは日本だけ。
(記事:BBC)

こうした議論を聞くにつれ思い出すのは、マイケル・サンデル教授が「これから『正義』の話をしよう」で言及した下記の言葉だ。
国や州が結婚に対して取りうる方針は二つだけでなく三つあると知ることが大切だ。(中略)それら三つの方針は以下のように要約できる。
1.男性と女性の結婚のみを認める。
2.同性婚と異性婚を認める。
3.あらゆる種類の結婚の承認をしないが、その役割を民間団体に委ねる。

結婚という制度は宗教的な価値観に結びついた制度であり、それゆえ同性婚は宗教的価値観によりこれまで排除されてきた。結婚が国家の承認と結びついていること自体に必然性はない。結婚という状態が社会的な名誉と承認を得るための手続きであり(とされており)、その見返りとして税法上、その他さまざま形での恩典が与えられている。
それらの恩典を放棄して内縁関係を持ったとしても、本人が納得すれば問題はないが、なお社会的な名誉という問題は残る。そして、宗教界では依然「同性婚は祝福できない(ローマ教皇庁、3/15のコメント)としている。

サンデル氏は、同性婚をめぐる論争は、本質的に、ゲイ同士やレズビアン同士の結びつきが名誉と承認に値するかをめぐる論争である、としている。根底には道徳的な問題がからんでいる。

ここで疑問に思うのは、異性間および同性間で家庭を持つことが、社会的に名誉と承認に値する、と国家が認める(=同性婚と異性婚を認める)ならば、自らの意思をもって単身を貫いている人間はそれらの家庭持ちよりも劣る存在なのか、ということだ。

評論家のマイケル・キンズレーは「結婚が完全に私的な事柄になれば、同性婚をめぐるあらゆる議論は意味がなくなる」と述べる(同書)。
シビル・ユニオン(民事結合)あるいはドメスティック・パートナーシップ(同性、内縁関係)に関する法があれば、共同生活をめぐる諸問題を解決することができる。自営業で活動するか法人を設立するかは事業者の自由だが、法人が自営業者より名誉ある存在などということはない。

個人的には同性婚国家承認は一つの過程に過ぎないのではないかと思う。とはいえ、必要な過程だとも思うが。

東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を統括するクリエイティヴディレクターが18日、辞意を表明した。女性コメディアンをブタ(ピッグ)にかけて「オリンピッグ」と呼んでいたことが判明したのを受けたもの。(記事:BBC)

ここの記事出典がBBCになっているのは偶然だけど、このニュースは海外でも報道されている、とNHKがBBCニュースの一部を紹介していた。同性婚のニュースももちろん海外で報じられているが、海外の一般の人たちは日本てどんな国、とは思うでしょうね。いやそれはそれでいいとは思いますけど。

ふだんお笑いとか観ないのですが、渡辺直美さんて、前からカッコいいなとは思っていましたけどね。。去年首都圏ではエステかなにかの電車内ポスターが出てて、荒くれ男を率いる海賊の船長?に扮した姿が格好良かったです。ちょと美しいとは何か、と問い直させられるようなものを感じる。

今回事務所を通じて出された彼女のコメント「ひとりの人間として思うのは、それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております 」も、とても納得させられるコメントだと思います。
身体的コンプレックスって微妙で、お互いの関係性次第でうまく冗談になるときもあるが、だいたい言わぬが仏なんじゃないか。僕だって言われたらちょっと、と思うことぐらいあるし。
女性蔑視問題とも通じるところがあると思うけど、話がオリンピックの演出ですからね。。ため息が百万回ぐらい出ます・。

・・もういくつか話題を予定していたが、これだけで長くなっちゃったのでいったん切ります。
カット写真は今朝のシクラメン。お花の世代交代が一巡した。小さなつぼみがあと二つぐらい出ている。下は1週間くらい前の写真。ここのところ暖かいので、4月までは持ってくれるかどうかな。。




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チック・コリア 70年代のアルバム

2021年03月18日 | 音楽

去る2月9日、79歳で亡くなったチック・コリアのCDを、いくつか注文して順次聴いてみました。
最近欧米各社でよく見られる、往年のヒットアルバムを紙ジャケット5枚組にまとめたもの(CHICK COREA 5 Original Albums Vol.2)と、国内盤の'Return To Forever'(単品)だ。
5枚組Vol.1も買おうとしたのだが、在庫切れでまだ入手できていない。

ジャズはしょうじきあんまり詳しくなくて、チック・コリアもたぶんどこかで耳にはしていると思うが、こうしてCDを買うのは初めてだ。チックと同世代のキース・ジャレットはそこそこCD持っていて、けっこう好きなんですけどね。ハービー・ハンコックもCDは持っていないです。

それで、上記の人たちなんですけど、割と上の世代の、ジャズをよく聴きこんでいる人たちにはあまりストレートに評価されないような印象がありますね。。

ジャズの本も出している村上春樹氏はキース・ジャレットがあまりお好きではないようで、実際、趣味ではないようなことをどこかで書いていました。

有名なジャズ喫茶のオーナーである寺島靖国氏も、Return To Foreverをちょっと色物というか流行りものみたいな書かれ方をしていたし、同じく喫茶店オーナーの後藤雅洋氏は著書「ジャズの名演・名盤」(ちょっと古いけどリファレンスとしてよく参考にしています)でチック・コリアを「好きではないタイプ」と断じています(ただし、Return To Foreverのことはかなり評価しています)。ハービー・ハンコックはわりと評判がいいみたいです。。

この辺のニュアンスは率直に言ってよくわからないものがあります。そういうと、お前はジャズのことがぜんぜんわかっていない、とか言われそうですけど。
僕らの若い頃、ジャズ喫茶やCD屋のジャズコーナーにいたおじさんたちは、たぶん今の僕ぐらいの年配だったのでしょうけど、50年代のコルトレーンとかマイルスとかを聴きこんできた世代で、その辺の人たちから見ると(チック・コリアとかキース・ジャレットは)ちょっと違う、と思えるのでしょうね。

対して僕らは70年代半ば以降の、フュージョンとかその辺の音楽の雰囲気を、生活の中のどこかで耳にしているせいか、この時代の音楽のほうがすっと心に入ってくる気がします。初めて聴く曲だけど、馴染みがいい感じがするのです。

ジャズ最盛期のあとに生まれた新世代の音楽、なのですが、それにしても40年以上前の話で、当時彼らのコンサートとかに行っていたファンたちももう還暦過ぎているはずです。。

このなかではReturn To Forever (1972)は、かなり作りこんだアルバムに感じますが、若干理屈っぽい感じがしないでもありません。5枚組アルバムは1976年から79年にかけてのリリースですが、適度にポップで、リラックスしたムードが感じられます。

5枚のアルバムは以下の通り;
The Leprechaun (1976)
Secret Agent (1978)
Friends (1978)
The Mad Hatter (1978)
Corea / Hancock (1979)

で、この中ではThe Mad Hatter が最初に良いと思ったかな。もう少し聴きこんでみないと、どれがどうなのかはよくわからないですけど。

チック・コリアは多作な人のようで、近年に至るまでかなりの作品をリリースしているとのこと。機会があればもう少し幅広く聞いてみたい気がします。。







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早春

2021年03月16日 | 記憶の断片
陽ざしがキラキラと強いが空気はガラスのように澄み切って冷たい。
夜は真冬の面影が残り、家に戻ると暖房のぬくもりにホッとする。

早春には独特の質感がある。

女性に例えれば物静かだが何事にも前向きで機転が利いて、周りの人たちに少し緊張感を与える様な感じのひと。

月曜日は在宅勤務だったが、鳥たちのご飯(ペレット)を切らせてしまい、昼休みにペットショップまで車で行ってきた。夕方になると店が閉まってしまうかもしれないと思ったのだ。

この時期の真昼、ふつうなら仕事中で、外の風景など見ることもない。
ふと思い出すのははるか昔、学生時代の、期末試験の帰りとかだ。


学生時代ははるか昔だが、同時にここ数年の記憶も蘇ってくる。

慌ただしかった4年前、実家での介護、旧宅を畳み、現宅を探して、ほかにも色々手配して。


その辺のことが心に浮かんでくると、少々というか、いささか心が痛くなってくる。
その時は目の前の事をひたすらこなしているので、案外平気なものだが、今振り返ってあれこれ考えるのはけっこうきつい。


ぜんぜん古いことを思い出したりもする。

小さいころ、向かいの家の一つ上の女の子とばかり遊んでいた。

小学校にあがってからも、結構遊んでたと思う。多少大人になって??一緒に本を読んだりしてたようだ。。

学年別の学習雑誌をその子が毎月とっていて、それに「ごんぎつね」が連載されていた。それを、毎月貸してもらって読んでいた。

最終回の載った号をかしてくれるとき、「なんか、すごくかわいそうなんだよ」と、ちょっと辛そうにいいながら貸してくれたのを覚えている。。


その子の家は平屋の小さな建物だったが、新築してきれいな2階建てになった。
ところが、家ができてからけっこうすぐに、引っ越すことになった、とその子から告げられた。

お父さんが小さな工場をやっていて、職場と住まいが一緒の、すこし大きな敷地のあるところに越す必要があったようだ。

言われたのはいつだったかな。
とにかく、引っ越したのは春だ。

なんかその辺自分の心境は複雑で・・
余り素直に寂しい、別れたくない!なんて気持ちではなかった。

小さい頃は、いくら頑張っても頭のあがらないお姉さんだった。

成長するにつれて、その差はだんだん小さくなってくる。ほかにも友達ができて、世界が広がってくる。

なので、別れてもさびしくないや、みたいな気持ちを持ったのかもしれない。
それと、引っ越し先がそれほど遠くない(といっても車で15分ぐらいはかかる)ので、また会える、という気持ちもあったのかな。

家族みんなでお別れはしたと思うが、その辺はよく覚えていない。


2階の部屋から外を見ると、となりの家が見えた。
見ながら、あと何日で引っ越しちゃうんだな、と考えていた。
そのことだけは覚えている。

たぶんあのとき、担任の先生も離任してお別れしたんだよな。

最後にひとりひとり握手した。
クラスメイトの子が「あたし、〈握手した)この手、一生洗わない!」といっていたので、そんなできもしないことを言うな、みたいなことを言った覚えがある。

いやなガキだな。。
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やっぱりどうも

2021年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
先週木曜日に都内丸の内から新宿まで歩いた時、印象に残ったのは人の多さだった。時間帯で言うと午後6時50分ぐらいから8時半前くらいである。8時以後の外出はあれだなと思って早めに着こうとしたのだが、ちょっとむりで。。

特に新宿近辺はけっこう人、いたな。
これは、飲食店が8時閉業でちょうど皆一斉に店を出たときと重なったのかもしれない。いちおう規則どおりに皆さん行動してるともいえるが、みんな一斉に動いたらそれはそれで密なんじゃないか、といぢわるなことも言いたくなったりして。。

歩いていたら上機嫌の勤め人らしき人たち(男3人女1人)が前の方に見えてきた。何十メートルか前にいるのだが、歩道いっぱいにあるきながら、とくに女性がうわっはっはっはっはっは!!と、遠くまでよく通る声で笑っている。

いやけしからんなんてぜんぜん思わないし、自分だってよっぱらえばそうなるし、そりゃたまにはストレス解消したいよなとも思うのだが、そうは言ってもだんだん目の前に近づいてくると(酔ってるせいか歩みがのろい)ちょっとどうしよう、追い越すにも追い越せねえな、ぶつぶつ、とは思うわな。。

そりゃ複雑だよね。。こっちだってSNSで旧友とつながって、年末早速飲もうよという話になったものの、連日千人とか二千人とか感染者が出てきて流石に怖くなり(職場や家族を考えるとね)、未だに実行できていない。

そのうえここのところ、首都圏は下げ止まりどころか微増に転じてるそうですからね。。

これもSNSで友人と話したんだけど、個人的には日本はかなりうまくやっている、行政の対策云々より、各自がうまく折り合いをつけて、適切に行動しているから・・マスコミは人出が~というけど、街歩いている人たち見ると、むしろまあこんなもんだろうな、と安心する、と(欧米は強権発動に市民が反発し、感染者数はけた違いに多い。中国はそれよりもっと強権発動して、それは功を奏してはいるが、代償も大きいのかも)。
ただ、自分を含めもうすこし気を引き締めないといけないのかな。。

怖いと大丈夫の間を揺れ動く。正解はないし、個々人と全体の問題はまた別だが、そろそろなんとかならんかねえ。。
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3.12以降

2021年03月13日 | 記憶の断片
(今日も再掲画像がいくつかあります)

3月11日の夜は父と叔母の家に泊まり、翌朝、従兄弟の車で家の近くまで送ってもらった。父はそのまま実家へ。

実家の母は妹が世話してくれていたが、地震当日は実家近辺が停電して大変だったらしい。夜(6時半ぐらいかな)電話したら、暗くて何も見えないし、暖房も使えないと。どこかで書いたかもしれないが、救いは黒電話が生きていたことだ。普段使っていたサンヨーのファクス電話は別途電源がいるが、黒電話は停電でも使えるのだ。
あとから聞いたが、ご近所も差し入れしてくれたり、色々気を遣ってくれたらしい。

こちらは自分の家が気になるので、とりあえず従兄弟に父を任せる。
よく晴れた、気持ちのいい朝だった。道沿いの家が割れた食器を表に掃き出して、チラシか何かの上にまとめていた。何件かの家がそうしていた。

帰宅して最初に目についたのはこれだと思う。
昔の家-昭和40年代の家なので、コンクリートブロックの塀に、飾りとして大谷石が載せてあったが、それが落下している。もし人がそこにいたら、怪我をしていたかもしれない。

塀そのものはしっかりしているが、上に載せた石はセメントで固めただけだったようだ。
ブロック塀は地震の度に倒れる事故が起きていて、今は撤去されることが増えたようだ。この塀も、というか家ごと壊されて現存しない。奥に見えるお向かいの家も、写真では見えないがお隣の家も、みんな建て替えられて、今は様相一変している。

玄関。煉瓦の装飾が割れている。
折りたたみの傘が無造作におっぽり出してあるが、この週の初め頃雨が降ったようだ。
中の木が腐食している。
この辺は自分で家庭用セメントを使って何とか直した。

外見上の破損はこのほか、建物隅のモルタルのはがれがあった。
これらの破損をもとに、秋に地震保険が適用された。
状態は「建物半壊」である。

おそるおそる玄関を開けて室内に入る。
一階和室の納戸が開いている。
薄型テレビは前年秋に買ったばかりで、てっきり倒れて割れていると思っていた。テレビは良かったがスピーカーは足場からずれてずっこけている。
パソコンにタブレットが繋がっている。前日何か書こうとあれこれやっていたのかもしれない。
この模型のレイアウトは当時、2階の寝室の隅に立てかけて置いていた。
2階に行ってみたら写真のような状態で倒れていた。

この写真ではわからないが、すぐそばに加湿器(そこそこ大きい)があり、倒れたときその加湿器を支点にして半回転し、このような状態になったようだ。
足の部分は一部割れてしまったが、奇跡的に表側は無傷だった。今でも健在なのが不思議なくらいだ。

その隣の部屋、書斎はこんな状態になっていた。
文字通り、足の踏み場がない。
倒れたCD棚と散乱するCDが印象的だが、写真右側にある納戸から出てきた書類やら本やらがカオスを作り出している。

CD棚は二つの本棚の間に置かれていた。CDはぎっしりと入っていた。写真は机のある側から撮影しているが、もし地震の時ここにいたら、怪我をしていたかと思う。
写真左の本棚は上にコンポを置いていた。本棚の天井に化粧板を置いて、針金を使って鴨居に縛り付けるようにしていたため、コンポは落ちず本棚も倒れなかった。ただ、強い力が加わったせいで鴨居の一部が曲がっていた。右側の本棚は一見無事だが、転居の時見たら裏側のベニヤが割れてしまっていた。

台所。いろいろ落ちているがなんか空き瓶みたいなのばかりだな。。
落ちた食器で唯一割れたのが九谷焼のコーヒーカップの、柄の部分だ。愛着があったのでエポキシで修理したが、完全には直せなかった。カップそのものはまだ持っている。

風呂の壁が崩れた。今見るとずいぶん狭い風呂だな。。

昭和47年の風呂はこんな漆喰壁だったのだ。

これも素人仕事で直そうとしていたが、春に父が見かねて、修理屋を手配してくれた。デコラ張りの壁になった。
先ほどの書斎は、夕方には簡易復旧した。



この日、12日土曜日の昼ぐらいまでは、地震と津波が最大の焦点だった。
ところが午後になると、原発の様子がおかしくなってくる。

これも前に書いているが、夕方になると一号建屋が水素爆発で破壊される。最初は建屋周辺で白い煙のようなものが見える、という報道で、アナウンサーが中継画面を見て別に異常は見られないと言っていた。解説の人も原発は安全に管理されているから慌てずに、と繰り返していた。

しかしそのとき既に、中継画面では壁が吹き飛んで柱だけになった建屋が映し出されていたのだ。。

合点がいかぬまま、知人に挨拶するため少し家を空けた。帰ってきてテレビを見たら、騒ぎが大きくなっていた。。

13日日曜日は、朝オペラの合同練習に行ったのだと思う。まだ日常の一部はモラトリアムの状態だったのだ。その後オペラ(4月頃上演の予定だった)は正式に延期になる。

日曜午後11時過ぎくらいだったか、ウェブのニュースを見ていたら、明日は鉄道は都心部を除き運休だと書かれていた。最寄り駅より都心寄りの駅で折り返し運転だと。フジテレビのニュースでもそう言っている。
驚いたので、夜中だが駅まで行って駅員に聞いてみた。同じことを聞こうとしている人がいた。駅員はよくわからないがそうらしい、という返事だった。

14日月曜日、じっさいには鉄道は運行していた。ただし本数は限られ、かなり混んでいた。夜は当初の予定通り区間運転になってしまい、終点となった駅から歩いた。
以後、数日間にわたり変則的な運転体制は続いた。

計画停電は僕の住んでいたところ、勤務先ではなかったが、実家の方は対象になり、だいぶ苦労したようだ。
節電で暗くなった街の状態はかなり、半年ぐらいは続いたか。

食材の流通不足にも悩まされた。
既に12日の夜にはスーパーの食材が一部枯渇していた。パンとかカップ麺がまるでなくなった。面白いというか、酒類のコーナーは普段通りだったのが印象的だった。
営業時間を早めるあたり、今のコロナ渦と似ているが、理由は電力不足だ。それも、前日には9時までやっていたのに翌日は8時で終了とか変わるので往生した。
宮城県に学生時代の先輩が二人いた。
在京の先輩からの呼びかけで、二回ほど食料を郵送した。
袋麺は品薄が続き、お一人様2つまでとされていた。ので、もう時効だけど一度買った後変装して(といってもめがねと帽子を変えるとかそのくらい)調達した。

別の時には出社中に断って外出し、秋葉原と御徒町の間にあったハナマサで野菜を買って、郵便局から送った。日本郵便って、色々言う人も多いけど不思議と僕は親切な人に遭遇することが多くて、このときも親身になって送り方を説明してくれたり、箱詰めの手伝いをしてくれたりした。ゆうパックは休止しているが、定形外郵便なら時間がかかっても着く(法的に簡単には止められないらしい)そうだ。

地震、津波そして原発の情報は海外には誇大に?伝わり、自分のいた会社でも本社から来ていた社員が呼び返されて帰国した。その後は誤解も解け、4月の中旬には本社の会長らが来日して激励してくれた。

役員会の説明資料に事故のニュース映像とかをコラージュして、たしか'Stormy March というタイトルをつけたら、会長が見るなりStormy March!!と読み上げていた。あの頃は3月決算だったし、決算まとめて役員への説明が終わったと同時に監督官庁の検査も始まったりと、とても慌ただしい日々だった。


そのうえ、4月の末には先輩の結婚式がある(=それなりの年配なので、ふつうじゃなくめでたいこと)など、とにかく変化に富んだひと月だった。

それらがひと段落した頃、ふとブログを書いてみようかと思いつくのである。。
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3.11

2021年03月11日 | 記憶の断片

10年を迎えるにあたり、ここに何を書こうかと思ったのだが、あまり長文を書く時間もないので、あの日の写真を掲げていくことにする。

今年も当日を偲んで、当日親と合流するために歩いた同じ道のりを歩いてみた。丸の内から新宿御苑前まで。Google mapだと約7キロ(ルートは違うので参考)ということになる。
冒頭の写真は2021.3.11。以下特記ないものは2011年3月11日夜。
なお、一部再掲を含む。

夕方までに家族全員と連絡がついた。
5時過ぎにMY PLAZA3階のローソンに買い出しに行ったが、既にかなり商品がなくなっていた。蒸しパン、おにぎり、カップヌードルシーフードを買った。蒸しパンは森下だったか船堀だったかに歩いて帰るという若い部下に餞別としてあげた。
オフィスを出たのは7時10分過ぎだったと記憶している。

丸ビル内の大型スクリーンに映し出されたニュース映像に見入る人たち。


津波のことは伝わっていた。京葉工業地帯で火事というニュースも取り上げられていた。原発のことはわからなかったか、あまり大きく取り上げられず、したがって電力のこともこの時点では全く気にしていなかった。

鉄道は完全に止まっていた。
カラーコーンと仕切り棒が見えるが、なぜ置いてあるのかは不明。
毎回思うのはこの時期ホワイトデーの屋台(というのかな)が丸の内広場にたくさん来ているのが恒例だが、このときはどうしていたのか。地震後、一部を撤去したのだろうか。

2021年。
今年も屋台は出ていたが、出店はやや寂しい感じ。画面右に少し見えるが、当日もこんな感じだったのかもしれない。

傘をさす人。これも長年の謎。
goo天気によると、当日の東京は最高11.3℃、最低気温2.9度 晴れ。

別の若い子はたしか等々力だかに住んでいて、バスで帰るようなことを言っていた気がするのだが、大変だったのかもしれない。

祝田橋付近と思われる。
当時ガラケーで地図の表示はできなかったので、会社のPCから地図を印刷して持って行った。当日商工会議所のところを曲がったのか、今のペニンシュラの角を曲がったのかよく迷うのだが、これを見ると後者が正しいようだ。

歩道としてはかなり広いところだと思うが、人でいっぱいである。

そういえば前の会社って上司(社長)がアドミニオタクっぽい?ところがあって、ヘルメットとか防災袋とか色々完備していたけど、今のオフィスにはない気がするな。。こないだ常備薬の箱見たらほとんどなかったし。。

もしかしたら一部工事中で歩道が細かったのかもしれない。
大晦日の初詣状態で歩きにくかった。一部の人は垣根を越えて歩道に出ていた。
道路はもとより駐車場状態になっていた。

路側帯を歩く人々の先に国会議事堂。

桜田門駅。
そうか、地下鉄入り口があるから歩道が狭いのかな?

首都高閉鎖中。この案内もとても印象的だった。

写真はないがこのあたり、混雑を避けようとしたのか道がわからなかったのか、やや変則的な歩き方をしている。議事堂正面の通りを横断し、憲政記念公園を右手に見ながら溜池方面に向かうが、途中で右折して首相官邸の前に出ている。議事堂の裏手(いつも誰かがデモ演説をしている)から首相官邸のすぐわきを通る細い道があるが、そこを歩いて山王パークタワー方向に行き、双日(当時)の前に出たんだと思う。

首相官邸脇の道には人工の竹やぶと、何か沢のような用水溝があり、竹がさわさわと言う音、沢の水の音がとても印象的だった。あたりには人はおらず(勿論デモ演説の人もいなかった)、そこだけ別世界のような気がしていた。
今は警備がとても厳重で、常時バリケードがもうけられている(人の通行は可能)。

それはともかく、写真は当時もう閉館していたんじゃなかったかな、赤プリ。すぐ解体されるはずが、このあとしばらく被災者のために使われていたという記憶がある。

ニューオータニの脇を通って、細い坂道を上ると上智大学に出た。

四谷駅。JRは早々に当日の運休を決めていた。民鉄、地下鉄は深夜に運行再開したところが多かったようだ。


2021年。中央右の黄色い看板は10年前も今も四谷学院のようだ。

ここまで、またこの先も、あちこちで店に入ったりして、その間に親からまだか今どこにいるのか、という電話が来たりしている。

赤坂見附では三井住友のATMに入った(何の問題もなく使えた)。
四谷三丁目付近のどこかのドラッグストアに入って、携帯用の充電池を探したがなかった。スマホよりもずっと電池は持ったが、経験からそろそろ怪しくなっていたのだ。オフィス付近のローソンにもなかった。
新宿御苑手前のファミマにもなかった。

これも前どこかに書いたが、東京トラック協会がロビーとトイレを開放してくれていた。トイレではとても助かった。

数字の横にある符号はちょっと見慣れないです。業界では普通に使われているんでしょうね。02分をコロ二と言ったりしますね。。

都内の震度記録は23区内でも分かれていて、大半は震度5弱でしたが、一部地域は震度5強とされていました。僕の住んでいた区は震度5強。

親のいた事務所について(初めて行った)合流を果たした。
家族に無事を知らせ、渋谷区幡ヶ谷にある親戚の家に泊めてもらうことにした。
持って来たカップヌードルとおにぎりはこの事務所で食べたが、その後親戚の家でも夕食の接待にあずかることになる。

バスタはまだ着工し始めた頃で、脇の歩道はとても狭かったというかなかった。やむを得ず路肩を歩いた。

たしか親を入り口のところで待たせて、駅の様子を見に行ったんだと思う。
京王はそれでも夜遅くに運転再開したらしいが、この時点ではこんな感じ。

時刻は午後10時過ぎ。

甲州街道も渋滞で、自分たちの方が速いくらいだった。
親を時折休ませながら歩く。寒そうにしていたので、コートの取り外し可能なフードを外して、かぶせてあげた。

新宿通の飲食店等は、開いているところが多かったと思う。客も店員も帰れなかったのだろう。甲州街道のどこかの牛丼屋が、食材がなくなり営業終了みたいな掲示をしていた。渋滞で食材がこなかったのかもしれない。

どこかのビルのガラスが割れていた。翌日も、民家の門のところに割れた食器をまとめて置いている家を多く見た。

部下の子(当日は休暇を取っていた)から電話が来た。この事態だから色々知りたいし話したくもなる。地震の時は税務署かどこかを出て、信号を待っていたところだったという。
怪しかった電池はいよいよ駄目になり、会話が弾んでいる中尻切れトンボで切れてしまった。

電池は親戚の家で充電させてもらった。
親戚の家に着いたのは11時過ぎだったと思う。自分はオフィスでワンセグを使ってみていたが、このとき初めてテレビで、津波の映像を見た。例の、真っ黒な水が平地のビニールハウスを襲うシーンや、仙台空港で飛行機が流れていくやつだ。
叔母が防災服を着た枝野官房長官を見て、ほらみて、このひとの耳!(福耳ですね)と言っていた。

従兄弟の車に乗せてもらい、帰宅したのは翌日の昼前だった。
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しんせん

2021年03月08日 | まち歩き
きのうここで「新宿ヨドバシ本店・・・」などと書いたら、急に行ってみたくなって(^^;帰りに寄ってみた。
というか、買うものがあったのだ。

先日レコーダーの録画一覧を見たら、HDD残が残り10時間を切って、残量警告みたいのが出ていた。考えてみると今まで一度も書きだしをしていない。ニュース番組とかを削除して空きを確保したが、そろそろディスクに落とさねば。

今のブルーレイレコーダーを買う前までは、DVDまでしか使えないレコーダーだったので、ブルーレイディスクなるものは買ったことがない。それで、ちょっと試しに買ってみようかと。

新宿の、地下鉄の通路は毎日通っていますが、西口のお店とかは1年ぶりです。去年の今頃、すこしだけ仕事に余裕が出た頃、ちょっと寄ったことがあります。そのすぐ後で緊急事態になったんですね。。

店内に入って適当に歩いてみるが、なかなか見つからない。あんがいと店の奥の方においてあるのを発見。
弥生会計とか、ビジネスソフトと同じような売り場にあったので、間違えたのかと思った。なんか、変わってますね。。昔はこういうの、入り口にワゴンどんと置いて大売出ししていたのにね。

BDて、25Gとか50Gとか種類があるんですか?
はっきり言ってまっったくわかりません。。

自分がそういう状態であるって、とても新鮮です。
昔の自分ならそういうの、雑誌とかネットとかを飽かず眺めて、かんぜんに頭に入っていたものですけどね。。

こないだうちの若い子に、スマホで勉強会録画したのを編集手伝ってもらったとき、隣にいた先輩の方が「そういうのはわかいやつに任せるに限るねえ」といっていた。そう思います。でも、昔はじぶんがその若い子だったんですけど、いつの間にか。

前の会社でも部下の子にPCやらネットの使い方を、自然に聞くようになっていたけど、あの会社に入ったころはまだ、逆の立場だった気がする。聞いた方が楽だ、という感覚に、ごく自然になっていった。

わからないのって、ある意味気持ちいいんです。
もうずいぶん昔ですが、若いのに暇で車のカタログばかり見てたら、道を走るカローラのグレードが見た瞬間に分かるようになって、そういう自分に自己嫌悪を感じたりしていました。そういうのを突き抜けると、真のヲタクになれるとおもうのですが、あれは実は狭き門なんですよ。。


カメラ売り場を見ると、何とか昔と同じぐらいのスペースに商品展示してあるけど、やはりだいぶあれだね。。
ペンタックスはKPが枯渇してしまったらしく、今まで余り展示のなかったK-70が目立つところに置かれていた。オリンパス(既に分社化済み)はあんがい頑張っているが、パナソニックはさいきんどうなのかな。

僕はこの業界のことについては全く素人だけど、しばらくはメーカーや製品の整理が続くのかもしれないね。。
この店にいるとむかし、コンタックスGとかコシナとか、ちょっと買ってみたくなる製品がいくつかあって(でも買えなくて)、展示品を何度もいじっていたりしたのを思い出す。あれだねえ、欲しかったら買わないとだめだね。。

新宿来るとなんか旧宅時代を思い出して、このまま始発の空いてる各駅停車に乗って帰ろうかという(誤った)帰巣本能がむくむくわいてきて、なんかふくざつな気分になるんですよね。。もう4年にもなるんですけど。
それにしてもここ数年だけ見ても、随分かわってきているねえ。。
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少し前

2021年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
あの日のことを風化させてはいけない、とは良く言われるのだが、10年が経過すれば細かいことは色々忘れていくのは仕方がない。僕の場合は震災直後と今では住まいも職場も変わっている。やはり10年の歳月はそれなりに重い。

このブログでは毎年この頃になると当時の様子を振り返っている。
震災直前の様子は2012年に書いた。


これに捕捉すると、2月の18日から20日まで香港に出張していた。帰京したのは日曜日の夜で、翌日から普通にオフィスで仕事をしていたが、やはり少し疲れていたようだ。

他方、出張前からなぜか買い物癖がついてしまって、出張1週間前に交換レンズ(望遠レンズ)を買い、25日の金曜日にはワープロソフト(一太郎)を、その週末にはネットでフォトプリンターを買った。上の記事にもあるが、自宅配送にすると不在手続きが面倒かと思い、配送先をオフィスにしてみた。
 荷物は28日月曜の午後遅くに着いた。お店で買うときは手提げストラップとかを付けてくれるが、宅配の荷物にそんなものはない。折あしくこの日は日中かなり雨が降っていて、持って帰るのに苦労したのを覚えている。

さらに、3月5日(土曜日)にはワコムのペンタブレットを買った。これ、たしかヨドバシカメラ新宿本店の、地下の周辺機器売り場で買ったと思う。ということは、行ったのはたぶん夜だな。
この頃は毎週日曜日に、4月にやるはずだったオペラ「ラ・ボエーム」の合同練習をしていた。6日もふつうに行っていたのだと思う。それもあって、日曜日は朝7時ごろ起きて、枕元のラジオで落合恵子の絵本の朗読を聞いていた。この頃はAMラジオ、けっこう聞いていたんだな。。


7日からの週の前半、なにかの事で部下の子と衝突したようなかんじになった記憶がある。そのあと部下の子から、木曜、金曜を休暇にしたいと言われて、内心なんか怒ってやるきなくされちゃったかな?とか、思っていた。

買ってきたタブレットは、やってみるとどうにも使いこなせなくて往生した。水曜日に丸善に行って、教則本を探して買ってきた。まだ持ってないか本棚を探して見たが、ないようだ。SAIというソフトを紹介していた。
タブレットは震災前日(10日木曜日)にも使おうとしていたようで、12日に撮影した室内の写真にも、PCにつないであるのが見える。

これも上の記事に書いたが、10日木曜日、帰りに秋葉原ヨドバシに寄ってスマホを買おうとしている。少し前に知人がスマホに変えていて(ガラケーからの移行が盛んだった時期)、店員に話を聞いてよければ買っちゃおうか、という気でいた。買い物マイブームだったのだ。ところがモバイルルータがどうのとか、あれこれ余計なことをいうのですっかり気持ちが萎えて、やめて帰ってきた。
SNSは最初にMixiを導入して、友人同士でつながっていた。いつだろう、2010年ぐらいだろうか。

Facebookは当時会社でもページを持とうとやっていて、その関係で自分のIDをとった。いきさつは忘れたけど前一緒に仕事していた子とつながって、最初の頃はその子とばかりやり取りしていた。その子がツイッターやっているか?と聞くので、それを機会にツイッターのIDもとった。みんなこの年の2月のことだ。

ただ、ガラケーで使ことができたのはMixiだけだった。震災当日は電話とメールが通じにくい中、ネット経由のMixiは使えた。
Mixiはそのあと何年か使ってた。小学校の同級生とつながったのもMixiだった。あれはまだやってるのかな。。
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ウェビナーに

2021年03月05日 | 社会・経済
ウェビナーとはウェブ+セミナーのことなんですね。
昔は色々講演会、懇談会の類に出かけていたのですが、ひとつにはコロナ、もうひとつは転職で以前通っていた会合の、それを主催する側のほうに回ってしまった(他部署がやることだから余計関係なくなった)こともあり、昨年以降はあまりお話を聞くとかできていないです。

オンラインセミナーそのものはコロナ以前から結構ありましたが、食わず嫌いで聞いたことがありませんでした。根本的に、動画ってそれほど好きじゃないのです。文章→音声→漫画形式のエッセイ→動画の順で、自分が自由に情報を咀嚼することがやりにくくなって、受け身になることを強いられる感じがします。ところが、会場に行ってフェイスツーフェイスで話を聞くとなると、こちらの覚悟ができるのか?一気に嫌じゃなくなる。

音楽のビデオは良し悪しで、クラシック公演だと撮影者の意図が入ってきて嫌だと思うときもあれば、ホールに座っていると見られないアングルが見られるという意味でいい時もある。ロックやポピュラー系は見慣れているせいかそれも気にならないとか、色々あります。

話がそれましたが、近頃はウェビナーもふつうになってきたので、食わず嫌いせずに積極的に聞いてみようかと。

というわけで二つほどウェビナーを受けてみました。

ひとつはH大学の米中関係と、その中で日本はどういう行動をとるべきか、というテーマのセミナー。

こういうとき、内容や論者をどの程度書いて良いのか迷うのですが、とりあえずフォーカスを甘めに取って簡単に記します。

そうすると、自分の感想や意見を前面に出した書き方になってしまいますが、一言で言ってしまえばアメリカはこの10年でかなりその力を(自らの失点を主な理由として)失ってしまった、というのが一番印象に残ったところです。

もう一つ、中国という国は今世紀前半には間違いなく最も力を持った国の一つになると思われますが、現時点でもその価値体系を世界に提示することは全くできていないし、おそらく自分たち自身も、自分達の姿をきちんと捉えきれていないのではないか(これはどこの国でもそうですが)ということです。

早ければ2028年には中国がGDPでアメリカを追い越すと言われています。
7‐8年前のビジネス誌等では、それは早くて今世紀半ば、でもほとんど無理かも、という論調でした。
今でも当然そうなると決まっているわけではありませんが、世の中には時の勢いというものがあります。ボーア戦争が20世紀前半のイギリスの凋落の序曲となったように、アメリカも中東(対イラク)問題、リーマンショックそしてコロナ対応と失敗を繰り返し、相当にダメージを負ってしまいました。

この数年のアメリカを見て、中国の人たちはアメリカに幻滅、もっと言えば見下すような姿勢が見られるといいます(論者の見解)。直接的な政策で言えば、トランプ政権時代の強引な対中強硬策は、対中政策を党派的なものに替えてしまった(別の論者の見解)。国としてのコンセンサスがとれていないということですから、これは外から見たら弱く見えますよね。。

今日中国がウイグルや香港で強硬な姿勢を取っているのは、少なからずここ数年のアメリカの政権内の混乱が影響してるのでは、と考えたりします。ミャンマーの軍部がクーデターを起こしたのも、我々から見れば無謀に思えますが、少なくともその判断には世界情勢への読みが反映されていると考えるべきでしょう。

今後、アメリカは国内世論を気にしながらも、過去の不作為を修正する方向に進んでいくと思われる(これは個人の見解)。また、かつての米ソ冷戦時代のように、米中が真っ向から対立するという図式は取らないのかもしれない(という意見は論者からも出ていました)。
中国と日本との関係について言えば、何かの突発的事象で(特に日本の国内世論が)沸騰してしまう恐れはある。が、意外と「ふつうの関係」になっていくのではないか(これも論者からの意見)。

日中関係を世代的に見ると、’80年代から2000年ぐらいまでは日中友好(国交正常化からしばらくは、パンダやシルクロードのブームやらで、庶民にも印象が良かった)。
今世紀に入ってからは「日米同盟に根差した、アメリカを経由した上での中国観(戦略的互恵)」これは今日まで続いています。中国側も歴史問題等で対日強硬姿勢を取り、日本でも中国にかなり批判的な層が生まれる。

今でもとくに年配の男性あたりは、例えば中国の工業製品とかを見下す風潮が残っています。まあ玉石混交なのは確かですが、聞いているとちょっとやばいと思うのですよね。間違いなく彼らは日々進歩している。
論者も強調していましたが、アメリカがファーウェイを強引に抑え込もうとしたのは悪手で、弊害が大きかったと。考えてみると日本は昔アメリカに文句言われて、対米自主規制とかいろいろしていましたけどね。

ただ、アメリカも中国も日本も、世代ごとに受け取り方が違う(論者の見解)。人は忘れる。世代はすり替わり、循環する(論者)。
日本の若い世代が見る中国はたぶん、豊かでハイテクで活気のある国に映っているはずです。それも、(中国で)急速に進む少子高齢化の結果、また大きく変わってしまうかもしれない。そこはわかりません。


少しとりとめのない話になってしまいましたが、次は月曜日に受けたのはN新聞主催の政治セミナー。
菅内閣と国内政治の今後、みたいな話でした。

同新聞の論説委員の方かな、女性記者の方と語り合う形のウェビナーでしたが、こちらはそんなに話が深まらなかったな。。一応インタラクティブに、途中で視聴者にアンケート(菅内閣を支持しますか?コロナ対策は順調だと思いますか?など)を取っていたが、全体には常識的な話の展開でしかなかった。

少しだけ印象的だったのは、今ネットなどで若者からとても支持の多い大臣についてどう思うかと聞かれて「昔橋本龍太郎首相は『富士山』と言われた。遠目で見るととても美しい山だが、そばに来て登山とかしてみると岩がごつごつしていて・・」とだけ言っていたのが、耳に残りました。。

硬いお話でしたので、お口直しに、でもないか。
車修理に出した時借りた代車。うちのくるまと同じぐらい古い(=ひじょうにふるい)し、10万キロ走っているのに、エンジンは元気に回ってよく走った。ただ、ブレーキだけはちょっと心許なかった。自分の車のいいところを言えと言われたら、その一つはブレーキですね。


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