うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

猫の梅酒

2023年06月25日 | 食・レシピ

金、土ともに用務で車移動したのだが、いずれもカメラは持参しなかった。
お天気悪いかと覚悟してたのですが、雨そんなに降らなかったですね。。

用務が終わり、もと酒造のお店でソフトクリームを買った。
お店の人がソフトを作ってる間、店内を見渡していたら、猫の描かれたボトルが目に入った。お酒らしい。

ソフトを受け取って食べながら車に向かったのだが、どうも気になる。

ので、またお店に戻って、さっきの店員さんに
「あの・・、このねこの、ねこの・・」
「猫の梅酒ですね」
「梅酒なんですね」
「こちら、紅茶の梅酒になっています。アールグレイとダージリン、アップルティーがありますが、どちらになさいますか?」
「う~ん、この3本セットください」

「あっためて飲んでもおいしいです。」

「紅茶と梅酒はわかるけど、なんでねこなんですか」
「う~ん、こちらはいちにちの終わりに、のんびりした時間を過ごしてほしいという意味で、ねこなんだとおもいます。」
「なるほど。ねことか書いてあると、つい目がいっちゃいますよね。まんまと引っ掛かっちゃいました。。」

金曜に買って、帰ったら飲もうと思ったのですが、両日ともとても疲れていて帰宅後すぐ寝落ちしてしまい、まだ飲んでません。
飲んでおいしかったらまた書きます。
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自転車を買った

2023年06月18日 | 通販・買い物
前回自転車を買ったのは13年前のことだ。転居して車を買ってからはあまり使っていない。

実をいうと、転居の時防犯登録を直しそびれて、そのままになっていた。さらに、前の防犯登録(東京都)自体期限が経過して失効してしまった。
書類はあるので手続きすればよいのだが、この際新しいのを買おうと思った。
のが、数年前のこと。

なかなか、腰が重くて買うまで時間がかかってしまった。

自転車屋に行くと電動のとか、色々売っているが、今回は折り畳み式の自転車にしてみた。やるかどうかは別として、折りたたんで車に積んで、出先で乗ってみようかと。

今日ちょっと乗ってみたけど、タイヤが小さいので最初はフラフラしてちょっと違和感がありました。でもしばらく乗ったらすぐに慣れてきました。。
サドルの高さを自転車屋で低くしてもらったのですが、車輪径が小さいから高く見えただけらしくて、乗りにくいのでまた元に戻しました。

前よりは使うかもしれませんね。近所をちょろちょろ移動するには車より便利ですし。


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村上春樹 街とその不確かな壁

2023年06月17日 | 本と雑誌

新潮社 2023年4月

長編作品の発表は6年前の騎士団長殺し以来だ。村上氏の新作というと、発売日に特別早く開店した書店に平積みにされた本と、インタビューに応じるファン、という映像が朝7時台のニュースで、毎回報じられたりする。

僕も発売当日に買った。買ってしばらく寝かせてから読むのは「1Q84」以降習慣になっている。ほかに今読書中の本があるということもあるし、食事のときいしいものは後で食べる、みたいな気持ちもある。
本作は電子版でも買えるようになったが、やはり単行本で買いたくて。ただ単行本は再読するとき、持ち歩くのがかったるいんですよね。。


以下ネタバレには一定の配慮をしながら書いていきます。
文章の最後に、簡単なあらすじを入れました。

村上氏自身が自分としては珍しいとしているが、本書には作者の「あとがき」がある。
「街と不確かな壁」(1980)は氏の若い頃、中編小説として文芸誌に掲載されたが、作者の納得のいく仕上がりとはならず、単行本に収録されたことはない。
一方このテーマは氏にとって重要なものと捉えておられ、まず数年後に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)に形を変えて取り入れられた。
これは一定の書き直しとはなったが、時間の経過とともに、これだけでは「決着」がつけられていないと思うようになったという。
2020年初頭にまず第一部(上記中編の、直接の書き直しに相当する部分)を書き始めた。ちょうどコロナ渦に世間が騒然とした時期と重なる。
これに連なる第二部、第三部は第一部が仕上げられてから半年ほど後に着手された。第一部だけでは完結できないと思われたからだ。

完成させて、このテーマは作者にとって重要なものだったと改めて実感し、ほっとした、と書かれている。


雑誌収録の初期作品は読んだことがないのだが、上記のあとがきから、第一部は最初期の中編の、直接の書き直しに相当するものと思われる。

いち読者(オリジナルは未読だが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、たぶん10回以上20回未満は繰り返し読んだーまあ、あまり普通の読者じゃないかもしれないけど)としては、どうしても「世界の終わり」の表現や設定が身にしみついてしまっている。
なので、「第一部」は随所で違和感が先に立ってしまい、苦労した。

「世界の終わりー」は比較的のびのびと人物描写が描かれている。街の設定に多少の矛盾があるにせよ、読者がその世界観に浸ることに不足はない。
今回の第一部は180ページ(単行本)程度の分量になる。名称は少しずつ入れ替えられているが、少女、老人(=大佐)、門衛(=門番)、影、いずれも人物描写はかなりあっさりしている。簡潔な描写からより詳細な、あるいは違った角度からの描写が描かれるのなら良いが、いちど詳細に描かれていた事実をより簡潔な表現に改められると、なんだかあらすじを読んでいるようで味気がない。物語の骨子は基本的に全く同じだからだ。

第一部が終わり、第二部に読み進んだ時は、なるほど、第一部は「劇中劇」のようなものなのか(と呼ぶには長大だが)、と一度は納得した。しかし、あとがきで作者がそうではない見解を示したことで、この解釈も成り立たないことがわかった。
他方、第二部は近年の村上作品の流れを汲んだ佳作で(というのもおこがましいけど)、なんらかの都合でこの部分だけ読んでも十分に面白い。第三部は一、二部のバインダーとなるもので、一読した限りではそれほど興味深い締めくくりとはなっていない気がする。

第二部は、第一部の物語があることを前提としてはいるが、それにしては第一部の物語展開が長すぎ、重すぎな気がしないでもない。あるいは、第三部の締めくくり方がやや唐突かつ説明が不足している。全体として、どうもバランスが悪いという印象がぬぐえない。

あるいは第二部は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の、「ハードボイルドー」に相当する物語なのかもしれない(作者はそう意図していないとは思うが)。この場合も、第一部の相対的な魅力不足が気になる。

ただし、作者の観点から見れば(村上氏はよく作品を書いてしまうと、作品は自分の手元を離れて何を書いたか忘れてしまうようなことを述べている)、あるいは「世界の終わりー」を未読の読者が読めば、また違った捉え方ができるのかもしれない。

とりあえず、もし「世界の終わりー」と本作共に未読の方がおられたら、先に本作を読むことをお勧めする。その順番の方が色々気にならずに済むと思う。



第一部
17歳のぼくはひとつ年下のきみと交際をはじめる。きみは、ほんとうの自分は違う世界に住んでいるのだといい、夢の世界にある壁に囲まれた街のことぼくに語る。そこではきみは図書館に勤めている。
ある日、きみは突然に姿を消してしまう。
やがて私は、きみがかつて語ってくれたその街を訪れてきみと再会し(きみは私の事を覚えていない)、きみの勤める図書館で夢を読む仕事をする。

第二部
私は中年の域に差し掛かり、本を扱う会社に勤めて相応の責任ある地位についていた。ある日突然辞職を願い出て、地方の町の図書館長に就任する。前任の館長が時折現れては引継ぎや各種の指示をしてくれるが、前館長にはどこかしら不思議なところがある。
ある日、毎日図書館を訪れて、熱心に読書をしている少年に声をかけられる。少年は私がかつて訪れた壁に囲まれた街に強い興味を示す。


個人的にはたぶんまた何度か読み返し、そのたび違う感想を抱くのだと思う。
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ことりやさん 閉店

2023年06月13日 | セキセイインコ

ことりやさんは西東京市にある、文字通り小鳥を販売しているお店です。
おじさんが一人で経営しています。
扉を開けるともわっとした暖かい空気と、ぴいぴいという鳥の声が飛び込んできます。鳥かごの奥の方を見ると、一人がけのソファに横たわり、上に設置してあるテレビを見ている店主のおじさんが「いらっしゃい」と声をかけてくれる、という感じのお店。

閉店されるそうです。

12年前にお迎えしたペン殿も、9年前にお迎えしたアルココも、ここの出身です。


ペレットが中心ですが皮付きのシードもあげていて、これを買うために今でも定期的にお店に訪れています。
前回訪れたのは昨年の夏です。いまはココだけなのでシード、あんまり減らないんですよね。

買い物の時おじさんにアルのことを報告し、今はまだ(新しい子を)お迎えする気にならないけど、また来るからそれまでがんばってね、とお伝えしていたのですが。

生体販売は先週で終わってしまったようですね。
ざんねんですが、しかし50年間お疲れ様でございました。
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ほしまわり

2023年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
このところ予想外にものごとがうまくいかんことがある。

先月旅行に行ったとき、夕方料亭のバスに乗って食事に行くはずが、ホテルの部屋についたとたんに寝てしまった。起こされて慌ててバスに乗ったがとても調子が悪く、食事どころではない。

仕方なく現地についてからタクシー呼んで自分だけ宿に戻った。


先週だったか、用務で出かけようと思ったら直前に高速が通行止め(雨の影響)なことに気が付く。下道を通ったが渋滞で激遅れに。


電車が遅れているらしかったが、普通電車が来たので乗れるところまで乗って、後続の急行電車に乗り換えようとした。ところがその急行は運休だった(案内放送はなかったと思う)。

その前の駅で降りていればもっと速い種別や、地下鉄に乗るなど別の手段が使えるのに、みすみすその選択肢を逃してしまう(そもそも運休しなければそんな選択は必要ない)。

次の普通が来てたので何気に乗り込んで座席に腰掛けたが、はっと気が付いてすぐ降りる。これに乗ってるとさらに後の準急に抜かされてしまうからだ。

自分のばあい、だいたい多少の不都合があっても、どこかで何とかなるわいという、根拠のない自信というか楽観的な気持ちが心の底にある。
そうでない時は用心するし、見通しを低めに見積もって先に備える。

ここのところ思ったよりも結果が悪くなっている気がする。
よくわからんが、ほしまわりがわるいんかも。
きをつけなきゃ。。


久しぶりにPentax Qシリーズの3台を整備して連れ出した。
色設定ビビッドになっててモニタがずいぶん派手だなあとおもったが、どこで設定変えるのかしばらく思い出せなかった。

これじゃやりすぎだけど、そういや昔のRVP(富士ベルビア、ポジフィルム)とか、たまにこんな風になったりしたな。この季節ちょっと湿っぽいから、たまにはいいか。

というわけで、ふうんをぶっ飛ばしてがんばろう。
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うさ切手

2023年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム

いまさらですが、お年玉年賀状の景品をもらってきました。
先日友達が交換してきた!と言っていたので。

2枚あたってました(三等)。
うさぎデザインの切手ってところがいいですね。

昔は色々モノがもらえたりして、カラーテレビってのが印象に残ってますが、いまはわりとあっさりしていて一等は現金、二等はふるさと小包(なんだかわからん)です。

テレビもらっても困るよって人が多かったんですかね。。
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中道

2023年06月06日 | まち歩き
さいきんすっかり朝が遅くなって、どっかで生活立て直さなきゃと思ってるのだが、今日は会議の都合で少し早く起きた。

仕事ではないが朝一で車で出かける用事がある。
通勤時間帯~日中は車も多く、流れはゆっくりだ。

早朝は同じ道がとても空いているので走りやすい。のだが、その解放感はほかの人も同じようで、なぜか堂々と道の真ん中をジョギングしてる人、散歩している人が時々いる。
自転車もいろんな人がいるが、これはむしろ通勤通学時間帯の中高生に要注意。とても自由に走り回る。経験が浅く、思わぬ動きをする。
大人の男性は勢いは良いが、周りを見ていないわけでもない。
一部の年配者、女性は、あまり周りを気にしないか、ひじょうに窮屈そうに走る。いちど、車線のほぼ中央を10km/hくらいで走っている女性の真後ろを走った事がある。見た目30代半ばくらいの人だった。なんというか、炎上狙いみたいな気持ちでやっておられたのかもしれない。交差点を右折するために右折レーンに移動して追い越したのだが、そのときこっちを見ておられた。。

やたらと飛ばす車も厄介だ。上記のように道はすいていても意外と人がいるので、こちらとしては法定速度を超えたくないのだが、ずっと後ろをつけてくる車はけっこういる。たぶん前に車がいない時は法定速度の1.5倍ぐらいは出してるんじゃないか。毎日そのペースで通勤してるので、気が急いてるとか。日中にそういう車はほぼいないが、早朝は意外と多い。

秋冬になるとセキレイさんがそのへんをひょこひょこ歩く。
これも注意が必要だ。さいきんは鳩さんもその辺をとことこ歩いている。
歩道を歩いていることが多いけど、車道にもたまに出てくるね。
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AIイラスト生成

2023年06月03日 | デジタル・インターネット
AI画像はChatGPTなどより前に触れていた。去年の夏頃からTwitterで様々な絵を公開している人がいて、自動生成のイラストの存在を知った。
最初はディストピア的な廃墟の絵が多かった。草木に覆われた、広大な風景。それから、壮大な宗教施設か何かの廃墟。

もちろん人間がこうした絵を手で描くこともできるが、相当な時間と想像力が必要だ。AIはいくつかのプロンプト(生成してほしい画像内容の指示文)を書けば、わずかな時間でこんな絵をいくつも作ってしまう。

すこしばかりディストピア好きなところがあるので、惹かれるものを感じた。

その方が使われていたのはMidjourneyというサービスで、イラストレーターの間では定番になっているらしい。

これを使ってみようと思ったが、どうもうまくいかない。周辺のアドインソフトやらシェアリング・サービスやらのDLを求められたり、色々ややこしい。

どうせ遊びにしか使わないので、簡単に使えるStable Deffisionというのを使ってみた。精度はMidjournyほど高くないが、気楽に作れる。

こういう感じの絵は割と作れる。

たぶんマニア的には我慢がならないかもしれないが、戦艦ぽいものも描ける。
ダメなのは鉄道系で、プロンプトに通勤電車と書いても流線型の奇妙な電車になる。それはいい方で、ただ窓が並んでいる壁になってることもある。
これはまだいい方か。
プロンプトは西武新宿線、2000系電車黄色(という英語)と書いたと思う。
これに対して車はかなり得意。
メーカー、車種、年式、色などを指定すれば、それらしいものが出てくる。
最近の車はよく似た形の画像を出せる。旧い車はかなり抽象的になる。

一度プジョー505の青、と指定したつもりが、スペリングを間違えたらしく、青い服を着たバグ(犬)がでてきたのにはひっくり返ってしまった。。。



などなどとやっていたが、そのうちプロンプトに政治家などの名前を入れると、けっこうそれらしいコラ画像ができてしまうことに気が付いた。

米大統領とかの画像は、車同様かなりリアルに出てくる。
手のところが変だが、これはコラージュなのだ。
バイデン氏が熊を抱っこしてても別に問題はないと思うが、このことはようするに、実際にはありえないディープフェイクな画像がかんたんに作れてしまうことを意味する。

なので取り扱いには注意してください。犬に嫌われるP氏の図ですが、うそ画像です。

ブログは色んな人が見るのでこの辺にしておきますが、P氏がE女王と話をしたり、P氏とZ氏が廃墟の街を歩いたり、B、K両首脳が食事したりとか、いちおう作れてしまいました。

とにかく、こういうコラが市井のうさぎにも簡単に作れてしまう、ということに、今回改めて驚きを感じました。たぶん世の中にはこうしたことを、色々な目的で使おうとする人がいるだろうし、実際そうしていると考えた方が良いでしょう。
いずれ何らかの技術及び法制度ができて、こうしたことに制限が加わるのではないかとも思いますが。

AIが人類を滅ぼすという警句は伊達じゃないのです。


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瞬発

2023年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナの戦争について高名な政治学者が時折Twitterにコメントを書いている。それは役に立つことが多いが、その返信を見るとひどい誹謗中傷とか、仰せの通りみたいなものばかりだ。ものすごくレベルの落差が大きくて、議論にならない。
返信は制限できるのだが、学者さんによってはむしろコメントをもらいたいと思っている人がいるようで、なんというか、不毛な会話が繰り返されている。

良く知ってるわけではないけど、学術上の論争ならお互い文章を読んで解釈し、反論する論理を組み立てて、ということに一定の時間がとれる。裁判は時間を置いて何度か行われるが、あれもお互いに反論するのに必要な時間を持てる、という意義があるのだろう。

ふだんの会話にはそれほど考える時間はない。相手の呼びかけにすぐ反応しなければならない(できなければお互いに苦痛を感じ、会話が終わる)。結果、自分の意図した話にはならない時もあるが、なんとなくお互い納得、みたいな終わり方になることもある。

会話は録音でもしないと残らないが、Twitterなどは言葉が残るので厄介だ。
e-メールが普及しだしたころにもそんな話があったが、未だにこのへん人類は、言葉というツールを使いこなせていない気がする。

瞬間的、当意即妙に会話することと、考えて文章を組み立てることは、脳の使う場所がちがう気がするんだよね。というか、しゃべるのと同じ感じで文章書く、と言えば良いのか。
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