うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

3.12以降

2021年03月13日 | 記憶の断片
(今日も再掲画像がいくつかあります)

3月11日の夜は父と叔母の家に泊まり、翌朝、従兄弟の車で家の近くまで送ってもらった。父はそのまま実家へ。

実家の母は妹が世話してくれていたが、地震当日は実家近辺が停電して大変だったらしい。夜(6時半ぐらいかな)電話したら、暗くて何も見えないし、暖房も使えないと。どこかで書いたかもしれないが、救いは黒電話が生きていたことだ。普段使っていたサンヨーのファクス電話は別途電源がいるが、黒電話は停電でも使えるのだ。
あとから聞いたが、ご近所も差し入れしてくれたり、色々気を遣ってくれたらしい。

こちらは自分の家が気になるので、とりあえず従兄弟に父を任せる。
よく晴れた、気持ちのいい朝だった。道沿いの家が割れた食器を表に掃き出して、チラシか何かの上にまとめていた。何件かの家がそうしていた。

帰宅して最初に目についたのはこれだと思う。
昔の家-昭和40年代の家なので、コンクリートブロックの塀に、飾りとして大谷石が載せてあったが、それが落下している。もし人がそこにいたら、怪我をしていたかもしれない。

塀そのものはしっかりしているが、上に載せた石はセメントで固めただけだったようだ。
ブロック塀は地震の度に倒れる事故が起きていて、今は撤去されることが増えたようだ。この塀も、というか家ごと壊されて現存しない。奥に見えるお向かいの家も、写真では見えないがお隣の家も、みんな建て替えられて、今は様相一変している。

玄関。煉瓦の装飾が割れている。
折りたたみの傘が無造作におっぽり出してあるが、この週の初め頃雨が降ったようだ。
中の木が腐食している。
この辺は自分で家庭用セメントを使って何とか直した。

外見上の破損はこのほか、建物隅のモルタルのはがれがあった。
これらの破損をもとに、秋に地震保険が適用された。
状態は「建物半壊」である。

おそるおそる玄関を開けて室内に入る。
一階和室の納戸が開いている。
薄型テレビは前年秋に買ったばかりで、てっきり倒れて割れていると思っていた。テレビは良かったがスピーカーは足場からずれてずっこけている。
パソコンにタブレットが繋がっている。前日何か書こうとあれこれやっていたのかもしれない。
この模型のレイアウトは当時、2階の寝室の隅に立てかけて置いていた。
2階に行ってみたら写真のような状態で倒れていた。

この写真ではわからないが、すぐそばに加湿器(そこそこ大きい)があり、倒れたときその加湿器を支点にして半回転し、このような状態になったようだ。
足の部分は一部割れてしまったが、奇跡的に表側は無傷だった。今でも健在なのが不思議なくらいだ。

その隣の部屋、書斎はこんな状態になっていた。
文字通り、足の踏み場がない。
倒れたCD棚と散乱するCDが印象的だが、写真右側にある納戸から出てきた書類やら本やらがカオスを作り出している。

CD棚は二つの本棚の間に置かれていた。CDはぎっしりと入っていた。写真は机のある側から撮影しているが、もし地震の時ここにいたら、怪我をしていたかと思う。
写真左の本棚は上にコンポを置いていた。本棚の天井に化粧板を置いて、針金を使って鴨居に縛り付けるようにしていたため、コンポは落ちず本棚も倒れなかった。ただ、強い力が加わったせいで鴨居の一部が曲がっていた。右側の本棚は一見無事だが、転居の時見たら裏側のベニヤが割れてしまっていた。

台所。いろいろ落ちているがなんか空き瓶みたいなのばかりだな。。
落ちた食器で唯一割れたのが九谷焼のコーヒーカップの、柄の部分だ。愛着があったのでエポキシで修理したが、完全には直せなかった。カップそのものはまだ持っている。

風呂の壁が崩れた。今見るとずいぶん狭い風呂だな。。

昭和47年の風呂はこんな漆喰壁だったのだ。

これも素人仕事で直そうとしていたが、春に父が見かねて、修理屋を手配してくれた。デコラ張りの壁になった。
先ほどの書斎は、夕方には簡易復旧した。



この日、12日土曜日の昼ぐらいまでは、地震と津波が最大の焦点だった。
ところが午後になると、原発の様子がおかしくなってくる。

これも前に書いているが、夕方になると一号建屋が水素爆発で破壊される。最初は建屋周辺で白い煙のようなものが見える、という報道で、アナウンサーが中継画面を見て別に異常は見られないと言っていた。解説の人も原発は安全に管理されているから慌てずに、と繰り返していた。

しかしそのとき既に、中継画面では壁が吹き飛んで柱だけになった建屋が映し出されていたのだ。。

合点がいかぬまま、知人に挨拶するため少し家を空けた。帰ってきてテレビを見たら、騒ぎが大きくなっていた。。

13日日曜日は、朝オペラの合同練習に行ったのだと思う。まだ日常の一部はモラトリアムの状態だったのだ。その後オペラ(4月頃上演の予定だった)は正式に延期になる。

日曜午後11時過ぎくらいだったか、ウェブのニュースを見ていたら、明日は鉄道は都心部を除き運休だと書かれていた。最寄り駅より都心寄りの駅で折り返し運転だと。フジテレビのニュースでもそう言っている。
驚いたので、夜中だが駅まで行って駅員に聞いてみた。同じことを聞こうとしている人がいた。駅員はよくわからないがそうらしい、という返事だった。

14日月曜日、じっさいには鉄道は運行していた。ただし本数は限られ、かなり混んでいた。夜は当初の予定通り区間運転になってしまい、終点となった駅から歩いた。
以後、数日間にわたり変則的な運転体制は続いた。

計画停電は僕の住んでいたところ、勤務先ではなかったが、実家の方は対象になり、だいぶ苦労したようだ。
節電で暗くなった街の状態はかなり、半年ぐらいは続いたか。

食材の流通不足にも悩まされた。
既に12日の夜にはスーパーの食材が一部枯渇していた。パンとかカップ麺がまるでなくなった。面白いというか、酒類のコーナーは普段通りだったのが印象的だった。
営業時間を早めるあたり、今のコロナ渦と似ているが、理由は電力不足だ。それも、前日には9時までやっていたのに翌日は8時で終了とか変わるので往生した。
宮城県に学生時代の先輩が二人いた。
在京の先輩からの呼びかけで、二回ほど食料を郵送した。
袋麺は品薄が続き、お一人様2つまでとされていた。ので、もう時効だけど一度買った後変装して(といってもめがねと帽子を変えるとかそのくらい)調達した。

別の時には出社中に断って外出し、秋葉原と御徒町の間にあったハナマサで野菜を買って、郵便局から送った。日本郵便って、色々言う人も多いけど不思議と僕は親切な人に遭遇することが多くて、このときも親身になって送り方を説明してくれたり、箱詰めの手伝いをしてくれたりした。ゆうパックは休止しているが、定形外郵便なら時間がかかっても着く(法的に簡単には止められないらしい)そうだ。

地震、津波そして原発の情報は海外には誇大に?伝わり、自分のいた会社でも本社から来ていた社員が呼び返されて帰国した。その後は誤解も解け、4月の中旬には本社の会長らが来日して激励してくれた。

役員会の説明資料に事故のニュース映像とかをコラージュして、たしか'Stormy March というタイトルをつけたら、会長が見るなりStormy March!!と読み上げていた。あの頃は3月決算だったし、決算まとめて役員への説明が終わったと同時に監督官庁の検査も始まったりと、とても慌ただしい日々だった。


そのうえ、4月の末には先輩の結婚式がある(=それなりの年配なので、ふつうじゃなくめでたいこと)など、とにかく変化に富んだひと月だった。

それらがひと段落した頃、ふとブログを書いてみようかと思いつくのである。。
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