これを書いている現時点ではまだ家にあるのだが、実家で使っていた車を売却することになった。査定をした翌日に雪が降ったりして、多少遅れてはいるが、数日前に車検も切れているので、もう公道を走ることはできない。
1年前の今頃はもう実家で仮住まいをしていて、平日の夜はこの車で旧宅まで行って家の整理をしていた。
カーシェアやレンタカーは時々使っていたが、まとめて車に乗る機会は久しぶりだったので、妙に新鮮な感覚があった。
特に、しんしんと冷える深夜、暖かい車内から眺める街の風景は、独特の感慨を感じさせた。
特定の記憶という訳ではないが、子供のころ、親戚の家で夕食をごちそうになった帰り道、親の運転する車から眺める街の風景とか、そんな体験がよみがえってくる。
とにかく、(ほかの人にはわかってもらえないかもしれないが)長いこと車から離れていたせいか、僕は運転の感覚が25~30年前、あるいはもっと子供のころの記憶と直に結びつく傾向がある。
今週は、しばらく封印していたキャロル・キングのいくつかのCDを、また聞き始めている。
数年前に買った、紙ジャケットに入った5枚組のアルバム・セットだ。これを昨年は車の中で、耳にタコができるほどヘビロテしていた。
1年前の自分のブログを見ても、そんなにはわからないが、まあ色々あって、ちょっと参っていたのだろう。。
なので、これらのアルバムを聞くと(ちょうど今ごろの季節感も相まって)去年の今頃が思い出され、だいぶん心がうるうるくるところがある。。
あのころ、仮住まいの実家から旧宅に着くと、何とも言えない安堵感を感じた。
と同時に、その安堵感に浸ってはいけないという緊張感も、じぶんのどこかにあった。その安堵感に浸っていたら、戻れなくなってしまう。。
そのせいか、用務を済ませて車に乗り込むと、旧宅とはまた違う安心感のようなものを感じた。しばし、現実から遠ざかることができる。。
通いなれた夜道は空いてることが多かったし(とはいえ、大型トラックが跋扈している街道は、次第に消しがたいストレスを蓄積させていくのだが)、適度に狭く、暖かい車内は気持ちが良かった。
キャロル・キングに飽きたころ、こんどはGoogle Play Musicで昭和歌謡のプレイリストを作って、それを帰り道ひたすら聞いていた。旧宅を出発すると同時に聞き始めると、どの場所を走っているときに何の曲がかかっているかで、その日のペースが分かるようになる。今日は順調だ、とか、ちょっと交通量が多くて遅れてるな、とか感じながら聞いていた。
プレイリストの中に、北原ミレイ「石狩挽歌」「ざんげの値打ちもない」があった。
これがかかると車窓からの風景がまるで違って見えた。
なんというか、自分の中の日本人がどっと出てきて、車窓の何気ない風景、牛丼屋の看板とか、ガソリンスタンドの投光器とか、明かりを消した薬屋とか、そんなものと絡み合う。
長距離トラックの運転手が、ロマンチックな気持ちを抱きながら疾走する、そんな気持ちがよくわかる気がした。
「ざんげ」なんてほんと、歌を聴いている3分間で、2時間ぐらいの映画を見ているような凝縮感があるものね。。猛烈に濃い歌だね。。
年月を経て、旧宅との往復も自分の歴史のひとつとなりつつある。
季節感と音楽が、1年前のことを強く思い出させても、ここにいる自分はもうそのころとは違っている。
旧宅に近い駅(今でも度々通る)で、前のご近所さんと偶然会った。「偶々こっちに来ていて」とあいさつしたが、向こうは「はて見たことがあるひとだが、だれだっけ?」と思ったかもしれない。。
一昨夜、久しぶりに旧宅のあったところを訪れてみた。
新しい家は、一応工事が完成したようだ。
近所の家々に既視感はあるものの、ホッとするような気持ちは、もはや持てなくなってしまった。