うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

3.11から13年

2024年03月11日 | 記憶の断片

例年通り今年も歩きました。
2011年3月11日、当時の勤め先丸の内付近から、新宿の親の事務所まで歩いたのと、同じ道のりを歩きます。

このブログの3月の記事を読んでいただくとわかりますが、毎年当時の事を振り返っています。当日の事を簡単にまとめると:
当日部下の子は休みで、日常業務その他を一人でやっていた。銀行EBの申込書を書いていたら強い揺れ。携帯端末(Walkman)のワンセグを見て、津波や各地の被災状況を知る(当時オフィスにテレビもあったかもしれない)。
家族に電話して無事を確認し、夕方親のいる新宿の事務所まで歩いて合流する。そこから幡谷の親戚の家まで歩き、泊めてもらう。

鉄道の麻痺は広範囲に及んでおり、車や徒歩で帰宅を試みる人たちで道はいっぱいだった(自宅の遠い同僚たちは事務所に泊ったそうだ)。
翌朝、従兄の車で家まで送ってもらう。自宅は物が散乱し、壁や柱の一部が剥がれ落ちた「半壊」状態だった。

皇居付近から国会議事堂付近は歩道もいっぱいで、なんだか初詣の夜の様だった。


首相官邸付近は人波もなく、脇道を通ると竹藪やせせらぎが別世界の様だった。途中何度かコンビニ等に立ち寄ったが、欲しかった携帯用充電器はなかった。

当時ちょうど赤プリが閉鎖になった所でした。そのまま解体のところ、しばらく避難所として活用されたようです。
今は新しい別のビルが建ちました。写真の赤坂東急も解体に向けて準備が進んでいます。

四谷から新宿通りに出ますが、少し減ったものの歩く人は結構いました。道はどこも渋滞が続いていました。
新宿に出るまでがずいぶん長く感じられたものです。

当時の事を思い出したり、色々なことを考えながら歩きます。
街も、自分も、世の中も当時とは変わりました。
この震災も大きかったですが、そのあとコロナもありましたからね。

3月11日、この日はまず地震、そして大変な津波が一番の話題でした。
翌日の午後から、これに原発の問題が加わります。
街は節電で暗くなり、世の中全体を重い空気が漂い続けることになります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うるう年特集

2024年02月29日 | 記憶の断片
仕事で疲れたので寝ようと思ってたのですが、何気に過去の写真を見てたら、2月29日に撮った写真を並べてみたらどうか・という企画?を思いつきました。

といっても、同じ日の過去写真なんて、1月1日だろうといつだろうと並べることはできるのですけど。。

デジタルカメラを買ったのは2001年のこと、それ以前はフィルムですが、日付写しこみ機能付きのものは持ってなかったので(数年前頂いたMZ-3にはついてますが)、2月29日に写真を撮ったかどうかはわかりません。なので、日付が把握できる最初のうるう年は2004年ですね。

・・何撮ってるのかわからん写真ですが、データ番号がPICT0001なので、カメラを買って最初に撮った写真です。

思い出したのですが、この前日にミノルタのDimage X20, Snow Whiteを買ったのでした。
のちにソニーも追随しましたが、起動してもレンズが飛び出さない、当時画期的な屈折光学式を採用したカメラがDimage Xシリーズで、X20はその廉価版です。2百万画素、換算37-111mmのズームレンズつきです。電池は単3乾電池を使います。
新宿のビックカメラでお値段はたしか19,800円でした。
もちろん当時のデジカメとしては最安値に近いと思います。

これこれ。

スノーホワイトは限定品です。
ふつうは銀色ボディなのに、これは白色。違いはそれだけですけど。

ああなつかしい。
僕が買った唯一のミノルタ製品です。


2008年は2月29日付の写真がありませんでした。
なので反則ですが、2月に撮影した急行銀河を。
この年3月に廃止になりました。東京発のブルトレが全廃になったのはその翌年です。

2012年2月29日は朝から雪でした。

昼は有楽町で知人に会ったのですが、出かけるときに会社の子に頼まれて、かずやというお店でお菓子を買いました。
かずやは今でも盛業中ですが、銀座のお店はやってはいないみたいですね。

ビルの奥まったところでひっそりと営業していました。

2015年から16年にかけては、以前のHDD破損で写真データの一部が欠落してます。幸い2月29日の写真は残っています。

アル君。

2020年は自宅テレビでシン・ゴジラを映しています。

この映画に出ていたピエール瀧さんが薬物を服用していたとして、この頃出演作品が放映されない等の問題がおきていました。このブログを書くために撮ったんだと思います。


この頃既にコロナが騒ぎになり始めて、初めはマスク、次にトイペが店頭から消え始めていたんですね。

2月末のこの時点ではまだぎりぎり、行動制約とかもそれほど厳しくなかったのですが、一月半ほど後には非常事態宣言になります。

さいごが2024年です。

写真は撮っていなかったので、さっきココを撮りました。
ケージ越しに撮るには今も昔もLumix 20mm F1.7が最高です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再会する季節

2022年09月25日 | 記憶の断片
 世紀が改まってすぐのころ、ある企業の面接を受けた。
2名の担当者が出てきて話をしたが、やがてその二人が、会わせたい人がいる、といって部屋を出て行った。

やがて扉が開いて入ってきたのは、2年ほど前に退職して別れた昔の上司だった。。履歴書を見て僕の名前を見つけ、呼んでくれたらしい。

あのときは驚いたが、今思うと2年しか間が空いてなかったんだな。。とはいえ広い世の中、たとえ数か月でも会えない人には会えないのだが。

 春からこの人と仕事することになった。
いちおうお世話になった人なので、こちらはタバコ吸わないのだがちょっと付き合えと言われると、最初のうちは一緒に外に出たりした。

そしたら、隣のビルからやはりタバコ吸いに出てきた人がいて、この人が数年前まで一緒に働いていた同僚だった(上司とは違う会社)。
すごく偶然なのでお互いびっくりした。その人も転職していて、行った先が隣のビルにある会社だったのだ。もちろん元の会社とはぜんぜん違う場所だ。
その後も時々外で出会っては、挨拶したりした。

 入社して数週間したころ、廊下かエレベータのところにいたら、声をかけられた。振り向いたら、新人の頃お世話になった、業務部長の方だった。
僕の退職後に当時の同僚から、なにかの業務事故の責任を取って、退任されたと聞いていた。その頃既にベテランの方だったが、その後も頑張って求職活動されて、この会社に契約社員として働くことになったのだという。
この再会には驚いた。最後にお別れしてから6年ほど経過していた。

この方はその後、役員にまで昇進されて、退任後もしばらくお仕事を続けていた。再びしばらく、お付き合いさせていただいた。

 新人オリエンテーションか何かで、同時期に入った様々なポジションの人が集り、自己紹介とかした時だったと思う(定かではない)。終わってわさわさしているときに、声をかけられた。
僕よりは少し若手の女性だが、どこで会ったか思い出せない。
すると、「ほらあの、少し変わった掃除のおばさんがいて・・」、という話をする・。

!!

むかし、よくしゃべる掃除のおばさんがいて、なぜか社員によく話しかけてきて、おはぎとか作ってみんなに配ってくれたりしていたのだ。あのときの。。そのおばさんが声をかけてきた中に、僕もその子もいたのだが、職場での部署はお互い違うところだ。共通項はおはぎもらったりしたこと。。

この方も契約社員として採用されたそうで、しばらくの間廊下で出会って挨拶したりしていた。

 冒頭の上司とは、その後も時折一緒にお昼を食べていた。
時には少し離れたところにある、ひじょうに大きな会社の入居するビルで食事することがあった。

ある日、そのビルに向かうべく歩いていると、向こうからどこかで見た男が近づいてくる。どちらからともなく、おお~!となる。これまた前の会社の同僚だ。「おれ今、XX(くだんのひじょうに大きな会社)にいるんだ」、という。
たしかに、その会社に向かって歩いていたのだが、出会った場所はその途中のふつうの道である。なんたる偶然。。

 油絵の教室に行っていた。
先生も、生徒たちもだいたい同じくらいの年配の人が多くて、よく終わった後おひる一緒にしたりしていた。

ある朝、会社のビルのホールでエレベータを待っていた。
女性が来て、ああ、おはようございまぁす、みたいな挨拶をした。ほかにも数人人がいて、一緒にエレベータに乗る。

・・・・?

その子がさきに降りたか、自分が先だったか忘れたが、一人になってから気が付いた。仕事関係の知り合いじゃないや。油絵教室の子だ!!

 大昔、友達と沖縄に行ったら、その友達の友達と偶然出会って、ダブルデートみたいなこと、したことある。それは自分の(知人という)話じゃないけど、この会社に入ってしばらくは、昔の知人と突然再会するという経験が本当に多かった。

 人生ってそういうものなのかしら、と、その頃は思ったりもしたが、その後、誰かに偶然に遭うなんて経験はあまりない。
 今思うと不思議な気がする。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の午後

2022年07月22日 | 記憶の断片
きのうからお休みをいただいている。
今日は雨だときいていたから、あまり予定を入れいない。
午後晴れたので、洗車場で軽く車を洗って、近所をはしる。


ひさしぶりに八神純子「渚」、きいていたら、ふとむかしのことをおもいだした。

高校生の時、家に帰ったらいとこが一人で遊びに来てて、母と話していた。
いとこも短大に入ったばかりだったかな。

その頃はお正月にむこうの家に行って会うくらいで、こちらの家にくることはほとんどなかった。


それもびっくりしたけど。

もっと驚いたのは、少し見ない間にいとこがすっかりきれいになっていたこと。
記憶の中では、夏らしいしろいワンピースを着て、髪が長くてきれいだった。

むかしは、それこそはだかで遊びまわってたからねえ。。

僕の部屋をみたいというので、案内した。
しょうじき、気が進まなかった。。だって、部屋中模型やら木材やらでとっちらかっていて、カッコ悪かったから。。

「ふうん・・」といってた。。


この記憶はたぶんちょっとずつ、あたまのなかで書き換えられて?いる。

なんとなく、夏のはじめのような気がしていたが、考えてみると今頃はあちこち出かけているはずだ。たぶん初夏の頃だ。

ダイニングにいたので、家を改装した後のはず。だから短大入ったばかりじゃなくて、2年だね。べつにいいけど。

まあいいか。

とにかく、夏の午後にのんびりできるのは、とってもぜいたくでいいなあ。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良い時代とは2

2021年10月15日 | 記憶の断片

*ちなみにろくに調べもせずに適当書いてます。

前回同じタイトルで平成元年ごろの事を少し思い出してみました。

平成時代がなつかしいって、それほど強く思ってるわけでもないけど、時代のふんいきは確かに変わってきた感じはありますね。。ただ、今の令和になった直後は、これからの時代への期待が強くて、あまり振り返る気がしない、と自分が言っております。。

平成のはじめ頃は冷戦が終結し、色々問題はあっても、ぜんたいとしては世界が明るい方向に向かっていく、という機運はありました。
日本については、引き続き戦争に巻き込まれることはなく、また30年間ずっと、世界の中で一定の地位を保ち続けてきました。

令和に入る頃には近隣の国との交流も進み、日本は清潔できれいな自然やおいしいものがたくさんあって、人々は礼儀正しくて親切で、いっぽうハイテク産業も盛んで、外国に色々投資もしている国、みたいなイメージで、引き続きいくのかな、と思われていたのですが。

出典は忘れましたが、先日ビジネス誌(ウェブ版)に、一人当たりGDPで日本が韓国に抜かれた、という記事がありました。記事の名では、想定為替レートの差異が影響、と言及がされていました。為替相場、主にドル円ですが、名目レート上はここ5年ほど、それほど大きな変動はありません。
まあ遺憾ながら(韓国云々ではなく)全体として日本は、次第にその地位をおとしてきているのでしょう。

自分のうろ覚えの記憶では、昭和の終わりごろ、あまりにも急速に円高が進んだため、日本の大手銀行の総資産(ドル建て)が急に大きくなって、いきなり世界有数の大銀行になってしまった、のを思い出します。当時の米銀はメキシコ向け債務の焦げ付きとかで苦しくて、精彩がない時期だったのですね。。

自分は後者の側にいた(ものすごくはしっこだけど)んですけど、なんか、わりきれないような・あの人たち一流銀行なのに外為の知識ないし・・なんて思っていました。。

円高は95年ごろいったんピークをつけますが、そのあと外資(香港系)の会社にいた頃、向こうのCFOから「日本の人件費は高すぎる」と散々言われました。サービス業でしたが、こちらの金銭感覚から言うと、むしろ安すぎるぐらいに思ってたんですけどね。。
自分が日本の人件費について、萎縮感覚をもつようになったのはこの頃からです。
今はもう、タダ働き蔓延の世の中になってしまって、全員が感覚マヒしてるみたいな感じですけどね。。

このさきどうなるか、は、自分には荷の重すぎるテーマですから、言及を避けますが、ごくごく荒っぽく言ってしまえば、日本はいったん仕切り直ししていくしかないような気もします。そうなると、安くておいしいコンビニランチみたいなのは、昔話になっていくのかもしれません。

こないだの記事ではSwitchの表紙を掲げていなかったので、ここにのせますね。
メリル・ストリープはこの頃40歳ぐらいなのか。。きゅんきゅんしちゃいますね。「恋に落ちて」が好きでした。「ソフィーの選択」「マディソン郡の橋」も良かった。「ジュリア」がデビュー作なのは知っていたけど、観たらほんとうの端役なのにびっくりしたり。


Switchと言ったら、今は任天堂なのですね。雑誌のSwitchは健在で、むしろ独自の存在感をより強くしています。
書棚を探したら、2012年の同誌が出てきました。
Pentax Q10の特集です。
この頃のペンタは、ちょっと不思議な路線を歩んでいましたね。ぺんたというより、デジカメで色々できた時代だったのかな。

荒木氏は今もファンが多いと思いますが、カメラ雑誌がなくなってしまったので、本屋とかで見かける機会も少なくなりました。

うちのQ10は事実上隠居していますが、今でもふつうに使えます。
さっき電源入れたら、いちばんさいきん写したのがココの写真で、今年の4月でした。

ちなみに冒頭の写真と上の写真は、9年前の東急渋谷駅です。
東横線は高架で山手線の横に張り付いて、互いの改札もすぐとなりでした。
階段降りると目の前が広場で、右に歩道橋、左は東急デパート。

今は渋谷、めったに通らないから、どうなってるのかわかりません。
新宿も変わっちゃうんだよね。前からずっと変わり続けてるけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良い時代とは

2021年10月10日 | 記憶の断片
*ちなみにろくに調べもせずに適当書いてます。

国の栄枯盛衰というのはいろいろな要素があるから、いちがいには言えないが、やはりバブル盛期であった1980年代後半の日本は勢いがあった。
現在株価はその頃の数字に近づいているが、それは「戻った」というだけだ。ダウ平均はこの30年で10倍ぐらいになっている(と思う。以下省略)。

いろいろな指標、たとえば日本国債の格付けなんかも、昔は世界でも最も高い部類だった。今は中進国の、韓国とかと同じかやや低めの格付けでしかない(債務額が大きいからね)。

この前ニュースでやっていたが、先進国の賃金はこの30年で3割かそのぐらい上昇している。この間日本は横ばいか、むしろ低いぐらいの水準で推移した。
このためにグローバルな商品であるiPhoneとか、自動車などが消費者にとって相対的に非常に高いものになってしまった。

労働集約的な産業であるサービス業、飲食店やホテルなどの料金は低く据え置かれ、その結果、外国人旅行者にとって日本は非常に魅力的な旅行先となった。
これが数年前までの、訪日観光客の爆発的な増加に結びついた。
(しかし、これが戻るのは結構大変そうだね)。

昔、バブルの頃はこれ以外にも、日本企業の世界的な活躍など、日本という国が世界で高く評価される要素は多かった。もちろん批判を受けることも色々あったし、政府や国民が自らその状況に戸惑う姿勢も見られた。
かの浜田省吾も「頼りなく豊かなこの国で~」とか、歌っていた。

バブルの恩恵を受けた人たちはぜったいに、たくさんいると思うし、今でも現役で活躍している人は多いと思う。僕などはまったくと言っていいほど恩恵を受けてはいないが、当時日本がこの先今のような姿になるとは、まったく想像はしていなかった。

そんな時代、追憶の1989年・。


雑誌SWITCH '89年6月号。
この記事は高橋源一郎さんのフォト日記。当時はスマホでもデジカメでもなく、ポラロイド写真。

手元に遺してある(一般)雑誌のなかでは古い方。価格は700円(税込。消費税は施行されたばかり)。
メインの特集はメリル・ストリープのインタビュー。

本誌にバブル時代を思わせるような記事や広告はあまり見つけられない。

ただ「日本は衣食足りて豊かになったのだから、これからは感性や文化を大切にした社会作りをしていこう」というムーブメントは、この時代の一面でたしかにあった。
その結実がコンサートホールや美術館の建設など、箱物が目立ったていどだったとしても、そういう雰囲気は確かに世の中にあった。

そういう意味では、本誌の文化的な誌面のムードはこの時代を現している気がしないでもない。


この雑誌、広告は酒とたばこの宣伝が大部分を占めている。
たばこの宣伝は昔は多かったし、けっこうかっこいいCMとか、ありましたね。。
これはJTが後援するビッグバンド・ジャズのコンサートですが、そっちの方が詳しくないので、マイケル・ブレッカーぐらいしか名前知らないや。

ちょっと光っちゃった。。

オリンパスはけっこう積極的に一般紙に広告出していた印象が。
ただ、キヤノンは既にEOSの時代、ミノルタは勢いがあり、ニコンも1/8000の、犬がフリスビーをくわえるCM(F801)とか出していた頃なので、オリンパスはそろそろまにあっくな存在になりつつあったのかと。。

日本の自動車産業はこの時期一つのピークにさしかかってましたね。。
マツダのロードスターとか、ホンダのNS-X、レクサスも登場直前でした。

三菱のこの広告はしっとりとした、どこかイギリス調のアレンジに思えますが、車自体もやや地味な感じ。ミラージュはこの時期、ひじょうに売れた車とは言いがたいですね。。マツダがファミリアを刷新し、カローラやシビックもそれなりに売れていましたが、時代はより上級の6気筒車に光が当たっていました。R32スカイラインがちょうど出た頃です。


昭和のことは「懐かしい」という言葉と繋がっていて、「昭和レトロ」などという言葉を良く目にする。

しかし、平成はまだ記憶が生々しいのか、「レトロ」の冠をつけて語られることはない。

昭和は62年間+αあったが、そのうち半分近くはかなり暗い時代で、その後も日々の暮らしはかなり厳しい想いをしている人が多かったはずだ。平成も、細かく見れば色々問題はあったが、総じて穏やかな時代ではあった。

タイムマシンがあって、昭和36年に移動できたとする。そこで暮らしていくのは相当骨が折れるんじゃないかと思う。

でも、平成元年ぐらいなら、今と同じ感覚で生活できるんじゃないかな。
当時はなくて少し戸惑うのは、携帯とネット通販ぐらいじゃないか。

でも、サブスクなくても、都内に大型CDショップあるし、コンビニはもうふつうにあったし、ファミレスは今と違って24時間やってるし。

飯食っても写真撮らなくていいし、位置情報盗まれることもない。撮りたきゃ上の高橋源一郎さんみたいにポラロイドあるし、写ルンですもある。

平成元年は好景気だから、良くて当たり前、というなら平成3年ぐらいでもいい。
ちょうど30年前だ。当時だって世界は騒然としていたが、日本はまだバブル以前の体制が壊れていない時期だ。おそらく陰で四苦八苦していた人は多かったとは思う。

いまあるものがなくて困ることはほとんどない。今あるからこそ困ることに悩む必要もない。

そうすると、やはり時代はわるくなっているということかねえ。。

*冒頭の写真は平成1年11月、皇居チャリティマラソン。平成の庶民生活つったって、そんなの写真には撮ってなくて、これくらいしか出てこなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9.11から20年

2021年09月11日 | 記憶の断片

20年前の9月11日のことについては、過去にも何回か書いた記憶がある。

ただ、このブログでまとめて書いたのはは10年前、ちょうど10周年にあたる2011年の9月11日の記事位のようだ。ほかにも書いたかもしれないけど。
*下に追記あり。

上の雑誌の写真は、このときにも使っている。これらの雑誌、捨ててないと思うのだが、今本棚を眺めても出てこない。

ドラマ「ザ・ホワイトハウス」シーズン3には、テロ直後に放送された特別篇「イサクとイシュマエル」がある(本国では2001年10月3日放送。日本未放送)。これについては下に記事を書いている。
今読むとちょっとまとまりがない感じだけど。

ネット上に掲げられている抜粋動画はたとえばこんな感じ。


偶々見学に来ていた高校生たちを相手に、次席補佐官がイスラム過激派のテロについて語っている。高校生たちは「なぜ自分たちが狙われるのか?」という、もっともな疑問をぶつけてくる。



東北大地震のときは自分にも知人にも大きな影響はなかった。もちろん帰宅困難その他、色々ありはしたが。
9.11でも、すこしだけ影響があった。

会社の総務の子がふたり(全く別に行動していた)米国に旅行中で、事件で飛行機が長期抑止になったため、帰ってこれなくなったのだ。

この二人はたしか・・僕は両方ともなぜか仲が良くて、一緒に食事に行ったことがあったのだけど、その二人だと思う(記憶曖昧)。。
少なくとも一人の子はそうで、その年の暮れごろ、二人でお昼に行ったときに武勇談を聞かせてもらった。
もう一人の子とは、その時の話はしてないと思う。

今覚えているのは11日前後に、彼女はともだちとマンハッタンにいて、これから帰国しようとするところだったらしい。

ロウアー・マンハッタンからは離れていたものの、交通が前面的に遮断されて身動きが取れなくなった。何とかして空港まで着いて、そこで滞在を余儀なくされた。その後、知り合った人だか誰だったかの家に泊めてもらったと聞いた気がする。。

たしか、予定より一週間だか、10日だか遅く帰ってきたという記憶がある。

ものすごい経験だったと思うが、わりとにこやかに、淡々と話してくれたのを覚えている。


当時は米系企業勤務だったが、少なくとも仕事で知っている人に犠牲者はいなかった。ツインタワーではなく、アネックス(でいいんだっけ?)という周辺のビルに拠点があったようなことを聞いた気がするが、いずれにしても仕事上関係はなくて、詳しいことはわからない。。
取引先の銀行さんと話をした時、うちも事務所があるので今安否確認している、みたいな会話をした記憶はある。

ビジネス街の風景は日本も米国もそう大きくは変わらない。倒壊のとき、書類らしきものが大量に舞い散っていたのはとても印象的だった。

110階もないけど、勤務先もツインタワーだったのよね。。

10周年の記事に書いてあるが、この日東京は台風が来て天気が大いに荒れた。夕方には雨もやみ、西の空が毒々しく赤く染まった。

あの日、帰宅したのは9時過ぎだったと記憶している。

当時のNHK衛星はBS1, BS2と呼んでいたけど、BS2は今のBSプレミアムみたいな放送内容で、この頃は毎夜映画を放映していた。この日は「スタンド・バイ・ミー」だった。もうだいぶ時間が過ぎていたし、知っている映画だったけど、しばらくぼんやりとみていた。そのうち、そうだ今日はニュースが色々ありそうだ(台風だったから)と思い、NHK地上波に切り替えた。

このとき映画のシーンは、子供たちが鉄道線路に沿って歩き続け、森の中の信号場を通りがかったところをロングでとらえたあたりだった(と思う)。機関車に給水するための水タンクの、タガが緩んでいて、水がちょぼちょぼ漏れている音がきこえている。。

切り替えたら、堀尾アナウンサーが記者と話をしている。背後には青空を背景にビルが見えて、真ん中がすこしくすぶっている、というものだった。

たしか、南棟に2機目が突っ込むのはリアルタイムで見た気がするんだが、その辺はあいまいだ。あのとき、これは事故じゃないな、と思ったような記憶もあるんだがなあ。。

そのあと、南棟の崩壊とか、北棟の崩壊とかもずっと見ていた。当時はツイッターやラインみたいなSNSはまだない。
親に電話かけて「すごいね・・」と話をしたのは覚えている。

ニュースのビデオ録画はしていない。余っているテープがなかったのだ。ラジオをAFNにして、MDに録音はした。どこかにあるはずだ。
この日、寝たのは午前4時ぐらいだ。


その後、国際情勢は緊迫の度合いを深め、アメリカ国内の世論も沸騰した。
当時は自分なりに色々なニュースを見たり、人々の意見を聞いたりしながら、将来を憂えたりもした。

いろいろあったことは事実だが、正直、当時の世界情勢が自分の暮らしに直接影響を及ぼしていた、と実感できることは少ない。

その一方、自分の身の回りで起きた様々な事象が、その頃の自分の生活を左右していたことはよく覚えている。

もちろん、このさき世界的な大事件が自分の身に直接降りかかってくる可能性は常にあるのだが、これまでの人生はそういう意味でとても幸運であった、と(唐突ですが)思う。。


NHK第二でやっていた「やさしいビジネス英語」のテキスト。
事件の前月のものだが、これ一冊だけ手元に残っている。

表紙の絵は、アメリカのビジネスマンたちの日常風景がよく描かれていた。
9.11後は、この表紙絵がなんだかとても儚いもののように感じられたのを覚えている。

講師の杉田敏さんは今もお元気な、国際的ビジネスパースンだが、テロの後発行されたテキスト冒頭で、ご自身の思いを語っておられた。


このNHK講座はもう終わってしまい、今はタイトルも変わったらしい。

このシリーズにはちゃんとストーリーがあり、同じ職場の登場人物たちが毎回色々な話題を語り合う。彼らは時代と共に歳をとり、出世したり転勤したりする。

この頃はアメリカの広告会社に勤める荒木さんが、NY本社に配属されて活躍するという筋書きだった。荒木さんは当時僕よりも少し年配だけど、同僚たちを含め、実際の職場にいそうな世代の人たちがそろっている。
ギャビィさんが良く上司から褒められていたなあ。。

ウィキを見たら、この筋書きでの講座は96年から6年ほど続いたらしい。。
この翌年、荒木さんは帰国したか?香港かどこかに転勤して、アジア統括代表に抜擢されたような記憶がある。。

杉田さんのお話が上手で、それで聞いていたのだけど、内容は相当難しくて、歯が立たなかったな。。よく勉強していたのはこの2年ぐらい前で、もうこの頃には朝の地下鉄で漫然と聞いているだけだった。。本号の杉田さんの前書きでは、それではダメだと書いてあるけど。

追記:1年前にこの記事書いてて、すっかり忘れてた。
う~ん、末期的。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神保町

2021年09月02日 | 記憶の断片
今週初めは短い夏休みでしたが、そのときは35℃もあったのに、仕事に戻ったら急に涼しくなって・。

仕事にもどった瞬間から(正確にはその前から)どっちゃり忙しくなり、今日は会議で思いもよらず至近弾直撃を受け・・old soldierなので簡単にはしみませんが、たいちょうもがたおちして、へびいな9月のはじまりです。。

良く伺っているブログで、三省堂書店本店が閉店(建て替え)だと知りました。あれあれ。。

もう20年前ですが、三省堂裏の画材屋さんでやっている絵画教室に毎週通ってました。5年ぐらい行ってたかな。土曜の午前だったので、終わるとみんなでランチしたり、そのあと街をぶらぶらしたりもしてた。三省堂もよく使っていたな。。
今思えば自分も先生も教室の人たちも若くて(今の自分ぐらいの人もいたけど)、なんか楽しかった。

冒頭の写真は20年近く前、ちょうどこの日で教室をやめたときに撮ったものです。すこし別の勉強するために一区切りつけたのですが、ちょっと別れが惜しかったな。

そのあと6年ほどして、また通おうとしたのですが、昔とは自分の勢いみたいなのが違い、3か月ぐらいしか続きませんでした。。

ちょうど同じころの写真から。教室では油絵でしたが、ここに映ってるのはアクリルですね。アクリルは今の家に越してからも少し描いてたけど、ここ数年やってないな。。

画材を買うのが楽しいというか、習慣みたいになっていて、しょっちゅう買ってたな。。

同じころの写真から。

ちょうどこの頃に携帯買い替えて、初めてカメラ付きになった。
そしたら、ちょうど買った「アサヒカメラ」に、その携帯が取り上げられていたらしい。31万画素だそうです。

カメラ雑誌としては色物的な取り扱いだったと思うが、今や人々は写真と言えばスマホになってしまい、カメラ雑誌もなくなってしまった。


やはり同じころ撮った写真。
なんでこんなの撮ったのか。。
一区切りして、気持ちも新たに別のことをはじめよう、ということかな。。
(ちなみにこれは映画「ジーザスクライストスーパースター」)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kさん

2021年08月08日 | 記憶の断片
先月のこと、なんとなく土用丑の日のことを想っているうちに、だんだんと昔の事を思い出してきた。
名前がとっさに出てこなくて焦ったが、なにかの拍子にふと思い出したのね。


社会人になって最初の職場では、まわりの人間関係からぼろぼろになり、ほぼめんたるでぃすおーだーの状態に陥っていた。
いま思えばかなり迷惑な奴だったんだけど、時折自席にいられなくなって、仕事中抜け出して別の職場に行っては、油を売っていた。

自分のいたところとは違うエリアに、わりと静かな人がおおい部署があって、おとなしい感じの女性がふたり、働いていた。

若手のOさんは僕とほぼ同年輩で、先輩格のKさんはいくつぐらいだったのかな。。
Oさんはお父さんお母さんのもとでしっかり育てられたお嬢さんという感じで、子どもがそのまま社会人になったような感じだった。
Kさんはたぶん色々社会経験されて・・なんとなく、ずっとお一人で暮らしてこられたような感じがした。

何を話していたのかぜんぜん覚えていない。Oさんを笑わせるのが結構好きで、なにか面白いことを考えては話していたような気もする。おふたりとも、僕の話によく乗って笑ってくれた。

確か、作業の自動化が進んで、お二人のやっていた部署は廃止になった。Oさんは経理部に異動し、Kさんも別の場所、僕のいたエリアに移動したように記憶している。

その後も二人のところに、個別にお邪魔しては何か話をしていた。ただ、Oさんは別部署に一人で異動したので、職場で声をかけるのは憚られる雰囲気になって・・たまに廊下とかで軽く話す程度になっていった。

Kさんはよく残業していて、これも今思えば申し訳ないんだけど、そこにお邪魔しては脇に座って話をしていた。。
Kさんは時折、ふんふんと鼻歌を歌いながら、仕事をしていた。

どこかで聞いたことのある歌だなあ、と思って色々と記憶をたどって、ふと思い出した。この曲だ。

とんとんとんからりんと 隣組
格子を開ければ 顔馴染
まわして頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり

メロディは、当時関東地区でよく流れていた眼鏡チェーンのCMで使われていたので知っていたけど、CMは一部編曲されている。Kさんの歌っていたのはオリジナルバージョンだ。

Kさんをいちど、お食事に誘ったことがある。

何の話からそうなったのか、全く忘れたけど、「うなぎで有名な銀座竹葉亭は、じつは鯛茶漬けもおいしい」という話をKさんがしていて、それではお誘いしましょう、ということになった。

竹葉亭と言うのは今もあると思うが、この30年の間に移転していて、その前の場所だったと記憶している。
金曜日、夏でまだ少し明るい時間に一緒にオフィスを出て、たぶん軽くビールでも飲んだのかな。

また行きましょうみたいな話はしたけど、残念ながらこの一度で終わってしまった。




あの頃、高野文子の「るきさん」という漫画があったけど、頭の中の印象ではKさんはるきさんに似てる・・ような気もするけど、漫画を見るとぜんぜんちがう。るきさんの方が若くて行動的。さいごはイタリアに移住しちゃうんだよね。。

でも、マイペースな感じがどこか似てる。

とはいえ、もう少しKさんの方が屈託があるかな。。

前にも書いたけど、ちょうどオガワクンぐらいの年代だったんだよね自分。。



Oさんの方こそ、おデートにお誘いすべきだったのかと思うが、どうもそういう雰囲気には最後までならなかった気がする。。

数年後の春、Oさんは退職された。辞める前に廊下で会ったとき、そのことを告げてくれて、言い方は忘れたけど、この後きっと良いお知らせがくるはず、みたいな事を言われた。
別れ際に、何か意味ありげに微笑んで、その場を去っていった。

その時は何のことかさっぱりわからなかった。
が、しばらくしたら、経理部から、(推薦をもらったので)こちらに異動しないか、というオファーが来た。
たぶんこれが端緒となって、その後は少しずつ、自分の方向性が定まっていき、精神的な危機からも抜け出して行けたように思う。

その意味で、Oさんには感謝してもしきれないものを感じる。
んだけど、その頃はあまり実感なかったし、じゅうぶんなお礼も伝えてないよなあ。。

今はSNSとかもあって、昔の同僚とかにもつながることができるようになったが、KさんもOさんもその後の行方はわからない。
大きな会社なら、OB、OG名簿とか、あるのでしょうけど。。
たぶんもう、一生お会いできないんだろうな。。




コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たむらさんのゆめ

2021年05月18日 | 記憶の断片


田村正和さんが亡くなったそうで。。

昔、そう1980年代から90年代にかけてはすごかったですからね。テレビつけるとどこかしらで田村さんが映っている、という感じだった気が。

とか言いながら、ある時期からしばらく、テレビドラマとかぜんぜん見てなかったのですが、今YouTubeとか見てあの声を聞くと、ちょっとタイムスリップした気分になります。

田村正和さんは昔、夢に出てきました。10年くらい前のメモに残っています。

おそらく新宿東口あたりで、30代ぐらい?の女性と田村正和さんに声をかけられた。地下街の、ちょっと煙たくて狭い喫茶店に一緒に行く。

女性はにこやかにあれやらこれやらと、色々話しかけてくる。田村さんは脇で聞いていて、ほとんど話をしない。
なんで呼ばれたのか全然わからずにいたが、そのうちにテーブルに紙を置いて、それではここに必要事項を書いて・・、と言われる。

よく見るとそれはペンタックスクラブの申込書らしい。

・・あれです、カメラ買うとよくそういう申込書がついていて、会員になると写真教室で勉強したり、フォトコンテストとか、割引価格で修理受けられたりする、ってやつです。

だけど、この時点ではペンタックスのカメラなんて全然持っていなかった。
仕方ないから今忙しいし、昔ニッコールクラブとか、オリンパスの会員だったことがあるんだ(実際にはそういう事実はない)、とその女性に伝えた。

そしたらその場の雰囲気がさっと変わって、女性は何とも納得しかねるという感じで何か言っていた。田村氏は最初からあまり表情がなかったが、どうも僕の対応に不満を感じていることは伝わってきた。

・・という夢。

田村正和さんは一体なぜ出てきたのか、なんで買ったこともないペンタックスのことが出てきたのか、まるっきりわからない夢だった。

ちなみに、その後2年ほどしてペンタックスQ10を買い、Q、Q-S1と来て4年前にKPを買いました。

その時、箱に申込書が入っていたので、今はペンタックスリコーファミリークラブの会員です。

もっとも、写真の勉強なんてぜんぜんしないし、コンテストなんてとんでもないし、ただ会報を定期購読しているようなものですが・。

田村さん、すいません、あのときは出演料タダで夢に出てきていただいて、ありがとうございました。

ご冥福をお祈りいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4年前

2021年04月20日 | 記憶の断片
今から4年前の2017年4月19日は水曜日で、この日前宅から最後の通勤をしました。家を出るところから目に映るものを、カメラに収めて遺してあります。
ふだん出かけるよりは少し早めに出ているようです。
家から駅に向かうのは20年間同じ道でしたから、それなりに感慨を感じたのでしょう。

今日は忙しくて、お天気わかんなかったけど、昨日はほんのちょっとひんやりしてて、あれと同じくらいの感じだった気がするな。

翌日から1週間休暇を取って、家でひたすら引っ越し作業をしていたのです。
ピアノを搬出しています。
引き取ってもらったわけです(無償)。

あれは孤独な、なんともいえない1週間だったな。。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春

2021年03月16日 | 記憶の断片
陽ざしがキラキラと強いが空気はガラスのように澄み切って冷たい。
夜は真冬の面影が残り、家に戻ると暖房のぬくもりにホッとする。

早春には独特の質感がある。

女性に例えれば物静かだが何事にも前向きで機転が利いて、周りの人たちに少し緊張感を与える様な感じのひと。

月曜日は在宅勤務だったが、鳥たちのご飯(ペレット)を切らせてしまい、昼休みにペットショップまで車で行ってきた。夕方になると店が閉まってしまうかもしれないと思ったのだ。

この時期の真昼、ふつうなら仕事中で、外の風景など見ることもない。
ふと思い出すのははるか昔、学生時代の、期末試験の帰りとかだ。


学生時代ははるか昔だが、同時にここ数年の記憶も蘇ってくる。

慌ただしかった4年前、実家での介護、旧宅を畳み、現宅を探して、ほかにも色々手配して。


その辺のことが心に浮かんでくると、少々というか、いささか心が痛くなってくる。
その時は目の前の事をひたすらこなしているので、案外平気なものだが、今振り返ってあれこれ考えるのはけっこうきつい。


ぜんぜん古いことを思い出したりもする。

小さいころ、向かいの家の一つ上の女の子とばかり遊んでいた。

小学校にあがってからも、結構遊んでたと思う。多少大人になって??一緒に本を読んだりしてたようだ。。

学年別の学習雑誌をその子が毎月とっていて、それに「ごんぎつね」が連載されていた。それを、毎月貸してもらって読んでいた。

最終回の載った号をかしてくれるとき、「なんか、すごくかわいそうなんだよ」と、ちょっと辛そうにいいながら貸してくれたのを覚えている。。


その子の家は平屋の小さな建物だったが、新築してきれいな2階建てになった。
ところが、家ができてからけっこうすぐに、引っ越すことになった、とその子から告げられた。

お父さんが小さな工場をやっていて、職場と住まいが一緒の、すこし大きな敷地のあるところに越す必要があったようだ。

言われたのはいつだったかな。
とにかく、引っ越したのは春だ。

なんかその辺自分の心境は複雑で・・
余り素直に寂しい、別れたくない!なんて気持ちではなかった。

小さい頃は、いくら頑張っても頭のあがらないお姉さんだった。

成長するにつれて、その差はだんだん小さくなってくる。ほかにも友達ができて、世界が広がってくる。

なので、別れてもさびしくないや、みたいな気持ちを持ったのかもしれない。
それと、引っ越し先がそれほど遠くない(といっても車で15分ぐらいはかかる)ので、また会える、という気持ちもあったのかな。

家族みんなでお別れはしたと思うが、その辺はよく覚えていない。


2階の部屋から外を見ると、となりの家が見えた。
見ながら、あと何日で引っ越しちゃうんだな、と考えていた。
そのことだけは覚えている。

たぶんあのとき、担任の先生も離任してお別れしたんだよな。

最後にひとりひとり握手した。
クラスメイトの子が「あたし、〈握手した)この手、一生洗わない!」といっていたので、そんなできもしないことを言うな、みたいなことを言った覚えがある。

いやなガキだな。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.12以降

2021年03月13日 | 記憶の断片
(今日も再掲画像がいくつかあります)

3月11日の夜は父と叔母の家に泊まり、翌朝、従兄弟の車で家の近くまで送ってもらった。父はそのまま実家へ。

実家の母は妹が世話してくれていたが、地震当日は実家近辺が停電して大変だったらしい。夜(6時半ぐらいかな)電話したら、暗くて何も見えないし、暖房も使えないと。どこかで書いたかもしれないが、救いは黒電話が生きていたことだ。普段使っていたサンヨーのファクス電話は別途電源がいるが、黒電話は停電でも使えるのだ。
あとから聞いたが、ご近所も差し入れしてくれたり、色々気を遣ってくれたらしい。

こちらは自分の家が気になるので、とりあえず従兄弟に父を任せる。
よく晴れた、気持ちのいい朝だった。道沿いの家が割れた食器を表に掃き出して、チラシか何かの上にまとめていた。何件かの家がそうしていた。

帰宅して最初に目についたのはこれだと思う。
昔の家-昭和40年代の家なので、コンクリートブロックの塀に、飾りとして大谷石が載せてあったが、それが落下している。もし人がそこにいたら、怪我をしていたかもしれない。

塀そのものはしっかりしているが、上に載せた石はセメントで固めただけだったようだ。
ブロック塀は地震の度に倒れる事故が起きていて、今は撤去されることが増えたようだ。この塀も、というか家ごと壊されて現存しない。奥に見えるお向かいの家も、写真では見えないがお隣の家も、みんな建て替えられて、今は様相一変している。

玄関。煉瓦の装飾が割れている。
折りたたみの傘が無造作におっぽり出してあるが、この週の初め頃雨が降ったようだ。
中の木が腐食している。
この辺は自分で家庭用セメントを使って何とか直した。

外見上の破損はこのほか、建物隅のモルタルのはがれがあった。
これらの破損をもとに、秋に地震保険が適用された。
状態は「建物半壊」である。

おそるおそる玄関を開けて室内に入る。
一階和室の納戸が開いている。
薄型テレビは前年秋に買ったばかりで、てっきり倒れて割れていると思っていた。テレビは良かったがスピーカーは足場からずれてずっこけている。
パソコンにタブレットが繋がっている。前日何か書こうとあれこれやっていたのかもしれない。
この模型のレイアウトは当時、2階の寝室の隅に立てかけて置いていた。
2階に行ってみたら写真のような状態で倒れていた。

この写真ではわからないが、すぐそばに加湿器(そこそこ大きい)があり、倒れたときその加湿器を支点にして半回転し、このような状態になったようだ。
足の部分は一部割れてしまったが、奇跡的に表側は無傷だった。今でも健在なのが不思議なくらいだ。

その隣の部屋、書斎はこんな状態になっていた。
文字通り、足の踏み場がない。
倒れたCD棚と散乱するCDが印象的だが、写真右側にある納戸から出てきた書類やら本やらがカオスを作り出している。

CD棚は二つの本棚の間に置かれていた。CDはぎっしりと入っていた。写真は机のある側から撮影しているが、もし地震の時ここにいたら、怪我をしていたかと思う。
写真左の本棚は上にコンポを置いていた。本棚の天井に化粧板を置いて、針金を使って鴨居に縛り付けるようにしていたため、コンポは落ちず本棚も倒れなかった。ただ、強い力が加わったせいで鴨居の一部が曲がっていた。右側の本棚は一見無事だが、転居の時見たら裏側のベニヤが割れてしまっていた。

台所。いろいろ落ちているがなんか空き瓶みたいなのばかりだな。。
落ちた食器で唯一割れたのが九谷焼のコーヒーカップの、柄の部分だ。愛着があったのでエポキシで修理したが、完全には直せなかった。カップそのものはまだ持っている。

風呂の壁が崩れた。今見るとずいぶん狭い風呂だな。。

昭和47年の風呂はこんな漆喰壁だったのだ。

これも素人仕事で直そうとしていたが、春に父が見かねて、修理屋を手配してくれた。デコラ張りの壁になった。
先ほどの書斎は、夕方には簡易復旧した。



この日、12日土曜日の昼ぐらいまでは、地震と津波が最大の焦点だった。
ところが午後になると、原発の様子がおかしくなってくる。

これも前に書いているが、夕方になると一号建屋が水素爆発で破壊される。最初は建屋周辺で白い煙のようなものが見える、という報道で、アナウンサーが中継画面を見て別に異常は見られないと言っていた。解説の人も原発は安全に管理されているから慌てずに、と繰り返していた。

しかしそのとき既に、中継画面では壁が吹き飛んで柱だけになった建屋が映し出されていたのだ。。

合点がいかぬまま、知人に挨拶するため少し家を空けた。帰ってきてテレビを見たら、騒ぎが大きくなっていた。。

13日日曜日は、朝オペラの合同練習に行ったのだと思う。まだ日常の一部はモラトリアムの状態だったのだ。その後オペラ(4月頃上演の予定だった)は正式に延期になる。

日曜午後11時過ぎくらいだったか、ウェブのニュースを見ていたら、明日は鉄道は都心部を除き運休だと書かれていた。最寄り駅より都心寄りの駅で折り返し運転だと。フジテレビのニュースでもそう言っている。
驚いたので、夜中だが駅まで行って駅員に聞いてみた。同じことを聞こうとしている人がいた。駅員はよくわからないがそうらしい、という返事だった。

14日月曜日、じっさいには鉄道は運行していた。ただし本数は限られ、かなり混んでいた。夜は当初の予定通り区間運転になってしまい、終点となった駅から歩いた。
以後、数日間にわたり変則的な運転体制は続いた。

計画停電は僕の住んでいたところ、勤務先ではなかったが、実家の方は対象になり、だいぶ苦労したようだ。
節電で暗くなった街の状態はかなり、半年ぐらいは続いたか。

食材の流通不足にも悩まされた。
既に12日の夜にはスーパーの食材が一部枯渇していた。パンとかカップ麺がまるでなくなった。面白いというか、酒類のコーナーは普段通りだったのが印象的だった。
営業時間を早めるあたり、今のコロナ渦と似ているが、理由は電力不足だ。それも、前日には9時までやっていたのに翌日は8時で終了とか変わるので往生した。
宮城県に学生時代の先輩が二人いた。
在京の先輩からの呼びかけで、二回ほど食料を郵送した。
袋麺は品薄が続き、お一人様2つまでとされていた。ので、もう時効だけど一度買った後変装して(といってもめがねと帽子を変えるとかそのくらい)調達した。

別の時には出社中に断って外出し、秋葉原と御徒町の間にあったハナマサで野菜を買って、郵便局から送った。日本郵便って、色々言う人も多いけど不思議と僕は親切な人に遭遇することが多くて、このときも親身になって送り方を説明してくれたり、箱詰めの手伝いをしてくれたりした。ゆうパックは休止しているが、定形外郵便なら時間がかかっても着く(法的に簡単には止められないらしい)そうだ。

地震、津波そして原発の情報は海外には誇大に?伝わり、自分のいた会社でも本社から来ていた社員が呼び返されて帰国した。その後は誤解も解け、4月の中旬には本社の会長らが来日して激励してくれた。

役員会の説明資料に事故のニュース映像とかをコラージュして、たしか'Stormy March というタイトルをつけたら、会長が見るなりStormy March!!と読み上げていた。あの頃は3月決算だったし、決算まとめて役員への説明が終わったと同時に監督官庁の検査も始まったりと、とても慌ただしい日々だった。


そのうえ、4月の末には先輩の結婚式がある(=それなりの年配なので、ふつうじゃなくめでたいこと)など、とにかく変化に富んだひと月だった。

それらがひと段落した頃、ふとブログを書いてみようかと思いつくのである。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.11

2021年03月11日 | 記憶の断片

10年を迎えるにあたり、ここに何を書こうかと思ったのだが、あまり長文を書く時間もないので、あの日の写真を掲げていくことにする。

今年も当日を偲んで、当日親と合流するために歩いた同じ道のりを歩いてみた。丸の内から新宿御苑前まで。Google mapだと約7キロ(ルートは違うので参考)ということになる。
冒頭の写真は2021.3.11。以下特記ないものは2011年3月11日夜。
なお、一部再掲を含む。

夕方までに家族全員と連絡がついた。
5時過ぎにMY PLAZA3階のローソンに買い出しに行ったが、既にかなり商品がなくなっていた。蒸しパン、おにぎり、カップヌードルシーフードを買った。蒸しパンは森下だったか船堀だったかに歩いて帰るという若い部下に餞別としてあげた。
オフィスを出たのは7時10分過ぎだったと記憶している。

丸ビル内の大型スクリーンに映し出されたニュース映像に見入る人たち。


津波のことは伝わっていた。京葉工業地帯で火事というニュースも取り上げられていた。原発のことはわからなかったか、あまり大きく取り上げられず、したがって電力のこともこの時点では全く気にしていなかった。

鉄道は完全に止まっていた。
カラーコーンと仕切り棒が見えるが、なぜ置いてあるのかは不明。
毎回思うのはこの時期ホワイトデーの屋台(というのかな)が丸の内広場にたくさん来ているのが恒例だが、このときはどうしていたのか。地震後、一部を撤去したのだろうか。

2021年。
今年も屋台は出ていたが、出店はやや寂しい感じ。画面右に少し見えるが、当日もこんな感じだったのかもしれない。

傘をさす人。これも長年の謎。
goo天気によると、当日の東京は最高11.3℃、最低気温2.9度 晴れ。

別の若い子はたしか等々力だかに住んでいて、バスで帰るようなことを言っていた気がするのだが、大変だったのかもしれない。

祝田橋付近と思われる。
当時ガラケーで地図の表示はできなかったので、会社のPCから地図を印刷して持って行った。当日商工会議所のところを曲がったのか、今のペニンシュラの角を曲がったのかよく迷うのだが、これを見ると後者が正しいようだ。

歩道としてはかなり広いところだと思うが、人でいっぱいである。

そういえば前の会社って上司(社長)がアドミニオタクっぽい?ところがあって、ヘルメットとか防災袋とか色々完備していたけど、今のオフィスにはない気がするな。。こないだ常備薬の箱見たらほとんどなかったし。。

もしかしたら一部工事中で歩道が細かったのかもしれない。
大晦日の初詣状態で歩きにくかった。一部の人は垣根を越えて歩道に出ていた。
道路はもとより駐車場状態になっていた。

路側帯を歩く人々の先に国会議事堂。

桜田門駅。
そうか、地下鉄入り口があるから歩道が狭いのかな?

首都高閉鎖中。この案内もとても印象的だった。

写真はないがこのあたり、混雑を避けようとしたのか道がわからなかったのか、やや変則的な歩き方をしている。議事堂正面の通りを横断し、憲政記念公園を右手に見ながら溜池方面に向かうが、途中で右折して首相官邸の前に出ている。議事堂の裏手(いつも誰かがデモ演説をしている)から首相官邸のすぐわきを通る細い道があるが、そこを歩いて山王パークタワー方向に行き、双日(当時)の前に出たんだと思う。

首相官邸脇の道には人工の竹やぶと、何か沢のような用水溝があり、竹がさわさわと言う音、沢の水の音がとても印象的だった。あたりには人はおらず(勿論デモ演説の人もいなかった)、そこだけ別世界のような気がしていた。
今は警備がとても厳重で、常時バリケードがもうけられている(人の通行は可能)。

それはともかく、写真は当時もう閉館していたんじゃなかったかな、赤プリ。すぐ解体されるはずが、このあとしばらく被災者のために使われていたという記憶がある。

ニューオータニの脇を通って、細い坂道を上ると上智大学に出た。

四谷駅。JRは早々に当日の運休を決めていた。民鉄、地下鉄は深夜に運行再開したところが多かったようだ。


2021年。中央右の黄色い看板は10年前も今も四谷学院のようだ。

ここまで、またこの先も、あちこちで店に入ったりして、その間に親からまだか今どこにいるのか、という電話が来たりしている。

赤坂見附では三井住友のATMに入った(何の問題もなく使えた)。
四谷三丁目付近のどこかのドラッグストアに入って、携帯用の充電池を探したがなかった。スマホよりもずっと電池は持ったが、経験からそろそろ怪しくなっていたのだ。オフィス付近のローソンにもなかった。
新宿御苑手前のファミマにもなかった。

これも前どこかに書いたが、東京トラック協会がロビーとトイレを開放してくれていた。トイレではとても助かった。

数字の横にある符号はちょっと見慣れないです。業界では普通に使われているんでしょうね。02分をコロ二と言ったりしますね。。

都内の震度記録は23区内でも分かれていて、大半は震度5弱でしたが、一部地域は震度5強とされていました。僕の住んでいた区は震度5強。

親のいた事務所について(初めて行った)合流を果たした。
家族に無事を知らせ、渋谷区幡ヶ谷にある親戚の家に泊めてもらうことにした。
持って来たカップヌードルとおにぎりはこの事務所で食べたが、その後親戚の家でも夕食の接待にあずかることになる。

バスタはまだ着工し始めた頃で、脇の歩道はとても狭かったというかなかった。やむを得ず路肩を歩いた。

たしか親を入り口のところで待たせて、駅の様子を見に行ったんだと思う。
京王はそれでも夜遅くに運転再開したらしいが、この時点ではこんな感じ。

時刻は午後10時過ぎ。

甲州街道も渋滞で、自分たちの方が速いくらいだった。
親を時折休ませながら歩く。寒そうにしていたので、コートの取り外し可能なフードを外して、かぶせてあげた。

新宿通の飲食店等は、開いているところが多かったと思う。客も店員も帰れなかったのだろう。甲州街道のどこかの牛丼屋が、食材がなくなり営業終了みたいな掲示をしていた。渋滞で食材がこなかったのかもしれない。

どこかのビルのガラスが割れていた。翌日も、民家の門のところに割れた食器をまとめて置いている家を多く見た。

部下の子(当日は休暇を取っていた)から電話が来た。この事態だから色々知りたいし話したくもなる。地震の時は税務署かどこかを出て、信号を待っていたところだったという。
怪しかった電池はいよいよ駄目になり、会話が弾んでいる中尻切れトンボで切れてしまった。

電池は親戚の家で充電させてもらった。
親戚の家に着いたのは11時過ぎだったと思う。自分はオフィスでワンセグを使ってみていたが、このとき初めてテレビで、津波の映像を見た。例の、真っ黒な水が平地のビニールハウスを襲うシーンや、仙台空港で飛行機が流れていくやつだ。
叔母が防災服を着た枝野官房長官を見て、ほらみて、このひとの耳!(福耳ですね)と言っていた。

従兄弟の車に乗せてもらい、帰宅したのは翌日の昼前だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さかあがり

2021年01月18日 | 記憶の断片
SNSでやりとりをしていたら、こどものころ逆上がりができなかった、という話になり、それで昔のことを思い出した。

僕は中学受験組で最終的に私立校に入ったが、いくつか受けた学校のうちひとつは国立大の付属中学だった。
試験日はちょうど今ぐらい、1月の半ばごろだ。

中学の入学試験は私立の場合、試験科目は2科目(国、算)の学校、または4科目(国、算、理、社)の学校のどちらかに大別された。どちらが多いかはわからないが、だいたい半々ぐらいだったと思う。
受験生は自分の志望校に合わせて準備をし、滑り止めに同じ受験科目の他校を受験する、というのが普通だった。

その点この国立大付属中学は少し変わっていて、国算理社に加え音楽や図工、体育、家庭科などもあった。あった、と書いたが、実はよく覚えていない。受験関係のサイトにある、過去の試験データから確認した。

僕の場合、試験準備をしていたのは国、算だけで、理、社の準備はしていない。ましてや図工や体育などの受験対策はしていない。この学校は僕にとっては滑り止めというよりは、試験慣れをするための露払い、度胸試しのようなものだったのだ。

当時でも中学受験には塾などで試験準備をするのが一般的だったが、他の子たち、とくにここが第一志望の子たちは、どういう試験準備をしていたのか、気にはなる。文武両道で何をやらせても上手にできてしまう子たちが合格したのだろうか。。

僕などは子供のころから運動が大の苦手だった。小さいころ近所に女の子しかいなかったので、当時男の子に人気のあった野球などはしたことがなかった。だからボール投げなんか全然できなかった。

さっきも書いたが、試験のことはあまりよく覚えていない。ほぼ一日かかったと思うが、午前中は筆記試験だった。
覚えているのは、問題がわりとやさしかったことだ。ひねくれたようなひっかけ問題ではなく、割とオーソドックスな内容だったと思う。得点しやすいが、ちょっとのミスで差がつきやすい。そういうところはスレていたので、なんかやなかんじがした。
理科社会は準備なしで受けたことになるが、なんとか書けたのか、できずに諦めたのか、よく覚えてはいない。

他の科目の試験は午後にあったと思うが、時間的には短かった。健康診断みたいな感じで、少しずつ回って受けていったような記憶がある。

覚えているのは体育、それも鉄棒だ。

順番に並んで、一人ひとり鉄棒をさせられた。
逆上がりをするのだが、できなかった。

そもそも、学校でも家の近くでも、できたことは一度もなかったと思う。
だから、できなくても別に困ったりはしなかった。
試験官の先生が「もう一度やってみる?」ときかれ、あっさりいいです、と答えたんだと思う。どうせ落ちるんだ、と。

その後、中学でも逆上がりをさせられたことはなかったと思う。
だから、生まれてから一度も逆上がりはできたことがない。

それにしても、体育以外の試験はどうやったのか、本当に覚えてないな。歌うたったり、絵描いたりしたのかな??
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする