10年を迎えるにあたり、ここに何を書こうかと思ったのだが、あまり長文を書く時間もないので、あの日の写真を掲げていくことにする。
今年も当日を偲んで、当日親と合流するために歩いた同じ道のりを歩いてみた。丸の内から新宿御苑前まで。Google mapだと約7キロ(ルートは違うので参考)ということになる。
冒頭の写真は2021.3.11。以下特記ないものは2011年3月11日夜。
なお、一部再掲を含む。
夕方までに家族全員と連絡がついた。
5時過ぎにMY PLAZA3階のローソンに買い出しに行ったが、既にかなり商品がなくなっていた。蒸しパン、おにぎり、カップヌードルシーフードを買った。蒸しパンは森下だったか船堀だったかに歩いて帰るという若い部下に餞別としてあげた。
オフィスを出たのは7時10分過ぎだったと記憶している。
丸ビル内の大型スクリーンに映し出されたニュース映像に見入る人たち。
津波のことは伝わっていた。京葉工業地帯で火事というニュースも取り上げられていた。原発のことはわからなかったか、あまり大きく取り上げられず、したがって電力のこともこの時点では全く気にしていなかった。
鉄道は完全に止まっていた。
カラーコーンと仕切り棒が見えるが、なぜ置いてあるのかは不明。
毎回思うのはこの時期ホワイトデーの屋台(というのかな)が丸の内広場にたくさん来ているのが恒例だが、このときはどうしていたのか。地震後、一部を撤去したのだろうか。
2021年。
今年も屋台は出ていたが、出店はやや寂しい感じ。画面右に少し見えるが、当日もこんな感じだったのかもしれない。
傘をさす人。これも長年の謎。
goo天気によると、当日の東京は最高11.3℃、最低気温2.9度 晴れ。
別の若い子はたしか等々力だかに住んでいて、バスで帰るようなことを言っていた気がするのだが、大変だったのかもしれない。
祝田橋付近と思われる。
当時ガラケーで地図の表示はできなかったので、会社のPCから地図を印刷して持って行った。当日商工会議所のところを曲がったのか、今のペニンシュラの角を曲がったのかよく迷うのだが、これを見ると後者が正しいようだ。
歩道としてはかなり広いところだと思うが、人でいっぱいである。
そういえば前の会社って上司(社長)がアドミニオタクっぽい?ところがあって、ヘルメットとか防災袋とか色々完備していたけど、今のオフィスにはない気がするな。。こないだ常備薬の箱見たらほとんどなかったし。。
もしかしたら一部工事中で歩道が細かったのかもしれない。
大晦日の初詣状態で歩きにくかった。一部の人は垣根を越えて歩道に出ていた。
道路はもとより駐車場状態になっていた。
路側帯を歩く人々の先に国会議事堂。
桜田門駅。
そうか、地下鉄入り口があるから歩道が狭いのかな?
首都高閉鎖中。この案内もとても印象的だった。
写真はないがこのあたり、混雑を避けようとしたのか道がわからなかったのか、やや変則的な歩き方をしている。議事堂正面の通りを横断し、憲政記念公園を右手に見ながら溜池方面に向かうが、途中で右折して首相官邸の前に出ている。議事堂の裏手(いつも誰かがデモ演説をしている)から首相官邸のすぐわきを通る細い道があるが、そこを歩いて山王パークタワー方向に行き、双日(当時)の前に出たんだと思う。
首相官邸脇の道には人工の竹やぶと、何か沢のような用水溝があり、竹がさわさわと言う音、沢の水の音がとても印象的だった。あたりには人はおらず(勿論デモ演説の人もいなかった)、そこだけ別世界のような気がしていた。
今は警備がとても厳重で、常時バリケードがもうけられている(人の通行は可能)。
それはともかく、写真は当時もう閉館していたんじゃなかったかな、赤プリ。すぐ解体されるはずが、このあとしばらく被災者のために使われていたという記憶がある。
ニューオータニの脇を通って、細い坂道を上ると上智大学に出た。
四谷駅。JRは早々に当日の運休を決めていた。民鉄、地下鉄は深夜に運行再開したところが多かったようだ。
2021年。中央右の黄色い看板は10年前も今も四谷学院のようだ。
ここまで、またこの先も、あちこちで店に入ったりして、その間に親からまだか今どこにいるのか、という電話が来たりしている。
赤坂見附では三井住友のATMに入った(何の問題もなく使えた)。
四谷三丁目付近のどこかのドラッグストアに入って、携帯用の充電池を探したがなかった。スマホよりもずっと電池は持ったが、経験からそろそろ怪しくなっていたのだ。オフィス付近のローソンにもなかった。
新宿御苑手前のファミマにもなかった。
これも前どこかに書いたが、東京トラック協会がロビーとトイレを開放してくれていた。トイレではとても助かった。
数字の横にある符号はちょっと見慣れないです。業界では普通に使われているんでしょうね。02分をコロ二と言ったりしますね。。
都内の震度記録は23区内でも分かれていて、大半は震度5弱でしたが、一部地域は震度5強とされていました。僕の住んでいた区は震度5強。
親のいた事務所について(初めて行った)合流を果たした。
家族に無事を知らせ、渋谷区幡ヶ谷にある親戚の家に泊めてもらうことにした。
持って来たカップヌードルとおにぎりはこの事務所で食べたが、その後親戚の家でも夕食の接待にあずかることになる。
バスタはまだ着工し始めた頃で、脇の歩道はとても狭かったというかなかった。やむを得ず路肩を歩いた。
たしか親を入り口のところで待たせて、駅の様子を見に行ったんだと思う。
京王はそれでも夜遅くに運転再開したらしいが、この時点ではこんな感じ。
時刻は午後10時過ぎ。
甲州街道も渋滞で、自分たちの方が速いくらいだった。
親を時折休ませながら歩く。寒そうにしていたので、コートの取り外し可能なフードを外して、かぶせてあげた。
新宿通の飲食店等は、開いているところが多かったと思う。客も店員も帰れなかったのだろう。甲州街道のどこかの牛丼屋が、食材がなくなり営業終了みたいな掲示をしていた。渋滞で食材がこなかったのかもしれない。
どこかのビルのガラスが割れていた。翌日も、民家の門のところに割れた食器をまとめて置いている家を多く見た。
部下の子(当日は休暇を取っていた)から電話が来た。この事態だから色々知りたいし話したくもなる。地震の時は税務署かどこかを出て、信号を待っていたところだったという。
怪しかった電池はいよいよ駄目になり、会話が弾んでいる中尻切れトンボで切れてしまった。
電池は親戚の家で充電させてもらった。
親戚の家に着いたのは11時過ぎだったと思う。自分はオフィスでワンセグを使ってみていたが、このとき初めてテレビで、津波の映像を見た。例の、真っ黒な水が平地のビニールハウスを襲うシーンや、仙台空港で飛行機が流れていくやつだ。
叔母が防災服を着た枝野官房長官を見て、ほらみて、このひとの耳!(福耳ですね)と言っていた。
従兄弟の車に乗せてもらい、帰宅したのは翌日の昼前だった。