うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

新車は良いか

2019年01月31日 | 鉄道、車、のりもの

シェアエコノミーがどうたらと言われるようになって久しい。ニュースでも、自動車の販売台数の話題に触れた後、さいきんはMaasなど、様々な利用形態が・・、などと言及することが多くなり、単に自動車の生産台数を拡大することだけを考える時代が変わりつつあることを示唆するようになっている。

逆にそのせいか、新車であることをことさらに強調する広告が目立つようになった気もする。

偶々検索したせいかもしれないが、ニュースサイトを開けると「XXの新車が3年で半額(だったかな、うろ覚え)」という広告がおっかけてくる。たぶん一定期間後に買戻しする条件の販売形態なのかな。いつも行くガソリンスタンドで給油中に流れているCM?でも、「娘が免許を取って、新車に乗りたい!と言っているが・・マイカーリースはいかがですか?」などと誘っている。お父さんの若い頃は、最初は中古の安い車を買って練習したものだぞ、とは言わないのだ。。車種は何でもいいから新車がいいって。

そんなに新車は良いのかというと、というより、宣伝をしてまで新車を勧めるメリットって何だろう。昔だったら新しいほうが性能がいいとか、ちょっと前の車は流行遅れに見えるとかという理由が考えられるが、今やそんなこと考える人は余程のマニアしかいない。逆に言うと、昔は普通の人もよく気にしていたけどね。

僕が思う新車のデメリットは、おろしたての車だと神経使うのでしんどい、ということ。

使っていけば汚れもするし、どうしたってだんだん傷がついてくる。そこは人によるのだろうけど、僕の場合、まだ新しいのにちょっと傷がついたりすると、けっこう気に病んだりする。ときどき行く洗車場で、エンジンルーム開けて掃除している人を見るけど、その気持ちはよくわかる。

スティーブ・ジョブズが、取材をしている記者のiPhoneにカバーがつけてあるのを見て、「量産品に自分の個性が表現できるのは使っていくうちにできる傷なのに、なんでそんなことをするんだ」みたいなことを言ったらしい(うろ覚え)。非常に良い言葉だ。でも。。

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少し前

2019年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

丸善で片岡球子版画展をやっているのを見て、そういえば「シン・ゴジラ」で片岡球子の富士山の絵を、首相官邸に飾ってあるのを見たな、と思いビデオを見返してみた。とにかく細かいディテールにこだわっている映画ですが、首相官邸のセットも、何らかの意図があって選んだようです。
ついでに、さる雑誌で指摘されていた、矢口蘭堂副長官の執務室に新幹線0系(最初のまるっこい新幹線)の模型が飾られているのも、確認しました。矢口副長官は鉄でもあるようです。

久しぶりに見返しましたが、上映されていたころ思った通り、3年ほどの歳月を経て、ちょっと時間の洗礼を受けましたね、この映画。

もともと東日本大震災から5年というタイミングで作られ、多くの日本人が心に抱えた傷と記憶を絶妙のタイミングで昇華した映画、という印象(個人的な感想ではありますが)が上映当時もありましたが、この映画はそういう、ピンポイントの時代性を背負っている面が強い印象があります。画面に出てくるSNSとかスマホとかの描写も、これをいっそう助長します。

加えて、これは完全に自分だけの感覚ですが、僕がこれを映画館で見たのも、ビデオを買って最初に見たのも旧宅の時代です。映画を見た帰り、駅を降りた道を歩きながら、ここに今蒲田君が現れたら、どのくらいの高さになるかな、と上を見上げたり、都心3区が被災した場合(鎌倉から東京駅付近までの一部地域が被害を受けた)、うちは避難地域に入るのだろうか、と考えたりしたものですが、そのいずれも今や昔。引っ越した今となっては、環境も自分の感覚も違ってきています。
ごじらさんもたぶん、現宅の付近まで来て暴れることもないでしょうな。。むしろ避難民を受け入れる地域になるのかもしれない。。

たかが2,3年、されど・・であります。

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キノコが怖い

2019年01月26日 | 食・レシピ

健保組合の機関誌を見て、部下の子との会話。牛肉とエリンギ、ねぎを使った料理のレシピが出ている。

「スーパーでキノコ売ってるの見るけど、なんか触るのが怖い・・」

「え"~・。生き物飼っている人が・・。」

「?」

「すごい潔癖症というわけでもないでしょうに」

「でもなんかぶにぶにしていて気持ち悪いし。置きっぱなしにしとくとどんどん増えそうだし」

「増えません」

「なんか、菌がつきそうだし。夜寝て、朝になったら手からキノコが生えてたりして」

「だいじょうぶです」

とういわけで、勇気を出してエリンギを買い、作ってみました。

旨かった。お見せする代物でもないので、写真はありませんが。

 

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歳月

2019年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

夜、帰宅後、旧宅と実家を往復していた日々、あれから2年が経過しているということが、なんとも実感としてピンときません。

まるで昨日のことのよう。慣用句としてよく使うけど、本当に、本当にそんな感じがします。百歩譲っても、去年のことかと思う。

突然始まった、それまでと全く違う生活。

戸惑い。立ち止まることの許されない、暫定的な毎日。

凍てつく空気。白く冷えた朝と、夢の中のような闇夜。

夜中に聞いたラジオ深夜便。街道を走るトラックの群れ。

 

そんなものが急に懐かしくなり、つい車を走らせてしまうのでした。。

まあ、自分の中では昨日のように思っても、もちろん2年の歳月は街にも自分にも、自分の周りの人たちにも等しく降り注いでいるのでした。

なによりも、自分がもう違う。同じようなんだけど違う。

2年前は実家にいたので、家族との相対的な関係が自分の位置づけを変えていた。そう、あのときは一人になる時間が欲しかったのだけど、今はごく普通に一人であり、かつ、家を守る立場にある。

 

それに、昔の街には行けるけどそこまで。自分の家には行けない。

車は、時空を超えて走るわけではないのです。

・・すごい密度だね、今見ると。。

 

帰りに、昔よく使っていたスーパーに寄ったけど、これは思ったより良かった。

しょっちゅう買っていたものを置いてあるコーナーを見つけたりして、懐かしかった。スーパーというか、本屋でもなんでもそうだけど、売り場の空間認識というのは不思議と頭に残るものですね。。

それから、さいきんはちょっときつく感じられて日常聞くことのない、キャロル・キングのCDとかを流しながら運転すると、ものすごく胸がきゅっとなります。

かつてなく先の見えなくなっている今、一晩ぐらいこんなことをしたって、いいですよね。。

 

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食の話題

2019年01月21日 | セキセイインコ

ご記憶のことと思いますが、ちょうど1年前の今日というか、日付は22日でしたが月曜日の午後から、関東地方は大雪に見舞われました。その前後を含めて、我が家では大事がおきまして、その点でも忘れられない日であります。。

まあ、そのことを考えれば、今年は平穏というべきなのか、また別の意味で激動の時期が来ているのか、ちょっと判断がつきかねるところがあります。年が明けたばかりでもありますし。。

さて、そんな話はともかく。

ココはまたちょっと心配なことがあり、10日ほど前にお医者さんに行きました。8日分ほど薬をもらって、毎日飲んでいました。

投薬中、ほかの水分はあげられないので、小松菜もあげてませんでした。

そしたらココ、薬あげる最初の日、いつも小松菜の置いてあるところに行って、

「ちょっと!あたしの小松菜どうしたのよ!!」とばかり、ぎいぎいと鳴いていたのが印象的でした。そんなに好きだったのかしら。小松菜。

 

日曜日にまた診てもらって、晴れて小松菜解禁となりました。

朝、新しい小松菜をあげたら、早速つんつんとつまんでいるところを見ながら出社。

帰ってきたら、ごらんのとおり。ご満悦の様子。

ココは34.5g。彼女としては標準的な体重です。


アルは今日測ったら38gと、この子にしてはちょっと軽いかな。

食べることは食べてますけど。

アルを放鳥すると(ココはケージは開けておきますが、自分からは出てきません。飛ぶのが苦手)、ココの家に上がり込んできます。

それでココと遊ぶのかと思うと、最初に行くのはえさ箱。。

ばかもん、よそさまの家に行って、勝手にひとのごはんを食べるんじゃない!

 

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またCD

2019年01月20日 | 音楽

の、お話ですみません。。

先日いただいたコメントの回答で、自分の自己紹介欄を見たら「音楽(主にクラシック系)」と書いているのに気がつきましたが、その割にはあれですね、さいきんクラシック系のことを書いていないような。。

今回もその線です。。

YMOの、このアルバムについて、お正月にBSで特集をしていたのを見て、注文してしまった。

確かに一世を風靡しましたよね。。「増殖」は昔、妹とお金出しあって買ったけど、こちらはアルバムとしてちゃんと聞いたことがなかった。

当時として非常にレベルが高い作品を、今聞くとどうかという興味を持ちながら聞いたのですが。

音作りはわりとミニコンポとかで再生しやすいタイプのように思います。当時としてはちょっと珍しいかも。

今、聞いても良いことは良いのですが、作品として古くなっていないので、その分懐古趣味的な楽しみ方は難しいかな。

とはいえ、こういう電子音はこの時代ならではでしょうね。。

こちらも80年代初期の音楽。レインボーは、それほど詳しいわけではないのですが、このジャケットは当時、とても印象に残っています。単なる医者のコスプレといえばそうなんだけど、不思議と惹かれるものを感じる。。なんでDifficult to cureなのか、よくわかりませんが。

大昔の話ですが、ハードロック女子の先輩にアイ・サレンダー(本アルバム1曲目)が好き、という話をしたら、このアルバムはアメリカ向けにポップな方向に振ったため、よく売れた(が、ファンとしてはいまいち、という意味らしい)と言われ、たしか「ダウン・トゥ・アース」のテープを作ってくれた、という記憶があります。このアルバムもさっき注文しました。アイ・サレンダーは今でも好きです。

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午前中に・・・

2019年01月16日 | 音楽

吉田拓郎 2009年

あれから10年たつとは。。

ちょうど10年前の連休のとき、NHK FMでやっていた「吉田拓郎三昧」という特集で、最新のアルバムとして紹介されていた。僕はそれを録音したものをデータ化して、かなり長いこと繰り返し聞いていた。

先日「冷たい沼」という記事を書いた時、このアルバム(特に下で触れる「今は恋とは言わない」)が心に浮かんできた。これがきっかけとなり、CDを注文した。

 

全作吉田拓郎作詞、作曲、すべて書下ろしである。

僕は吉田拓郎という人は、その時代の日本の情緒、情景を見事に表現できる、たぐいまれな才能の持ち主だと思うけど(とかいって、そんなに熱心なファンというわけでもないのだけど)、本作にもそれを強く感じる。

同時に63歳になった拓郎の、肉声を感じさせるような息遣いを感じる。まだ自分はその世代の感覚を直に感じ取れるわけではないが、曲を聴いているうち、ちょうど世代的に近い、僕の叔父と話をしているような感じがしてくるのだ。

ちょっと、各曲ごとにコメントしてみよう。

1 ガンバラナイけどいいでしょう

 CMで使われたらしいけど、このアルバムの中では一番間口が広いというか、多くの人に親しんでもらえるような曲だと思う。日によって、調子が出ないなんてのは、だれでも経験するよね。。

2 歩こうね

 何度も言うのは悪いけど、63歳の拓郎が聞き手を、あるいは自分を鼓舞してくれる曲だ。 

 

 波がぶつかって くだけて行くように

 それは人生という名の 旅だから 

 歩けるかい 歩こうネ

 歩けるかい 歩こうネ

なにかに躓き、前に進む勇気を一瞬失った僕に、そっと語りかけてくれる。

それは拓郎が人生の先輩だからこそ、素直に聞ける言葉だ。

それぞれの世代には、その世代なりのお兄さん、お姉さんにあたる人たちがいて、歌ってくれたり、ラジオで悩みを聞いてくれたりするものだ。物心ついてラジオで音楽を聴き始めたころ、歌い手やDJとして語り掛けてくれるひとたちは、僕らより10歳以上先輩のひとばかりだった。

やがて自分が、若い人に語り掛けたり、悩みを聴いたりするようになるが、それでも時には、人生の先輩の言葉を聞いてみたくなる。

この歌を聴くと、今でも人生の先輩から、声をかけてもらえる幸せを感じる。簡単な歌詞だが、とても心にしみる。

3 フキの唄

 とはいえ、ときにはそんな先輩の言葉も、説教臭いとかんじたりもする?!

4真夜中のタクシー

 4年ほど前、こんなことを書いた。あのときのことはよく覚えている。地下鉄を降りて、郊外に向かう私鉄に乗るのが気づまりになり、一駅ぐらい歩くかと外に出たら道に迷った。気がついたらとんでもないところにいて、つかまえたタクシーの運転手と中年男同士の会話をする、という話だ。

このときのことは、鮮明に覚えている。

道沿いに見えるアパートの、取り込み忘れた洗濯物、家路を急ぐ若いサラリーマン、犬を散歩する主婦、まばゆい明かりのコンビニ・・。そして、まっすぐに歩くことすらできない自分。。異次元の世界に入り込んだような僕を、現世に戻してくれたのはタクシーの運転手さんだった。。彼、今でも元気でいてくれるだろうか。

5 季節の花

昔からの拓郎ファンは、こんな曲が好きなのかもしれないな。

6 今は恋とは言わない

陰鬱なギターの伴奏。水の底にいるような音は、そのまま先日書いた「冷たい沼」という言葉につながる。今の仕事に就いたころ、往復の電車の中でこの曲を聴きながら、今(の自分)は冷たく濁った沼の底にいるようなものだな、などと考えていた。歌詞のことは頭に入ってこず、曲の印象がとても強く残った。

歌詞そのものは夫婦(または長く一緒に過ごしている男女)の不和の話だ。若いころのケンカとちがい、互いに良いところも悪いところもわかっているつもりなのに、どうしても相いれない壁にぶち当たる。そんなこともあるものかな。。

7 ウィンブルドンの夢

 この曲は若い人には絶対に作れないな。第一線を退いて、しかしなお余熱をもっている人たちにこそ、共感をさそう曲なのだと思う。まだ自分はその心境には達することはできないが、いずれ自分のものとなる日も来ることだろう。。

8 早送りのビデオ

 FMラジオ「吉田拓郎三昧」のときは、この曲が繰り返しかかっていた。このアルバムを代表するような曲なのかもしれない。当時の僕もそう思っていたのだが、自分自身は人生を「早送りのビデオ」のようには思えない。なんか、「コマ送りのビデオ」とか、「巻き戻しのビデオ」みたい、つうかんじっすよ。あたしのあばい。。

9 Fの気持ち

後半のほうの歌詞に;

 

 ギターがもしも女なら Fは男の権利なのさ

 彼女の背中に手をまわす そんなスリルこそ人生さ 

 

というのがある。そういうもんっすかね。。人生、味わい損ねたな。

10 あなたを送る日

 ウィキペディアによると、70年代に吉田拓郎のマネージャーを務め、2008年に亡くなった陣山俊一氏をしのぶ歌なのだという。陣山俊一さんのことはもちろん知らないのだが、声は聞いたことがある。70年代の終わりごろ、吉田拓郎がDJをつとめていた深夜放送で、「陣山俊一の 奥様お手をどうぞ」というコーナーがあった。といっても、聞いたのは一回だけで、陣山氏がなにやら詩のようなもの(春の朝、冷たい風を頬に心地よく感じながら、橋のたもとにそっとたたずむ私・・)を読んで、脇で拓郎が突っ込みを入れるというもので、なんのことやらわからなかった。。この方、アメリカで理学博士号をとり、後年は制作会社の社長をつとめられていた由。

と、いうわけで、興味のない方には、この人何を熱っぽく書いているのかしら、と思われたかも知れませんが、なにとぞご了承くださいませ。。

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冷たい沼

2019年01月12日 | 記憶の断片

9年前の今頃、仕事を探していた。

前年春から続いていた仕事探しは、このときまだ終わっていなかった。暮れ頃にはかなり気が塞いでいたが、この頃は落ち着いていたように思う。

その1週間ほど前の正月3が日、いつも家族と行く七福神巡りで立ち寄った蕎麦屋に、財布を忘れてきた。

戻ってから気がつき、慌てて店の名を調べて電話をかけたら、預かっているという。翌日、菓子折りを持って蕎麦屋に行き、引き取ってきた。父は大笑いして、きっと今年はいい年になるよ、と言ってくれた。。

 

そんな年の始まりの、最初の就職活動先は、健康器具を製造販売する会社だった。経理職員(データ入力や書類記入等をする事務員)1名を募集するという。

郊外の私鉄沿線にある本社に行ってみると、100人以上の人がホールに集められている。皆応募者だが、顔触れは老若男女、様々だ。立派な紳士もいれば、主婦らしき人もいる。若い人はそれほど目立たなかった。

ステージに置かれたモニターは、商品の説明や利用者(年配の人たち)の喜びの声などを紹介するビデオが流されていた。そのうち会社の幹部の人たちがステージに並んで、なにやら演説をしたり、製品かなにかの実演を見せられたりもした。各地に不動産を持ったり、飛行機のリース権?を所有したりと、かなり裕福な会社であるようだった。
数時間してようやく一人一人の面接が始まったが、僕は「OOさんは・・、なにか質問はありますか?」と聞かれただけだった。来訪したのは午後の早い時間だったが、終わったのはもう日の暮れるころだった。

そのころのメモを見ていると、自分がどう感じたかということは書かれていない。どこに行ったとか、世間をにぎわしていたニュースとかを記録しているだけだ。ただ、自分が今まで接したことのない世界を見たな、という驚きのような感情は、心に残っている。

今の仕事を始めたときにも、似た感情があった。この年の冬はかなり寒く、仕事に通い始めたその日の夜には雪が降った。その後も数回、4月を過ぎてからも酷く寒い日があり、雪になった。そのせいもあり、この頃のことを思い出すと、冷たく濁った沼に、体を沈めていくような、そんな印象がある。オフィスの壁も、窓から見える風景も、地下鉄の通路も、皆どこか薄汚れて寒々しかった。

今こうして色々思い返したり、メモを見直したりしていると、9年も昔のことだとは思えない。しかし、実はそうやってメモを手にするまでは、ほとんどのことは忘れていた。あの頃はまだ旧宅にいたし、鳥たちもいなかった。

その頃のことを思うとただ、「冷たい沼」という言葉が、最初に心に浮かんでくる。

 

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中身は

2019年01月09日 | 通販・買い物

買ってきました。

なんでしょうか。

なにか見えますね。。

・・でした。

プラスチックのレジ袋だと、なんだか窒息させてしまいそうな気がしますが、紙袋なら安心。

逃げ出す心配はありませんし。

ここ数年、夏と冬に地下道で開催されている、HANSAの販売ブース、今回は月曜日(7日)が最後でした。

最初は「買ってももう置くとこないしな。。」と思っていましたが、店員さんに「ぺんぎん、かわいいですよね。。」などと声かけられて、まあ買うか(^^;

ということに。

ペットボトルぐらいのサイズなので、テーブルに置いてもちょうどいいサイズ感。

ジェンツーペンギンだそうです。

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くっくっく・

2019年01月05日 | 記憶の断片

記憶の中の床屋さんというのは、今日みたいな冬晴れの明るい日差しの中にあって、中に入るととても暖かかった。

たいていはだれか先客がいた。その間に漫画が読めるのが楽しみだった。「ジャンプ」を毎週買うなんてできなかったので、床屋でまとめて読んだ。自分で週刊誌を買うことは大人になって「モーニング」だったか「スピリッツ」だかをちょっと買った以外なかったな。。家では妹の買った「LaLa」とか読んでたけどあれは月刊か。。あ、塾に通っていたころ「チャンピオン」を少し買ったか。

「ハレンチ学園」は読んだという記憶はあるが、内容は思い出せないし、後の記憶と混ざってしまったところもある。「トイレット博士」「ど根性ガエル」「キン肉マン」なども床屋で読んだ。印象に残っているのはアラレちゃんかな。別に学校で漫画読んでないと話題についていけない、なんてことはなかったけど、アラレちゃんは仲の良い友達と話題にしたし、単行本も買っていた。

姉妹で経営している床屋だった(らしい)。家族構成がどうなっているのかわからない、というか、あまり考えたこともなかったが、年長の方は僕より一つ下の娘さんがいるようだった。一緒に仕事している、妹さんらしき方も、僕から見ればかなりのお姉さんだが、当時30代半ばぐらいだったんじゃないかと思う。

床屋で顔を剃ってもらうとき、くすぐったくて仕方がなかった。。テレビ「クールジャパン」で、日本では床屋がおでこを剃る、といって驚いていたが、おでことかはまだいい。ほっぺたとか、さわられるともう駄目である。つい「くくっ」、とか笑ってしまう。すると、その瞬間床屋さんが剃刀を浮かせる。顔を切ってしまうかもしれないからだ。迷惑をかけてるという気持ちがあるから我慢するのだが、またこみ上げてくる。。ひどいときは顔をあたる段階に近づいただけで「くっくっく・・」となってしまう。。

見上げると、床屋さんも一緒になって笑っている。「もう・・ダメでしょ」という感じだ。
このときの床屋さんとの不思議な関係・・、恋愛関係とかではもちろんないし、なんとも形容できない「共犯」のような、あの奇妙な親密さは、いまでも時々思い出す。

「くすぐったい」感じはいつごろなくなったのか、覚えていないけど、さいきん流行りの大手の床屋さんなんかは、顔を剃ってはくれないからな。。

あおいとり~。

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年頭雑感

2019年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム

喪中につき新年のあいさつは欠礼とさせていただきますが、今年もよろしくお願いいたします。

喪中とはいえ、家族と過ごすという意味では例年とそう大きな違いはないです。寺社仏閣にはいかないですけど。。

めずらしくテレビはよく見た。

紅白をみて、松田聖子の声がずいぶん低いのに驚いたり、そのあと見た「ねほりん・はほりん」ではもと極道の方がゲストで、翌朝みたBSドキュメンタリーはヒトラー総統の特別列車で、う~ん、正月っぽくないかも、とおもったり。

同じくBSでは夜、ユヴァル・ノア・ハラリ教授のベストセラーを基にしたドキュメンタリーを見る。この番組に限らず、AIをモチーフに取り上げた番組が、今年は目だった。この時期、未来像を描く番組がおおくなるし、AIは流行語みたいになっていたからまあ、当然かもしれないが。

番組では人間のもつ「知性」「意識」のうち、「知性」がますます重視されるようになるのがAI社会だ、と指摘していた。「意識」というのは、ふつうでいう心のことらしい。

村上春樹「世界の終わりとハードボイルと・ワンダーランド」、ここでは何度も取り上げるのでしつこいと思われるかもしれないが、ここで出てくる「僕」は、「心」を捨てて永遠の生と安定した生活を得ようとしている。しかし、それは自らが望んだことではない。もう一方の自分である「私」は、自分自身の不完全性を理解し、それを克服する努力をしてきたことを認めながらも、なにかを失い続ける自分こそが、本当の自分なのだと思い強い愛着を示す・。

そんなことを思い出した。

同じく番組で取り上げられていた、一部の階層が自分たちの遺伝子を改良して、特別な能力を身につけ社会に有用な人材となり、それができない(従来からの)一般の人々は、社会から必要とされない階層に墜ちていくのではないか、い議論。ちょうど翌日に再放送していた、サンデル教授の白熱教室にも通じるテーマだ。いまここでなにかコメントすることは難しいが、人間よりもそれ以外の生き物のほうがもっと過酷ですよね。。ペットとして溺愛されるわんこがいる一方で、殺処分されるたくさんの犬猫、農家の人に愛情をかけられながら、結局食べられてしまう牛、豚。

「世界の終わり-」では、「私」は最後には現実を受け入れ、皆に祝福を与えながら現生を終える。祝福を与えるにあたり、そんな権限があるのか一瞬迷うが、どうせすぐいなくなるのだから構うまいと割り切る。「僕」は、心を失うことを拒否し、「森」で過酷な人生を歩むことを選択する。。


 

年末、学生時代の友人と忘年会を開いた。本当を言うと、長いこと僕は彼らと会うのが苦手だったのだ。彼らは社会の中、家庭の中でそれなりに地位を得、その達成度を昔の仲間と会うことで確認しようとしているのではないか、と思っていた時期があり、なんだか気が重く感じていた。

が、会ってみると、そんな感覚はだんだん消えていった。我々は皆自分たちの歴史を重ね、それを他と比較する必要もなければ、相手の歴史を評価する必要もない。当たり前のことだが。


 

毎日定期的に訪れているサイト、ブログの多くが、昨年更新を終了した。なんの予告もなく更新がとまってしまったものが多いが、自らこれで終わりにします、と宣言したサイトもある。長く停止していて、そろそろ再開すると言ってしばらく続けたうえ、また止まってしまったところもある。それぞれに事情があるのだろう。ネット社会は移ろいやすいし、消えてしまえば記憶の片隅に残るだけで、紙の本のように見返すこともほとんどできない。

自分のことはわからないけど、まあとりあえず淡々と続けていきますか。。


 

 

毎年続けてきた七福神めぐりも、今年は行くことができない。が、蕎麦屋さんにだけは行ってきた。

ちょうど1年前、出かける前に既に施設に入っていた父に挨拶に行き、エレベーターまで見送ろうとして職員に制されていた姿が瞼によみがえってきた。

扉が閉まるまで、こちらを見続けていた。

1/3 追記:今年の初誤字、やっちゃいました。。念頭⇒年頭でございます。。

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