うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

車のある風景

2024年02月04日 | 本と雑誌
JAFメディアワークス2023年(kindle版)。

JAF(日本自動車連盟)の機関誌JAF Mateに連載された、松任谷正隆氏の車エッセイ。JAFはうちでも入っていて、この冊子もちらちらとは読んでいる。
JAFにいつ入ったのか忘れたが(たしか最初のバッテリー上がり起こした時だ)、どうやらJAF入ったのと連載始まったのはだいたい同じ頃だったらしい。

松任谷氏はCar Graphicでもコラムを毎月連載していたので、すっかりお馴染みだ。話の内容も車関連+αで変わらない。この方、どういう訳か尾籠なお話好きで、本書でもやたらと(車内でう〇こ漏らした話で盛り上がったとか、納豆を座席の隙間に落としてしまい、そのあとヒーターつけたら車内に匂いが充満したとか)出てくる。読んでると、ああこの人らしいなあ、とか思ったりする。

連載中読んだ内容は殆ど忘れているが、ひとつだけ、売り出し中の若い女優が自宅を訪ねてきて、当時杉並住まいだった松任谷氏の車ナンバーが練馬と聞いて「だっさぁ~!」と言われ、あとを奥さんに任せて自分は部屋を立ったという話は覚えていた。昔は杉並区は練馬ナンバーだったけど、今は杉並ナンバーだし、板橋とか世田谷とか、いろいろ増えてますね。鉄道と逆ですね。どうせなら車も電略で表記すればいいのにね。都ネリとか・*。

*マニア向け発言

松任谷氏は世代的には上の方だけど、親が乗ってたり子どもなりに当時の車知ってるから、多少つながってるところはある。氏のさいしょの自動車(カローラスプリンター)はうちの車ではなかったけど、うちの車(RT40コロナ)が長期入場したときの代車としてひと月ぐらい使っていた。子供がみてもちょっとカッコいいクルマだった。グローブボックスが鉄板のままで安っぽいけど、メーター周りは木目調でちょっといい感じなんだよね。エアコンがないから(コロナもそう)、親が送風機を最大にしてみたりしていた。セダンだけど、初代マーク2もしばらく借りて使っていた。

車で見栄を張るという感覚はバブル期のもので、今はそれほどないのかもしれない。確かに昔は高いクルマの人がエバってるという風潮はあったな。今だとそういう風潮はカメラ爺さんに引き継がれてるんじゃないですかね。。
考えてみると確かに、Sクラスメルセデスって見なくなりましたね。ふつうのEクラスはたくさん見るけど。

氏のさいきんの愛車はどうやらテスラらしい。新しもの好きを明言されている松任谷氏らしい。僕は新しいものが出ると旧いものを買いたくなる変な奴なので(新しい技術は好きだけど)、うちにいるのは内燃車だけど、車好きの氏がEVを楽しんでいることには興味を覚える。

テスラって街で見かけると、どこか車好きの人が作った車というか、車好きのつぼを押さえている感がある気がする。たとえフェイシアが液晶パネルだらけでも、ネットでファームウェアアップデートがあっても、あれは車だな、という気がする。なので・、EV乗っていると内燃式の車と比べてとってもエコ、みたいなこと言ってる人(あまりいないけど)は苦手。電車乗って歩けばいいじゃん。
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シドニー! ①コアラ純情編②ワラビー熱血編

2023年10月22日 | 本と雑誌
村上春樹 文春文庫2004年
単行本は2001年1月

先日読了した「ノルウェイの森」を書棚にしまおうとして、奥の方をごそごそしていたら、この本が出てきた。どうやら10年前に買って、そのまま読んでいなかったらしい。。

2000年に開催されたシドニー・オリンピックについて、村上春樹氏が現地に出向いてリアルタイムでレポートし、書籍にまとめたもの。もとは雑誌NUMBERの企画らしい。

ウィキによると2000年オリンピックは柔道で田村亮子、井上康生らが金メダルを獲得、マラソンの高橋尚子も金を取った。野球では松坂が投げ、サッカーは中田が参加したもののベスト8で敗退した。
のだそうだが、しょうじき個人としては全く覚えていない。。当時はおしごとで日々悶絶していたのだ。そういえばその頃、徹夜して翌日の午後まで働いてた事あったな。

村上氏はアスリートでもあるので、新種目トライアスロンやマラソンなどを中心に観戦している。また、犬伏孝行とコーチの河野監督、有森裕子(シドニーには女子マラソンの解説者として現地に出向いた)へのインタビューが挿入されている。

村上氏自身は今日のオリンピックの商業主義的な側面に違和感を感じていたようだ。開会式も途中退席し、スポンサーを巡る色々の圧力等についても揶揄するような記述がみられる。
他方、アスリートたちが眼前で繰り広げるドラマに触れ、言葉にできない何か「心に突き刺さる印象」を受けたとも書いている。

前述のように僕はもう23年前のオリンピックのことを覚えてない(というか当時もテレビ等を見てなかったかもしれない)ので、読んでいても当時のアスリートの活躍を想い起こすことはない。当時は説明をせずに済んだ周知の事実も、今読むとわからない部分もある。
もっとも、村上氏の記述も半分はふだんの紀行文みたいな記述が多く、その辺を読み飛ばしても楽しめる。

スポーツドキュメンタリー的な要素はマラソンやトライアスロンの選手に関する記述に集約される。村上氏は優れた解説者となって、アスリートの心情や大会に参加し勝利を得ること、または得られないことについて語る。

なにやら古い雑誌のバックナンバーを今読んでいる気がしないでもなかったが、論者が村上氏であることで今読んでも楽しめる作品となっている。。




そういえば東京の五輪はいろいろ残念でしたね。。

開催前は当時の職場がマラソンだかのコースに近かったため、通勤や周辺混雑を心配したりしましたが、事態はそんな心配の斜め上だかなんだかさっぱりわからん状態になり・。

村上氏は現地で見るオリンピックとテレビで見るそれがまったく違う催しに見えたと語っていましたが、結局我々は(見に行ったかどうかは別として)目の前で競技を見ることがほとんどできなかったわけです。

最悪なのは五輪汚職ですが、直前のSNSで開催反対の書き込みやら、アスリートに参加見合わせを表明せよというメッセージやらが飛び交ったことにも辟易させられました。

2000年の時点でも村上氏はオリンピックの商業主義を批判していますが、いずれ何とかせんといけないでしょうな。札幌が冬季五輪招致を断念したのは、残念なのではなく東京の教訓がうまく生かされたと言えんこともない気がします。
それにしても、AUSは2032に年にまたオリンピック、やるらしいですね(ブリスベン)。
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ノルウェイの森

2023年10月08日 | 本と雑誌
村上春樹 1987年9月 講談社(今回は文庫版2004-使用)

今週はノーベル賞の発表が行われましたが、それに先立ち日経新聞(web)ではノーベル賞の特集ページを作り、日本人作家3名を列挙して受賞なるか?みたいな記事を掲げていました。その中には毎年おなじみの村上春樹氏も含まれています。
そういうつまらないことはしない方がいいと思うんですが。。とったから自分(日本人)が偉くなるわけでもなんだし。


それで「ノルウェイの森」です。

ひじょうに有名な作品ですが、僕が本作について何か書いたのは2012年に観た映画のDVDに関するものだけのようです(自分で今まで何かいたか、だんだん忘れてきましたね)。手元のハードカバーを見ると87年12月増刷となっていて、たしか88年の初めごろに初めて読んだ記憶があります。
その後多分数回は再読しているはずですが、少なくともここ10年は読んでいませんでした。

曰くもけっこうある小説です。村上氏の知らない所で大変な話題となってしまい、村上氏が長い海外滞在から戻ったときに困惑したとか。
以下は「村上さんのところ」からの引用ですが、村上氏は自分の作品のどれがお気に入りという気持を持つことはないが、時代背景その他で気の毒なことをしたな、と思う作品はある(本作かと思われます)と述べています。

その他、同書における読者とのやり取りを見ると、(「ノルウェイの森」がポルノ小説のように思われていたという話に)そんなことはない、普通だとおもう、と語ったり、(子供に見せるのはためらわれるという読者に)年少の、11-12歳ぐらいの読者もいる、と答えたりしています。
以下はウィキからですが、本作が村上氏の自伝的な作品と思われている事についてこれを否定し、村上氏の奥様が(自分は作中に出てくる「緑」なのか、と言われて憤慨している)と語っています。

余談ですが、ハードカバーには文庫本には収録されなかった「あとがき」があります。「街とその不確かな壁」みたいに、いつもはあとがきを書かないが、これには必要だと思う、みたいな書き出しです。以下要約すると;
1. これは「蛍」(短編小説)をベースにそれをやや拡大した恋愛小説として構想された。初めはもっと軽く仕上げるつもりが、900ページを超える作品になってしまった。

2. これは極めて個人的な小説である。
「世界の終わり・・」が自伝的であるのと同じ意味合いで、F.スコット・フィッツジェラルドの「夜はやさし」や「グレート・ギャツビィ」が僕にとっての個人的な小説であるのと同じ意味合いで、個人的な小説である。

3. この作品はギリシャ、ローマで書かれた。それがどう作用しているのかはわからないが、ビートルズのテープを繰り返し聴きながら執筆したという意味で彼らのhelpを得ている。

4. この小説は僕の死んでしまった何人かの友人と、生き続けている何人かの友人に捧げられる。


前置きが非常に長いようですが、それは今更本作をストレートに紹介してもなんとなく仕方がない気がするからです。。。

時代背景から見た場合、本作は日本における二つのおおきな時代の節目を経ています。一つは60年代末の、学生運動やらなにやらで若者の活動が華やかだった時代。本作の舞台設定です。
もう一つは昭和の終わりごろ、日本の社会そのものが一つの頂点に差し掛かっていた時代。本作が執筆、発表された頃の事です。

昭和末期~平成の時代に本書が刊行されたことが本書にとって不幸であったかどうかは何とも言えません。あとがきで作者が「この作品が僕のという人間の質を凌駕して存続することを望む」と書いていますが、時代が一巡した今、その希望はかなえられつつあるような気がします。


もう一つの節目である60年代末期についてですが、僕は直接この時期の若者たちの様子をしらないので、残された映像や文書、音楽などで想像するしかありません。

ただ、そうした時代背景をあまり気にしすぎるのも考えものかもしれません。
テレビのドキュメンタリー番組で、当時デモに参加して逮捕された経験を持つ年配の女性が、少女時代の爽やかな思い出、という口調で逮捕時の様子を回想しているのを観たことがあります。
この女性のもつ世界観を共有することは、不可能ではないが簡単ではありません。当時の社会情勢、それも過去からの経緯を踏まえた時代の流れ、経済状況や生活習慣の変化、制度や公権力の在り方など、総合的に考察する必要があります。

おそらくバブル初期に出版された本書に対する反応が、村上氏の目から見てなにがしかの違和感を感じせしめたのは、それだけ時代が変化して日本人の意識が変わってきたから、という面があるように思います。

と、言いながら、ある特定の時代に何というか若々しさを感じる、という感覚もたしかにありますね。。ビートルズの歌もそうですが、S&Gの歌とか映画「卒業」なんて、違う時代に生きた自分たちにも青春を感じてしまいますから。今でもね。


そういう、周辺の話を書いているうちに、作品について触れるのがしんどくなってきた。。純粋に小説として見ると、適度に緊張感もあり時に緩徐されたシーンがありと、バランスが良くて飽きさせないし、他の村上作品のように見方によっては破綻しているような部分もない。

時系列的にも地理的にもひじょうに詳細に書かれているのが特色だ。「国境の」や「田崎つくる」もわりとリアリスティックな描写だけど、やはり村上氏にとってこの時代は描きやすいのかな、という気がする。


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騎士団長殺しほか、再読

2023年07月29日 | 本と雑誌


最新の長編小説「街とその不確かな壁」を読んでから、村上春樹の長編小説を何冊か続けて読んでみた。

ひとつは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で、これはもう定例行事みたいになっていて・、20回ちかく再読してるかな。

「街と-」を読んだ時の感想として、第一部(主人公が壁に囲まれた架空の町に幽閉される話。作者が若い頃書いた作品だが、納得できずその書き直しとして「世界の終わりー」が書かれ、さらに今回の「街と-」の第一部にそのモチーフが再利用された)が、まるでこの「世界の-」のあらすじを読んでるみたいだ、と書いたが、こちらを読んでしまうとやはり「街と-」の第一部を無批判に受け止めることは難しい。作家から見れば必要な手続きだったのかもしれないが。
今度「街と-」を再読するときは、第一部を飛ばして読むかもしれない。

若き村上氏の感性が素直に出ていて、そこがこの作品最大の魅力だ。物語はかなりトリッキーで、破綻寸前の縁を辿っていくが、とにもかくにも二つのストーリーが最後に一つに収束する(「街と-」のあとがきで作者もそのカタルシスを述懐していた)。

「私」のやや偏屈な性格の描写は、今日の村上氏作品にはもはや出てこない。村上作品の主人公たちは、時代と共に徐々に諧謔性やこだわりが抜けていって、脂身のない、妙に薄味な性格の人が多くなった、という印象がある。

過剰に細かい描写も魅力的だ。深夜スーパーで待ち合わせをするとき、タバコや酒のポスターを眺めながら論評したり、暗闇を歩きながら信号待ちの時見かけたカップルの事を思い浮かべ、テレビドラマのストーリーを考えていったり(配役も決めている。近藤正臣と中野良子と山崎努)・、コインランドリーで女子大生が「JJ」を読んでいたり。

近年の作品でも具体的な描写は出てくるが、作品的に洗練されてきたのか過剰感というものはない。ただ、面白みからいったら昔の方が上かもしれない。ギャグマンガの中で全体的に書き込みが薄い中、一部に戦車とか機関車だけが異常に書きこまれてたりするのと似ているかな。

ただ思うのは時代の変化につれて、若い人たちはこの辺の描写を見て、僕と同じようにリアリティを感じにくくなっているかもしれないということだ。。
近未来的な描写もあるが、基本約40年前の東京が舞台なのだ。

コインランドリーは今でもあるが雑誌「JJ」はないし、カリーナGT-Tという車の位置づけもわからないだろう。レンタルビデオとミュージック・カセットは辛うじて通じるか。連絡手段も固定電話しかない。
前にも書いた気がするが、「私」が買い物のための中古車を買ったとき、中古屋の人が「車というのは本来こういうものだ、世間の人は頭がどうかしてる」という発言の意味も分からないかもしれない(80年代半ばの高性能車、高級自動車ブームを揶揄した言葉)。

世界の終わりー壁の中の物語では、最終的に「僕」は森に残る(ことが示唆されている)。
個人的には「影(心)」を失って、閉ざされた街で平穏に暮らす世界がどんなものか、体験してみたい気はする。
読むたびに繰り返しそう思うので、つい再読してしまうのだ。。



6年前に刊行された「騎士団長殺し」は、後期村上作品の代表作として、今後も位置づけられていくだろう。

「街と-」は、第一部を含めた完成度が個人的には気になるが、これもひじょうによくできた作品だとは思う。
しかし「騎士団長殺し」は物語の面白さ、深さからいっても、作品としての完成度がとても高い。

「免色渉」さんがとても興味深い。
「世界の-」で「私」がしたように、読みながらこの人に演じてもらうと似合うと思う俳優を思い描いたりすることがある。「街と-」の子易さんは僕的には高橋克実さんが浮かんでくる。
免色さんの場合は俳優ではなく、僕の知り合い(芸能人ではない)が思い浮かぶ。髪が白いとか日々体を鍛えているとかは当てはまらない(黒髪ででっぷりしてる)が、なんとなく。

この人は社会的に非常に成功し、なんであれ自分のやりたいことを成し遂げる財力と手段と粘り強さや冷静さ、すべてを備えている。しかしその根本にある「なにか」が欠けている、という、とても興味深い性格の人だ。

もっと平たく言えばお金持ちで仕事もできて人あたりも良い。努力家で体も鍛えてていつも身ぎれいにしている。だけどほんとうの意味で人と結びついたり、誰かの為に生きるようなことができない。
そして、そのことをご自身が自覚している

主人公(私)は物語の最後に免色と自分の違いを次のように評している。

二人ともこの子は自分の子かもしれない、と思われる子供が身近にいる。
免色はその子が自分の子供かもしれない、しかし違うかもしれないという可能性のバランスの上に自分の人生を成り立たせている。

「私」は、そんな面倒なことに悩むことはない。なぜなら私には信じる力が備わっているからだ。どんな状況でも、どこかに私を導いてくれるものがいると、率直に信じることができるからだ。

免色は一連の事件で「私」と行動をともにしながら、私は時々あなたがうらやましくなります、とかなり率直なことを言っている。

「私」は優れた知性と絵の才能を持っている。目の前にいる人や置かれた環境への対応を見るに、非常に誠意をもって適切な対応ができる人だとわかる。しかし、人生の大きなうねりの中で図らずも自分が運ばれていく、ということに対しては無力であり、それ(自らの力できることが少ないこと)を半ば自覚しながら、流れに任せようとしている。

免色も自分の運命には逆らえないことは理解しているが、彼は自らの力で運命をコントロールできる範囲が、幸か不幸か広い。

社会的、あるいは超自然的な分野で強い力を持つ人物は「1Q84」にも出てきた(緒方静恵婦人、深田保)が、本作を読んでから振り返ると、それらの人物の描写は必ずしも成功とは言えなかったのかもしれない、と思えてくる。
免色さんは村上作品のこの種の登場人物の描写を、一段と高いものにしたキャラクターではないかと思う。

最初から最後まで読者を飽きさせない一方、作品全体に一本筋が通っていて無駄な伏線がほとんどない。



さいごにマニアックなおまけだけど、本作は近年の村上作品として必要な要素?みたいのはほぼ網羅している。以下は同氏の長編作品(「世界の終わり-」、「ねじ巻き鳥クロニクル」、「1Q84」、「騎士団長ー」、「壁と-」にほぼ共通する描写だ。
  • 主人公の精神的危機とその克服
  • 井戸や暗いところにもぐる
  • 壁を抜ける
  • 異世界的ないきもの、またはアイテム
  • 裕福で力のある副主人公(たいていは株で財産を築いた)の存在。ふつうはできないようなことを世間に知られずにできてしまう
  • コミュニケーションに何らかの障害をかかえる少年少女の存在
  • 父親または父親的な存在との確執
  • 主人公は料理が得意で、1週間分の食材をまとめて買ってきては小分けにして冷蔵庫にしまったり、ソースを自作して保存したりする
  • 主人公は酒飲みで、何かに驚いては酒を飲んで落ち着こうとする。飲んでもほとんど酔わない
  • 主人公は必ず誰かと、または登場人物の誰かが誰かと性交する(「街と-」は初めての例外)
    直接の場合もあれば、イマジナリーな場合もある
  • 主人公はニュースを見聞きしたり、新聞を読んでは、世の中の動きはじぶんとは全く関係ない、という感想を持つ
まあこういうのは僕が書くよりはもっと評論が書ける人がやってるはずだ。そちらの方がきちんと網羅できてると思う。

つぎはノルウェイの森あたりを再読したいところだが、ここしばらく村上主義できたので、少しやすみます。。

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Metamorphosen

2023年07月01日 | 本と雑誌
6月よりもっと前からだと思いますが、仕事その他でごたごたすることが多くて(前にもちょっと書きましたが)、結果まわりまわって、6月後半はあまりここに記事が書けませんでした。

頭抱えちゃうような仕事上の問題とかもあれば、予想外の渋滞に巻き込まれてトイレいけなくてつらかった問題とか(・いやそっちは何とか大丈夫でしたけど、頭に毒が回ったらしく、行った先で知人にやらかしたという余波が・・)、いろいろ。

個々にはべつに大したことなくても、障害物競走みたいに連続して来るとペースを保つのがつらくなってという・・。


雑誌「レコード芸術」が6月20日発売の7月号で休刊になりましたね。
創刊は1952年だったそうなので、70年以上の歴史を持つ雑誌でした。

手許には30年前に買ったものが、1冊だけ残っています。
音楽系の雑誌はあまり定期的には買っていなかったけど(たぶん一番買っていたのはFM fan)、ひところは毎月買っていたな。その月に発売(再発売を含む)になったレコードの新譜月評というコーナーがあり、評者2名が「推薦」という評価(=特選)を出すと、国内版CDの広告や店頭で「レコ芸特選!」と表示して宣伝に使っていました。

昔(30年ぐらい前)はそれなりに権威のある雑誌でした。その後のクラシックレコード界の事情はよくわからんのですが、その頃でもカラヤン、アルゲリッチ、VPOといったスタープレーヤーを中心としたマーケティングには批判があり、安価な輸入盤が多く出回るようになってからは、はた目にもビジネス的に大変じゃないかな、とか思ってはいました。

いろいろあって、20日の発売日すぐには本屋に行けなかったのですが、先日からいくつかの本屋を巡って探してみました。ありません。

近所の駅ビルに入ってた本屋は今月閉店とかで、併設貸ビデオ/CD屋のレンタル品を放出してました。8割引きぐらいで売ってたけど・欲しいものは特になかったな。。

丸の内の丸善本店に行ってもなかったので、流石にこれはと思い、ネットで調べましたがどうやら各店売り切れみたいですね。hontoは電子版の扱いがなく、紙の雑誌は全店売り切れ、楽天書店もなし、amazonは電子では扱いあり、紙の本はプレミアムが倍ついている状態。

でまあ、そこまでして買うこともないかな、という気になってきた。

それにしても、雑誌全体ここまで縮小して来ると、寂しいというよりしんどいですね。カメラ雑誌も歴史ある2誌が相次いで休刊したけど、機材云々の記事もさることながら、色々な写真家の作品を、雑誌を通してみることができることは、考えてみると得難いチャンスだったと思うのです。写真展に足を運んだり、作品集を買ったりするというのは、それなりにコストと努力が必要ですから。ウェブは一定の代替にはなりますが、あれは消えてしまうのでリファレンスにはならない。

雑誌の話から飛びますがCDなどのパッケージメディアも縮小しています。代わって配信が主流になりつつありますが、配信音楽の源はCDだということが多いので(現代新しく作られている音楽のことは知りませんが)、音源をきちんと管理しているところはともかく、零細なレーベルの音源とかはこのさきどうなっていくのか、興味のあるところです。

まあしかし、ある時期にはビジネス形態として一定の整合性を持っていた雑誌が、今消えかけているわけですね、何はともあれ。
他方ネット情報はアーカイブされにくい性質を持つと思われるので、もしかしたら今の時代の世相というのは、未来の研究者にとって資料の少ない時代、という扱いになっていくのかもしれません。


それで、レコ芸買えなかったので別のもの買ってきてしまったのでした。。
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村上春樹 街とその不確かな壁

2023年06月17日 | 本と雑誌

新潮社 2023年4月

長編作品の発表は6年前の騎士団長殺し以来だ。村上氏の新作というと、発売日に特別早く開店した書店に平積みにされた本と、インタビューに応じるファン、という映像が朝7時台のニュースで、毎回報じられたりする。

僕も発売当日に買った。買ってしばらく寝かせてから読むのは「1Q84」以降習慣になっている。ほかに今読書中の本があるということもあるし、食事のときいしいものは後で食べる、みたいな気持ちもある。
本作は電子版でも買えるようになったが、やはり単行本で買いたくて。ただ単行本は再読するとき、持ち歩くのがかったるいんですよね。。


以下ネタバレには一定の配慮をしながら書いていきます。
文章の最後に、簡単なあらすじを入れました。

村上氏自身が自分としては珍しいとしているが、本書には作者の「あとがき」がある。
「街と不確かな壁」(1980)は氏の若い頃、中編小説として文芸誌に掲載されたが、作者の納得のいく仕上がりとはならず、単行本に収録されたことはない。
一方このテーマは氏にとって重要なものと捉えておられ、まず数年後に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)に形を変えて取り入れられた。
これは一定の書き直しとはなったが、時間の経過とともに、これだけでは「決着」がつけられていないと思うようになったという。
2020年初頭にまず第一部(上記中編の、直接の書き直しに相当する部分)を書き始めた。ちょうどコロナ渦に世間が騒然とした時期と重なる。
これに連なる第二部、第三部は第一部が仕上げられてから半年ほど後に着手された。第一部だけでは完結できないと思われたからだ。

完成させて、このテーマは作者にとって重要なものだったと改めて実感し、ほっとした、と書かれている。


雑誌収録の初期作品は読んだことがないのだが、上記のあとがきから、第一部は最初期の中編の、直接の書き直しに相当するものと思われる。

いち読者(オリジナルは未読だが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、たぶん10回以上20回未満は繰り返し読んだーまあ、あまり普通の読者じゃないかもしれないけど)としては、どうしても「世界の終わり」の表現や設定が身にしみついてしまっている。
なので、「第一部」は随所で違和感が先に立ってしまい、苦労した。

「世界の終わりー」は比較的のびのびと人物描写が描かれている。街の設定に多少の矛盾があるにせよ、読者がその世界観に浸ることに不足はない。
今回の第一部は180ページ(単行本)程度の分量になる。名称は少しずつ入れ替えられているが、少女、老人(=大佐)、門衛(=門番)、影、いずれも人物描写はかなりあっさりしている。簡潔な描写からより詳細な、あるいは違った角度からの描写が描かれるのなら良いが、いちど詳細に描かれていた事実をより簡潔な表現に改められると、なんだかあらすじを読んでいるようで味気がない。物語の骨子は基本的に全く同じだからだ。

第一部が終わり、第二部に読み進んだ時は、なるほど、第一部は「劇中劇」のようなものなのか(と呼ぶには長大だが)、と一度は納得した。しかし、あとがきで作者がそうではない見解を示したことで、この解釈も成り立たないことがわかった。
他方、第二部は近年の村上作品の流れを汲んだ佳作で(というのもおこがましいけど)、なんらかの都合でこの部分だけ読んでも十分に面白い。第三部は一、二部のバインダーとなるもので、一読した限りではそれほど興味深い締めくくりとはなっていない気がする。

第二部は、第一部の物語があることを前提としてはいるが、それにしては第一部の物語展開が長すぎ、重すぎな気がしないでもない。あるいは、第三部の締めくくり方がやや唐突かつ説明が不足している。全体として、どうもバランスが悪いという印象がぬぐえない。

あるいは第二部は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の、「ハードボイルドー」に相当する物語なのかもしれない(作者はそう意図していないとは思うが)。この場合も、第一部の相対的な魅力不足が気になる。

ただし、作者の観点から見れば(村上氏はよく作品を書いてしまうと、作品は自分の手元を離れて何を書いたか忘れてしまうようなことを述べている)、あるいは「世界の終わりー」を未読の読者が読めば、また違った捉え方ができるのかもしれない。

とりあえず、もし「世界の終わりー」と本作共に未読の方がおられたら、先に本作を読むことをお勧めする。その順番の方が色々気にならずに済むと思う。



第一部
17歳のぼくはひとつ年下のきみと交際をはじめる。きみは、ほんとうの自分は違う世界に住んでいるのだといい、夢の世界にある壁に囲まれた街のことぼくに語る。そこではきみは図書館に勤めている。
ある日、きみは突然に姿を消してしまう。
やがて私は、きみがかつて語ってくれたその街を訪れてきみと再会し(きみは私の事を覚えていない)、きみの勤める図書館で夢を読む仕事をする。

第二部
私は中年の域に差し掛かり、本を扱う会社に勤めて相応の責任ある地位についていた。ある日突然辞職を願い出て、地方の町の図書館長に就任する。前任の館長が時折現れては引継ぎや各種の指示をしてくれるが、前館長にはどこかしら不思議なところがある。
ある日、毎日図書館を訪れて、熱心に読書をしている少年に声をかけられる。少年は私がかつて訪れた壁に囲まれた街に強い興味を示す。


個人的にはたぶんまた何度か読み返し、そのたび違う感想を抱くのだと思う。
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日本語の作文技術

2023年05月14日 | 本と雑誌

本田勝一 朝日文庫

小泉悠氏(軍事アナリスト)のツイッターに春から新聞記者になるという若者が投稿をした。小泉氏は投稿文章の散らかり具合を指摘し、本田勝一の「日本語の作文技術」を読んで勉強せよ、とコメントした。

というのがこの本を読み始めたきっかけだ。
本田氏は昭和後半に活躍された新聞記者、編集者の方で、この本もその頃書かれた初版本が底本になっている。引用された例文が(新聞記事など)やや古く、時代を感じさせる部分が多い。同時にこの半世紀の間にも日本語は少しずつ変化しているのだな、という感想も生まれる。

とはいえ、本書の主題となる日本語の構造、句読点についての論考は普遍的なものだ。くわしくは本書を読んでもらうほうが良いが、読んでる割にはこのブログの文章はなっちょらん、という指摘は甘んじて受けないといかんな。


本の感想からは少々外れるが(←・・が、という言い方についての論考があるので本書を参照せよ)、いわゆる翻訳文学調の日本語について。

前にどこかで書いた気がするが、影響を受けた文章家が何人かいる。若い頃、というより少年の頃はちょっと中二病的なてらいもあって、英文直訳的な文章を書く人を格好よく思った。片岡義男さんなんかは、角川書店と集英社あたりにすっかり消費されてしまった感じがあるけど、白状すると今でもあの文体は結構好きだ。

文学少年ではなかったので、ほかに浮かぶ文章家というと趣味関係の方が多い。自動車評論家(編集者)の小林彰太郎さん、鉄道模型の山崎喜陽さんはどちらも非常に英語が堪能で、そのせいか日本語の背後に英語構文が透けて見えるような書かれ方をしていた。もっとも、小林氏の文章の一部を引用して例示しようと探してみたが、センテンス単位で見るときれいな日本語で、普通に読めてしまう。山崎氏の文章は小学生の頃から読んでいるので、たぶん身体にしみついていて違和感を感じられなくなっている。

英単語をカタカナ表記するとき、ちょっと凝った言い方をするのは昔はやりましたね。。タイヤがタイアだったり、ドライヴィング・グラブズとか云々。カメラのコラムを書いていらした中山蛙さんはすごい独特でしたね。ホウムペイジとか言ったり。
さいきんはそういう論点自体がないですね。15年ぐらい前にピーター・バラカンさんが本を出してたけど、日本語?で定着したものは原音がどうあろうと直せない、ということなのでしょう。ニュースはニューズじゃないし、ナトー軍はネイトーといっても通じないし。

文体といえば、ひじょうに印象的だったのはオーディオ評論家の長岡鉄男さんです。コント作家としても活躍されていたそうですが、文章が短く的確です。力強くてリズム感がある。
俵孝太郎さん(政治評論家)は逆にセンテンスが長く、複雑な構文を書くことが多いようです。うさぎは長岡氏の文章に憧れる一方、俵さん風に長い構文で書くのが好きだったりします。英文だとついセンテンスが長くなっちゃいますね。。

村上春樹さんの本はよく読みますが、文体に影響を受けるということはないです・。井伏鱒二はとても好きで、やはりどこかしら影響は受けているとは思います。最近は井伏さんの本、手に入りにくいんですよね。。

20/5/'23訂正:長岡氏の名前が間違っていました。長岡鉄男さんでした。
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安倍晋三 回顧録

2023年04月22日 | 本と雑誌
安倍晋三 (著), 橋本五郎 (著), 尾山宏 (著), 北村滋 (読み手) 2023年中央公論新社

'22年7月8日に凶弾に倒れた安倍晋三元首相を、2020年9月の首相辞任直後から翌年10月にかけて、36時間にわたりインタビューした回顧録。

元首相が、現在に至るまで国民の間で非常に論議を呼ぶ存在であったことは論を待たない。つい数日前にも、有名作家が暗殺を肯定する発言をして、釈明に追われるなどしていた。

政治的な思考をする際、人の大脳は感情をつかさどる部分が活性化する、といったのは、学者ではなくドラマの主人公(TWWのサム・シーボーン)だけど、亡くなってからもなお、(元首相への)怒りのツイートをしている人は時折見かける。

だいたい人というのは、亡くなると何らかのオーラが次第に抜けていって、わりと客観的にその人を見られるようになるものだ。名前を挙げたらあれだけど、高名な指揮者の演奏や発言が、どれも素晴らしいとか流石に威厳のあるお話だ、と思っていたのが、亡くなってしばらくたつと、まあこの人も人の子という感じになることはある。

というわけで、自分としてはもう少したつと、だんだん色んな事が見えてきて、評価も変わる(定まる)んだろうな、と思ってはいる。おそらくその後も繰り返し検証は続くだろう。

なぜそんなことを書いているかというと、そういう今の世間の(元首相を巡る)毀誉褒貶には、少々違和感を感じているからだ。あまりにも元首相にとらわれすぎていることにならないか。。


在任期間が長かったことで、G7会合などでは顔役のような存在になり、主要国の首脳に頼られる面もあったようだ。

オバマ大統領とはひじょうに親しくまではなれなかったようだ。鳩山首相の普天間基地をめぐる問題の対応で、日本に不信感を持っていたのではないか、ともいう。別の場面ではフランス(オランド首相)と衝突しかけて、安倍氏がとりなす場面が紹介されている。もともと弁護士で、ビジネスライクに物事をこなすスタイルの人でもあるらしい。電話も要件を要領よく伝え、とても短い。

他方、伊勢志摩サミットの時にはかなり機嫌をそこねて、会合に遅刻したという。直前の共同会見でその頃に起きた米軍属の女性殺人事件について、安倍首相が大統領に抗議した(と記者会見で語った)ことが気に入らなかったのではないか、という。

そんなオバマ大統領も広島を訪問し、安倍首相も時間を置いて真珠湾を訪問する。外交面では在任期間中のピークだったのではないか、と振り返っている。

トランプ大統領はもとはビジネスマンであり、政治家というよりビジネスの視点で物事をとらえようとしていた。当然、外交や軍事については素人だ。
従来の米大統領は、自分は自由世界のリーダーだ、という意識と責任感を持っていた。トランプはビジネスの流儀を外交に持ち込もうとしていた。

とはいえ、トランプも自分のやり方に不安を感じることがあったのではないか、という。安倍氏はトランプからよく長電話が来たと回想する。
「トランプは平気で1時間話す。長ければ1時間半。途中で、こちらが疲れちゃうぐらいです。そして、何を話しているのかといえば、本題は前半の15分で終わり。後半の7,8割がゴルフの話だったり、他国の首脳の批判だったりするわけです。・・電話会議を見守っている官僚が「トランプはいつまでゴルフの話をしているんだろう」と困惑した表情をしていることがありました。」

大統領就任前に訪米したことを指摘する向きもあったが、現実問題として日本が彼の標的になったら、国全体が厳しいものになってしまう。トランプは常識を超えている、という認識であったという。よほど危機感が強かったのだろう。

安倍氏に会見でこんなことはいうな、と言われたことはきちんと守ってくれたり、拉致被害者との面談での対応など、誠実さや人情に厚い面もみせてくれたと回想している。今上天皇に謁見するときも、スーツのボタンは留めた方が良いだろうか、などと相談されたそうだ。

オーストラリアのモリソン首相やイギリスのメイ首相にも、よく頼られたようだ。国を超えて、政治家としての経験がものをいったらしい。

他方、ドイツのメルケル首相への評価は、海千山千の政治家だという評価だ。ドイツは当時東アジアでは中国に非常に傾いていて、日本にはなかなか来日しなかった。そのことを指摘したら、あらそう?お宅は首相が良く変わるから、なかなか機会がつかめなくて・。と言われたとか。

安倍氏といえば、プーチン大統領とも親しかった。
「プーチンはクールな感じに見えるけど、意外に気さくで、実際はそれほどではありません。ブラックジョークもよく言います」
クリミア併合や、ソチオリンピックでの同性愛者対応に関する批判などで、欧米各国が対応を厳しくする中、安倍氏はプーチンに果敢に接近を試みた。
日本訪問を促し、地元山口で会談を開くなどまで行った。

このインタビューはロシアのウクライナ侵攻前に終わっている。なので安倍氏のそのことに関する論評はうかがえない。ただ、以下のようなコメントを残している。

「ウクライナ共和国の独立も、彼にとっては許せない事柄でした。・・ロシアになってからも、資源開発を支援していたからです。世界史では、クリミア半島は、ロシア帝国がオスマン帝国を破って手に入れた土地です。プーチンにとっては、独りよがりの考えですが、クリミア併合は、強いロシアの復権の象徴というわけです。」
「バルト三国のある大統領は私に『ロシアにウクライナを諦めろと言っても、到底無理だ。ウクライナは、ロシアの子宮みたいなものだ。クリミア半島を手始めに、これからウクライナの領土を侵食しようとするだろう』と述べていたのが印象的でした。」

侵攻後、彼の認識はどう変化したのだろうか。。

習金平国家主席への評価も興味深い。
「中国の指導者と打ち解けて話すのは、私には無理です。」

首脳会談を重ねるうち、習近平は次第に本心を隠さなくなってきたのだという。もし米国に生まれてきたら、(米国の)共産党ではなく共和党や民主党に入党する、といった。つまり、思想信条ではなく権力を握れる手段を優先するという、リアリズムの方が強いのだろう。

民主主義国家は選挙で交代するが、独裁政権はある日突然倒される。権威主義国家の指導者のプレッシャーの大きさは、我々の想像を超えているのではないか。だから(中、露、北朝鮮の指導者たちは)政敵を次々に倒してきたのだろう、と安倍氏はまとめている。

多かれ少なかれ、トランプ氏にも安倍氏にも孤独感やプレッシャーはあったのでしょうね。


外交関係について書いて、ここまで長くなってしまった。。
例えば「小池さん(都知事)はトランプのジョーカーだ。13枚のカードだけでもゲームは成り立つが、ジョーカーが入ると特殊な効果を発揮してくる。」という発言は、もうあちこちで取り上げられて評判になっている。

評伝ではなく本人への直接のインタビューだから、本人に耳の痛い話題は、きちんと答えているものの、言葉の数は少ない。党内党首選や人事のことなどもそうだろう。それでも、首相という視線で物事がどう見えるか、がわかるのはとても面白い。

それは、政治の世界だけではなく、我々が仕事の上で、あるいは人と人との間でなされるあらゆる活動にも、敷衍することができる。上に立つとものが見えなくなるものだし、関係が危うい人とどう付き合うか、悩むこともある。つい逃げたくなるし、時に自分をほめたくもなる。人のことは結構よく見えたりもする。

おそらく、いくつかのスキャンダルについては、今後検証が進んでいくものだと思うし、経済政策についても、評価はこれからだろう。外交も例えば対露政策、北方領土問題や対北朝鮮、韓国の外交など、素人の自分が振り返っても、あのときはあんなことやってたんだ、と思う面が多い。

先の大戦を巡っても、未だに立場を異にする人たちの論争が繰り返されている。平成から令和にかけての安倍政権も、これからも様々な論議がなされるのだろう。




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日本沈没(第一部・第二部)

2023年04月15日 | 本と雑誌
小松左京、谷甲州(第二部)

もう4月になってしまったけど、50年前の3月20日は小松左京の「日本沈没」が刊行された日でした。

また今年は関東大震災から100年の節目にもあたります。
3月の初めにNHKで南海トラフ地震を綿密に考証したドラマ仕立ての番組がシリーズで放送されました。30年以内の発生確率が70-80%、発生の状況によっては日本経済に深刻なダメージを与える可能性すら示唆されています。

とかなんとか、考えながら年明けから先月にかけて、つらつら読み返してみました。今回は主に第二部が中心に語ります。


第一部の、小松氏の迫力あふれる筆致と途方もない発想力には圧倒されるしかなくて、それをここで繰り返しても仕方ないのですが、今読んでも未来的ですごいですね。。

当時は最新の理論であったプレートテクトニクス理論を、単に引用するだけではなく物語の方向性を形作る地殻変動(地球の核が膨張し、その過程でマントル対流に急激な変化が起きてプレートが支えを失う)の理論構築(トンネル効果)までもっていく、その説得力がものすごい。なにしろ竹内均さんも大絶賛したという、それこそSFの真骨頂みたいな理論設定です。
いや、うさぎには難しすぎて、ただ幻惑されてしまうのではありますが。。

ちょっとした近未来の設定ー超音速機や地域内空調、3Dホログラム投影機なども、適度に物語をドレスアップしてくれて、さっきも書きましたが古臭い感じがしません。70年代前半の近未来ですから、例えば1980年前後だとしても今から40年ぐらい前という設定なのでしょうけど、その時代を通過してきた我々にも違和感を感じさせません。

他方、小説という視点で見た場合、これまた時代なのでしょうけれど、小松氏の女性の書けなさぐあいは、いささか本作品の価値を損ないうる要因として、無視できないレベルにはあるかと思います。

最初にこの本を取り上げたときにも書いたかと思いますが、平穏な都会の庶民生活を描写する場面で、なぜかネオン街とサラリーマン、そしてホステス達、という記述が繰り返し出てくる。なぜか都会の華やかな世界=飲み屋のホステスさんなんですよね。。上下巻で出てくる女性は、阿部玲子、マコ(=ホステスさん)と渡さんのところの花枝さん、だけなんじゃないかな。あと名無しのサラリーマンの奥さん。


第二部は日本列島が完全に水没(小説世界では『異変』と通称されています)してから25年経過した世界を描いています。

仮に第一部の近未来世界が執筆時より10年弱先、例えば1978年だったとすると、その25年後は2003年です。つまり今から20年前です。

物語は『異変』後25周年の記念式典が政府主導で行われようとしている、直前から始まります。第一部に出てきた数少ない女性、花枝には自衛官の息子と大学生の娘(桜)がいます(ほかにも多くの子を産んだらしいが、物語には出てきません)。

また第一部で主人公小野寺と婚約していた阿部玲子は、国連難民高等弁務官事務所に勤務しています。
年齢的には花枝は48歳、玲子も50台前半ということになります。

実際には花枝はほとんど出てこない(小説では桜から見た母親の印象として描写され、セリフもほとんどない)ですが、この世代の女性たちが職業を持って活躍しているあたりが、個人的にはとても好印象です。このほか、パプアニューギニアの農業研究所長も女性ですが、この辺が時代ですね。リアリティがぐっと増してくる。
自分(うさぎ)の職業経験とオーバーラップさせて、物語世界に入っていきやすいな、と思いました。

日本人は世界に四散し、避難先で農業開発をしたり、時に地元民との軋轢や迫害を受けるなどしながら、世界で唯一国土のない国家の国民として生きています。二重国籍も認められているようですが、基本的には避難先で自治区のような地域をあてがわれて、そこで独立した経済を営んでいるらしい。政府省庁は世界中に拠点を分散して活動している。徴税はどうなってるんだとか、地元政府との関係はどうなってるのかとか、移転した日系企業はどうしたのかとか、よくわからないことが多いです。

年配者は日本の国土、生活、風習をよく知っているし、中核世代も日本で子供時代を過ごしている。しかし、若手が生まれたときには既に日本はなかった。
渡桜のように、『異変』前の日本の国土や生活に強い関心を示す人もいるし、生まれた土地に溶け込んで、日本のアイデンティティを失いかけている若者もいる。

第一部でも活躍した中田(D計画の主力メンバー)は、日本の首相になっていす。『異変』後、現地調査を含め、立ち入りも処遇も一切が凍結されている、かつての日本の国土が存在した地域に、メガフロートを建設し、新たな日本を再建しようと計画している。

本作の世界では(いま風にいえば世界線か)、日本民族は国土喪失後も引き続き高い民族的団結性と勤勉さ、さらに高度な技術力を有し続けているという前提のもとに物語が進んでいます。物語のキーとなる、世界最高度のスーパーコンピュータも開発している。

この辺り、第二部の執筆時点(2000年代の初め頃)と2020年代半ばに差し掛かった今とでは、そのリアリティに差異が出ているのではないか。言い方を変えると、我々の日本人観は時代が下るにしたがって変化し、かつてほどは自らの民族的一体性や技術力を手放しで信頼することができないのではないか、という気がしてきた。。

日本人は過去150年ほどの歴史の中で、自らの民族的特異性を、過度に意識しすぎているのかもしれない、という漠然とした思いがある。
産業政策や村落単位での行政などの人的要素、海に囲まれ、自然の恵みを得やすい一方、自然からの災害の影響を受けやすいという地理的な環境、さらにそこからもたらされる地政学的な環境などが複合して、今日の日本(人)という実像が作られてきた。

しかしもちろん、日本に生まれた人間という生物が、特別に優れているわけではない。今日の国家という概念はたかだかこの500年ほどの間に、主に西ヨーロッパで形成されてきたものだ。
現世人類自体(トバ・カタストロフ理論を、どこで知ったのかすっかり忘れていたが、初めて触れたのはこの物語からだったと今回思い出した)、一時は絶滅寸前まで追い込まれ、そこから世界に四散して今日に至っている(という説がある)。ましてや現代は世界のどこでも人の移動、交流が容易だ。今日の世界人類の多様性は、後天的な環境、文化に依存する部分が極めて大きい。

果たして、日本人という概念はそれほど堅牢なものなのだろうか。
それより先に、まだ国土も社会も保たれているはずの、現実の日本人自体が変質し始めているんじゃないかな。。

ともかく、物語世界ではかつての「日本人」が従来的な日本人らしさを保って、かつての技術立国、勤勉な日本人をほうふつとさせる行動を見せている。


物語の後段で中田首相と鳥飼外相が議論を戦わせる場面がある。
第二部は小松氏が若手作家数人とプロジェクトチームを組み、議論の末取りまとめられたという。この論戦場面も、その時の議論が下敷きになっているのかもしれない。
ただ、大事な場面の割には論理が直截かつ深みに欠ける気がしないでもない。前はちょっと感心したけど、今読むとね。

ものすごく生意気な言い方になってしまうけど、なにぶんテーマがあまりにも壮大なので、物語の運びがいささか窮屈というか、筆が薄味といったらいいのか、そういう印象が随所にある。
小松氏としては、本書が示した流れでこの小説世界に締めくくりを与えたかったのだろうし、第一部から一貫したテーマ性は保たれている。

ただ、一つの可能性として、本書の「世界線」のもと、もう少し細かい視点、例えば本書に出てきた山崎とカザフ周辺の日本人集落、篠原とパプア地域の開発などを、個別に腰を据えて小品としていくつかまとめていく、という方向性はなかったのかという気はする。

要するに、広げた風呂敷を無理にたたもうとしてる感が、ちょっと見え隠れするのだ。。


ああ長くなった。こんなのよんでくれへんな。
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世界インフレの謎

2023年03月21日 | 本と雑誌

渡辺努 講談社現代新書2022

先週後半辺りから眠くて、数日間連続して寝落ちしたり、10時間ぐらいずっと寝て、いったん目が覚めても目を閉じればまた夢が始まるという状態です。
夢の世界の方が正規の自分なのか、という気もしますが、あっちでも色々気をもんでるらしいので、どちらが良いということもないみたいです。。


さて、渡辺努氏は先日「物価とは何か」を読みましたが、その続編のような感じです。
2022年以後、日本でも少しずつ物価が上昇し、急速な円安も話題になりました。社会の潮目が変わっているようにも思えます。

世界全体(主に先進諸国)が低インフレになったのはリーマンショックの辺りからとのことですが、この要因としてはグローバリゼーションの進展、少子高齢化、生産性向上の鈍化などが挙げられています。

このうちグローバリゼーションはパンデミック、ウクライナ戦争などの影響で、見直しの機運が出てきています。また、パンデミックが人々の行動を変容させ、従来のような消費の仕方、職の在り方を変えつつあるようです。
その結果、経済全体で生産能力が低下し、供給が減少、需給のつり合いが変わってきている、と指摘しています。

米中央銀行(Fed)は当初、インフレを一過性のものとみていましたが、その後はインフレ対策を重視し、利上げを繰り返していることは周知のとおりです。本来中央銀行のインフレ対策は需要の調整に対応するもので、供給不足に直接効果を及ぼすものではないはずです。今はそれでも、ほかにとるべき対処がないのが実情です。少ない供給にと釣り合わない需要を調整するということは、縮小均衡にほかなりません。

以下、中央銀行の経済政策や近年の経済学における理論のトレンドなどは「物価とは何か」の流れを敷衍したものです。

日本については値上げ嫌い、価格据え置き慣行が極めて強いことを強調しています。2022年4月にIMFがまとめた、加盟国192か国のインフレ率ランキング(通年予想)で、日本は192番目、0.984%でした(米国7.68%、ドイツ5.46%)。

つまり最下位、です。

日本の賃金の低落傾向と諸外国との格差拡大、と話は続いていきます。
一般に、インフレが昂進すれば生活費の上昇に労働者が反応し、企業も賃上げをせざるを得なくなります。その上昇分は価格に転嫁され、さらに物価が上昇します。
このスパイラルが、日本では働かず、賃金が固まってしまっている。
OECD加盟国34か国のうち、日本の名目賃金伸び率は34番目、です。

最下位、です。
そして、日本だけ伸び率がマイナス(0.2%)なのです。

・・あ、長く解説しすぎちゃった。

あとは本書を読んでください。。
ちょっとだけ付記すると、当初この問題を解決するため、企業収益の向上⇒賃上げという流れを作る政策が取られ、収益向上はしたものの、それが賃上げにはつながらなかった。今、盛んに賃上げが叫ばれているのは、そこ(賃上げ)から流れを作っていこうという方針転換とのこと。

ここ10年、就労人口は増加の傾向にあった(15-64歳の人口は減っているのに増加した⇒女性、高齢者が就労したということ)が、今後はその伸びしろもなくなり、人手不足が深刻化することになるでしょう。
そうなると、平成半ば以後定着していた、いろいろと便利でお安い日本の社会が、一気に変わっていくのかもしれません。



本論とは別に、本書で非常に面白いと思った部分があります。

渡辺氏の研究者仲間で、地震学者でもある方の仮説です。
日本は世界有数の地震国で、大震災の度に社会がリセットされた。定期的にリセットされることで、社会が進歩していった。フランスのように自然災害の少ない国は、外生的リセットがない分、人為的なリセットの仕組みとして革命のような社会的イベントが必要とされた。

つまり、日本では自らの力で社会を変えていくのではなく、外部の力が働いて、それに対応する形で、社会が変わっていく。

今すぐ本を取り出せないけど、五百旗頭真教授が日本戦後政治史の本の冒頭で、日本人が自らの手で社会を変えていくことができるか、について言及されていた。それを思い出します。

まあ個人的には(うさぎが言うのもなんですが)外の力が国を変えていくというのも、悪いことではない気はします。江戸時代の泰平の社会から、台頭する西欧文明に対応するために、体制を一気に変えることができたのは、東アジアでは日本だけです。イスラム教諸国もインド大陸も中国大陸も、自らの硬直性を変えられなかった。
とはいえ、今の日本人がこれから来る様々な困難に、どう対処できるかを考えると、ちょっと心もとない気はしますが。。。

23:52 一部加筆
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小泉悠 ウクライナ戦争

2023年02月19日 | 本と雑誌
ちくま書房 2022年

小泉氏の著作を読むのはこの1年で3冊目だ。おおもとはウクライナ戦争にあるわけだから、1年前のことがなければご縁がなかったことになるが、一般の人向けに書かれたこの方の文章はとても分かりやすく、勉強になる。

本書は2022年9月の時点でまとめられている。戦争は今でも継続中であり、まもなく、来週には開戦後1年を迎えることで何らかの変化が起きるかもしれないが、とにかくここまでの状況を整理することに、本書は役に立つと思う。

小泉氏は今回の戦争を第二次ロシア・ウクライナ戦争と呼んでいる。第一次は2014年に発生したロシアによるクリミア半島の強制併合と、東部ドンバス地方の紛争を示す。そのうえで、今回の事態の発端として2021年春からの情勢を概観している。

詳細は本書を読んでもらった方が早いが、個人的に印象に残った点だけ抜き出すと、この時期、ロシアは米政権の動きをにらみながら行動していた、という視点だ。21年春にも演習名目によるロシア軍のウクライナ国境付近での集結が見られた。このときはまもなく集結が解かれ、6月にはバイデン大統領とプーチン大統領との対面会談が開かれている。

小泉氏はこれを、ロシアが米新政権に対し牽制をしかけたもの、と説明している。
トランプ前政権はロシアにとっては便利な存在だった。
トランプ氏はロシアに対し非常に甘く、いわゆるロシアンゲート疑惑についても記者会見で「プーチンは介入していないと言ってるんだから、自国の情報機関よりもプーチンの言い分を信じる」と発言したそうだ。同席していた米官僚はあまりの屈辱に非常ベルを鳴らして会見を中止させようとすら思ったそうだ。
他方、バイデン政権の対露政策は就任時点では未知数だった。

ゼレンスキー大統領(小泉氏は呼称のウクライナ語読み統一に多少の躊躇を示しながらも、本書ではゼレンシキーと呼んでいる)は、当初はロシアに対してひじょうに敵対的というわけではなかった。むしろクリミア問題等に対しては消極的で、対ロ交渉においても終始主導権をとることができずにいた。

ゼレンスキー氏が「化けた」のは、ロシアの攻撃が始まった直後の対応だ。
閣僚たちと共にキーウの街頭に立ち、スマホで自撮りをしながら「私も閣僚たちもここにいる。我々は断固として戦う」と宣言したのだ。
今日我々が抱く、ゼレンスキー氏の戦時リーダー的な姿は、ここから始まっている。

当初は、我々も記憶にも鮮明に残っている通り、ウクライナが攻撃に持ちこたえるとは、ほとんどの人が思っていなかった。アメリカはゼレンスキー氏に極秘ルートによる亡命を提案した(ゼレンスキー氏は「必要なのは弾薬で、亡命ルートではない」と答えたという)。

「非常に影響力のある欧州某国」駐在のウクライナ大使が同国の外相に支援を求めたところ、「48時間以内にすべてが終わるというのに、なぜ貴国を助けないといけないのか」と言われたという。

レズニコフ国防相はベラルーシを通じてショイグ露国防相の、(ウクライナに)降伏を勧めるというメッセージを受け取った。
レズニコフの答えは「ロシアの降伏なら受け入れる」であったという。
(↑かなり好きなエピソードです)。

プーチン氏の当初の意図は、これも良く知られていることだが短期間に現政権を瓦解させ、親露寄りの政権を打ち立てることにあっただろう、とされる。ウクライナの政権内部、官庁や情報機関などにもロシアの息のかかった人物が配置されていた。また、キーウ近郊のアントノワ空港はロシア軍空挺部隊により攻撃を受けた。
しかし、内通者たちは戦争がはじまると皆逃げ出してしまい(しかるべきポストの人物がいなくなることによる混乱はあったかもしれないが)、期待したような役目は果たさなかった。空港もウクライナ軍の激しい抵抗を受け、制圧作戦は失敗に終わる。
結果としてキーウ攻略はならず、露軍は撤退を余儀なくされる。

撤退後、ブチャの大虐殺が明るみになる。ちょうど、第4回の停戦交渉が始まった頃だ。停戦交渉はこれを機に停滞してしまう。

この大虐殺について小泉氏は、これまでのロシアの非人道行為をよく知っているにもかかわらず、たとえナイーブと言われようと「非常にショックを受けた」という。

・・殺害されたブチャの住民たちは、戦闘の巻き添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの占領自体はほぼ無血で行われたものの、虐殺、性的暴行、略奪はその後に始まったのである。そこには何の軍事的合理性もなかった。(中略)ブチャやその他多くの占領地域(ロシア軍の戦争犯罪はブチャに限られたものではなく、むしろ氷山の一角であった)における振る舞いは、どう考えても「悪」と呼ぶほかないだろう。 (電子版のページ119-120/219)

ここでは開戦前夜、初期の状況を中心に拾い書きしたが、小泉氏の専門家としての本領はこの戦争をどう捉えるべきか、という考察にある。

技術的にはドローンの利用など、新しい面もあるが、戦争の性質としてはには80年前の独ソ戦からあまり変わっていない、古典的な戦争となっている。

クラウゼヴィッツの戦争論から戦争の本質を説き、古典的な貴族同士の争い(互いに犠牲を抑え、小規模な勝利を重ねて相手の消耗を図った)から、ナポレオンによる戦争概念の更新(国民皆兵制度による大規模動員、国王の軍隊から国民国家の大衆による、自国の危機に対し自発的に戦う「獰猛な戦争」への変化)について解説をする。ウクライナの国民は自国への侵略者に対しこれを撃退すべきだという、シンプルな意思で結束している。

ゼレンスキーは国民に結束を呼び掛け、国際社会にロシアへの非難とウクライナへの共感を呼び掛けた。

かつてヒズボラは圧倒的な戦力差を持つイスラエルに対し、小回りのきく軍事機構と小規模戦闘を繰り返し、それを情報空間に拡散(市民が殺傷されているニュースが流されることで、イスラエルの権威を毀損させる)手法を取り、イスラエルの軍事意図をくじいた。いわばハイブリッドな、現代的な戦争の手法ともいえる。
但し、これには限界があると小泉氏も認める。この手法が功を奏するには相手がある程度民主的な政体を持っている必要があるからだ。

長すぎて書評としてはあまり褒められたものではないが、やはりご一読をお勧めしたい。

ところで、本書のあとがきの最後に関係者への謝辞と執筆年月、自署名が書かれているが、執筆年月がなぜか2020年9月になっている。。ちょっと珍しい校正ミスですね。。


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物価とは何か

2023年01月29日 | 本と雑誌
渡辺努 講談社選書メチエ 2022

ちょうど1年ほど前に発売になり、昨年は結構話題になっていた本だと思う。
近くのモールにある本屋でも表紙を表に出して掲げてあった。
買ったのは(Kindle版)去年の春ごろだが、その頃はフォーサイスとか読んでいて余力がなかった。薄い新書版とちがい、そこそこ歯ごたえがある本だ。

とくにどういう内容か知らずに読み始めた。さいしょはもう少しよもやま話ぽいものかな、と思ったら、かなりー今風の言い方をすると「ガチ」ーでもその言い方好きじゃないから「本格的な」ー経済学の理論書だった。
もっとも渡辺氏は「この本は物価理論の教科書ではない。教科書形式にすると初歩から説き起こすことになって文量が膨大になってしまうから、と断っている。
なので、例えば東大経済学部の上級生が物価理論の講義を聴くときは、その内容はこんなものでは済まされないようだ。

なので、渡辺氏としては一般の方向けに物価理論をやさしく解説しようという意図で色々工夫されたようだ。

最初に物価とは「蚊柱」である、というたとえ話をあげている。蚊があつまって遠目には黒い柱のように」見えるが、近くで見ると一匹一匹が激しく動いたり、まったりしていたりする。それが物価だと・。柱全体が同じ方向に移動する場合もあれば、全体的に見ると動いていない場合もある。

と、いわれても意図がよくわからん・ような気がするが、渡辺氏の意図は「巨視的に見たときの動きと、微視的に見たときの動きは同じではなく、個々の動きから全体を定義しようとしても、必ずしも正確な答えは得られない」というもののようだ。ずっと読んでいくと、だんだんわかってくる。

読者が経済学の予備知識を持っているか否かで、本書の読み方も少し変わってくるかと思う。フィリップス曲線とか、自然失業率とか、そういう言葉が次々と出てくるし、経済学という学問の手法に対する批判(上記蚊柱理論など)も飛び出してくる。
若いころに一般教養であれ経済学をかじっていて、実務でそれをアップデートする機会がなかった人などが読むと、なるほど経済学も色々進歩してきているのか、などと感心するような読み方になると思う。

特に経済学に触れたことのない人、あるいは好奇心旺盛な大学生の方々などはより新鮮な知識に触れて、ここから色々と深堀りしていこうと考えるかもしれない(書きながら思ったけど、若い学生さんとかはかなり刺激を受けるんじゃないかな)。



正月にNHK BS1で「欲望の資本主義」という番組をやっていて、そこに渡辺氏が出てきた。実をいうとちらちらとしか見ていないのだが、そこで本書でも書かれている「ノルム」という概念を紹介していたようだ(ちらっと見た)。

ノルム(Norm)の説明として、本書では母国がハイパーインフレに見舞われた国から来た留学生のエピソードを取り上げていた。

その国では日々物価が上昇し続けていくが、そんな中人々は暮らしに四苦八苦しているかというと、案外そうでもない。
誰もが明日は物価が上がると思っているので、自然とそれに応じた行動をとっているからだ。店主は明日には仕入れ値が上がることが分かっているから、それを売値に転嫁する。高くしすぎれば売れないし、安くしすぎたら損をするから、どの店も同じくらいの値上げに落ち着く。賃金も、上げずにいたら従業員が辞めてしまうので、適宜上げていく。

こうして社会全体が一糸乱れず同じ流れに乗って行けば、高インフレでもひじょうに困ることはない。
この、社会全体が共有している、「明日はどのくらい上がるか」の認識をノルム、というのだそうだ。予想とも似ているが、社会に共有されているというあたりが、少し違う。

このことは、長い間緩やかなデフレの状況が続いている日本にも当てはめることができる。物価は変わらない、あるいは明日になれば少し安くなると考えるのが共有されていると、人々はそれを前提に行動する。世界市場で原材料が高騰して、値上げをしないと利益が圧迫されるとわかっていても、値上げに踏み切れない。

このノルムは、世代によっても意識が違ってくるそうだ。平成に生まれ、物心ついた時からずっとデフレだった世代は、物価上昇という意識が持てない。より上の世代、オイルショック後の狂乱物価などを知っている世代はまたちがう。

デフレはなぜ怖いのか。
しばしば取り上げられるアメリカの1930年代の大恐慌では、年率10数パーセントの猛烈なデフレ状況だった。現代日本の場合、デフレと言ってもひじょうに緩やかなものだ。それでも問題はある。

たとえば、ある企業が画期的な製品を作るために、多額の開発費をかけてそれを市場に送り出そうと考える。開発費は価格に転嫁して回収したいが、ゆるやかなデフレの下ではそれは容易ではない。コストは少しでも圧縮し、販売価格は押さえたい。いきおい、開発に費用をかけにくくなる。
結果、社会が成長するためのコストをだれも負担しなくなる。

というわけでこの辺は多少自分の言葉も入っているが、この現代社会の状況をなんとかせんと、あるいは理論的にどう解釈すべきかを、いろいろな角度から分析している、という本であります。

ご一読をお勧めします。

・・あれですよ、平成の前半ぐらい、金融危機が起きた辺りからはじまった日本経済の改革というのは、無駄をけずって安く(中間マージンを削るとか、終身雇用をやめて非正規雇用にするとか)という方向性で、自分たちもそれに向かって邁進したわけですね。その結実がいま目の前にあるという。。




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石川信吾 真珠湾までの経緯

2023年01月27日 | 本と雑誌
中公文庫2019(底本:時事通信社『真珠湾までの経緯ー開戦の真相』1960)

石川信吾は1894年に山口県で生まれ、海軍兵学校(42期)を1914年(大正3)に卒業した。成績は中程度で特に目立つ存在ではなかった。太平洋戦争開戦時には軍備全般の指示、開戦に向けた戦争準備等を担当する軍務局二課長であった。
また、海軍省、軍令部の政策を横断的に検討するために立ち上げられた第一委員会の中核的メンバーとして、対米対決姿勢を推し進めたとされている。
(以上は本書戸高一成氏の解説より)。

対米強硬派であり、日独伊3国同盟を支持、また日本の大陸進出に関し、日中戦争完遂と対米開戦回避は両立せず、衝突を避けるためには満蒙問題の終息を早期に図るべきという意見を持っていた。

開戦時の状況を知る者の著作として非常に重要なものだが、これまで研究者の間であまり詳細な検討がされていなかったのは、石川が若いころから非常に自己顕示欲が強く、人物評価が困難との意識が研究者にあったからではないかという。

文章を読む限り、表面的には特別に自己顕示的であるといった表現は見られない。世界の地勢(当時の)に関する記述は簡潔にしてわかりやすく、表現に古さは感じられない。このため、まるで現代の世界情勢を概観しているような錯覚を覚える。

とはいえ、アメリカ合衆国が非常に悪意を持って外交戦略を打ち立ててきたというような記述は、今日われわれが普通に目にする文書にはない表現だ。
そこは少し奇妙な印象がある―この辺り、うっすらと対米強硬派ぶりが透けて見えるようだ。

松岡洋右氏とは同郷で個人的な親交があった。三国同盟から外相を離任させられる前後までのエピソードが語られている。この二人は同郷であることなどより、我の強い性格がよく似ていて、ウマが合ったのかもしれない。
輸送船の艦長になった時のエピソードにも触れているが、これは多少左遷気味の人事であったようだ。

開戦までの経緯というタイトルなので、本編はとうぜん真珠湾急襲の話で終わっている。ただ、石川は終章として、本書が執筆された1960年の状況を概観している。

アメリカは中国大陸の権益をめぐり日本と戦争を始めたが、大陸は(中国の共産化で)ソ連に持っていかれた。それが今、日米関係を再転させている。イギリスも結果として権益を失っただけだ。
英米は戦争目的を力による支配からの解放と位置付けたが、戦争終結後も世界は依然として力の均衡により成り立っている。原爆、水爆の開発は本質的な解決にはならない。
国連は軍事、政治を中心とした活動をしているが、むしろ経済協力などを中心として共栄を図るべきだ。

終章は本論ではないし、とりたてて感心するような記述でもないが、なんとなく石川氏のものの見方、考え方が伝わってくるようで興味深い。。

終章ではひととおり世界情勢を語っていながら、開戦から戦争終結までのことについては一言も語っていない。そこは「たくさんの人が色々語っているから、私は蛇足を加えるのをやめ」たのだそうだ。

終戦時は少将で運輸、補給関係部門の部長であったようだ。本書出版の4年後、1964年に70歳で没している。







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1Q84 再読

2022年12月18日 | 本と雑誌
夏から秋にかけて、再読をはじめた本がふたつある。ひとつは「独ソ戦」で、ここに書いた。

もうひとつは村上春樹の「1Q84」だ。
どちらも、今年の世相が再読のきっかけとなっているところが似ている。


この本は7年前に一度感想を書いている。
さらにその4年前にも、なにか書こうとして中途半端になってしまったらしい。

独ソ戦が今日的世相に照らして、何がきっかけかはすぐわかるとおもうが、「1Q84」は何かというと、この小説の主人公(青豆、女性)が宗教二世である、という点だ。家族全員が入信しており、兄はのちにその教団に勤務するようになる。小学校の行事に出られなかったり、給食の時にお祈りを唱えたり(することを強要された)したため、学校内で孤立する。最終的に彼女は家族と縁を切り、物語が始まるころにはスポーツジムのインストラクターをしている。

もう一人の主人公、天吾に宗教的な背景はない。彼はNHKの集金人である父のもと、男手ひとりで育てられた。父は仕事熱心だがやや偏屈なところがあり、休日には息子を連れまわして払いの悪い家などを集金して回っていた。
当然子供たちからは特殊な目で見られるが、天吾は体格もよく、成績もよかったためいじめの対象にはならなかった。

この二人は小学校の同級生であり、お互いの特殊な環境からか、どこかで惹かれ合うものを持っていたのだろう。ある日、のちに二人とも相手を想うときに必ず思い出す、印象的な出来事が起きる。
そのあとすぐ、二人は離れ離れになる。

物語が始まる時点で天吾は、予備校の数学の講師をしながら小説を書いている。そして、ふとしたきっかけで文学賞に応募した女子高生とかかわることになる。
この女子高生、ふかえりもまた、宗教二世である。父は教団のトップを務めている。
そして、ふかえりも家族と、その家族の属する組織から逃れてきた。



ここまで書くと、この物語は(読んでない人から見ると)宗教二世がその桎梏から逃れる物語か、と思うかもしれないが、もちろん単純にそういう建付けにはなってはいない。

村上春樹はここでいくつかの違ったセクターが、本来保護されるべき幼子たちを不可避的に押さえつけ、苦しめている姿を描き出している。

いわゆる新興の、厳格な教義を持つ宗教団体、全共闘世代が作り上げたコミューン(宗教的色彩を帯びているが、どちらかというとヒッピー文化の変形したものという要素が強いように思える)、そしてゆがんだ権威主義。

さいごのゆがんだ権威主義は、本来は父と子の関係性を示すものだが、村上氏はなぜかその権威のおおもとを’NHK’に据えて、これを親子間の関係から拡大させている。集金人の亡霊(のようなもの)は、大人になった天吾(ふかえり)、青豆、それを追う牛河を脅しつける。

だしに使われたNHKもいい迷惑だと思うが。。村上氏はNHKが、たぶんお好きなようで(その点は例のワン・イシューの政党とはちがう)、「ねじまき鳥」でも常にNHKを大音量で見ている本田さんとか、しばしば出てくるFMのクラシック番組(本作の冒頭でもタクシーの車内でヤナーチェクが流れていた)は間違いなくNHK FMの番組だ。

家庭を訪問して受信料を徴収するのはNHKしかない(Netflixの集金人というのはいない)から、集金人のシーンはNHKとなるのも道理なのかもしれないが、明らかに自民党員のはずの綿谷昇(「ねじまき鳥」の)の所属政党は保守党となっていたよなあ、とか、思ったりするん、だがなあ。実名で出すか。。

話を戻すと、本作の主人公たちはそうした強い権利からの桎梏から、形の上ではすでに逃れることに成功している。そこから逃れること自体は、村上氏にとっては主題たりえないらしい。ただ、少なくとも青豆、たぶん天吾も、心のどこかではその傷を克服しきれていないように思える。

物語的にはいちおう、第3部の最後にはハッピーエンド的な展開にはなるのだけど、どうもすっきりしない感じは残るのだよな。。


2,3よけいなこといいます・。
ときどきここでも書いているけど、僕は天吾はどうも苦手だ。
この人は村上作品には珍しく、自分の存在にあまり疑念を持つようなものの考え方はしない。それは良いのだが、周りの人に対する反応がとても鈍い(意図的な描写なのだと思うが)。

年上の人妻と付き合っていたが(ほぼ性的な面においてのみ)、あるときその関係が失われる。この女性の夫から天吾に、直接電話がかかってくる。夫は女性に何が起きたのか、はっきりとは言わない。天吾は、何が起きたのか繰り返し確認しようとして夫に遮られる。そのあとも天吾は、自分と女性の関係性以外のことには思いを巡らせることはない。女性の夫がいかに傷ついているのか、自分の行為が彼女の周辺にどういう影響を与えていたのか、そういう認識が見られない。

その鈍さは、彼を取り巻く女性、ふかえり、安達クミ(父の入院していた病院の看護師)、青豆との関係性においても変わらないように思える。小学校の先生もそうか。ただ、女性たちから見ると、その鈍さはあまり気にならないらしい。

この人は予備校の講師かつ作家(志望)だし、身寄りもないので、そうした人間関係でもまれることはなかったのだろう。それでもたぶん、もししばらく一緒に仕事をすることになったら、僕は嫌な奴だと思うようになりそうだ。

牛河という人が出てくる。切れ者のもと弁護士で、教団に乞われて青豆の足跡を追っている。頭脳は鋭いが外見は極めて醜く、彼も社会に強い疎外感を持っている。自然と社会の底辺をさまようような仕事をせざるを得なくなった、という設定だ。
これも前に書いたが、同名の牛河として「ねじまき鳥」に出てくる人物と、外見や役割は似ているが境遇(の設定)は少し違う。ねじまき鳥の牛河はある意味自然な底辺者だが、1Q84の牛河はインテリだ。その結果かどうか、描写に彼の外見の醜さが繰り返し描かれていて、そこがどうも引っかかる。

天吾を追う牛河は、天吾の小学校時代の教師に2名会う。村上氏はここでも二人の教師(どちらも年配の女性)の外見、美醜に言及している。

この、外見の美醜に関する奇妙なこだわり(醜さ=悪とまで言い切りはしないが、背後にそういう思想が感じられること)と、料理に関する描写(たぶん村上氏自身にこだわりがあるー喫茶店を経営してらしたからーせいか、時に奇妙に一面的で、料理があまりおいしそうに思えない)、お酒に関する描写(酒が弱い人の気持ちがわからないのか、登場人物がやたらと飲みまくる)は、村上春樹氏の作品の、なんというか引っかかるところだ。

ファンはそれをひっくるめて村上作品として受け入れているんだとは思うけど、ちょっとね、覚めるんですよね。やたらとあれしまくる、っていうのは、巷間言われているし、それは本人も認めている(「村上さんのところ」)けど、上記の点はあまり指摘をみないので、いちおう。

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ソ連が満州に侵攻した夏

2022年12月03日 | 本と雑誌
半藤一利 文春文庫 (Kindle版)

夏に読み始めようとしたが、あまり体調も良くなかったし、気の重い内容だったのでいったん本(タブレット)を置いていた。先月になってようやく読む気になった。

題名がこれなので、書いてあることを説明する必要はないような感じだが、ざっと気が付いたことを書くと;

・ソ連参戦は国際間の様々な思惑の中で政治的に決められた。日本にとっては日ソ中立条約(1941年発効)が締結されていたこともあり、寝耳に水の事態と捉えられた。もちろんヤルタ会談での密約情報も入手できていない。

・はずだが、実際には陸軍などはいずれソ連からの侵攻はありうるという見方もあった。ただ、南方の戦況が厳しく、関東軍の兵力を転用している中、侵攻開始はまだ先のこと、という希望的観測が大勢を占めていた。

・もともと日本には戦前、親ソ(露)的な感情を持つ人が一定数いた。また、日米戦争の悪化に伴い、政府筋にはソ連の仲介により戦争終結に向けて動けないかという考えが真剣に議論されていた。
(実際に近衛元首相を特使としてモスクワに派遣するという動きが'45年7月にあった)。

・侵攻が始まり、国境付近の関東軍は奮戦したがことごとく撃破された。関東軍は(有名な話だが)居留民たちを置いたまま後退し、市民を守ることをしなかった。

・ポツダム宣言(ソ連は署名しておらず、当事者ではない)受諾後、日本政府、軍はダグラス・マッカーサーがソ連を含む占領行政を一任されているととらえた。しかしマッカーサーは連合国の総司令官であり、ソ連軍の管轄は対象外だった。日本は宣言受諾を終戦と捉えたが、国際的には降伏調印がなされた9月2日が戦争終結日であり、それまでソ連軍の侵攻は続いた。

・居留民たちは鉄道などの交通も遮断された中を逃避せざるを得なかった。8月15日以後すぐに、一部の満州国軍は叛乱を起こし、新聞は”東洋鬼”を追い出せという報道をした。

・ソ連軍の避難民たちに対する略奪棒鋼は筆舌に尽くしがたいものがあった。これはドイツ戦線でも同様(満州のソ連将兵はドイツから転戦してきた者も多かった)だった。こうしたソ連軍兵士の質の悪さは、スターリンをはじめとするソ連首脳部において共有、許容されていた。

・満州における機械装置や鉄道車両など、日本が持ち込んだ資産は、国際的には中国政府に帰属すべきはずのものだが、ソ連はそれらを「戦利品」として持ち帰った。満州国の産業施設の4割は破壊され、4割はソ連が持ち去ったといわれる。
満鉄、日本政府、在満法人所有の資産は合計で400億円にのぼるという。現在の価値では数十兆円に及ぶかもしれない。
将兵、居留民200万人が満州、関東州に取り残されていた。

・兵士たち(スターリンが指示した員数が足りないため、実際には市民も徴発された)をシベリア抑留する指示は、スターリンが日本本土(北海道の半分を要望していた)占領の希望をトルーマン米大統領に拒否された後、急遽指示された。スターリンは自らの存命のうちに、共産主義が発展成功する様子を見たかったから(少しでも労働力、産業基盤が欲しかった)だと言われる。



自分たちがロシアという国としてイメージするのは、やはりこの辺りですかね。。

リアルタイムで知っているのは冷戦終盤期のソ連、その崩壊としばしの混乱、西側とのつかの間の和解。そして今。

またドラマの引用になってしまいますが、「ザ・ホワイトハウス」の中で、核施設で起きた事故をひた隠しにする中米ロシア大使に向かって大統領が、そのかたくなさはいったいどこから来るんだ、と言います。すると大使は「ロシアの、長くて辛い冬です」と答える。

たいして気が利いた言葉ではないようで、それこそが真実なような気もします。広大な、ひじょうに厳しい自然の中で、生き続ける人達は、よりプラグマティックで人間の根本的な欲望に忠実なのではないか。そうでないと死んでしまうし、そもそも死に対する意識すら違う。

帝政ロシアの頃から一貫して不凍港を求め、少しでも隙あらば南下しようと目論んでいるというのはもはや厳然たる事実です。
ウクライナもジョージアも、その流れの中でサクリファイスを受けているわけです。

しかしそうなると、地球上で気候の厳しいところに棲んでいる人たちは、未来永劫乱暴で困ったことをする、ということになってしまう。
それではスカンジナビアの人々はどうなのか?って話ですよね。

日本は国土のどこに行ってもとても住みやすくて、だから人々は礼節を重んじて心穏やか、おもてなし最高。
っていうと、それでは400年前に全国で繰り広げられた「内戦」はなんだったのか、80年前にアジア一帯を戦火に巻き込んだのはどういうことか、という話になる。
しかも、為政者は平気で市民を見捨てているという。

気候への適応は様々な技術で克服できるし、過去の反省で国民性も変わりうる、と考えないと。

そうしないと自分に返ってくるわけです。


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