左の顔の絵は、岩田誠「見る脳.描く脳」にある相貌失認患者による自画像です。
この患者は左右の後頭側頭葉の梗塞で目や口、鼻など顔の部分は分かるけれども、他人の顔が誰の顔か分からなくなっています。
この絵は鏡を見ての写生でなく、記憶によって描かれたものですが、普通の描き方でなく、斜めになっているうえに画面からはみ出しています。
これは口の部分から描き始め、それから鼻とか目とかを描き足していくため、全体の姿が画面にうまくはまっていないのです。
普通なら顔の配置を決め、顔の輪郭を描いてから顔の部分を描くというように、およその全体的な構成を決めてから部分に進むのですが、いきなり部分から手をつけています。
この患者は右のような絵を見ても、どのような状況を表した絵なのか分からなかったそうです。
一人一人の子供の絵については説明できるのに、全体としてどんなことを表しているかが理解できないというのです。
一つ一つの部分については理解でき、それが同時に示されていることがわかっても、全体をまとめて理解することが出来ないのです。
真ん中の女の子のドーナツを左の男の子が食べてしまったのに、右の女の子が疑われて困っているのですが、にんまり笑っている男の子、怒っている女の子、困っている女の子というように部分を文字通りに受け取るだけなのです。
この様子から考えると、左の顔の絵は部分処理から始まって全体に向かっているというだけの問題ではないようです。
部分はそれぞれ明確にとらえられていて、お互いの位置関係も正しいのですが、全体をまとめてそれをどう評価するかという観点がないのでしょう。
全体的な表現という意図がなくて、部分的処理に集中してしまうので、全体枠からはみ出したり、常識的な構図から外れたりするのです。
そういう意味では意図せずしてユニークな描き方となったり、結果的に独特な迫力を持ったりしています。
一般的には全体的処理は右脳の役割、部分処理は左脳の役割ということになっていますが、この場合は部分が欠けているわけではないので、表面的な全体性あるいは形式的な全体性は実現されています。
ただ常識的というかまともな処理がなされていないのが特徴です。
全体的な処理をする右脳が機能していないと解釈するのなら、右脳は常識的な処理をするのが本分で、独創的なあるいはユニークな処理ばかりするわけではないようです。
右脳が機能しないほうが、常識の枠を破る独創性が生まれることもあるのかもしれません。