60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

部分処理で意図しない独創性

2006-11-20 22:48:05 | 脳の議論

 左の顔の絵は、岩田誠「見る脳.描く脳」にある相貌失認患者による自画像です。
 この患者は左右の後頭側頭葉の梗塞で目や口、鼻など顔の部分は分かるけれども、他人の顔が誰の顔か分からなくなっています。
 この絵は鏡を見ての写生でなく、記憶によって描かれたものですが、普通の描き方でなく、斜めになっているうえに画面からはみ出しています。
 これは口の部分から描き始め、それから鼻とか目とかを描き足していくため、全体の姿が画面にうまくはまっていないのです。
 普通なら顔の配置を決め、顔の輪郭を描いてから顔の部分を描くというように、およその全体的な構成を決めてから部分に進むのですが、いきなり部分から手をつけています。
 
 この患者は右のような絵を見ても、どのような状況を表した絵なのか分からなかったそうです。
 一人一人の子供の絵については説明できるのに、全体としてどんなことを表しているかが理解できないというのです。
 一つ一つの部分については理解でき、それが同時に示されていることがわかっても、全体をまとめて理解することが出来ないのです。
 真ん中の女の子のドーナツを左の男の子が食べてしまったのに、右の女の子が疑われて困っているのですが、にんまり笑っている男の子、怒っている女の子、困っている女の子というように部分を文字通りに受け取るだけなのです。
 
 この様子から考えると、左の顔の絵は部分処理から始まって全体に向かっているというだけの問題ではないようです。
 部分はそれぞれ明確にとらえられていて、お互いの位置関係も正しいのですが、全体をまとめてそれをどう評価するかという観点がないのでしょう。
 全体的な表現という意図がなくて、部分的処理に集中してしまうので、全体枠からはみ出したり、常識的な構図から外れたりするのです。
 そういう意味では意図せずしてユニークな描き方となったり、結果的に独特な迫力を持ったりしています。

 一般的には全体的処理は右脳の役割、部分処理は左脳の役割ということになっていますが、この場合は部分が欠けているわけではないので、表面的な全体性あるいは形式的な全体性は実現されています。
 ただ常識的というかまともな処理がなされていないのが特徴です。
 全体的な処理をする右脳が機能していないと解釈するのなら、右脳は常識的な処理をするのが本分で、独創的なあるいはユニークな処理ばかりするわけではないようです。
 右脳が機能しないほうが、常識の枠を破る独創性が生まれることもあるのかもしれません。


右脳が常識的

2006-11-19 22:45:20 | 脳の議論

 図は20世紀はじめドイツで活躍していた画家コリントの絵で、左は脳卒中で右脳損傷を受ける前の自画像で、左は病気が回復してからの自画像です。
 岩田誠「見る脳、描く脳」によれば、病後の自画像はいずれも描かれた形態に独特のゆがみがあり、病前よりもはるかに深く、力強い印象を与えるといいます。
 ゆがみは右脳損傷によるものだという説があるけれども、その独創的な描画方式が評価されて、病気になる前よりも優れているとさえ言います。
 少なくともこの画家の場合は、右脳の一部を失ってからのほうが、よりダイナミックな絵を描いているようだといいます。
 この点から考えると左脳のほうがよりダイナミックな描画能力をもっていたということになり、通常の「右脳が独創的で、芸術的」というイメージとは逆の現象ということになります。

 これは特殊な例ですが、絵を描くことについては右脳が担当しているとか、右脳のほうが優れていると一概には言えないということでしょう。
 絵を描くという様な行為は、心理学のテストのように限定された行動ではなく、人間のいろいろな能力を使って実現する複雑な行為なので、単に右脳で担当するとかいうものではないのでしょう。
 人間の数百万年の歴史の中で、絵を描くというような行為はごく最近のもので、描画能力が右脳に限定される理由があるとも思えません。
 
 右脳に損傷を受けた場合は、全体的な輪郭の把握がおかしかったり、配置がおかしかったりするといいます。
 右脳のとらえかたは全体的で直観的、左脳のとらえかたは部分的で分析的だとされていますが、そのあと右脳が創造的で、左脳は現実的だから芸術などは右脳の分野だなどとと一般的には解釈されています。
 ところが新しいものに取り組む場合は、どんな動物でも先ずは類似の経験に当てはめてアナログ的に対応しようとするでしょう。
 新しい問題に取り組むときに先ず右脳がさきに働くそうですが、それは右脳は創造的というより経験的あるいは常識的だからです。
 
 新しいものに取り組むとき類似のパターンがあれば、自然にそれで対応しようとするでしょうし、そのほうが成功率も高く、素早く反応できます。
 まったく未経験のユニークな方法は右脳からは実際は生まれている例は少ないでしょう。
 左脳がもし分析的、論理的だとすれば、論理は経験を超えて暴走しますから、怪我の功名で独創的な方法の発見にたどり着く可能性があります。
 芸術の分野でも左脳が独創性に寄与することがあっても不思議はないのです。


左脳のほうがユニークな絵

2006-11-18 22:16:11 | 脳の議論

 絵は右脳で描けといわれても、実際にはどうしたらよいか分からないものです。
 絵を描いているとき「イマ自分は左脳を使っている」とか「右脳が働いている」などということは自覚できるわけではありません。
 実際右脳を主として使って描いた絵はどんなものかを知るには、左脳が働かない人の絵を見て見れば見当がつきます。
 図はAが見本で、Bは左脳に損傷のある人の描いた典型として挙げられる例です。
 左脳が働かないので右脳を使って描いているのですが、全体的な輪郭はとらえられているとはいえ、細部が欠けているので、模写としては不十分なものです。
 
 逆に右脳を損傷している人が描いた例というのがCです。
 これは細部がある程度詳しく描かれていますが、全体的な形がおかしくなっています。
 部分の配置がでたらめになっているところがあるのと、細部が描かれているといっても抜け落ちているところがあります。
 特定の部分が無視され、描かれている部分は位置や方向が変更されていたりしているのですが、そのためダイナミックな感じが出ています。
 右脳で描いたほうは輪郭が全体をとらえているといっても、そこには力動感はなく無個性です。

 普通に見れば、左右どちらか一方の脳が損傷を受けていれば、いずれにせよ不完全な模写しかできないということに過ぎないのですが、そのことは脳に異常のない人は両方の脳を使って絵を描いているということを意味しています。
 左脳は言語や理屈を担当して、感性は右脳が得意とする分野だと思われて、絵を描いたりするときは左脳は邪魔だなどと言われたりするのですが、この絵で見る限りではそうとばかりはいえないようです。
 左脳が働かないで、右脳で描いたBのような絵は、全体的な輪郭をとらえているので、常識的ではありますが面白みはありません。
 その逆の右脳が働かないで、左脳で描いたCのような絵のほうがじょうしきからはずれてしまい、かえってユニークで面白みがあったりするのですから皮肉なものです。


 


漫画なら逆さまにしても分かる

2006-11-17 22:51:48 | 脳の議論

 人物画などを模写するとき、原画を逆さまにすればより正確に描くことが出来るといわれています。
 ベティ.エドワーズ「脳の右側で描け」から始まった考え方で、正立像を見ると左脳の考え方に支配されがちになるので、逆さまにすれば何が描かれているか分からないので、ありのままに模写ができるということのようです。
 左脳が得意なのは言葉や理屈で、絵画など芸術は右脳が得意とする分野である、というような説が一般化されたため、無条件でこの説を受け入れてしまいがちなのですが、実際はどうなのでしょうか。

 上の図は故ケネディ大統領の写真、写真の陰影を単純化したもの、小泉元首相の似顔絵漫画を逆さまにしたもので、下が原画です。
 こうしてみると一番分かりにくいのは真ん中の場合で、漫画の場合は倒立していてもそれほど分かりにくくはありません。
 一番左の写真の場合は、分かりにくいといっても、原画のイメージとだいぶ違うのですが、真ん中ほど極端ではありません。
 逆さまにすれば何が描かれているかわからなくなるというのは、どんな絵でもそうだというのではなく、絵によって違うのだということが分かります。

 もし逆さまにしたら左脳が理解できなくなるというのであれば、右のような似顔絵漫画は絵ではないということになるのでしょうか。
 それとも、漫画は左脳に理解しやすい左脳向けの絵画形式だということなのでしょうか。
 左脳についてのイメージと漫画とはなんとなく合わないような気がするので、そうだとは言いにくいですから、漫画は単純化されているから左脳でもわかるのだというしかないかもしれません。
 ところが真ん中の場合は陰影の諧調を無視して単純化したものなのに倒立させた図は非常に分かりにくくなっています。

 漫画と他の図との違いは、漫画が線画で平面的なのに対し、横の二つは陰影による立体感で表現された画です。 
 左脳とか右脳とかいう問題ではなく、立体感の問題で、三次元的に見える像は逆さまにするとまったく違って見えるということなのです。
 立体感のある像を紙のような平面の上に描くというのは、自然には出来ないので、三次元的に表現しようと意識することを放棄することによって正確に輪郭を模写使用ということを提唱したのでしょう。
 漫画や、模様など平面的な画であれば、逆さまにしなくても見え方に忠実に紙という平面に模写できるのです。


左脳で見ると輪郭がおかしくなる?

2006-11-16 22:17:39 | 脳の議論

 図Aを見てもたいていの人はなんだか分からないでしょう。
 それではBではどうでしょうか。
 BはAを逆さまにして、白い部分を赤、黒い部分を青にしています。
 この段階ではまだ何か分からないかもしれません。
 それではCはどうでしょうか。
 これはBの青い部分を黒く、赤い部分を白くしたもので、つまりAを逆さまにしたものですが、こうなると、どうやら人の顔らしいと感じるのではないでしょうか。
 それでもまだ分かりにくければ、目を細めてボンヤリ見れば分かります。

 これはアインシュタインの顔だというのですが、そういわれればそうだと思い、いちどそう思ってみるとただの模様には見えなくなります。
 ただ、Cの場合でも右脳に損傷のある人はなんだか分からないそうです。
 それではCならば人の顔だということが分かりやすく、BやAになると人の顔に見えにくいのでしょうか。
 Aは逆さまになっているのでわかりにくいという風に説明できるかもしれませんが、Bは色が変わっているだけです。

 BがCに比べ顔のように見えにくいのはCに比べ立体感がないためです。
 Cは白と黒で明暗差がハッキリしているので立体感が出てくるのですが、Bは青と赤で明暗差があまりないので立体感がほとんど感じられないのです。
 Cは光が当たったところと影になるところというふうに見えるので顔に見えるのですが、Bは顔だと思ってみても立体感がほとんど感じられないのでリアリティーが欠けています。
 そこでAを見るとこちらも、何か分からないので立体感がありません。

 ベティ.エドワーズ「脳の右で描け」では立体的な絵を描くときうまく描けないのは左脳で見るからだとしています。
 左脳はものをありのままに見ないで、こうあるべきだという先入イメージで描くからうまくいかないのだとしています。
 そこで人物画など立体感のある絵を模写するとき、絵を逆さまに見て輪郭を模写すれば、絵が分かりにくく見えるので、左脳に邪魔されずにありのままに描けるのでうまくいくといいます。
 逆さまにして見ると左脳が働かず、右脳で見るのでありのままに描けるといいます。

 しかし、左脳が働くと見たままでなく、先入観で見てしまうので輪郭がおかしくなるというのは変な説明です。
 そうならば私たちは絵を描くときでなくとも常にものをありのままに見ていないということになります。
 しかも先入イメージはどうやって出来たか説明できなくなる上に、絵を描いた場合でも出来上がりがおかしいと見る眼は左脳が働いているはずです。

 たとえば上のA,B,Cの3枚の絵を模写するとして、うまく描けないのはどれかといえばそれはCです。
 これは立体感の感じられる絵を平面に描こうとするのは難しいことなのだということで、右脳で見るとか左脳で見ると言う問題ではないのです。


左脳と形式論理

2006-11-15 22:39:13 | 脳の議論

 ①は「表がDのとき裏は3でなければならない」が守られているかどうかを確かめるためには最小限どれをめくって確かめるべきかという問題で、正解は一番と4番なのですが、1番と2番と答えてしまう人が多いといわれます。
 この問題の正解率が低いのは、人間が論理的に考えないからではなく、抽象的な問題だからだとされています。
 というのは同じような形式の問題で、②のように「20才以上でなければ飲酒は不可」という規則が守られているかどうかを確かめるには最小限どれをめくればよいかというのなら、1番と4番というふうに、ほとんどの人が正解するといいます。
 つまり抽象的でなく具体的な問題であれば、たいていの人が論理的に考えて正解に達するというのです。

 ①の場合、表がDなら裏が3でなければならないということは、表がDなのに裏が3でないかもしれないものを探すので1番と4番が正解です。
 ②の場合も飲酒をするなら20歳以上でなければならないということは、飲酒をしているのに20歳以下の可能性のあるものを探すので1番と4番が正解です。
 これらはいずれも規則に対して例外があってはならないということで、例外となる意可能性のあるものを探す問題です。
 ①の場合の正答率の低いのは問題が抽象的だからというより表現の問題で、「表がDなのに裏が3でないものがあるとすればどれとどれか」という表現なら正解するはずです。

 ところが③のような場合も同じように考えるのが正解かといえば、それは少しおかしいなと感じるのではないでしょうか。
 いわゆる論理的に考えるなら、「30本以上喫煙すると肺がんになる」ということは30本以上喫煙しているのに肺がんになっていない場合があるかどうかを確かめるので、1番と4番をめくるのが正解となります。
 しかし4番をめくって肺がんでないことが分かっても、「30本以上喫煙すると肺がんになる」という説を確かめるのに役立つとは思えません。
 健康な人で30本以上の喫煙者はごく少ないでしょうから、めくってみても30本以上ではないという結果になるでしょう。
 この説を確かめようとするなら2番を見て場合によっては3番をも見るほうが有益です。
 もし20本でも肺がんであれば、この説を「20本以上の喫煙は肺がんになる」と変更しなければならないかもしれないからです。

 ①と②は規則の問題で、形式論理が支配すると考えられています。
 ②は①と違って具体的な問題ではあるのですが、法というのは社会統制の手段なので法に基づいた形式論理に従わせようとするものです。
 ③はどの程度確からしいかが分かればよいので、例外があってはならないというものではありません。
 ①と②は左脳の形式論理の世界で、③は右脳の現実問題の世界ですから考え方を変える必要があるのです。


左脳の論理が正しいとは限らない

2006-11-14 22:21:32 | 脳の議論

 ①は有名な4枚カード問題で、「表がDなら裏が3である」ことが正しいかどうかを判定するには最小限どのカードをめくればよいかというものです。
 表がDのものをまずめくるのは当然として、多くの人は裏が3のものをめくると答えてしまうそうです。
 表がBのものはめくる意味がないので、裏が3のものをめくるか7のものをめくるかということなのですが、正解は7となっています。
 これは表がDなのに裏が3でないものがあってはならないので、7をめくって表がDでないことを確かめなければならないということです。
 裏が3のものは表がDでなくても良いので、めくる必要がないというのが、論理的な考え方だとされています。

 このような問題で多くの人が間違えるのは、問題が抽象的で具体性がないので、日常的な感覚では分かりにくいからだとされています。
 それでは②のような問題ならばどうでしょうか。
 これは「宗教Aを信じれば金持ちになる」ということを確かめるにはどれをめくればよいかという問題です。
 ①と同じ形式なので、表が信者になっている1番と、裏が貧乏人になっている晩をめくるるのが正解だと論理的にはなるはずです。
 しかし常識で考えればこの左脳による答えはおかしいと思うのではないでしょうか。
 この場合は1番と2番をめくってみる右脳の感覚が妥当であり、意味のある選択です。
 
 「宗教Aを信じれば金持ちになる」といわれても、信者のすべてが金持ちになると言う主張だと思う人はいません。
 Aを信じて金持ちになった人の例が多ければ納得するのが常識的感覚です。
 信じたけれども貧乏だという例ばかりであれば別ですが、が少しぐらいあっても問題にしないのです。
 貧乏人のほうが金持ちよりはるかに多いのですから、たくさんいる貧乏人の中から信者が一人見つかっても全面否定とはしないのです。
 信者を見て実際金持ちなのかを確かめる、また金持ちの中に信者がいるのかを確かめるというのが普通の対応です。

 ①の問題は規則の問題で、例外がないということになっていますが、②の問題は事実の問題なのですが、事実の問題というのは例外がありますから、反例が見つかればすべて否定できるというものではありません。
 ①は例外がないことを確かめる問題で、②は実例が多いことを確かめる問題なのです。
 ②の場合は1番の信者が金持ちでなく、2番の金持ちが信者でなければまったく信用が出来ない話となります。
 もし4番の貧乏人が信者でも、1番の信者が金持ちで、2番の金持ちが信者なら説得力がある話になるのです。
 つまり日常生活では、左脳的な形式論理よりも右脳的な実例主義のほうが優勢なのです。


右脳の衰えとは限らない

2006-11-13 22:53:04 | 脳の議論

 Aは黒い部分をひとつひとつ何を表しているかというように考えてしまうとなんだか分からなくなります。
 全体として何に見えるかという問題で、なにげなく見てパッと分かればいいのですが、考えてしまうと分かりにくくなります。
 分かりにくいときは、はっきり見ようとせずにボンヤリと焦点をあわせないで見るか、目を細めて全体がぼやけて見えるようにすると、犬だということが分かります。
 どの部分がどうというふうに、はっきりとは説明できないけれども、全体的なイメージとして輪郭がつかめ、犬だと直観するのです。

 Bは線画が重なっていて、全体としての輪郭というものはありません。
 いくつかのものの輪郭がかさなりあっているので、重なりの部分に注意を奪われてしまうと一つ一つのものの輪郭が分からなくなります。
 重なってはいても、いくつかの図形をそれぞれ別のものとして同時に見ることが要求されます。
 自動車、栓抜き、かなづち、ハンドバッグ、ティーカップセットなどと見ていって、いちばん大きなビンに気がつかなかったりします。

 普通の人はこれらの課題はそれほど難しくはないのですが、右脳に損傷を受けた人の場合はかなり難しいと言われています。
 ところが子供の場合もこのような、課題は楽ではないといいます。
 脳はまず右脳から発達するので、子供であっても右脳は発達していて、このような課題は難しくはないはずです。
 高齢者の場合もこうした課題が不得意になってきていて、脳の衰えのせいだとされるのですが、先に発達し右脳が後から衰えるはずなので右脳が衰えたからではないはずです。
 
 高齢者の場合は視力の衰えとか、老眼の進行などで細かい部分をよく見ようとして注意の範囲が狭まってしまうということがあります。
 そうすると細かい部分しか分からないということで、右脳が損傷した場合と似たような結果となるので、右脳が衰えたとされてしまう可能性があります。
 子供の場合は視覚経験の不足の可能性があり、必ずしも右脳の発達不足とはいえない可能性もあります。
 右脳損傷の患者と同じことが不得意だからといって、右脳が未発達とか右脳が衰えたとするのは早とちりの可能性があるのです。


右脳、左脳とジョーク

2006-11-12 22:32:54 | 脳の議論

 上の文はジョークなのですが、そのオチの部分は次のうちのどれかという問題です。
 ① 主人は言った。「そんなことはどうでもいい。こんど酒がなくなったらお前はクビだ。」
 ②そのとき家政婦はネズミを見つけビックリして主人のひざに飛び乗った。
 ③すると主人は答えた。「両親はどうでもいいが、お前のスコットランドの家系(Scotch extraction)が問題なんだ。」

 この問題に対し、右脳に障害があって左脳しか機能しない患者は①を選ぶことが多いそうです。
 ①は話の筋としては、主人が怒るのは当たり前なので論理的なのですが、ジョークとしての面白みなどはありません。
 左脳でのみ考える人は筋が通ることのみに注意がいって、ジョークなど理解できないということのようです。
 
 これに対し左脳に障害があって右脳しか機能しない患者は②を選ぶのだそうです。
 話の筋が通らなくてもおかしさがあればよいということで、②を選ぶというのですが、このおかしさは単純なおかしさで、脈絡のないおかしさです。
 家政婦が見たのがネズミでなくても犬でも猫でも何でもいいので、それ自体おかしければよいのです。

 左脳も右脳も働く普通の人が③を選ぶのは、Scotch extractionというのが「スコットランドの家系」と「スコッチウィスキーの抜き取り」の両方の意味を持つからです。
 これは、Scotchというのがスコットランド人をバカにした言い方なので、スコットランド人が聞いた場合は不愉快なジョークなのでしょうが、関係のない人にはそのイヤミと同時におかしさが伝わります。
 一つの表現で同時に二つの意味を表し、また話としての筋道が通っているので、右脳と左脳をともに使うことが出来れば、このジョークの意味が分かり、おかしさも分かるということなのです。

 年をとってくると右脳が衰えてくるといわれ、またダジャレばかり好むというようなことが言われますが、ダジャレというのは単純な語呂合わせなので、左脳の衰えまでも感じさせます。
 語呂合わせは一つの言葉で同時に二つの意味を表わすのですが、もう一つの意味は話の筋と関係なかったりすることがあります。
 気がつかないうちに面白くもないダジャレを連発しているということがないか、自分で注意する必要があるのです。
 
 


右脳のイメージ記憶

2006-11-11 22:53:46 | 脳の議論

 旧ソ連の記憶術者シェレシェフスキーは超人的な記憶力を持っていたといいます。
 たとえば表Aを三分ほど見て、この表を思い出すように言われるとよどみなく全部の数字を言うことが出来たそうです。
 それだけでなく、どの行を指定されても正確に答え、反対の順序でも全部の数字を思い出して答えられたそうです。
 また数ヶ月たってもこの表を思い出すように言われると、正確に思い出すことが出来たということです。
 ところが彼はBのような表を覚えるように言われると、Aのときと同じように覚え、数字が規則的に並んでいるということに気がつかなかったそうです。

 彼は表を覚えるときに数字として記憶するのでなく、表を視覚的に記憶していたので、思い出すときも表として脳に浮かんでくるので、その表を見ながら答えていたのだそうです。
 そのためBのように数字が規則的に並んでいようが、不規則に並んでいようが同じことだったのです。
 いわゆる写真記憶というもので、直観像として記憶していたわけです。
 写真記憶というのは、特定の部分に注意を向けたり、無視をしたりせず、視覚的にあるがままに記憶するものです。

 ところがこのような記憶は、非常に無駄なもので、無目的なため、必要な部分と不要な部分の区別がないのです。
 もしなにか原理とか筋道とか意味を求めようとすると、純粋に視覚的な像を記憶するのが妨げられてしまうのです。
 つまり左脳が働くとあるがままには記憶しにくいのです。
 視覚的に記憶しようとするとき音楽を耳にする分には良いのですが、母国語のように意味が分かるものが耳に入ると混乱をしてうまくいかなかったりしたのです。
 よく右脳による視覚的記憶は写真記憶だとか、記憶できる情報量が膨大であるなどと言われますが、その記憶の内容は整理されていないものなのです。

 シェレシェフスキーはあまりに強力な記憶力を持っていたために、かえって忘れるのに苦労をしたということですから、記憶力が超人的であればよいとは限りません。
 普通の人間はシェレシェフスキーのような客観的な記憶が不得手で、自分に都合の悪いようなことは忘れたりしますが、生きていくうえではそのほうがよいのでしょう。
 左脳が働いて、意味づけをしたり関係付けたりするので、ものをありのままに見て記憶することが出来なくなっているのですが、かえってそのため人間は進歩したのかもしれないのです。