史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

延岡 北川 Ⅱ

2022年08月13日 | 宮崎県

(高畑山)

 

小倉処平自刃之地

 

「飫肥西郷」 小倉處平自刃の地→

 

 二十五年前のリベンジである。今度こそは小倉處平自刃の地まで行き着いてやろう、と覚悟を決めて挑んだ。右の「小倉處平自刃の地」の木柱から山に入る。そこまでの道は必ずしも整備されているとは言い難い。実質的には十五分くらいのものであるが、ちょっとした登山のようなコースである。

 

飫肥西郷 小倉處平自刃之地

 

 明治十年(1877)八月十五日の和田越の激戦で、大腿部に貫通銃創を追った小倉處平は、北川町長井川坂の神田伊助方で治療を受けたが、同月十七日の夜、西郷軍が可愛岳突破したことを知り、担がれてこの地(俵野三足高畑山)に至り、咽喉を突いて絶命した。

 

(川内名)

 延岡市川内名は、延岡市街から二十五キロメートル以上も祝子川(ほうりがわ)を遡ったところである。ほとんど対向車とすれ違うこともないし、信号機もない道(県道207)を走ること約四十分。祝子川の上流には、祝子ダムがあるが、ダムよりもっと上流にこの静かな集落がある。「よくもこのような不便な場所に住んでいるな」と率直に思うが、たぶんここに住んでいる人たちにしてみれば、「よくも東京のような人がひっきりなしに行き交うようなところに住んでいるな」と呆れられるのかもしれない。

 

西郷隆盛宿陣の跡 小野熊治宅

 

 明治十年(1877)八月十八日、可愛岳の包囲を破った薩軍は、浜砂(はまご)で官軍と交戦し、地蔵谷の林中で野営した。翌十九日は、早朝から祝子川に沿って西に進み、下祝子川田下(荒茂(あらも))で官軍第一旅団川崎少佐の食糧分配所兼小包帯所(臨時野戦病院)を襲い、食糧弾薬を奪い、十七日夜半以来の空腹を満たした。この日、西郷は農家小野熊治宅に宿泊した。この時、桐野利秋は、佐藤三二等五十名を先鋒隊として、鹿川越から三田井への進路偵察を命じている。現在、小野熊治宅跡地に建物らしいものは残っておらず、北川町教育委員会の建てた説明板が置かれているのみである。

 

祝子川

 

 大きな岩石が転がる河原を激流が走る。立ち止まって川を眺めているような人はいないが、祝子川はとても美しい。この川に限らず、九州の川はどこもとても美しい。心を洗濯するには、十分である。

 

(地蔵谷)

 

西南役戦跡 西郷隆盛露営之地 地蔵谷

 

 実は前日も地蔵谷の西郷隆盛露営之地をアタックしたが、行き着くことができずに撤収したが、翌朝、五時半にホテルを出て、再度この石碑を目指した。思ったより上流であった。

 

 西郷は、明治十年(1877)八月十七日、夜の十時頃、俵野の児玉家を出て、可愛岳を突囲し、鹿児島に向かった。翌十八日夜は、この上流(この場所より約四キロメートル先)に露営し、一夜を明かした。

 

(吉祥寺)

 

吉祥寺

 

 吉祥寺は、JR日豊本線の北川駅から五百メートルほど北にある。この寺も、西郷隆盛が宿陣したといわれる場所で、本堂の前に「西郷隆盛宿陣阯」と記された石碑が建てられている。

 

西郷隆盛宿陣阯

 

 明治十年(1877)八月十一日、原時行宅(延岡市本小路)を出た西郷軍は、五ヶ瀬川を下り東海に出て、そこから北川を遡って北川町可愛(え)に着いた。児玉安治宅で昼食をとった後、陸路熊田に向かった。

 八月十二日夕刻、熊田の役場(豊後口本営)からさらに小川を渡り、吉祥寺にて宿泊した。時の住職一山和尚は、川坂の佐藤平四郎方からそば粉を取り寄せもてなした。西郷は、ことのほか喜び、何杯もおかわりしたと伝えられる。この時、官軍は日向富高(当地より約三十五キロメートル南方)に迫っていた。

 

(くりごし峠)

 

くりごし峠

 

くりごし峠

 

 国道10号線を走っていると「北川はゆま」という道の駅がある。何があるのか分からないが、連休中ということもあり、なかなか駐車スペースが見つからないほどの混雑であった。入口の道路を渡った北側に「くりごし峠」の標柱が建っている。

 今はいわれてもここに峠があるとは、思えないが、一説には、奈良時代、この峠を越え、豊後との国境梓峠に向かう往還であり、当時は駅伝馬が駆け、川船もこの峠を繰り越したという。西南の役でも、西郷隆盛もこの峠を越えて、吉祥寺に向かった。

 

(小倉處平加療の地)

 

小倉處平加療の地

 

 北川町長井の川坂岩戸神社の近くに「小倉處平加療の地」と記された碑が建っている。その背後には小倉處平加療の地記念堂なる施設まで設けられている。

 

小倉處平加療の地記念堂

 

 加療の地記念堂は、平成二十五年(2013)に「小倉處平を語りつづける会」によって開設された施設で、道内には小倉處平のマネキンや新聞記事などが展示されている。

 鍵がかかっていて中に入れなかったが、ガラス張りになっているので、外からでも展示物を見ることはできる。

 

小倉處平像

 

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