(油屋本陣)
油屋本陣 天誅組史跡
西高野街道を南下してきた天誅組一行は、文久三年(1863)八月十七日の午前二時頃に三日市村に到着し、油屋旅館に入って休息をとった。油屋は水郡英太郎と親しい西川庄兵衛が営む旅館であり、大名が宿泊する本陣でもあった。ここで人足六十人ばかりを用意させ、同日午前八時に観心寺に向けて出立した。
油屋旅館はつい最近まで建物が残っていたが、全て取り壊され、記念碑が新たに建てられている。
(高野街道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/8f/409a51f560dad719ad0e665fef8d96d5.jpg)
高野街道
近鉄三日市町駅から高野街道が伸びており、油屋本陣に至る街並みは昔ながらの町屋が軒を並べている。三日市村は幕府領と近江膳所領であった。観心寺や延命寺を経て大和に向かう道の起点にあたり、当時は大変賑やかな宿場町であった。
この日の大阪史跡散歩はこれまで。万歩計の歩数は実に三万八千七百歩に達し、これは個人的に最高記録となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/5c/552707601fc11e8130a76d527caf01de.jpg)
油屋本陣 天誅組史跡
西高野街道を南下してきた天誅組一行は、文久三年(1863)八月十七日の午前二時頃に三日市村に到着し、油屋旅館に入って休息をとった。油屋は水郡英太郎と親しい西川庄兵衛が営む旅館であり、大名が宿泊する本陣でもあった。ここで人足六十人ばかりを用意させ、同日午前八時に観心寺に向けて出立した。
油屋旅館はつい最近まで建物が残っていたが、全て取り壊され、記念碑が新たに建てられている。
(高野街道)
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高野街道
近鉄三日市町駅から高野街道が伸びており、油屋本陣に至る街並みは昔ながらの町屋が軒を並べている。三日市村は幕府領と近江膳所領であった。観心寺や延命寺を経て大和に向かう道の起点にあたり、当時は大変賑やかな宿場町であった。
この日の大阪史跡散歩はこれまで。万歩計の歩数は実に三万八千七百歩に達し、これは個人的に最高記録となった。
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