史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

天理

2011年01月08日 | 奈良県
(善福寺)


善福寺

 天理の善福寺には、冷泉(岡田)為恭の墓がある。冷泉為恭は土佐派の絵師でありながら、京都所司代酒井忠義と親交があったことから、「幕府方の間諜」という風聞が立ち、討幕派の浪士たちに命を狙われることになった。為恭は京都を抜け出て、洛北西加茂の神光院、比叡の常楽院、紀州粉河寺、奈良春日大社の社家富田家、寺家竹林家、堺の菜種問屋大和屋、更に天理杣ノ内町の内山永久寺を転々としていたが、元治元年(1864)五月、遂に浪士の刃に倒れた。下手人は長州藩の大楽源太郎らといわれる。


岡田為恭墓

 冷泉為恭の遺骸は、永原村の篤農家中村直三の手によってこの地に葬られた。為恭の墓の周りはペット用の墓地となっており、為恭の墓だけが一つ寂しげに建っている。

(内山永久寺跡)
 内山永久寺は、かつて広大な境内と大伽藍を有する寺であった。一時、後醍醐帝がここを仮御所としたこともあったが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった。現在は大きな池が目の前に広がるのみとなっている。
 幕末、京都を脱出した冷泉為恭が一時内山永久寺に隠れ住んでいたことがあった。


内山永久寺跡


萱御所跡


(三昧田藤棚)


三昧田藤棚


芭蕉句碑
草臥れて宿かる比や藤の墓
ばせを

 天理市福知堂の藤棚は、天誅組の安積五郎、磯崎寛(尾崎健蔵)が捕縛された場所である。
 安積五郎は、売卜家の父に従って江戸に出て、そこで幕府医官塩田順庵に学び、同時に千葉周作の門下で剣術を磨いた。江幡五郎(のちの那珂通高)とともに漢学塾を開くなどしたが、清河八郎と出会って尊王を志し、京都、九州を遊説して回った。天誅組の変では藤本鉄石らとしばしば奇策をもって敵を破る。福知堂村の農家に潜んでいたところを藤堂藩兵の知るところとなり、捕えられて京都六角の獄舎に送られた。元治元年(1864)二月、獄中で斬られた。三十七歳。
 磯崎寛(豊)は、鳥取藩士。十九歳のとき京都に上り、藤本鉄石ら諸藩の志と交わった。天誅組に加わって各地を転戦した。やはり元治元年(1864)京都六角獄舎にて斬に処された。二十四歳。

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