史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

韮崎

2016年09月16日 | 山梨県
(雲岸寺)


雲岸寺


窟観音本尊聖観世音菩薩


横枕君碑

 「筑後郷土史研究会誌」(昭和六十三年 筑後郷土史研究会発刊)に山口光郎氏が寄稿した「『横枕覚助』と『大楽源太郎』および“久留米藩難事件”の一端」と題する一文が掲載されている。
 この一文で初めて横枕覚助なる人物のことを知った。横枕覚助は、弘化元年(1844)、下妻郡溝口村に横枕菟平の長男に生まれた。覚助は胆力があり、気骨稜々として義気に富んでいたという。覚助の家は、古松簡二(別名・清水真郷)の家に近く、小さい頃から行き来があり、強くその影響を受けた。文久三年(1863)には山梔子(くちなし)の家における十年に及ぶ幽囚を解かれた真木和泉を古松とともに訪れ、益々勤王の志を強固にした。明治二年(1869)、久留米藩では覚助を殉国隊(長州の奇兵隊にならって農民を組織したもの)の隊長に任命した。長州藩で奇兵隊の反乱が鎮圧されると、大楽源太郎らが久留米藩に潜入した。古松簡二や藩参政小河真文は覚助に頼んで、大楽らを匿うことにした。やがてそのことが長州藩の探索部隊に知られるところとなり、西南諸藩に動員命令が下された。追い込まれた久留米藩では大楽らを密かに謀殺し、水野正名や小河真文、古松簡二らも相次いで逮捕投獄された。覚助も日田から東京に護送され、そこで糺問された。覚助は、「忠義の人と聞いて匿ったが、誰とは知らなかった」と言い逃れたが、禁獄三年の判決を受け、新潟に送られた。出獄後は三瀦󠄀県の戸長、区長、郡長などを務めた。西南戦争では嫌疑を受けて一時拘束されたが無罪判決を受けている。明治十七年(1884)、山梨県警部に転じ、その後南津留郡郡長や北巨摩郡郡長などを歴任した。明治二十三年(1890)、コレラに罹患して四十七歳で死去。
 山梨県に奉職した縁で、韮崎の窟観音(あなかんのん)に県知事中島錫胤の撰文を刻した顕彰碑がある。この顕彰碑を見るためだけに、片道二時間近くかけて韮崎まで往復した。雲岸寺・窟観音は、韮崎駅から徒歩五分くらいの場所にあり、あっさりこの顕彰碑も見つけることができた。

(にらさき文化村)


小林一三翁生家跡


小林一三生誕の地 韮崎市

 韮崎といえば、サッカー選手の中田英寿が韮崎高校出身だということと、平成二十七年(2015)にノーベル賞生理学・医学賞を受賞した大村智博士の出身地である。その程度の予備知識しか持ち合わせていなかったが、駅前の観光案内所の前に「小林一三生誕の地 韮崎市」という説明を見て、ここが阪急電鉄生みの親小林一三の生地であることを知った。小林一三は阪急や宝塚歌劇団、東宝映画などの創立に関わった実業家で明治六年(1873)韮崎本町に生まれた。現在、生誕地は「にらさき文化村」という施設となっている。

(千野眼科医院)


韮崎宿本陣の跡

 韮崎は甲州街道の宿場町の一つで、千野眼科の前に本陣跡碑が建てられている。また、そのすぐ近くに馬の手綱を繋いでおくための石がある。


馬つなぎ石

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