史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

桜井

2011年01月08日 | 奈良県
(談山神社)
 桜井市の談山(たんざん)神社は、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)が、極秘の談合を持ち、蘇我入鹿暗殺の謀議を持ったという伝承を持つ。「大化の改新発祥の地」といわれる所以である。
 私が談山神社を訪れたのは、年末の平日。神社では初詣客を迎える準備に余念がない。


談山神社

 手前は神廟拝所、奥は十三重塔。いずれも国の重要文化財である。藤原鎌足は没後、摂津の安威山(現在の高槻市阿武山)に葬られたが、白鳳七年(678)唐より帰国した長男、定慧和尚が鎌足の遺骨の一部を多武峰山頂に埋葬し、併せて十三重塔と講堂を建立したのが談山神社の起淵である。


楠目清馬所用鎖網頭巾

 今回、談山神社を訪れたのは、平成二十年(2008)に公開された楠目清馬所用の鎖網頭巾を実見することにあった。楠目清馬は土佐藩出身。天誅組では砲一番組長として参加した。文久三年(1863)九月二十四日、鷲家口の戦争に敗れた清馬は、多武峰針道の辰巳家に一夜を過ごしたが、針道から倉橋に出ようとしたところで敵兵に見つかり、自刃した。享年二十二。鎖網頭巾は、清馬が一夜を過ごした辰巳家に残したものである。辰巳家では長く秘匿していたが、今般談山神社に寄贈されたのを機に公開されたである。清馬は若くして世を去ったため、これが唯一の遺品となっている。

(楠目清馬墓)


楠目清馬之墓

 倉橋の楠目清馬の墓である。地元では「すずめ墓」と呼ばれている。明治二十九年(1896)当地を訪れた同郷の土方久元(伯爵・宮内大臣)が清馬の墓を修理している。
 楠目清馬の墓は、倉橋地区の民宿「みどり荘」の前の急な坂を上っていくと、熊でも出そうな雑木林の中にある。


倉橋地区

(慈恩寺共同墓地)


関為之助之墓(左)
前田繁馬之墓

 近鉄朝倉駅の近く、慈恩寺交差点から南に入って、踏切を渡った山裾に慈恩寺共同墓地がある。その中に天誅組の変で若い命を散らした関為之助と前田繁馬の墓がある。
 前田繁馬は、檮原村の庄屋。安政六年(1859)、過失によって庄屋の職を追われたが、文久三年(1863)ニ月、親戚の前田要蔵が藩務で京都守衛の名目で上京するのに従って京都に出て、そこで尊王の諸氏と交わった。同年、天誅組の挙兵に参加。鷲家口で紀州、藤堂、彦根の大軍に囲まれたが、それを破って初瀬村に脱出した。繁馬は、ここで朝食をとっていたが、津藩士の探知するところとなり、全身に銃弾を受けて戦死した。享年二十九。関為之助もまた同所で討ち取られた。

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2 コメント

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Unknown (植村)
2011-01-15 15:55:02
犀渓様

沖縄の史跡地図受け取りました。
3日間の旅行、しかも家族同伴ですので、どこまで回れるか分かりませんが、いただいた地図を参考に楽しんできたいと思います。
有り難うございました。
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Unknown (犀渓 陵)
2011-01-19 08:49:14
楽しんで来てください。

3月頃でも風の強い日もあり、寒さを感じる事がありますので薄手の防寒着が一枚あれば便利です。

沖縄=暖かいは禁物です
これで失敗しました(笑)
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