史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

熊本 黒髪

2014年02月02日 | 熊本県
(済々黌高校)


済々黌高校

 濟々黌高校は、熊本国権党の佐々友房が創立した学校である。幕末以来、熊本では国権党(学校派)と実学党とが対立しており、実学党が設立した熊本洋学校とは悉く対立したといわれる。


佐々友房胸像

 校舎前の佐々友房胸像の台座には、濟々黌高校の三綱領が記されている。
正倫理 明大義(倫理を正しうし 大義を明らかにす)
重廉恥 振元氣(廉恥を重んじ 元気を振るう)
磨知識 進文明(知識を磨き 文明を進む)

(小峯墓地公園)
 濟々黌高校の北側に広がる小峯墓地には無数の墓が立つ。墓マイラーにはたまらない場所である。時間が許せば、一日かけてこの墓地を歩いて有名人の墓を訪ねたいと思うが、この日は先を急いだので、ほんの一部を探訪するに終わった。


丁丑感舊碑

 小峯墓地にある丁丑感舊碑は、西南戦争における同志の戦死者を悼み、明治十八年(1885)に佐々友房ら熊本隊生存者らが建設したものである。当時は手取本町にあったが、道路拡張工事に伴い小峯墓地に移された。その際、左右の二基の石碑(「自誓書」「挙兵始終」)も加えられ、熊本隊全氏名が刻まれた。


丁丑殉難碑

 丁丑感舊碑の後方には、丁丑殉難碑がある。こちらには戦死者や戦後処刑された熊本隊士の名前が刻まれている。


秋山玉山墓

 秋山玉山は、元禄十五年(1702)、鶴崎(現・大分県)の生まれ。初代藩校時習館の教授。熊本藩六代藩主細川宣紀、七代宗孝、八代重賢に仕えた。


宮部鼎蔵墓

 宮部鼎蔵は、文政三年(1820)、現在の御船町に生まれた。林櫻園に学び、熊本勤王党の中心人物であった。特に吉田松陰とは無二の親友という仲であった。禁闕親兵督事として京都に滞在していたが、元治元年(1864)六月四日の池田屋事件で遭難して死亡した。四十五歳であった。


加屋霽堅墓

 加屋霽堅(はるかた)は、神風連の副隊長。天保七年(1836)生まれ。林櫻園の門下で、加藤神社の神官であった。明治九年(1876)、神風連の決起に加わり、激戦ののち熊本城二ノ丸の歩兵営内で戦死した。

 佐々友房は、国会議員に連続当選し、国民協会や大日本協会、帝国党、大同倶楽部を組織するなど、政治家として精力的に活動した。明治三十九年(1906)九月、五十三歳で没。当初、墓は東京青山霊園に作られたが、のちに熊本小峰墓地に移された。


佐々友房墓


長谷幸輝之墓

 長谷幸輝は、天保十三年(1842)、熊本市鍛冶屋町生まれ。当時の邦楽界において「楽聖」と称され、名誉大検校の称号が贈られた。大正九年(1920)、箱根の別邸にて死去した。七十八歳。


猿渡唯夫墓?

 猿渡唯夫は、神風連の乱に参加した中で最年少の十六歳であった。乱のあと金峰山に逃れたが、その場で自刃。
 猿渡墓域には墓が三基あり、どれが猿渡唯夫のものか判別できず。取り敢えず一番それらしい墓を掲載しておく。

(肥後銀行子飼橋支店)


蕃滋園跡

 肥後銀行子飼橋支店の場所には、かつて薬草・薬木を栽培するための藩の薬園が開かれていた。ときの藩主細川重賢は、これに蕃滋園と名付けた。明治維新まで植物の育成が行われていたが、一般には「お薬園」と呼ばれていたらしい。今でもこの辺りは薬園町と称されている。



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