史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

深谷 Ⅶ

2021年11月20日 | 埼玉県

(岡部六弥太忠澄の墓)

 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ、猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に土着して岡部氏と称した。

 六弥太忠澄は、忠綱の孫で、源義朝(よしとも)の家人として、保元・平治の乱に活躍した。特に待賢門の戦いでは、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として有名を馳せた。木曽義仲の追討、一の谷の合戦、奥州藤原氏征討にも参加している。

 ここには六基の五輪塔が並んでいるが、中央の最も大きいものが岡部六弥太の墓で、その右側が父行忠、左側が夫人玉の井の墓といわれている。

 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳がでるようになるという迷信が伝わっており、五輪塔は削られて雪だるまみたいになっている。

 

岡部六弥太忠澄の墓

 

岡部六弥太の墓所を大正年間に修理した際、渋沢栄一は寄付をしている。石碑に名前が刻まれている。

 

寄進碑

 

 「一金七拾五円也 縣廰補助金 一金壱封 子爵渋澤栄一殿」と刻まれている。

 

(華蔵寺)

 華蔵(けぞう)寺には栄一お手植えの松(赤松)が植樹されている。残念ながら赤松は大雪のため倒壊してしまい、現在は初代の実から育った二代目が植えられている。

 

華蔵寺

 

子爵渋澤栄一翁御手植の松

 

 華蔵寺には美術館が併設されている。地元の渋沢栄一や尾高惇忠、金井烏洲らの書跡のほか、白隠、良寛、小林一茶、平山郁夫らの作品が展示されている。

 

(薬王寺)

 

薬王寺

 

直養院殿釋英法居士(神谷勝十郎の墓)

 

 薬王寺の本堂脇に神谷勝十郎の墓がある。この情報を吉盛智輝様(「但馬の殿様」の著者)よりいただいた。

 神谷勝十郎は幕末の旗本。神谷氏は黒田村と大谷村に二百十石余を知行する旗本であった。慶応四年(1868)三月、御用金の取立てに支配地黒田村名主宅を訪れた際に農民に竹槍で突かれて殺害された。吉盛様によれば「領内からきつく年貢や御用と称し臨時税を取立て、怨嗟の的となっており明治元年自ら出向き臨時税を取立てようとしたところ、領民からなぶり殺しに遭い口の中に石を詰められ、河原で火で炙られよってたかって切り刻まれ、その肉を領民達が食した。」というのである。何とも形容し難い陰惨な事件である。

 この墓は明治二十三年(1890)、つまり神谷が殺害されて二十年以上が経った頃、神谷家と住民の間に和解が成立し、住民の手によって建てられたものである。墓石の台座に住民の名前がぎっしりと刻まれている。

 

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
吉盛様 (Unknown)
2022-04-08 21:02:06
毎度コメントを頂戴して有り難うございます。また情報がありましたら、ご教示ください。
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Unknown (吉盛と申します。)
2022-04-06 19:39:41
家康から笄を拝領とするところ尻切れトンボな文章となっています。宜しく御判読下さい。
返信する
Unknown (吉盛と申します)
2022-04-06 18:16:01
植村様神谷氏の墓石を見れて大変感激です。神谷家と旧知行所との和解が23年もの後、墓石の台座に村民の名前が刻まれている、、、。本当に驚きました。神谷の先祖は家康伊賀越のおりの扈従者の一人で家康から笄(脇差しの鞘の笄櫃に入る刀装具の一種)末裔の勝十郎は素行にも問題があったと思われ知行所には無理難題、無心を重ねたようです。ですが領主を殺害し皆でよってたかって食べたなど前代未聞の出来事です。
神谷家との和解の記録が残っておれば非常に興味深いですね。
本当にありがとうございました。
探訪、探墓、探碑の記録、申すは易しですが御出版を懇望致します。
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