(高島秋帆寓居跡)
白山一丁目の住宅街の中に高島秋帆寓居跡がある(文京区白山1‐23‐10)。民家の片隅に文京歴史研究会なる組織が設置した説明板がある。
高島秋帆寓居跡
江戸に招かれた高島秋帆がこの地に居住したのは、天保十二年(1841)のことで、以降高島は徳丸ヶ原で洋式砲術の調練を行ったり、門人に高島流の砲術を伝授するなど、精力的に活動した。しかし、翌年、逮捕投獄され概ね十年間、岡部藩に幽囚されることになった。
(念速寺)
念速寺には遊女美幾の墓がある(文京区白山2‐9‐12)。
念速寺
美幾女(みき)は、駒込追分の彦四郎の娘といわれる。病重く、死を予期した美幾女は、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治二年(1869)八月十二日、三十四歳で没した。死後、直ちに解剖が行われたが、当時の社会通念、道徳観などからいって、自ら屍体を提供することは難しい時代であった。美幾女は特志解剖第一号として、我が国の医学研究の進展に大きな貢献をした。透明なアクリルのケースに覆われた墓石の裏には「我が国病屍解剖の始めその志を嘉賞する」と、解剖に当たった医学校教官の銘が刻まれている。
美幾女の墓
白山一丁目の住宅街の中に高島秋帆寓居跡がある(文京区白山1‐23‐10)。民家の片隅に文京歴史研究会なる組織が設置した説明板がある。
高島秋帆寓居跡
江戸に招かれた高島秋帆がこの地に居住したのは、天保十二年(1841)のことで、以降高島は徳丸ヶ原で洋式砲術の調練を行ったり、門人に高島流の砲術を伝授するなど、精力的に活動した。しかし、翌年、逮捕投獄され概ね十年間、岡部藩に幽囚されることになった。
(念速寺)
念速寺には遊女美幾の墓がある(文京区白山2‐9‐12)。
念速寺
美幾女(みき)は、駒込追分の彦四郎の娘といわれる。病重く、死を予期した美幾女は、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治二年(1869)八月十二日、三十四歳で没した。死後、直ちに解剖が行われたが、当時の社会通念、道徳観などからいって、自ら屍体を提供することは難しい時代であった。美幾女は特志解剖第一号として、我が国の医学研究の進展に大きな貢献をした。透明なアクリルのケースに覆われた墓石の裏には「我が国病屍解剖の始めその志を嘉賞する」と、解剖に当たった医学校教官の銘が刻まれている。
美幾女の墓
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