(偕楽園つづき)
好文亭の前に建つ偕楽園記碑は、偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されたものである。碑の裏には、斉昭の定めた園内での禁止事項六箇条が刻まれている。今日の公園管理の先駆けを成すものといって良い。
偕楽園記碑
好文亭の前に建つ偕楽園記碑は、偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されたものである。碑の裏には、斉昭の定めた園内での禁止事項六箇条が刻まれている。今日の公園管理の先駆けを成すものといって良い。
遺徳之碑
遺徳之碑は、茨木県第六代参事で、旧佐賀藩士関新平の顕彰碑である。関新平は明治六年(1873)から八年(1875)まで茨木県参事(今でいう知事)を務め、その間、仁政を敷き人徳を残して去ったことに対して、多くの旧水戸藩士がその遺徳を偲び、明治三十年(1897)に建碑したものである。関新平は、江藤新平、大木民平(喬任)とともに「肥前の三平」と呼ばれた逸材である(関の代わりに古賀一平(定雄)をその一人とする説もある)。
菁莪遺徳碑
菁莪とは、原市之進の号であり、市之進が経営した私塾の名前である。
原市之進は、文政十三年(1830)水戸藩士原雅言の子に生まれた。藤田東湖とは従兄弟の関係にある。元治元年(1864)、一橋家の用人となり、慶喜に仕えた。慶喜のブレーン的な存在であったが、慶応三年(1867)、兵庫開港を計ったという理由で、幕臣に斬殺された。歳三十八。
この菁莪遺徳碑は、徳川昭武の篆額、岡千仭(昌平黌の同学・仙台藩)の碑文、書は九州の吉田晩稼。明治三十年(1897)の建碑。
御幸(みゆき)の松は、明治二十三年(1890)に明治天皇・皇后両陛下が茨木県に行幸されたのを記念して松を植樹した。しかし、昭和四十七年(1972)十月に松喰い虫の被害を受けて枯れてしまった。現在見られる二本の松は、昭和四十九年(1974)、昭和天皇・皇后両陛下が国民体育大会にご臨席された際に本園にお立ち寄りになったことを記念して植樹したものである。
御幸の松
(常磐神社つづき)
義公鑽仰碑
義公すなわち光圀の顕彰碑は、昭和四十五年(1970)十二月の建碑。題字は徳川宗敬(一橋徳川家十二代)、安岡正篤の撰文。
義烈館の前に一本の梅の木と歌碑が立っている。この梅の木は、光圀公が大阪(浪華)から取り寄せて彰考館の前庭に植えたもので、「浪華梅」と称される。
歌碑に刻まれる歌は、斉昭が彰考館を訪れたとき、百年以上の歳月を経て「浪華梅」が香りを伝えていることに感動して詠んだもの。明治三十六年(1903)にそれを慶喜が書いたものが刻まれている。
浪華梅歌碑
家の風 今もかをりのつきぬにぞ
文このむ木の さかりしらるる
従一位公爵 徳川慶喜謹書
常磐神社 義烈館
この石造りの門柱は彰考館文庫の門柱である。明治三十九年(1906)に「大日本史」が完成し、全国から蒐集した史料数万冊を保存するために当地に彰考館文庫が建設されることになった。明治四十三年(1910)に竣工したが、昭和二十年(1945)の水戸大空襲により常磐神社も全焼し、この門柱のほか能舞台、手水舎、神輿舎のみが焼け残った。
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