史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

熊谷 Ⅱ

2012年09月08日 | 埼玉県
(高本共同墓地)


権少講義徳永豊洲墓

 徳永大和の墓を訪ねて、再び熊谷市高本に足を伸ばした。共同墓地の在り処を尋ねるにも人の姿がない。路上に車を置いて高本の集落内を歩き回った末に、高本集会所の前にようやく共同墓地を発見した。鈴木家の墓域に徳永大和の墓がある。
 車に戻ると、私の自動車が畦道を塞いでいたらしく、そのため軽トラックのオジサンが運転手(つまり私)を探しているところであった。オジサンは近所を訪ね歩いたらしく、近所の人も数名集まっていた。さっきはどこを探しても人の姿がなかったのだが。私はオジサンに平謝りに謝って高本をあとにした。

(相上共同墓地)


贈従五位小嶋直次郎之墓

 慶應三年(1867)、相楽総三の檄に応じて三田の薩摩藩邸に集まった浪士の一人に、小嶋直次郎がいた。小嶋直次郎は、根岸友山の門人で、大里村相上(現・熊谷市相上)の人。弘化二年(1845)の生まれというから、慶應三年(1867)時点で二十二歳であった。元治から慶應にかけて、中国から九州を巡って諸国の志士と交わり、伊予大洲では矢野玄道に師事した。慶応二年(1866)には平田銕胤の門に入った。薩摩藩邸に入った慶應三年(1867)七月、同志の石城一作、松田正雄、中山信之丞と目黒祐天寺に遊んだとき、幕吏に襲われて重傷を負った。石城は捕えられて伝馬町の獄中で毒殺死。松田はこの場を切り抜けたが、同年十二月の薩摩藩邸焼き打ち事件の際、自刃。もう一人の中山は祐天寺で自刃。
 小嶋直次郎は、幕吏の包囲を切り抜けて、夜を徹して郷里に帰った。吉見神社の社司須長家に匿われ看病を受けたが、翌月還らぬ人となった。享年二十三。

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