(ブローニュの森)
ブローニュの森(Bois de Boulogne)は、パリの西に拡がる広大な公園である。その面積は約850ヘクタールを誇り、マロニエやカシワ、カエデ、アカシアなどの木々が植えられている。公園の南には全仏オープン・テニスで有名なローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)があるほか、美術館や競馬場なども併設している。
「米欧回覧実記」で「バーテブロン」「ボアデブロン」と表記されているのがブローニュの森のことである。
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ブローニュの森
アンフェリュール湖
久米邦武らが明治六年(1873)二月二日にブローニュの森を訪れた時は前日の雪で「風趣添えたり」といった光景だったようである。当時は禽獣園、即ち動物園があったようだが、現在園内に動物園らしきものは見当たらない。
――― 「ボァーデ・ブロン」ハ、巴黎第一ノ公苑ニテ、米国新約克(ニューヨーク)ノ「セントラルパーク」ニモ、超越スヘキ名苑タリ、
と絶賛している。
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ブローニュの森
レンタルボート屋
自然豊な森に包まれた公園は市民の憩いの場所であるが、同時に昼間から娼婦が出没する場所として知られる。私がブローニュの森を通過した際にも、ぶよぶよの肉体を露出した娼婦何名かとすれ違った。見るからに威圧的で、とてもお近づきになりたいとは思えなかった。
(モン・ヴァレリアン要塞)
「米欧回覧実記」にたびたび「モンワレヤン」ノ砲台として登場するが、いったいどこのことかしばらく特定できなかった。「実記」を解読するのに、一番の難点はカタカナで記載されている固有名詞である。ある日パリ市内の地図を眺めていて、「モン・ヴァレリアン要塞」のことだと閃いた。
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モン・ヴァレリアン要塞
使節団一行は、明治六年(1873)一月十七日、「モンワレヤン」を訪ねている。
――― 此ハ凱旋門ヨリ約ニ英里許ノ西ニアリテ、突兀ノ岡上ヲ占メテ築キ起ス、路易非立王(ルイ・フィリップ)ノトキニ成リタルモノニテ、巴黎周囲ノ要害ニ於テ、最モ肝要ナル地形ヲ占メ、其備ヘ厳重ナルコト、名高キ砲台ナリ、去ル七十一年ニ、普国(プロシア)ト媾和ノ議ヲハジメシトキ、普ノ執政「ビスマルク」氏カ、此山ヲ普国ニ渡サハ、和議ヲトトノヘシトテ、和議ヲ拒ミシモノナリ、
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モン・ヴァレリアン要塞
現地説明板より
現在、モン・ヴァレリアン要塞は米軍施設となっており中に入ることはできない。上空からこの要塞を俯瞰することができれば、箱館の五稜郭のように綺麗な五角形をしているはずである。
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フェシュレ・テラスから
(Terrasse du Fécheray)
ブローニュの森の中心部からモン・ヴァレリアン要塞まで距離にして五キロメートル足らず。自転車で三十分もかからないと読んでいたのだが、実際は急勾配のため電動自転車も歯が立たず、途中で自転車を乗り捨てて歩くことになった。汗が目に入って、目を開けていられないほどであった。モン・ヴァレリアン要塞を訪問される場合は、公共交通機関もしくはタクシーを利用されることをお勧めしたい。
パリ市内を見渡すことのできる小高い丘の上にあるからこそ、この街を守護できるというものである。
(セーヌ川)
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セーヌ川
船で遊覧するのも人気の高いツアー
セーヌ川(la Seine)がパリの街を東西に横切っている。川の北側を右岸(Rive Droite)、南側を左岸(Rive Gauche)と呼ぶ。以下「米欧回覧実記」の描写。
――― 「セイン」河ハ、其幅倫敦府ノ達迷斯(テームス)河ヨリハ狭シ、水清クシテ流急ナリ、河ニ架セル橋ハ、総テ二十八条アリ、其内十六橋ハ石橋、七ハ懸橋、三ハ鉄骨石肉ノ橋ナリ、余ハ辺鄙ノ木製橋ナリ、河岸ニハ石垣匣ヲナシ、道路砥ニ似テ、河ニ漕スル小舟、岸ニ達スレハ、石階ヲ拾フテ登ル、宛トシテ屋中ノ如シ、河中ニ洗房ノ舟ヲ浮ヘ店トスルモノアリ、中流ニ至リ、両股ニ分レテ又合ス、中ニ二島ヲ出ス、之ヲ「イルサン、ロイ」「イルドラシート」ト云、島上ニ官衙ヲ建テ、寺観ヲ築ク、傑閣雄楼、峨峨トシテ聳エ、蜃楼ヲ夕日ニ幻セルカ如シ
(シテ島)
ルーヴル美術館の東にポンヌフ橋があり、この橋を渡るとセーヌ川の中州のシテ島(Ile de la CIte)に行くことができる。シテ島には有名なノートルダム寺院があり、この島の歴史は紀元前三世紀まで遡ることができるという。
ポンヌフを日本語にすると「新橋」であるが、実はシテ島に架かる橋としては最古のものである。
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ポンヌフ橋
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ポンヌフ橋
どうでも良いことであるが、東京新橋に「ポンヌフ」という立ち食い蕎麦屋があったことを思いだした。
(パリ造幣局博物館)
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パリ造幣局博物館
ポンヌフ橋をそのまま直行し対岸に渡って右折したところにパリ造幣局博物館(Monnaie de Paris)がある。
岩倉使節団が造幣寮を訪れたのは、明治六年(1873)一月七日のことである。久米邦武は「ホテルデモニー」と表記しているが、当時は稼働中の造幣工場であった。
――― 其屋宇ノ宏大ナルハ、英米ノ上ニ出ツ、此寮今ヨリ二百年前ニ、路易第十四世ノ建シ所ナリ、此寮中ニ各国ノ貨幣ヲ集メ蓄フ、スヘテ三四万種アリ、
中国の貨幣のみならず、日本の貨幣に至るまで収集していることに驚嘆している。その後、実際に金銀銅貨を製造しているのを見学し、その様子を細かく記録している。当時の造幣は人力で刻印していた。彼らの目には「一種の奇工」と映ったようである。
(フランス学士院)
パリ造幣局博物館をさらに西に進むと丸いドームをもつフランス学士院(Institut de France)が建っている。
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フランス学士院
文久の遣欧使節団も学士院を訪問したと記録が残されている。
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ニコラ・ド・コンドルセ像
学士院の前に立つ銅像は、ニコラ・ド・コンドルセ侯爵(1743~1794)像である。コンドルセは、数学者であり、哲学者であり、政治家でもあった。
(ノートルダム寺院)
明治六年(1873)一月二日、この日大使岩倉具視は外務省に新年の挨拶に出向き、久米邦武らは副使に従って接伴掛マーシャル氏の案内で有名なノートルダム寺院を見学している。
――― 此寺ハ、巴黎諸寺ノ内ニテ、第一ト称スル壮麗ナル寺ナリ、「セイン」河ノ西浜ニアリ、前面ニ双尖ノ高塔ヲ築キ起ス、外壁ノ雕刻、藻眼、精工風致ヲキハメ、内景ノ輪奐(りんかん)、藻絵満面ニシテ、金光爛然、目ヲ輝カサゝルナシ、一双ノ塔頂ハ、未タ完成ニ及ハサレトモ、実ニ美観ヲ極メタリト云フヘシ、
ヨーロッパの諸寺院と比べれば我が国の本願寺など「草庵の如し」と卑下している。
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ノートルダム寺院
ノートルダム寺院(Notre Dame de Paris)は平成三十一年(2019)四月十五日の火災により正面のファサードを除き、屋根や尖塔が焼け落ちた。この寺院は、フランス国民の心の拠りどころともいわれ、貴重な歴史遺産でもある。早期の復旧が望まれるが、現在のところあと一年ばかりかかる見込みという。
(コンシェルジュリー)
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コンシェルジュリー
コンシェルジュリー(Conciergerie)とは、一見すると要塞のような建物であるが、フランス革命時には牢獄として使用され、マリー・アントワネットが収容された独房が今もそのまま保存されているという。
「米欧回覧実記」では「プリゾン・デ・ラサン」と表記している。
――― 巴黎ニテ第一ノ大牢獄ナリ
――― 此牢獄ニハ、死罪ノモノヲ入レス、大抵入牢一年以下ヲ限ル、是ヨリ以上ハ、別ニ牢アリテ、此ニ移ス、即軽罪人ノ懲役場ナリ、
(パレ・ド・ジャスティス)
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パレ・ド・ジャスティス
コンシェルジュリーの南にあるのがパレ・ド・ジャスティス(Palais de Justice de Paris)である。「米国回覧実記」では「ロュールト・デ・アスェー」と表記するが、原語不明。
――― 此ハ仏国裁判所の首(はじめ)ニテ、「セイン」河島ノ上ニアリ、其建築ハ市街ヘ凹状ヲ面シ、正面ニ広キ石階アリテ、礼拝堂ニ入ル、(中略)此ニ古来ヨリ酷罰惨刑ノ状ヲ画ク、大木ヲ抱カシメテ圧挫スルモノ、首ヲ斬リ飛スモノ、烙シ殺スアリ、焼キ殺スアリ、締ルアリ、裂クアリ、以テ後来ノ刑ヲ掌ルモノ、戒メトス、裁判所ノ正堂ヲ以テ、礼拝ノ堂トナスハ、米欧各国ノ通例ナリ、
その後、実際の裁判の様子を見学している。代言師「ヂュリー」が裁判に立ち、罪人に代わって抗弁する姿を興味深く見ているが、一方でこれを日本で行おうとすると難しいとかなり悲観的である。日本は伝統的に官に従順であるし、たとえ官を恐れず「強項敢言」する者がいたとしても、法理に詳しい者はいないというのが、その理由である。実際に我が国で欧米流の近代的弁護士法が制定されたのは明治二十六年(1893)のことである。
写真を撮ろうとすると、中から守衛の人が出てきて誰何された。写真を撮っても良いか尋ねたら「良い」との返事。さらに料金を払えば中に入れると教えてくれた。ただし開場は午前八時。この日ヴェルサイユ宮殿へのツアーに申し込んでいた私は、パレ・ド・ジャスティス見学を見送らざるを得なかった。
(サン=ルイ島)
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サン=ルイ島
(Ile Saint-Louis)
サン=ルイ島のことを「米国回覧実記」で「イルサン、ロイ」と紹介している。
(マリオノー)
マリオノー(Marionnaud)というのは、フランスの化粧品メーカーらしい。そのパリ支店のある場所(59 Rue des Petits Champs)に文久年間、フォルタン文房具店があった。
パリを訪れた福沢諭吉は、フォルタン文房具店で手帳を購入し、パリでの見聞を記録した。のちに「西航手帳」と呼ばれる。
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マリオノー(Marionnaud)