史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ボルドー Ⅱ

2023年09月30日 | 海外

(カイヨ門)

 カイヨ門は1495年に建造されたという歴史あるもので、かつてボルドーの街のメイン・ゲイトであった。

 

カイヨ門

(Porte Cailhau)

 

(聖ピエール教会)

 

聖ピエール教会

 

 聖ピエール教会(Église Saint-Pierre)の歴史も十五世紀くらいまで遡るという。フランスでは教会がこれくらいの「古さ」を持つことは珍しいことではない。

 

ステンドグラス

 

 中に入るとステンドグラスが素晴らしい。これもフランスでは特に珍しいことではないが、天井画、壁画、ステンドグラス、彫像などいずれも高い芸術性を備えている。フランスにおける芸術の発展に宗教や教会が大きく貢献していると思う。

 

(ボルドー・サン・アンドレ教会)

 

ボルドー・サン・アンドレ教会

 

 次いで訪ねたのがボルドー・サン・アンドレ教会(Cathédrale Saint-André de Bordeaux)である。ボルドーの中心部に位置し、市内至るところから遠望することができる、ボルドーのランドマークの一つとなっている。十一世紀に建造されたという歴史ある建物である。

 

ボルドー・サン・アンドレ教会(正面)

 

内部

 

 教会の内部を見学し、一息ついていると、一斉に訪問客が追い出された。何が起きたのか分からないながら、私も流れに押し出されるように外に出た。

 

ペイ・ベルランの塔

 

 同じ広場にペイ・ベルランの塔(Tour Pey Berland)と呼ばれる尖塔が建っている。あとから調べたところ有料で中に入ることができ、階段で塔の最上部まで昇ることができたらしい。

 

(大鐘楼)

 大鐘楼は十八世紀に建てられた鐘楼。最上部に重量七・七五トンの鐘が置かれている。かつての少年用の地下牢の上に建てられ、特別な機会に鳴らされる。

 

大鐘楼(Grosse Cloche)

 

(ブルゴーニュ門)

 カイヨ門から南に三~四百メートル行ったところにブルゴーニュ門(Porte de Bourgogne)と呼ばれる門がある。

 

ブルゴーニュ門

 

(サン=ミッシェル大聖堂)

 

サン=ミッシェル大聖堂

(Basilique Saint-Michel)

 

 やはり十五~十六世紀に建造された歴史ある教会。世界遺産に登録されているそうである。

 

ステンドグラス

 

大天使サン・ミカエル像

 

(聖十字架教会)

 

聖十字架教会

 

パイプオルガン

 

 聖十字架教会は七世紀に起源をもつカトリック教会。私が訪れた時、パイプオルガンの演奏中であった。堂内に響き渡るオルガンの音色が心に染みた。

 

聖十字架教会

(Église Sainte-Croix de Bordeaux)

 

(ボルドー・サン・ジャン駅)

 ボルドーの玄関口がボルドー・サン・ジャン駅(Bordeaux Saint-Jean)である。パリ市内からボルドーまでの距離は六百キロメートル弱で、それを約二時間でTGVが結んでいる。我が国の新幹線は東京-大阪間(約5五百キロメートル)を二時間四〇分で結んでいるが、TGVはそれより速い。因みにTGVの最高速度は三二〇キロメートル/時。東海道新幹線の場合は二八五キロメートルといわれているので、一割ほど速いのである。

 

ボルドー・サン・ジャン駅

 

 確かにTGVは速いが、乗り心地は新幹線の方が遥かに良い。私が乗車したのが夏のバカンス・シーズンだったせいもあるのかもしれないが、乗客の大半が大きな荷物を車内に持ち込んでいた。その荷物を保管するスペースが設けられているが、大きなトランクで直ぐに埋まってしまう。新幹線のような網棚がないため、小さ目のキャリア・ケースですら置き場所がない。ついでにいうと車体を洗車するという習慣がないのか、窓が汚れたままである。せっかくの車窓の美しい景色が台無し。もう少し何とかならないものか。

 TGVに限らずフランスのものは、何かと優れているが、ちょっと残念なところ(あと少し改善してくれれば良くなるところ)がある。利用者の身になって考えるという発想がこの国には欠けている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボルドー Ⅰ

2023年09月30日 | 海外

 

電光掲示板にて発車番線を確認

 

 ボルドー行きのフランス版新幹線TGV(Train à Grande Vitesse)は、パリ・モンパルナス駅から出る。昨日のフォンテンブロー行きでの失敗があったので、少し早めにホテルをチェックアウトして駅に向かった。

 

パリ・モンパルナス駅にて

 

 パリからボルドーへは約二時間である。この旅行の往復の航空券はハノイにあるHISに手配してもらった。実はパリ、ボルドー、マルセイユのホテルもお願いしたのだが、私のイメージしていた「日本でいうビジネスホテル並み」がなかなか理解してもらえず、結構良い値段のホテルしか紹介してもらえなかったので、最終的には自分で手配した。最近は世界中どこのホテルもネットで予約できる。列車の切符もネットで手配可能だと思うが、今回はHISにお願いした。料金を支払うと直ぐにEチケットを発行してもらえる。

 ボルドーに立ち寄ることにしたのは、レオン・ロッシュの墓を訪ねることが目的である。これだけのためにボルドーに一泊することにした。

 ボルドーといえばワインが有名だが、既に明治初期の時点でその名は日本にも知られていた。

 

――― 「ボルドウ」地方ニ、最上ノ果ヲ結ヒ、「ジャンパン」「ボルドー」ノ銘酒ハ、世界ニ賞美セラレ、「ボルドー」一府ニ醸ス高モ、瑞士(スイス)全国ノ高ニコユ、(「米欧回覧実記」)

 

(シャルトルーズ墓地)

 レオン・ロッシュ(Leon Roches)は、1808年の生まれ。ベルクールの後任として、明治維新期に活躍したフランスの駐日公使。1832年より約三十年間、北アフリカにおける植民地外交に従事。外相リュイスによりチュニス総領事から駐日全権公使に任じられ、元治元年(1864)三月赴任、慶應四年(1868)四月まで在任した。フランス対日政策の基調は開国以来対英協調にあったが、ロッシュは当時、本国資本主義の急激な発展に基づき推進されることとなった対日積極政策を成功させる役割を果たすことになり、前任者の路線から離れた。また彼は基本的態度として、幕府権力の強化・確立のうちにのみ対日関係の発展を期待し、援幕を通してその政策を進めたが、これはミカドを中心とする大藩連合政権への平和的変革というイギリス対日外交路線と激しく対立するものであった。元治元年(1864)、幕府が横須賀に造船所建設を決定するや、その工事を請け負い、慶應元年(1865)、幕府にナポレオン砲を譲渡、横浜仏語学校を創立して幕臣教育を行わせ、同年幕府の三兵訓練をフランス教官団の手に収めた。また対日貿易支配を意図して日仏合同商社設立を建議し、翌年経済使節クーレーが来日、武器・軍需品売却について借款契約を結んだが、いずれも挫折した。しかし、ロッシュの努力により、日仏貿易は著しい発展を遂げるに至った。徳川慶喜が将軍に就任すると、国政改革案を提出、幕府を中心とする統一政権の確立を建言し、対日積極策を全面的に推進しようと試みたが、本国の対日政策が大きく消極策に転換したため、新外相ムーティエより召喚命令を受け帰国。そのまま退官した。1901年、年九十三でボルドー近郊にて没。【5区40番】

 

サン・ブルーノ・ボルドー・カトリック教会

 

 サン・ブルーノ・ボルドー・カトリック教会の向かい側にシャトルルーズ墓地(Cimetière de la Chartreuse)の正門がある。そこから墓地に入って、直進して左折、二区画目が「5区」である。

 

シャトルルーズ墓地の正門

 

FAMILLES ROCHE

LALIMAN ET QUERRY

 

 今回ボルドーにわざわざ宿をとったのは、シャトルルーズ墓地のロッシュの墓を訪ねるためであった。事前に調査をしたところ「既にロッシュの墓は撤去」されたという情報もあり、ここでロッシュの墓と出会うことができるのか半信半疑であった。

 ところが現地に行ってみると、意外とあっさりロッシュの墓に行き着くことができた。しかし、良く見るとその墓石には「FAMILLES ROCHE LALIMAN ET QUERRY」と刻まれている。ロッシュのスペルは確か「Roches」と書いたはずである。ROCHEの最後のsがないことが俄かに気になってきた。改めて墓石の側面を確認すると、そこには次のとおり記されていた。

 

 LEON ROCHES

 MINISTRE PLENIPOTENTIAIRE

 COMMANDEUR DE LA LEGION D’HONNEUP

DECEDE LE 23 JUIN 1900

 PRIEX POUP LUI

 

 やはりレオン・ロッシュの墓で間違いない。これで私は、幕末日本に重要な足跡を残したアメリカのハリス、イギリスのパークス、フランスのロッシュの三人の墓を掃苔することができた。非常に満足してシャトルルーズ墓地を後にした。

 ボルドー到着から一時間足らずで目的を達してしまい、後は気の赴くままボルドー市内を散策することになった。ボルドーには地下鉄は走っておらず、代わりにトラム(路面電車)があるが、乗り方が分からないので、以下はずっと歩いて探索することになった。

 

(勝利の広場)

 ワインで有名なボルドーであるが、観光でこの街を訪れる人は少ないのではなかろうか。観光スポットではないかもしれないが、以下に私が立ち寄ったいくつかのスポットを紹介しておきたい。

 

アキテーヌ門

Porte d'Aquitaine

 

ぶどうの木とワインの柱

(Colonne de la Vigne et du Vin)

 

(ディジョ―門)

 

ディジョ―門(Porte Dijeaux)

 

ポルト・ディージョ―通り

 

 この門をくぐるとポルト・ディージョ―通りである。おしゃれなブティックやテラスで飲食できるカフェが並ぶ活気あるエリアとなっている。

 

(トゥルニー広場)

 トゥルニー(Tourny)は、一八世紀にボルドーの都市計画を立案したという人。円形辻の中央にテゥルニ―の銅像が建っている。

 

トゥルリー像と円形辻

 

(カンコンス広場)

 

ジロンド派記念碑

 

 広いカンコンス広場の中央に壮大なジロンド派記念碑が建てられている。

 ジロンド派記念碑(Monument aux Girondins)は、フランスの立法議会の一部であった過激派からなる熱烈な共和制の政治派閥であるジロンド派を記念して1800年代後半に建てられたものである。ジロンド派はルイ十六世の治世と君主制を公然と非難した最初のグループである。

 

(ボルドー国立歌劇場)

 フランスの主要な都市には、決まって歴史のある歌劇場がある。ボルドーの国立歌劇場も1780年の建造という古い建物である。

 

ボルドー国立歌劇場

(Opéra National de deauxGrand)

 

(ブルス広場)

 水鏡越しにブルス広場を撮るのが、ボルドーを代表する景色らしい。

 水鏡というのは2006年に作られた浅いプールのようなもので、この手の施設として世界最大規模だという。この日は非常に暑かったため子供たちは水で遊び、大人も寝そべって涼をとっていた。

 

ブルス広場

(Place de la Bourse)

 

水鏡

(Miroir d'eau)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フォンテンブロー

2023年09月23日 | 海外

(フォンテンブロー城)

 

フォンテンブロー庭園

 

 岩倉使節団は明治六年(1873)一月十九日にフォンテンブロー城まで赴いている。当時既に蒸気機関車がフォンテンブローまで通じており、一行はこれを利用している。駅からは馬車にて王宮まで移動している。

 

――― 「フォンテンブロー」ノ王宮ハ、元「フランク」第一世ノ築キタル、古キ宮殿ニテ、匠工ノ法ヲトル造営ナリ、其後代代ノ仏王、修メテ之ヲ美麗ニス、第一世拿破侖、甚ダ此宮ヲ好ミ、数(しばしば)此ニ居住セリ、「ウォータルロー」ノ敗軍ニ逃帰リテ、此宮ニ入リ、帝号ヲ去リ、将卒ニ訣別ヲ告シ所ナレハ、新古ノ歴史ニ関シ、并セテ採風ノ士ノ必観スル名所ナリ、

 

 「採風の士」とは民情を知ろうという人という意。

 

フォンテンブロー城

 

フォンテンブロー城

 

(フォンテンブロー共同墓地)

 フォンテンブロー共同墓地に戸次(べっき)正三郎の墓があるという。

戸次正三郎は嘉永元年(1848)、柳川に生まれた。明治三年(1870)に陸軍大阪兵学寮から軍事研修のためフランスに派遣された十人の官費留学生の一人。明治五年(1872)十一月、肺炎のためフォンテンブローで死亡し、埋葬された。墓碑には「日本陸軍生 戸次親任君墓」と日本語で刻まれているらしい。

 炎天下、共同墓地を一時間近く歩き回ったが、戸次正三郎の墓らしきものを発見するに至らなかった。

 

フォンテンブロー共同墓地

 

 今回のフランス旅行では、ほぼ計画したスポットを踏破することができたので、とても満足度は高かった。実は時間があったらラヴェルやベルリオーズ、ドビュッシーらの墓も訪ねてみたいと考えていた。しかし、いくつもの時間のロスがあって、結果的に予定した以上のスポットを回ることはできずに終わった。

 タイムロスの一番は列車の遅れである。フォンテンブローからパリに戻る列車は四〇分くらい遅れて、そのため夕刻までにパリ市内に戻ることはできなくなってしまった(パリ市内の大きな墓地は概ね十八時には閉門されてしまう)。

 改めて日本の列車が時間に正確だということを実感した。この国では列車が遅延するなんてことは当たり前過ぎて誰も何とも思っていない様子であった。何だか私一人がカリカリしていたようである。

 日本でも列車の遅れはある。その時にはどれくらいの時間の遅れなのかアナウンスなり電光掲示があるものだが、この国ではそのようなサービスもない。

 今回、フォンテンブロー往復に想定以上に時間を費やしてしまったのは、列車の遅延だけではない。

 パリ・リヨン駅は巨大なターミナル駅である。フォンテンブローへ向かう列車が何番線から出るのか、フランス語の分からない私には理解できず、結局一本逃すことになってしまった。ここでも約四十分のタイムロス。

 それでもここでの痛い経験からフランスでの電車の乗り方、発着番線情報の把握方法を学ぶことができた。慣れない土地では、とにかく早めに行動することが肝要である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェルサイユ

2023年09月23日 | 海外

(ヴェルサイユ宮殿)

 パリを訪れる旅人が必ず行く二大人気スポットがヴェルサイユ宮殿とモン・サンミッシェルである。今回とにかく幕末の使節団や岩倉使節団の足跡にこだわった結果、モン・サンミッシェルはスキップして、岩倉使節団も訪れたヴェルサイユ宮殿のみ行くことにした。今回の旅は、終始自分の脚で目的地を歩き回ったが、ヴェルサイユ宮殿は、パリ市街から距離もあるし、日本語ガイド付きのツアーであれば、色々と豆知識も入手できるので、ハノイの旅行会社に頼んで半日ツアーに参加することにした。集合場所は、パレ・ロワイヤル付近のエミトラベル(3 rue Moliere)であった。

 パリ市内からヴェルサイユまでバスで約四十分。既にヴェルサイユ宮殿前は大勢の観光客が集まっていた。

 

ルイ十四世騎馬像

 

 明治六年(1873)一月一日、新年の賀祝のために岩倉使節団はヴェルサイユ宮殿を訪れている。

 さらに同月十五日、幕末に幕府の軍事顧問団として派遣されたシャノアンの案内で再びヴェルサイユに赴いている。まず当時サン=シール=レコール(ヴェルサイユ西郊)にあったサン・シール陸軍士官学校を見学した。この学校は第二次世界大戦後、ブルターニュのゲ(Guer)に移転している。その帰路、ヴェルサイユ宮殿を見学している。

 

――― 「ヴェルサイル」宮ハ、当時仏国ノ大政府ヲ設ケタルコト、已ニ前ニ詳ラカナリ、此処古ハ仏王ノ小宮アリテ、游衍ノ地トセシニ、一千六百六十一年、路易第十四世、此ニ宮殿ヲ造営シ、十一ケ年ノ工作ヲ費シテ、八十一年ニ其工ヲ竣(とど)メ、「サンゼルマン」ヨリ、都ヲ此ニ移セリ、営造ノ費、スヘテ十億万「フランク」ヲ用ヒタリ、其魏傑宏麗ナル、水石ノ設ケ、林泉ノ致、十分ノ恢濶ヲ極メタルコト、欧羅巴洲中ニ其比ヲミサル大宮殿ナリ、此宮ノ盛時ニ当リテハ、全府ノ人口十五万ニモ及ビタリキ、路易第十六世モ、国乱ニ逢フマテハ、此宮ニアリシカ、遂ニ幽囚ノ後ニ弑セラレ、其時ニ此宮ヲ毀(こぼ)タント、議論起リタレトモ、拿破侖第一世之ヲ止メテ、竟ニ保存スルヲ得タリ、

 

ヴェルサイユ宮殿

 

 ルイ王朝がまさに贅を尽くして建築し、美術品を集め、肖像画や壁画を描かせた。とても与えられた二時間程度の時間で見尽くせるものではない。

 栄華を誇ったブルボン朝だが、さすがに市民の反感を買い、ルイ十六世とその妻マリー・アントワネットは刑場の露と消えた。彼らが庶民に寄り添い質素な生活を送っていれば、フランス革命はずっと後になっていたかもしれない。しかし、歴代帝王が贅沢を尽くしたおかげで、今日我々が絢爛豪華な宮殿を堪能できるのも、これまた事実である。

 

王室礼拝堂

 

 

 

 

豊穣の間

 

ルイ十四世胸像」

ジャン=ロレンツォ・ベルニーニ作

(1665年)

 

戦争の間

 

鏡の間

 

ヴェルサイユ宮殿

鏡の間

 

 部屋の両側に鏡を張った「鏡の間」である。当時としては希少品であった鏡を部屋の壁に貼るという大胆な装飾で、ヴェルサイユ宮殿の中でもとりわけ煌びやかな空間となっている。

 第一次大戦後の講和会議がこの場所で開かれ、ここでヴェルサイユ条約が結ばれた。日本の全権は西園寺公望であった。ただし、西園寺が日本を出発したのは遅く、実質的には元外相牧野伸顕が代表を務めたといわれる。

 

平和の間

 

マリー・アントワネット肖像

 

 マリー・アントワネットは十五歳のときウィーンのハプスブルグ家よりヴェルサイユにやってきた。宴や娯楽に身をやつし、音楽と流行に耽溺した。夫であるルイ十六世は王家の改革を企て使用人の削減などを進め質素な生活を目指したが、王妃の派手好きな性格をルイ十六世は不快に感じたであろう。1793年十月、ルイ十六世と同じくギロチンで斬首された。

 

マリー・アントワネットの寝室

 

 王妃は寝室で長い時間を過ごした。ここで就寝し、しばしば王が合流した。衆人が見守る中、この場所で出産した。

 

 ヴェルサイユは庭園だけでも途方もない広さで、限られた時間ではとても回り切れるものではない。今回は入場せずに入口から引き返した。

 

ヴェルサイユ宮殿の庭園

 

(プロテスタント教会)

 ルイ十四世の騎馬像のある道を真っすぐ北に行くと、左手に古いプロテスタントの教会(Protestant Church of the United Church Versailles)がある。

 

プロテスタント教会

 

(ヴェルサイユ・ノートルダム寺院)

 

ヴェルサイユ・ノートルダム寺院

 

 プロテスタント教会をさらに直進するとヴェルサイユ・ノートルダム寺院(Église Notre-Dame)がある。

 

(市場)

 

マルシェ

 

海鮮市場にて エゾボラの仲間

 

 今回のツアーではおまけでマルシェ見学がついていた。ルイ十四世騎馬像の場所から歩いて七~八分という場所である。マルシェというのはフランス語で市場のことである。パリ市内では少なくなったが、今でも地方都市に行くと昔ながらの市場を見ることができる。

 野菜や果物、鮮魚のほかチーズや生ハムなどを売っている。

 

ビールを一杯

 

 ここで買い物をしたところで、持って帰るわけにもいかないし、時間を持て余した私は立ち寄ったバーでのどの渇きをいやすため、ビールを一杯注文した。柑橘系の味付けですごく美味しかった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ Ⅷ

2023年09月23日 | 海外

(サントゥスタッシュ教会)

 以下は史跡訪問の合間に私が立ち寄ったスポットの紹介である。パリには魅力的な場所が数えきれないほど存在している。

 

サントゥスタッシュ教会

(Église Saint-Eustache)

 

 地下鉄Chatelet Les Halles駅近くに立つカトリック教会。建築は十六世紀から十七世紀初頭とされる。

 

(ヴィクトワール広場)

 

中央にルイ14世の騎馬像

 

ヴィクトワール(勝利)広場と名付けられたこの空間は、ルイ十四世の戦勝を記念して造られたもので、一度騎馬像は取り壊されたが、1828年に再建されている。壮麗な建物に取り囲まれた特別な場所となっている。

 

(ピラミッド広場)

 

ジャンヌダルク像

 

 リヴォリ通りとピラミッド通りの交差する辺りに黄金のジャンヌダルク騎馬像が建っている。ジャンヌダルクは史上もっとも有名なフランスの英雄。1431年に十九歳の若さで処刑されている。

 

(サンロック教会)

 

サンロック教会

(Église Saint-Roch)

 

 ヴァンドーム広場からパレ・ロワイヤル広場に向かう途中で出会った教会。十七世紀に建造されたというもので、堂内には十七~十八世紀の絵画や彫像などが飾られている。無名の教会であるが、一見の価値がある。この教会に限らず、フランスで教会を見かけたら、躊躇わず中も見ていくことをお勧めしたい。見て失望することはないだろう。

 

美しいステンドグラス

 

教会の内部

 

壁画

 

(グルネル橋)

 

自由の女神像

 

 セーヌ川に「白鳥の島」と命名される中州がある。その西の端に「自由の女神」像が建っている。あのニューヨークにある自由の女神像と同じデザイン。この像は、高さ十二メートル。1889年に除幕式が行われたという。

 橋の上から撮影したため背中側からのショットとなってしまった。

 

(サン・ジャックの塔)

 

サン・ジャックの塔

 

 かつてこの場所には十六世紀に建造された教会が建っていたが、フランス革命時に破壊され、唯一残った建物が「サン・ジャックの塔」として保存されている。かなり老朽化が進んでおり、普段、内部は公開されていない。周囲は公園となっている。

 

(ロシア正教会)

 

ロシア正教会

(Cathédrale de la Sainte-Trinité)

 

 2016年建造という新しいロシア正教会。下水道博物館の近くに建っている。

 

(ポンピドゥー・センター)

 ポンピドゥー・センター(Le Centre Pompidou)は、近代美術館や音楽研究所などが入る総合文化施設である。

 

ポンピドゥー・センター

 

ストラヴィンスキーの泉

 

 ポンピドゥー・センターの南側の広場に、ストラヴィンスキーの泉と称する不思議な空間がある。浅いプールの上に現代彫刻が並び、これが電気仕掛けで動くという趣向らしいが、私が訪問したとき、故障修理中ということか、残念ながら立ち入りができない状態となっていた。

 

 ストラヴィンスキーとパリの因縁は深い。彼の代表作となったバレエ音楽「春の祭典」は1913年五月二十九日、パリのシャンゼリゼ劇場でディアギレフ率いるバレエ・リュスによって初演された。ストラヴィンスキーの前衛的な音楽とニジンスキーの過激な振付けに多くの観客は激怒した。演奏が進むにつれ、野次がひどくなり、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合い、野次や足踏みなどで演奏がほとんど聞こえなくなってしまったという。

 今では「春の祭典」はオーケストラ演奏会の定番となっているが、今から百十年前、初めてこの音楽に接した人には衝撃的だったのである。ストラヴィンスキーには、パリの聴衆なら受け入れてくれるという見通しがあったのかもしれない。

 

(サン・メリ教会)

 

サン・メリ教会

 

教会の内部

 

 ストラヴィンスキーの泉に隣接するサン・メリ教会(Église Saint-Merri)である。ステンドグラスが美しい。一時、サン=サーンスがこの教会のオルガニストを務めていた。

 

(サン・ゼヴラン教会)

 

サン・ゼヴラン教会

 

 サン・ゼヴラン教会(Église Saint-Séverin)は、飲食店やお土産屋さんが密集する地下鉄サン・ミッシェル駅近くに建つ教会。鐘楼は一三世紀に建立されたものという。

 

(パリ市庁舎)

 

パリ市庁舎

 

 パリ市庁舎(Hôtel de Ville)は、セーヌ川北岸に建つ壮麗な建物である。パリ・コミューン時には反コミューン派とコミューン支持派の間で、激しい争乱の舞台となり炎上し、骨組みを残して焼失した。現在の建物は十九年をかけて再建されたもので、1892年に完成を見たものである。岩倉使節団が訪問した際には、ちょうど建設中だったということになる。

 

(サン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会)

 

サン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会

(Église Saint-Gervais)

 

 サン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会は、1494年に建設が開始され、1657年に完成したとされる古いカトリック教会。ラヴェルが作曲した「クープランの墓」で知られるクープラン家が代々この教会のオルガニストを務め、堂内にはパリ最古のパイプオルガンが設置されている。

 

(マレ地区)

 マレ地区(Marais)というのは沼沢地の意。セーヌ川の流れが変わり、残された沼地であったことからそのように呼ばれた。ルーヴル宮にも近く、貴族が競って館を建てた。今もかつての貴族の館が数多残されている。

 

ボーヴェ館(Hotel de Beauvais)

 

スービーズ館(Hôtel de Soubise)

現・国立古文書博物館

 

ゲネゴー館(Hôtel Guénégaud)

現・狩猟自然博物館

 

ロアン館(Hôtel de Rohan)

 

サレ館(Hotel Sale)

現・ピカソ美術館

 

ラモワニョン館(Hôtel de Lamoignon)

現パリ市立史料館

(Bibliothèque Historique de la Ville de Paris)

 

シュリー館(Hôtel de Sully)

 

サンス館(Hôtel de Sens)

 

 この辺りは治安が良いとは言えない。朝七時頃に周辺を歩いたが、浮浪者がたくさんいて少々おっかない思いをした。パリは一見すると美しい街だが、一方で場所によっては浮浪者が出没し、決してよそ者が安心して歩けるところではないのである。

 また日の出とともにゴミ収集車や清掃車が活動を始めるが、これもゴミの量にとても追いついていない。子細に見ると、街の中至るところにゴミが散乱しており、これを見ると「美しい」とも言い切れないところがある。

 

(サンポール・サンルイ教会)

 

サンポール・サンルイ教会

(Paroisse Saint-Paul Saint-Louis)

 

 マレ地区に建つサンポール・サンルイ教会は、十七世紀に建てられたローマカトリック教会である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ Ⅶ

2023年09月16日 | 海外

(ペール・ラシェーズ墓地)

 

ペール・ラシェーズ墓地正門

午前八時に開門

 

 明治六年(1873)一月十日、この日の午後、岩倉使節団は市内の墓地を訪ねている。久米邦武は〈地名ヲ問フヲ失ス〉と書き残しているが、恐らく市内最大の墓地であるペール・ラシェーズ墓地のことだろう。

 

――― 此区域ノ内ニ、一条ノ大路ト、墓間ノ車路トヲ除クノ外ハ、大抵余地アルナシ、貧人ハ木ヲ以テ墓標トス、十字形ヲ造リテ、之ヲ黒ク塗タルモアリ、白キモアリ、中人ハ石塔石龕(ほこら)ヲ建ル、大家ハ石ヲ以テ霊室(たまや)ヲ建テ、約十畳敷計リ、室内ニ石ノ方格ヲ造リ、棚架ノ如クシ、棺ヲ葬リ蔵ム、此霊室一宇ヲ建ルニハ、地代百磅(ポンド)ニ上リ、霊室一宇ノ費五百磅ニスキ、且其地代ハ年年ニ払フ、其費額ニ耐ヘ難シ、只巨室豪家ノミ、永ク保存スルヲ得ル、一根ノ石塔モ、亦之ニ准シテ地代アリ、故ニ中人ヨリ以下ハ、埋葬ノ頃ニハ、其仕届ケモツツケトモ、多年ノ後ハ廃シテ、又他人ノ屍ヲ以テ、其上ニ埋葬スルモノ多シトナリ、

 

 埋葬料を最初のうちは毎年払い続けていても、時間が経つにつれて支払う縁者がいなくなる。時間が経過とともに、所謂無縁墓になることも珍しくない。土葬を続ける限り「他人の屍の上に埋葬」するなどといったことも普通にあり得ることだろう。この有り様を見れば日本の火葬はいかにも合理的だと思うのである。

 

 この墓地には佐賀市材木町の豪商野中元右衛門が葬られている。

 野中元右衛門は古水と号した。烏犀圓本舗第六代源兵衛の長男として生まれ、第八代を継いだ。慶應三年(1867)のパリ万博に派遣されたが、現地に到着早々客死した。五十五歳。【5区】

 

大日本肥前野中元右衛門之墓

 

 ペール・ラシェーズ墓地には初代駐日領事ベルクールや幕府の軍事顧問団シャノワーヌやブリュネ、あるいはメルメ・カションの墓がある。見つけられるかどうか分からないが、時間の許す限り歩いてみることとしたい。

 

 ベルクール(Duchesne de Bellecourt)は、安政四年(1857)、一等書記官として使節グローに随行して、中国、日本に赴いた。初代駐日フランス総領事兼外交代表として安政六年(1859)六月より文久元年(1861)四月まで滞日(文久元年正月全権公使に昇任)。江戸三田の済海寺を公館とし、宣教師ジラールらを館員に持ち、開国初期における幕仏外交に当たった。貿易の拡大、外人殺傷事件の処理など、在日外交団の有力者として活躍したが、概ね英代表オールコックに追従していた。辞職後、チュニス代理公使、バタヴィア総領事等を歴任した。レンガ造りの壁に添うように墓が置かれている。【17区】

 

GUSTAVE

DUCHESNE DE BELLECOURT

 

FAMILLE CHANOINE

Charles Sulpice Jules Chanoine

 

 シャノアン(Charles Sulpice Jules Chanoine)あるいはシャノワーヌとも読まれる。1835年の生まれ。幕末、幕府が歩・騎・砲三兵改革のため、教官派遣を仏国に求め、外相ルイの同意を得て、中国分遣隊参謀長シャノアンが教官団長に任命された。慶應二年(1866)、契約を結んだ一行は、慶應三年(1867)正月、横浜に到着。同年六月、軍制に関する提案を行い、同年中頃より慶應四年(1868)正月まで約半年本格的訓練が行われた。幕府崩壊後、明治政府は教官団の解散を決定し、同年七月訓練は廃止され、一行は八月帰国。帰国後陸相となったが、ドレフュス事件に連座して辞職した。明治六年(1873)の岩倉使節団の来仏に際し、市内案内役を務めている。1915年、年八十で没。【8区】

 

General Jules Brunet

1838-1911

 

 ブリュネは1838年の生まれ。幕府の招聘したフランス陸軍教官の一人。団長シャノアンとともに慶應二年(1866)、来日した砲兵大尉で、幕軍の訓練に当たったが、幕府崩壊後、同教官団は新政府により解約された。これを不服としたブリュネは、数名の同僚とともに榎本武揚の軍に投じ、箱館に籠城して政府軍との交戦に協力した。同地において彼の築城、砲塁に関する知識が活用された。敗戦のため仏艦に逃れたが、フランスは局外中立をとっていたため、また新政府からの抗議もあり、禁固刑に処された。のち公使ウートレーによりサイゴンに追放された。【68区】

 

PATRIAM DELEXIT

VERITATEM COLVIT

 

 アドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers)はフランスのブルジョア政治家(1797~1877)。七月王政以降、政治に関与したが、ナポレオン三世と対立した。普仏戦争でナポレオン三世が退位し第二帝政が崩壊すると、臨時政府首相となり、パリ・コミューンを激しく弾圧した。1871年、第三共和政初代大統領として共和制を維持しようとしたが、王党派によって不信任をうけ退陣した。岩倉使節団がパリを訪れたとき、大統領としてこれを迎えた。大統領辞任後も議員を続け、1877年、八十歳にて病死。55区の一角に巨大な墓が建てられている。

 

FAMILLE OUTREY

 

 ベルクールのあとを受け、日本公使となったウ―トレーの墓である。それまでロッシュが徳川方に肩入れしてきた中にあって明治新政府樹立直後の慶應四年(1868)閏四月着任、難しい舵取りを迫られた。ウ―トレーの主要な使命は、明治初年の維新動乱期において、旧幕府以来の懸案解決と戊辰戦争における日仏紛争の解決にあった。前者については慶應三年(1867)正月、来日した仏軍事教官の雇傭関係の消滅、横須賀製鉄所の引継問題であり、後者は箱館戦争に際して榎本軍に加担した仏軍人ブリュネらの処分で、彼は局外中立の立場からこの問題にあたった。明治四年(1871)九月離任。【82区】

 

 メルメ・カションの墓はさっぱり分からなかった。ペール・ラシェーズ墓地にはロッシーニ [4区]、プーランク [5区]、ショパン [14区]、ビゼー[68区]といった作曲家の墓もある。

 

A

GEORGES BIZET

1838-1875

 

ビゼーといえば歌劇「カルメン」や「アルルの女」で知られるが、個人的には彼が一曲だけ残した軽快な交響曲が大好きである。

 

A FRED CHOPIN

 

「ピアノの詩人」と称されるショパンの墓である。ショパンは言うまでもなくポーランドの出身だが、パリに移ってここで生涯を閉じた。ショパンの墓前にはたくさんの花が置かれていた。

 

FRANCIS POULENC

 

 プーランクは比較的知名度が低い作曲家かもしれないが、彼の「オルガン、弦楽合奏とティンパニのための協奏曲」は従来のオルガンの重厚にして壮麗なイメージを覆した名曲である。

 

ROSSINI

 

 ロッシーニは言うまでもなくイタリアの作曲家であるが、フランス・パリにも所縁が深い。どういう経緯か分からないが、ペール・ラシェーズ墓地の一等地に墓がある。

 

(ヴァンセンヌ城)

 ヴァンセンヌ城(Château de Vincennes)はパリの東郊外にあり、十四世紀に建てられた巨大な城郭である。明治六年(1873)一月十八日、岩倉使節団はこの城を訪ねている。

 

――― 「ワンセーヌ」城ハ、「チャールス」第五ノ時ニ築造セル城ニテ、高サ五十四メートルノ高櫓アリ、尽ク石ヲ以テ築キ起ス、石階二百六十級ニテ、上頂ニ達スヘシ、此ヨリ一望スレハ、巴黎府ヲ隔テ、「モンワレヤン」ノ砲台ト正ニ相対ス、巴黎東方ノ一要害ナリ、先年普軍囲攻ノトキ、此城ト全ク相射ルコトナク、此城ノ西ナル、岡上ノ塁ト相射シテ以テ、独リ完存スルヲ得タリトナン、

 

ヴァンセンヌ城

「村の塔」

 

 「村の塔」と呼ばれる正面玄関で入場料を支払い敷地内に入る。

 

ヴァンセンヌ城

サント‐シャペル

 

ステンドグラス

 

小城塞

 

ヴァンセンヌ城

古典様式の館

 

窓の外枠に付属していた彫刻

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ Ⅵ

2023年09月16日 | 海外

(モンパルナス墓地)

 モンパルナス墓地で、鮫島尚信、入江文郎、楢崎頼三という三名の日本人の墓を掃苔する。広大な墓地で目当ての三名の墓を探し当てたときは、人知れず満足感を覚えた。

 

 鮫島尚信(なおのぶ)は、弘化二年(1845)の生まれ。薩摩藩士。文久元年(1861)、オランダ医学研究生として長崎に遊学し、ついで英学を何礼之、瓜生寅に学ぶ。帰藩後、薩藩開成所の訓導師となった。慶應元年(1865)、薩藩留学生としてイギリスに留学。このとき野田仲平と変名を用いた。渡英後はロンドン大学のウイリアムソン教授の世話により、ロンドン大学のユニバーシティ=カレッジの法文学部に進学し、主として文学を学んだ。慶應二年(1866)の夏休みに吉田清成とともにイギリスの外交官オリファントに伴われアメリカに遊び、トマス・レーク・ハリスに出会い彼の感化を受けた。慶應三年(1867)七月、森有礼、長沢鼎、松村淳蔵、畠山良之助らと渡米してハリスの結社である「新生社」に入り、ぶどう園で働きながら学んだ。しかし、王政復古の報が伝わると、ハリスの勧めもあって森とともに明治元年(1868)六月帰国。同年七月、徴士外国官権判事、ついで議本体裁、明治二年(1869)には東京府判事、権大参事、明治三年(1870)に外務省に転じ外務大丞、ついで駐英・仏・独・北連邦少弁務大臣に任じられ、フランス在勤となった。中弁務使、弁理公使から明治六年(1873)には特命全権公使に進んだ。この頃、岩倉使節団をパリで迎えている。明治八年(1875)帰国し、明治十一年(1878)まで寺島宗則外務卿の下で外務大輔を務めた。明治十一年(1878)一月、フランス特命全権大使となり、ついでベルギー、スペイン、ポルトガル、スイス公使兼任となって外交官としての将来を嘱望されたが、在職中パリで客死した。年三十六。【10区】

 

日本特命全権公使鮫島尚信之墓

 

入江文郎(ふみお)は、天保五年(1834)の生まれ。出身は出雲国島根郡松江。父は松江藩士入江元範。幕末維新期のフランス語学の第一人者。二十一歳で江戸に出て官医竹内玄洞につき苦学のうち蘭学を修めた。また横浜に在るとき仏国通弁ウェーブよりフランス語を習得し、文久元年(1861)、蕃書調所教授方、文久二年(1862)、外国方翻訳掛を兼ね、松江藩邸の洋学教授を務めた。文久三年(1863)、西洋学教授方、慶応元年(1865)、開成所教授手伝役、慶応二年(1866)には教授職となった。幕命により横浜に赴き翻訳にあたり、陸軍所の翻訳にも従事した。明治元年(1868)、開成所二等教授、明治二年(1869)、大学中博士、明治四年(1871)、教育制度視察のため欧州に派遣され、フランスに滞在。明治五年(1872)文部省出仕となった。明治六年(1873)、留学生総代となるも、明治十一年(1878)一月、パリの客舎において病没した。年四十五。日本公使館員、留学生同朋が議してモンパルナス墓地に葬られた。東京青山霊園にも墓碑がある。【13区】

 

博士入江文郎之墓

 

楢崎頼三は弘化二年(1845)の長州萩の生まれ。初め萩明倫館に学んだ。文久元年(1861)十月、藩世子前詰となり、文久三年(1863)五月、下関に出て攘夷戦に参加した。元治元年(1864)四月、楢崎殿衛豊資の養子となり、同年七月世子に従って上京したが、禁門の変により引き返した。慶應元年(1865)五月、干城隊に入り、慶応二年(1866)六月の幕長戦に半隊司令として芸州口に出陣。慶應三年(1867)十一月、第一大隊に属し討幕のために出軍、慶應四年(1868)二月、中隊司令となり、東山道先鋒として進軍。ついで東北各地を転戦した。明治三年(1870)十月、兵部省より仏国に差遣を命じられて横浜を出帆。明治六年(1873)には留学生取締となったが、明治十二年(1879)、パリ滞在中肺病のため死亡した。年三十一。白虎隊生き残りの飯沼貞吉を庇護したことでも知られる。【6区】

 

楢崎頼三之墓

 

 モンパルナス墓地には作曲家サン=サーンス【6区】やセザール・フランク【26区】の墓もある。

 

FAMILLE

SAINT-SAENS

 

 サン=サーンスの作品では「動物の謝肉祭」「交響曲第三番「オルガン付き」」が有名。

 

CESAR FRANCK

1822-1890

 

 フランクといえば交響曲ニ短調がずば抜けて演奏機会が多く、あたかも「一発屋」のような印象があるが、実はヴァイオリン・ソナタにも愛らしい作品がある。フランスを代表する作曲家の一人である。

 

(パリ天文台)

 

パリ天文台

 

 パリ天文台(l'Observatoire de Paris)は1672年に完成したというもので、現役のものとしては世界最古の天文台である。

 岩倉使節団がこの天文台を訪れたのは明治六年(1873)一月二十二日の午後であった。久米邦武は「オフスセル、ウェルトア」と表記している。

 

――― 天文台ニ至レハ、官長四人案内ヲナシテ、台中ヲ示ス、望遠鏡ノ大サハ、英国ノ緑威(グリンウィッチ)ニ同シ、此台ニテ、近三十年来発明セル星ハ、スヘテ一百〇六アリ、其他ノ望遠鏡数種アル内ニ、重サ四千「キロガラム」ニ及フモノアリ、又一千八百六十九年ニ「フーコー」氏発明ノ、望日鏡アリ、時計ノ歯輪ノ如キ仕掛ヲ以テ、日光ヲ逐(お)ヒテ、鏡面ヲ転旋セシム、他ノ一鏡ヲシテ、日光ヲ透シテ、此鏡面ニ映射セシムル器械ナリ、

 

LE VERRIER

1811-1877

 

 天文台の前に立つ像は、海王星などを発見したことで知られる天文学者ル・ヴェリエ。岩倉使節団がパリ天文台を訪問した際、天文台長を務めていたはずだが、ル・ヴェリエが使節団一行と面会したのかは不明。

 

(カタコンブ)

 カタコンブとはローマ期(120年~5世紀)に使われていた採石場の跡を利用し、パリ市内の共同墓地に葬られていた無縁仏六百万体を納骨した地下墓地である。1785年からおよそ百年かけて移したとされる。

 「米欧回覧実記」でも「カタゴム」として紹介されているが、彼らが実際にこの地を訪れたかどうかは不明。

 

――― 白骨ヲ地底ナル隧道ニ積ミタル所アルトナリ、此中ニハ常ニ人ヲイレス、此ニ至リシモノノ話シニ、中ニ骨ヲ以テ棚ヲ結ヒ、垣ヲタタミ、種種ノ飾リヲナシテ、中ニ瓦斯ノ燈ヲ点シタリト、開化ノ余事、玩弄ヲ冢中ノ枯骨ニ及ホスハ、噫(ああ)亦甚タシ、

 

 久米邦武はさすがにこれはやり過ぎと言いたいのだろう。

 

 

カタコンブ

 

 エッフェル塔の観覧に予想以上に時間を費やしてしまい、エッフェル塔を出たときには、ほとんどカタコンブの予約時間に近かった。地下鉄を使うのが最速である。ところが、地下鉄に乗ろうとすると、どういうわけだか私のNavigo Cardが拒否されて、改札を通り抜けることができない。仕方なく、自転車(Valib)に跨ってカタコンブを目指したが、自転車だと時間がかかり過ぎて、このままでは営業終了時間にも間に合わなくなってしまう。思い直して自転車をやめて地下鉄の別の駅から試すと、今度は問題なく改札を通ることができた。それでもカタコンブを予約していた時間を半時間ほど過ぎてしまったが、係の人はこころよく通してくれた。

 全長一・五キロメートルに及ぶ地下回廊は、さすがに夏でも涼しい。人の骨が無数に積まれた光景は決して趣味の良い見世物とは思わないが、暑さを避けて身も心も冷やすには良い場所である。

 

カタコンブ

 

(パリ植物園)

 広大な敷地内に植物園、動物園、展示館や研究機関などを併設した公園となっている。植物園はルイ十三世の時代に、王の主治医が薬草園として造ったものが起源となっている。文久の遣欧使節団もこの植物園を訪問している。

 

パリ植物園

 

デージー

 

デルフィニウム

 

(バスティーユ広場)

 有名なバスティーユ監獄のあった場所は、現在バスティーユ広場となっている。広場の中央には七月革命記念柱が立っている。七月革命というのは、1830年七月、パリで民衆が蜂起し、政府軍と市街戦をたたかい、シャルル十世が亡命し、オルレアン家のルイ・フィリップが即位した事変をいう。

 

バスティーユ広場

 

「芸術の都」パリはもう一つの顔も持つ。古くからパリでは民衆による暴動が繰り返されてきた。史上もっとも有名な事件がフランス革命(1789~1795年)であろう。フランス革命は典型的なブルジョア革命と言われるが、武装化した市民がバスティーユ監獄を襲撃するなど民衆の動きが重要な役割を果たした。その後もパリの民衆は、ことあるたびに団結し集団で要求を押し通そうとした。その典型が1871年のパリ・コミューンかもしれない。

 

パリの民衆はこれに味をしめたのか、頻繁に暴動を起こすようになる。近いところでは、本年六月にパリ郊外で少年が警官に銃で撃たれたことをきっかけに各地で抗議活動が起きているし、同様の事件は2005年にも起きている。実は日本ではニュースにもならないようなストライキやデモに至っては、フランス国内では極めて日常的に発生している。背景には貧富の差であったり、人種差別や移民問題、宗教問題があるといわれているが、もっとも根底には暴動を起こすことで歴史を動かしてきた成功体験があるのではなかろうか。

 

(ビュット・ショーモン公園)

 ビュット・ショーモン公園(Parc des Buttes-Chaumont)は、十九世紀後半、採石場の跡に建造された公園である。

 

ビュット・ショーモン公園

 

 「米国回覧実記」によれば

――― 其美挙中ノ一ナリ、此苑ニ遊ヒ、仮山ノ上ヨリ回瞰スレハ、巴黎東南部ノ市街ハ、屋瓦鱗ヲ敷テ、烟突ハ森森トシテ、黒烟ヲ吹キ、清空ニ雨ナラサルノ陰ヲ催シ、夕陽ノ赭(あか)瓦壁ヲ映射スルハ、晩霞モ為メニ黄ナリ、此ハ巴黎製作場ノ集ル所ニテ、此苑ニ盤遊スル住民ハ、平常其中ニ止息シ、労作ヲナス職工ナリ、馬鈴薯、玉蜀黍ヲ食ヒ、垢衣弊屣(こういへいし)ヲ穿チ、烟煤ノ中ニ奔走シテ、場主ヨリ傭給ヲ受ケテ、生計トナスモノナリ、日曜日ニ至ル毎ニ、彼「バーテブロン」苑ニハ、華麗ノ馬車、輪輪相衒(あいふく)ムトキ、此苑ニハ夫婦相携ヘ、爺嬢相伴ヒ、歩シテ逍遥ス、両苑ノ景象同シカラサレトモ、其繁華ヲナシ、快爽ヲ受クルハ、一ナリ、

 

 つまり、ブローニュの森に来遊するのは裕福な人たちであるのに対し、ビュット・ショーモン公園には日頃工場で働く労働者だという。久米邦武は、当時のパリの住民に階級の差があることを敏感に感じ取っていたのである。

 

 ビュット・ショーモン公園は市民の憩いの場所となっている。早朝からジョギングや犬の散歩を楽しむ人がたくさんいる。夏でもパリの朝は気温二十度を下回り、ひんやりするくらいである。この季節に運動をするなら、日が高くなる前がお勧めである。

 パリ市民は、犬のリードを付けずに散歩する人が多い。犬の糞も回収せずにそのまま捨て置く人も少なくない。フランス人は、この悪しき習慣を植民地であるベトナムにも残していった。とすれば、彼らの罪は深い。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ Ⅴ

2023年09月16日 | 海外

(シャン・ド・マルス公園)

 シャン・ド・マルス公園(Champ de Mars)は、慶応三年(1867)のパリ万博の会場となり、以後1937年まで計五回の万博会場となっている。この公園の突き当りに有名なエッフェル塔が建っているが、エッフェル塔(Tour Eiffel)が建てられたのは1889年のことであり、幕末の万博の際には影も形もなかったのである。

 

エッフェル塔

 

 1867年の万博は日本が初めて正式に参加したものとなった。幕府・薩摩藩・佐賀藩が参加した。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」という名称で出品し、あたかも独立した国家のような体裁で参加した。幕末の政争がそのままパリに持ち込まれたような様相を呈した。

 このとき商人清水卯三郎が茶屋をこしらえ、そこに三人の柳橋の芸者を座らせた。これが大変な評判を呼んだといわれる。

 

シャン・ド・マルス公園

 

予約時間にはこの行列

 

エッフェル塔よりシャン・ド・マルス公園を望む

 

 エッフェル塔は非常に混雑するので「予めチケットを買っておいた方が良い」とガイドブックに出ていたので、出国前に予約しておいた。それでも想像を絶する大混雑で、予約した時間に中に入れたものの、そこからエレベータに乗るのに四〇分以上を要し、地上二階でエレベータを乗り換える際にも数十分待たされてしまった。この後、カタコンブの予約時間が迫っていたので、最上階滞在時間は三分で、すぐさま折り返し、二階から階段を滑るように駆け下りた。

 エッフェル塔はパリを代表するランドマークの一つであることは間違いない。でも、高さは東京タワーと変わらないし、東京タワーがさほど混雑しないことを考え合わせると、エッフェル塔の人気の高さは謎である。

 

(パリ下水道博物館)

 

パリ下水道博物館

 

 パリ下水道博物館(Musée des Égouts de Paris)は、当地における下水道の歴史を振り返る博物館である。パリの下水道の歴史は、ナポレオン三世の時代まで遡り、その頃、巨大なネットワークが市内に張り巡らされた。

 

パリ下水道博物館

 

 岩倉使節団も明治六年(1873)一月十六日、パリの下水隧道を見学している。

 

――― 巴黎ノ壮観中ノ一タリ、其隧道ハ、地底八メートルノ底ヲ回ル、大溝、中溝、小溝アリ、各街ヨリ渓ヲナシテ下リ来リテ小溝ニ入ル、小溝ノ幅ハ中溝ニ同シケレトモ、左右ノ人道狭キノミ、中溝ノ幅一メートル半モアルヘシ、深サ四尺、左右ニ道アリ、ミナ灰土(かいど)ヲ鞏固シ、石ヲ以テ砌トシ、底トス、周囲ノ宇ハ、大ナル孤形ノ洞ナリ、高サ一身有半ニテ、灰土ヲ塗リ、上水ノ管、及ヒ電線ヲ此ニ結架シテ、隧中ニ遍シ、

――― 此水道ハ千八百五十年、拿破侖三世ノ剏意(そうい)ニテ、七千五百万フランクノ金ヲ費シ、鑿成(さくせい)セリ、此隧道ノ中ニ落込ム、府中雑物ヲ混シタル汚水、日ニ総テ一億メートル立方ヲ収メテ、之ヲ府ヲ離ル、約七英里、アニヤ村トイフ処ニ至ラシメ、近傍村里ノ耕作肥料トナシ、余剰ハセイン河ニ注入スルト云、

 灰土とは火山灰の混じった土のことをいう。

 

 博物館と称している。確かにパリ下水道の歴史に関する展示もあるが、実際に今も使われている下水道をそのまま公開している。ありのままのドブ臭いにおいがリアルである。

 

(アンヴァリッド廃兵院)

 アンヴァリッド廃兵院(Hôtel des Invalides)は、軍事博物館や教会などを併設した施設。数多の著名な将軍が眠るが、何といってもナポレオンの墓があることで有名である。

 

アンヴァリッド廃兵院

ナポレオンの廟堂

 

 ナポレオンは、広く知られるとおりセントヘレナ島に幽閉され、そこで死亡し一時埋葬されたが、彼の遺志に従い1840年にパリに戻されアンヴァリッド廃兵院に墓が設けられた。

 フランス革命後の混乱に乗じて、軍事独裁政権を確立したばかりでなく、欧州各国との戦いに勝利してフランスの勢力を拡大したナポレオンの威名は幕末の日本にまでとどろいていた。文久年間にパリに入った使節団もナポレオンの墓を訪ねている。

 

アンヴァリッド廃兵院

北側の門

 

 アンヴァリッド廃兵院には、四か国艦隊が長州藩を攻撃した際に戦利品として持ち帰った青銅砲があるというので隈なく探した。しかし、残念ながら発見することができなかった。

 鹵獲した大砲は、北側の門の辺りに置かれているのと中庭にも多数ある。一説には長州藩から獲得した大砲は山口県に返還されたといわれているので、それでここにはもう存在していないのかもしれない。

 

フランス軍が戦利品として持ち帰った青銅砲

 

フランス軍が戦利品として持ち帰った青銅砲(中庭)

 

ナポレオン二世像

 

 英雄ナポレオンとその後帝政を引き継いだナポレオン三世に挟まれて、ナポレオン二世はまったく知名度が低い人物であるが、ナポレオンの子で、二週間だけ帝位についた人物。二十一歳という若さで亡くなっている。

 

ナポレオンの墓

 

ジョゼフ・ナポレオンの墓

 

 ジョゼフ・ナポレオン(Joseph Napoleon)はナポレオンの兄。ナポレオンの意図を受けて、ナポリの王位に就き、継いでスペイン王ホセ一世としてスペインを統治した。1844年七十六歳にて死去。

 

(リュクサンブール公園)

 

リュクサンブール公園

 

リュクサンブール公園

 

 パリ市内には広大な公園がいくつもある。リュクサンブール公園(Le Jardin du Luxembourg)もその一つである。十七世紀に開かれた美しい公園で、園内には自由の女神像もある。

 「米国回覧実記」でも「レキセンボルク」宮の大苑と表記しているが、「「セイン」河の西」としているのは南の誤りではないか。

 「米国回覧実記」では「リクセンブルク」の宮苑の南にあるという礦山学校についても触れられている。今もその同じ場所にパリ国立高等鉱業学校が存続しているというのは、ちょっと驚異的だと思う。

 

パリ国立高等鉱業学校附属資源博物館

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ Ⅳ

2023年09月16日 | 海外

(ブローニュの森)

 ブローニュの森(Bois de Boulogne)は、パリの西に拡がる広大な公園である。その面積は約850ヘクタールを誇り、マロニエやカシワ、カエデ、アカシアなどの木々が植えられている。公園の南には全仏オープン・テニスで有名なローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)があるほか、美術館や競馬場なども併設している。

 「米欧回覧実記」で「バーテブロン」「ボアデブロン」と表記されているのがブローニュの森のことである。

 

ブローニュの森

アンフェリュール湖

 

 久米邦武らが明治六年(1873)二月二日にブローニュの森を訪れた時は前日の雪で「風趣添えたり」といった光景だったようである。当時は禽獣園、即ち動物園があったようだが、現在園内に動物園らしきものは見当たらない。

――― 「ボァーデ・ブロン」ハ、巴黎第一ノ公苑ニテ、米国新約克(ニューヨーク)ノ「セントラルパーク」ニモ、超越スヘキ名苑タリ、

と絶賛している。

 

ブローニュの森

レンタルボート屋

 

 自然豊な森に包まれた公園は市民の憩いの場所であるが、同時に昼間から娼婦が出没する場所として知られる。私がブローニュの森を通過した際にも、ぶよぶよの肉体を露出した娼婦何名かとすれ違った。見るからに威圧的で、とてもお近づきになりたいとは思えなかった。

 

(モン・ヴァレリアン要塞)

 「米欧回覧実記」にたびたび「モンワレヤン」ノ砲台として登場するが、いったいどこのことかしばらく特定できなかった。「実記」を解読するのに、一番の難点はカタカナで記載されている固有名詞である。ある日パリ市内の地図を眺めていて、「モン・ヴァレリアン要塞」のことだと閃いた。

 

モン・ヴァレリアン要塞

 

 使節団一行は、明治六年(1873)一月十七日、「モンワレヤン」を訪ねている。

 

――― 此ハ凱旋門ヨリ約ニ英里許ノ西ニアリテ、突兀ノ岡上ヲ占メテ築キ起ス、路易非立王(ルイ・フィリップ)ノトキニ成リタルモノニテ、巴黎周囲ノ要害ニ於テ、最モ肝要ナル地形ヲ占メ、其備ヘ厳重ナルコト、名高キ砲台ナリ、去ル七十一年ニ、普国(プロシア)ト媾和ノ議ヲハジメシトキ、普ノ執政「ビスマルク」氏カ、此山ヲ普国ニ渡サハ、和議ヲトトノヘシトテ、和議ヲ拒ミシモノナリ、

 

モン・ヴァレリアン要塞

現地説明板より

 

 現在、モン・ヴァレリアン要塞は米軍施設となっており中に入ることはできない。上空からこの要塞を俯瞰することができれば、箱館の五稜郭のように綺麗な五角形をしているはずである。

 

フェシュレ・テラスから

(Terrasse du Fécheray)

 

 ブローニュの森の中心部からモン・ヴァレリアン要塞まで距離にして五キロメートル足らず。自転車で三十分もかからないと読んでいたのだが、実際は急勾配のため電動自転車も歯が立たず、途中で自転車を乗り捨てて歩くことになった。汗が目に入って、目を開けていられないほどであった。モン・ヴァレリアン要塞を訪問される場合は、公共交通機関もしくはタクシーを利用されることをお勧めしたい。

 パリ市内を見渡すことのできる小高い丘の上にあるからこそ、この街を守護できるというものである。

 

(セーヌ川)

 

セーヌ川

船で遊覧するのも人気の高いツアー

 

 セーヌ川(la Seine)がパリの街を東西に横切っている。川の北側を右岸(Rive Droite)、南側を左岸(Rive Gauche)と呼ぶ。以下「米欧回覧実記」の描写。

――― 「セイン」河ハ、其幅倫敦府ノ達迷斯(テームス)河ヨリハ狭シ、水清クシテ流急ナリ、河ニ架セル橋ハ、総テ二十八条アリ、其内十六橋ハ石橋、七ハ懸橋、三ハ鉄骨石肉ノ橋ナリ、余ハ辺鄙ノ木製橋ナリ、河岸ニハ石垣匣ヲナシ、道路砥ニ似テ、河ニ漕スル小舟、岸ニ達スレハ、石階ヲ拾フテ登ル、宛トシテ屋中ノ如シ、河中ニ洗房ノ舟ヲ浮ヘ店トスルモノアリ、中流ニ至リ、両股ニ分レテ又合ス、中ニ二島ヲ出ス、之ヲ「イルサン、ロイ」「イルドラシート」ト云、島上ニ官衙ヲ建テ、寺観ヲ築ク、傑閣雄楼、峨峨トシテ聳エ、蜃楼ヲ夕日ニ幻セルカ如シ

 

(シテ島)

 ルーヴル美術館の東にポンヌフ橋があり、この橋を渡るとセーヌ川の中州のシテ島(Ile de la CIte)に行くことができる。シテ島には有名なノートルダム寺院があり、この島の歴史は紀元前三世紀まで遡ることができるという。

 ポンヌフを日本語にすると「新橋」であるが、実はシテ島に架かる橋としては最古のものである。

 

ポンヌフ橋

 

ポンヌフ橋

 

 どうでも良いことであるが、東京新橋に「ポンヌフ」という立ち食い蕎麦屋があったことを思いだした。

 

(パリ造幣局博物館)

 

パリ造幣局博物館

 

 ポンヌフ橋をそのまま直行し対岸に渡って右折したところにパリ造幣局博物館(Monnaie de Paris)がある。

 岩倉使節団が造幣寮を訪れたのは、明治六年(1873)一月七日のことである。久米邦武は「ホテルデモニー」と表記しているが、当時は稼働中の造幣工場であった。

 

――― 其屋宇ノ宏大ナルハ、英米ノ上ニ出ツ、此寮今ヨリ二百年前ニ、路易第十四世ノ建シ所ナリ、此寮中ニ各国ノ貨幣ヲ集メ蓄フ、スヘテ三四万種アリ、

 

 中国の貨幣のみならず、日本の貨幣に至るまで収集していることに驚嘆している。その後、実際に金銀銅貨を製造しているのを見学し、その様子を細かく記録している。当時の造幣は人力で刻印していた。彼らの目には「一種の奇工」と映ったようである。

 

(フランス学士院)

 パリ造幣局博物館をさらに西に進むと丸いドームをもつフランス学士院(Institut de France)が建っている。

 

フランス学士院

 

 文久の遣欧使節団も学士院を訪問したと記録が残されている。

 

ニコラ・ド・コンドルセ像

 

 学士院の前に立つ銅像は、ニコラ・ド・コンドルセ侯爵(1743~1794)像である。コンドルセは、数学者であり、哲学者であり、政治家でもあった。

 

(ノートルダム寺院)

 明治六年(1873)一月二日、この日大使岩倉具視は外務省に新年の挨拶に出向き、久米邦武らは副使に従って接伴掛マーシャル氏の案内で有名なノートルダム寺院を見学している。

 

――― 此寺ハ、巴黎諸寺ノ内ニテ、第一ト称スル壮麗ナル寺ナリ、「セイン」河ノ西浜ニアリ、前面ニ双尖ノ高塔ヲ築キ起ス、外壁ノ雕刻、藻眼、精工風致ヲキハメ、内景ノ輪奐(りんかん)、藻絵満面ニシテ、金光爛然、目ヲ輝カサゝルナシ、一双ノ塔頂ハ、未タ完成ニ及ハサレトモ、実ニ美観ヲ極メタリト云フヘシ、

 

 ヨーロッパの諸寺院と比べれば我が国の本願寺など「草庵の如し」と卑下している。

 

ノートルダム寺院

 

 ノートルダム寺院(Notre Dame de Paris)は平成三十一年(2019)四月十五日の火災により正面のファサードを除き、屋根や尖塔が焼け落ちた。この寺院は、フランス国民の心の拠りどころともいわれ、貴重な歴史遺産でもある。早期の復旧が望まれるが、現在のところあと一年ばかりかかる見込みという。

 

(コンシェルジュリー)

 

コンシェルジュリー

 

 コンシェルジュリー(Conciergerie)とは、一見すると要塞のような建物であるが、フランス革命時には牢獄として使用され、マリー・アントワネットが収容された独房が今もそのまま保存されているという。

 「米欧回覧実記」では「プリゾン・デ・ラサン」と表記している。

 

――― 巴黎ニテ第一ノ大牢獄ナリ

――― 此牢獄ニハ、死罪ノモノヲ入レス、大抵入牢一年以下ヲ限ル、是ヨリ以上ハ、別ニ牢アリテ、此ニ移ス、即軽罪人ノ懲役場ナリ、

 

(パレ・ド・ジャスティス)

 

パレ・ド・ジャスティス

 

 コンシェルジュリーの南にあるのがパレ・ド・ジャスティス(Palais de Justice de Paris)である。「米国回覧実記」では「ロュールト・デ・アスェー」と表記するが、原語不明。

 

――― 此ハ仏国裁判所の首(はじめ)ニテ、「セイン」河島ノ上ニアリ、其建築ハ市街ヘ凹状ヲ面シ、正面ニ広キ石階アリテ、礼拝堂ニ入ル、(中略)此ニ古来ヨリ酷罰惨刑ノ状ヲ画ク、大木ヲ抱カシメテ圧挫スルモノ、首ヲ斬リ飛スモノ、烙シ殺スアリ、焼キ殺スアリ、締ルアリ、裂クアリ、以テ後来ノ刑ヲ掌ルモノ、戒メトス、裁判所ノ正堂ヲ以テ、礼拝ノ堂トナスハ、米欧各国ノ通例ナリ、

 

 その後、実際の裁判の様子を見学している。代言師「ヂュリー」が裁判に立ち、罪人に代わって抗弁する姿を興味深く見ているが、一方でこれを日本で行おうとすると難しいとかなり悲観的である。日本は伝統的に官に従順であるし、たとえ官を恐れず「強項敢言」する者がいたとしても、法理に詳しい者はいないというのが、その理由である。実際に我が国で欧米流の近代的弁護士法が制定されたのは明治二十六年(1893)のことである。

 

 写真を撮ろうとすると、中から守衛の人が出てきて誰何された。写真を撮っても良いか尋ねたら「良い」との返事。さらに料金を払えば中に入れると教えてくれた。ただし開場は午前八時。この日ヴェルサイユ宮殿へのツアーに申し込んでいた私は、パレ・ド・ジャスティス見学を見送らざるを得なかった。

 

(サン=ルイ島)

 

サン=ルイ島

(Ile Saint-Louis)

 

 サン=ルイ島のことを「米国回覧実記」で「イルサン、ロイ」と紹介している。

 

(マリオノー)

 マリオノー(Marionnaud)というのは、フランスの化粧品メーカーらしい。そのパリ支店のある場所(59 Rue des Petits Champs)に文久年間、フォルタン文房具店があった。

 パリを訪れた福沢諭吉は、フォルタン文房具店で手帳を購入し、パリでの見聞を記録した。のちに「西航手帳」と呼ばれる。

 

マリオノー(Marionnaud)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ Ⅲ

2023年09月09日 | 海外

(ホテル・ルーヴル)

 

ホテル・ルーヴル

 

 竹内保徳を正使とする文久遣欧使節団が宿泊したのが、ルーヴル美術館に近接するホテル・ルーヴル(現・Hôtel Du Louvre - The Unbound Collection by Hyatt)である。

 せっかくだから一泊だけでも、と一瞬考えたのだが、値段を調べてあっさり諦めた。

 

(ヴァンドーム広場)

 

オーステルリッツ記念柱

 

 ヴァンドーム広場は、パリでも最も豪華といわれる広場である。中央には青銅製のオーステルリッツ記念柱が立つ。その頂上にはローマの方向をにらむナポレオン像が乗っている。

 またヴァンドーム広場に面して、ショパンが最晩年を過ごした家がある。

 

ナポレオン像

 

ショパンが最晩年を過ごした家

 

ショパンの家の内部

 

 ショパンはポーランドの作曲家であるが、祖国がロシアに侵攻され、戦況が厳しくなると、ポーランドを脱してフランス・パリへの移住を決した。ショパンはパリで何度か引っ越しをしたが、遂に母国に戻ることはなく、この地で没した。

 

(マドレーヌ寺院)

 やはり文久の遣欧使節団が訪れた場所の一つ。まるでパルテノン宮殿のような建物であるが、実態はカトリック教会である。

 

マドレーヌ寺院

 

マドレーヌ寺院外壁上部の彫像

 

天井画

 

内壁の装飾

 

寺院内部

 

 久米邦武はカトリックとプロテスタントの違いを以下のとおり説明している。

 

――― 巴黎府中ニ壮麗ノ寺多シ、「カドレイキ」(カトリック)宗ノ僧ハ、信徒ヨリ金ヲ集メ、寺刹ノ建築ニ蘼スル、其費巨万、一時此宗ノ繁盛ヲ極メタルヤ、民膏ヲ侵漁シ、僧怨ヲ買イタル、其積成ハ存シテ、寺観ノ壮麗ニアリ、故ニ「カドレイキ」教国ニ入レハ、高塔天ヲ刺シ、巨刹市街ニ聳エ、又支店ニハ馬利ノ像、磔刑十字ノ図ヲ、到ル処ニ陳列シテ、殆ト観ルヲ厭フニ至ル、「プロテスタント」宗ハ之ニ反シ、寺ヲ飾ラス、画像、偶像ハ、十戒ヲ犯スモノナリトテ、一切ニ用イス、故ニ両教ノ異同は、一タヒ其府ニ入レハ、此等概貌ニテ判然タリ、

 

 意外なことにカトリックには批判的でプロテスタントに好意的なのである。

正直に告白すると ――― 福岡市高宮カトリック幼稚園を卒園しているにも関わらず ――― 私にはカトリックとプロテスタントの区別がついていない。

カトリックの方が教会の装飾がきらびやかで、プロテスタントは質実なイメージがあるが、それもあながち間違いではないだろう。その印象がカトリック国であるフランス、イタリア、オーストリアとプロテスタントの国であるイギリス、ドイツのイメージに直結しているように思う。

フランスは華やかで開放的である。その空気の上に「芸術の都」ができあがった。

西欧化を目指す明治日本でも、多くの芸術家、特に画家や彫刻家がフランスを目指した。黒田清輝、浅井忠、和田英作、藤田嗣治らである。フランスは芸術の中心地であり発信地であった。それは現在まで続いている。

フランスの「芸術の都」としての基盤を作ったのが、十六世紀初頭にこの国を治めたフランソワ一世である。彼はルネサンス期のイタリア(ローマ帝国)との戦争に明け暮れたが、イタリア・ルネサンス芸術に触れ感銘を受けた。ローマからレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘し、生涯を通じて彼を支援し続けた。今日、ルーヴル美術館にダ・ヴィンチの作品が多く残されているのは、フランソワ一世の遺産である。彼は芸術の力で国を治めようと努めたが、一方で彼の治世は次第にカトリックと新興のプロテスタント(ユグノー)との宗教間の対立が激化した時代でもあった。

1572年、シャルル九世の時代、サン・バルテルミの虐殺と呼ばれる陰惨な事件が起こる。カトリックとプロテスタントの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(のちのアンリ四世)と国王シャルル九世の妹との結婚式が開かれたが、このときパリに集まったユグノーが襲撃された。この虐殺は瞬く間にパリ市内、さらにフランス全土に広がり、一万人とも三万人ともいわれるユグノーが暴殺された。

私は宗教というものに疎くて、宗教観の違いで相手を攻撃し、一方が死に絶えるまで殺し合うという感覚がどうにも理解できない。他人がどういう宗教を信じようとも自分の生活には何の支障もないようなものである。日本でも古くは為政者が特定の宗教を禁じ、攻撃したという例はあるが、異なる宗教徒との間での戦争というのはあまり聞かない。だが国外に目を向ければ宗教の違いで多くの血が流されている。現在、カトリックとプロテスタントの対立は解消しているが、一方でキリスト教国とイスラム教国の反目はテロや戦争にまで発展している。確かにイスラム原理主義者は人権よりも教義を優先する。人権を抑圧された人たちを黙って見過ごして良いとは思わないが、それにしても、いったいいつになったらこの愚劣な殺し合いは終わるのだろうか。

1598年、アンリ四世がナント勅令を発した。この勅令によりカトリックがフランスの国家宗教であることが宣言され、同時に信教の自由も認め、フランスにおける宗教対立の終息を図るものであった。アンリ四世は、宗教戦争で疲弊した国力の回復に努めた。彼が国の再興の礎としたのがやはり芸術であった。現在も残る長さ四百メートルに及ぶルーヴル宮の大ギャラリーはアンリ四世の手によるものである。アンリ四世はこのギャラリーに芸術家や工芸家を住まわせ、自由に創作活動を行わせた。パリにおける芸術の勃興期といえる。

 

アンリ四世は、1610年熱狂的なカトリック教徒によって刺殺された。悲劇的な最期を遂げたが、今でもフランス国民に人気の高い国王の一人である。

 

アンリ四世騎馬像

(ポンヌフ橋)

 

(チュイルリー庭園)

 チュイルリー庭園(Jardin des Tuileries)は、ルーヴル美術館の西側に隣接し、十七世紀に開かれた広大な庭園である。園内にはマイヨールのブロンズ像など十八体もの彫像が点在している。「米欧回覧実記」では「チュロリー」と表記され、精密な銅版画を添えて紹介されている。ただし、チュイルリー宮は、パリ・コミューンで炎上・焼失しており、当時は再建途中だったかもしれない。

 

チュイルリー宮殿

 

チュイルリー庭園

 

 「米欧回覧実記」では三百を越える風景図が挿入されている。銅版図は「文明諸国ノ一班ヲ国人ニ観覧セシメシ」という意図から、使節団が回覧に際して現地で購入した写生画を模したり、なかには銅版画をそのまま復刻して掲載したものもある。当時、既に写真は存在していたものの、手軽にスナップ写真というわけにはいかない時代である。写真に代わるものとして当時の風景を再現した銅版画は非常に貴重なものである。

 

(コンコルド広場)

 

コンコルド・オベリスク

 

 ――― 宮門ノ前ニ、又一場ノ広区ヲ開ケルヲ、「コンコルド」ノ苑ト云フ、巨大ナル石磐ヲオキ、水ヲ噴跳シ、石雕ノ大像磐ヲ環(めぐら)シテ立ツ、中央ニハ埃及(エジプト)国ヨリ遷シタル「オビリスキ」塔ヲ建テリ、塔ノ高サ二十六メートル、紫紋ノ一本石(所謂花剛石(みかげいし)ナリ)ニテ造リタル古代ノ塔ナリ、此塔ハ埃及国ノ古物ニテ、元地底ニ埋没セルヲ、一千七百九十九年、拿破侖第一世埃及ヲ幷セシトキ、器械ヲ以テ掘出シ、此地ニ持来リ建タリ、

 

 手元のガイドブックによれば、このオベリスクは「エジプトから贈られた」となっているが、どちらが正しいのだろうか。パリに現存する最古の建造物である。製作されたのは紀元前1300年頃とされている。

 明るく開放的な場所であるコンコルド広場は、歴史をひもとくとルイ十六世やマリー・アントワネット、ロベスピエールらが処刑された血なまぐさい場所でもある。

 

(ペルゴレーズの館)

 

ペルゴレーズの館

 

ペルゴレーズの館にて

 

 徳川昭武一行が宿泊したのは、先に紹介したグランドホテルであったが、滞在期間が長くなるにつれ滞在費が嵩み、宿泊先を変えることを余儀なくされた。徳川昭武が移り住んだ建物が、ペルゴレーズ通りに現存している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする