史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

烏丸 Ⅴ

2024年01月13日 | 京都府

(新町通り)

 

幸野楳嶺生誕地

 

 四条烏丸の交差点から西に二本目の筋が新町通りである。四条通りから新町通りを下ると、三十メートルほどのところの民家の前に幸野楳嶺生誕地を示す小さな石碑が建てられている。幸野楳嶺は、弘化元年(1844)、金穀貸付業を営む安田四郎兵衛の第四子としてこの地に生まれた。嘉永五年(1852)、楳嶺九歳のとき、円山派の絵師中島来章に入門した。なお新町四条の生家は、元治元年(1864)の禁門の変で罹災したという。

 

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下鴨神社 Ⅳ

2024年01月13日 | 京都府

(御蔭通り)

 

明治天皇御駐輦所寒天製造場阯

 

 下賀神社の前の道(南側)は御蔭通りと名付けられている。歯医者の隣の民家の前に「明治天皇寒天製造場阯」碑が建っている。明治十年(1877)、二月一日に行幸があった。

 

(本満寺つづき)

 三上復一(またいち)の墓を訪ねて本満寺の墓地を歩いた。三上家の墓は複数発見したが、復一が合葬されている確信は得られなかった。

 三上復一は、天保四年(1833)、京都西陣の生まれ。三上家は禁裏御寮織物司(旧織部司)に所属した六家のうちの一つで、元亀二年(1571)、大舎人座の兄部(こうべ)に任命され、宮中の織物をつかさどり、明治三年(1870)まで代々相勤めた。復一は万延元年(1860)、平田家より養子に入り、織物司三上家の最後で、文久二年(1862)越前介の口宣案を拝受した。孝明天皇の葬儀、明治天皇の即位時の様々な装束を調進し、東京遷都にも扈従したが、まもなく帰京して稼業一筋に生きた。大正八年(1919)、年八十七にて没。

 三上家は今も京都市上京区紋屋町に存続しているそうだ。実家の近所なので、一度確認に行ってみたい。

 

(阿弥陀寺)

 阿弥陀寺には織田信長、織田信忠父子の墓があることで知られる。

 寺に伝わる話によれば、本能寺が襲われたという情報に接した阿弥陀寺住職清玉上人は直ちに本能寺に駆け付けた。しかし、清玉上人が目にしたのは自害して果てた信長の遺体であった。上人は信長の首をもらいうけ、闇に紛れて寺に持ち帰り、ここに葬ったといわれる。

 墓地に入るには寺務所にて五百円を支払わなくてはいけない。私の目当ては、織田信長の墓ではなくて、石山基文・基正父子の墓だったのだが、石山姓の墓石すら発見することはできなかった。仕方なく織田信長・信忠父子の墓の写真を撮って撤退。

 

阿弥陀寺

 

織田信長(右)・信忠父子の墓

 

森蘭丸らの墓

 

清玉上人の墓

 

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京都御所 Ⅹ

2024年01月13日 | 京都府

(博覧会場跡)

 

博覧会場跡

 

 東京遷都により京都が寂れるのを心配した京都府関係者は、明治四年(1871)、日本最初の博覧会を西本願寺で開いた。この時、伝統的産業品を網羅して展示し、京都の殖産興業を図った。第二回から第九回の博覧会は仙洞御所内で開催され、明治十四年(1881)の第十回から、御所内に建設された常設会場が使われた。大正三年(1914)以降は、岡崎の京都市勧業館が会場となった。

 

(鴨沂高校)

 鴨沂(おうき)高校正門前に「明治天皇行幸所京都府尋常中学校」碑が建てられている。明治二十年(1887)二月一日の行幸。

 

鴨沂高校

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校

 

(廬山寺つづき)

 廬山寺は、紫式部が育ち、独身時代を過ごしたのは紫式部の曽祖父藤原兼輔が建てた邸宅であり、父為時の邸宅においてであった。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したとされる。来年(令和六年(2024))の大河ドラマで舞台となる場所である。

 

贈正五位秋元正一郎(安民)墓

 

 秋元安民(やすたみ)は、文政六年(1823)の生まれ。安民は諱。通称は正一郎、正蔭、逸民、御民などと称した。姫路藩校仁寿山黌の使丁となって和漢の書を読み、のち大国隆正に就いて国学・歌道を修め、一時その養子となり名を正蔭と改めた。のち辞して本姓に復した。伴信友に従学ののち、播州三木に塾を開き、その後藩に召還されて国学寮教授となった。安政年間江戸出役中、洋書を通じて洋式帆船を研究し、藩主にその建造を進言して、同藩に全国初の様式船建造の緒を作った。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上京し、同藩勤王の首唱者として活躍したが、同年八月、京都三本木の寓所にて病没した。年四十。

 

正二位前權大納言藤原定祥卿墓

(野宮定祥の墓)

 

 野宮定祥(さだなが)は、寛政十二年(1800)の生まれ。父は左近衛権中将野宮定静。文政七年(1824)閏八月、左近衛権少将に任じられ、天保元年(1830)十二月、左近衛権中将に進み、天保六年(1835)十二月、参議となり、従三位に叙された。天保十一年(1840)七月、東宮(孝明天皇)三卿に補され、その践祚に至るまで側近として仕えた。弘化三年(1846)、石清水八幡宮臨時祭に際し、孝明天皇は特に外患を祈祷するや、その勅使を奉仕した。その後、嘉永元年(1848)二月、議奏に進んで朝政にあずかったが、嘉永四年(1851)五月、これを辞し、安政元年(1854)六月、祐宮(のちの明治天皇)非常付となり、権大納言に進んだ。安政五年(1858)、年五十九で没。

 

 定祥の長男野宮定功(さだいさ)の墓も蘆山寺にあるはずだが、特定できなかった。野宮定功は安政五年(1858)の八十八卿列参に参加するなど公武合体派公家の一人として活躍し、維新後は山陵御用掛などを務めた。

 

仁孝天皇皇子 鎔宮(のりのみや)墓

孝明天皇皇女 壽萬宮(すまのみや)墓

 

 寿万宮(すまのみや)の墓は、墓地入口に土塀に囲まれている。背伸びしてようやく墓の一部を覗くことができる。

 寿万宮は、安政六年(1859)三月の生まれ。父は孝明天皇、母は掌侍堀河紀子である。法名は宝蓮華院という。万延元年(1860)八月、和宮降嫁の議が和宮の固辞によって難航した際、孝明天皇はその前年に誕生したこの皇女を代わりとして将軍家茂へ降嫁させることを決意し、幕府と交渉することになった。しかし、何分にも幼少であるため成立せず、宮も翌文久元年(1861)五月、わずか三歳で薨じた。

 

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堀川寺ノ内 Ⅲ

2024年01月13日 | 京都府

(妙顕寺つづき)

 妙顕寺墓地で藤井勘七の墓を探した。藤井家の墓はいくつか見つけたが、藤井勘七のものと特定できる墓石はなかった。

 藤井勘七は、天保十三年(1842)の生まれ。諱は永尚。通称は熊次郎といった。藤井家は、京都三条烏丸に店を構え、禁裏御用呉服司に呉服物を納入した御用商人七家のうちの一つである。管理奉行は中世末より内蔵寮の山科家で、孝明天皇・明治天皇の儀式の時に主に女官用呉服類を調進し、その余暇に京中で高級呉服の販売も行っていた。元治元年(1864)七月の禁門の変に御所の女官たちが比叡山に避難したとき、足袋三十足の火急の注文があり、戦火の中を届けた。この変で屋敷も火災に遭ったが、直ちに復興した。東京遷都後、二男が宮中の御用を勤めたが、洋装化の風潮と三越らの新興勢力に押されて次第に衰微し、京都店も同時に衰えた。明治四十二年(1909)、年六十八にて没。法名「永遠院尚道日雅信士」。

 

(妙蓮寺)

 堀川通りの西側に妙蓮寺の広い境内がある。墓地には赤穂浪士四十六名の遺髪墓がある。切腹した四十六名の遺髪を同志であった寺坂吉右衛門が赤穂城下へ持ち帰る途中、京都伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立寄り、遺髪を託した。主君の三回忌にあたる元禄十七年(1704)、この姉が施主となり菩提寺である妙蓮寺に墓を建立して遺髪を納めた。以降、三百年の風雪により損傷甚だしいため、近年再建されたものが現在の墓石である。

 

妙蓮寺

 

赤穂浪士遺髪墓

 

帝室技藝員幸野楳嶺埋骨處

 

 妙蓮寺墓地には日本画家幸野楳嶺(こうのばいれい)の墓がある。

 幸野楳嶺は弘化元年(1844)、京都新町四条の生まれ。九歳で中島来章(円山応瑞門)に学ぶ。二十四歳のとき、父方の幸野家を再興した。明治四年(1871)、塩川文麟に師事。明治十一年(1878)、同志と京都府立画学校設立を建議し、明治十三年(1880)、開校すると副教員となった。明治十五年(1882)、第一回内国絵画共進会審査員、同絵事功労賞、同著述賞受賞、同二回展銀印。次々と画塾を開設し子弟を要請した。門下に竹内栖鳳、菊池芳文、川合玉堂、都路華香、上村松園らがある。明治二十五年(1892)、シカゴ万国博覧会に「秋日田家」を出品。明治二十六年(1893)、帝室技藝員になった。明治二十八年(1895)、年五十二で没。

 

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八尾 Ⅲ

2024年01月07日 | 大阪府

(聞成坊)

 JR八尾駅から徒歩で十数分の市街地に聞成坊という寺がある。その北東の角に「飯田忠彦旧棲地址」碑が建てられている。

 

聞成坊

 

飯田忠彦旧棲地址

 

 石碑は、右手の鉄枠で補強された方である。「飯田忠彦旧」まで読むことができる。

 この場所は、八尾の十三ヶ村の大庄屋飯田家の屋敷跡である。飯田忠彦は徳山藩士生田兼門の二男に生まれ、縁あって飯田家の養子となった。非常な読書家で、いつも二階で読書に耽っていたことから「二階先生」と呼ばれた。若くして「大日本史」を読んで発奮し、勤王の志厚く、有栖川宮家に仕えたが、安政の大獄に連座し、また桜田門外で再び捕らえられ、自殺した。

 

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和泉

2024年01月07日 | 大阪府

(黒鳥山公園)

 

黒鳥山公園

 

 和泉市の黒鳥山公園は広くて見晴らしの良い公園である。その一画に天皇駐輦碑がある。藪の中にあって、なかなか見つけにくい。

 

天皇駐輦碑

 

 明治三十一年(1898)十一月十六日、明治天皇による大演習統監を記念した石碑である。

 

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泉大津 Ⅱ

2024年01月07日 | 大阪府

(松之浜)

 松之浜町の閑静な住宅街の中に、旧膳所城勢田口門が移設されている…というので足を運んでみた。現場は工事中で、既に旧膳所城勢田口門は撤去された後であった。やはり古い建築物を保存し続けることは大変な労力がかかるのである。

 

旧膳所城勢田口門

 

 跡地には辛うじて移設された旧膳所城勢田口門の説明板が残されているが、残念ながら文字がほとんど読み取れない。

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貝塚

2024年01月07日 | 大阪府

(貝塚養護老人ホーム)

 

橋本正高戦歿之地

 

 貝塚養護老人ホームの敷地の北西に橋本正高戦歿之地碑が建てられている。同じ敷地に明治天皇の駐輦記念碑と御製碑もある。ただし、老人ホームの建物は、窓ガラスが割れたまま放置されており、現在空家になっているように見える。

 橋本正高は、橋本出身の豪族で、南北朝時代楠正成に従って勢力を拡大した。しかし、足利義満軍の反撃を受け、天授六年(1380)、高名里(現在の海塚付近)にて戦死したといわれる。この石碑は大正十五年(1926)に建てられ、昭和三十年(1955)に現在地に移された。

 

駐輦記念碑

 

 駐輦記念碑は、小松宮彰仁親王の書。この場所は、明治三十一年(1898)十一月十五日、明治天皇による大演習御統監の地である。

 

明治天皇御製碑

 

 明治四十一年(1908)の御製。

 

 むちうたば紅葉の枝にふれぬべし

 駒をひかへむ岡ごゑの道

 

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岸和田 Ⅲ

2024年01月07日 | 大阪府

(土生中学校)

 ハノイに赴任して一年が過ぎ、初めて一時帰国させていただくことになった。ハノイから夜行便で関西国際空港に飛び、京都の実家に向かったが、その前に東岸和田でレンタカーを借りて泉南の史跡を回ることにした。久しぶりに自動車を運転したが、カラダが覚えているものである。右ハンドルにも直ぐに適応できた。最初の訪問地は、岸和田市土生中学校近くの駐輦記念碑である。

 

駐輦記念碑

 

 土生中学校の東南の敷地に駐輦記念碑が建てられている。書は、元帥陸軍大将小松宮彰仁親王。明治三十一年(1898)十一月十五日、明治天皇による大演習統監の地である。

 

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「洋装の日本史」 刑部芳則著 インターナショナル新書

2023年12月30日 | 書評

「日本から持参した書籍は全部読んでしまった」と思い込んでいたが、よくよく探してみるとまだ手を着けていない本が一冊残っていた。それが「洋装の日本史」である。「近代服飾史」という馴染みの薄い分野に関する本であったが、意外と興味深くあっというまに読み通すことができた。

筆者刑部芳則氏は、「三条実美」や「京都に残った公家たち 華族の近代」(いずれも吉川弘文館)などの著書がある近代日本史を専攻する気鋭の学者だが、一方で服飾史や歌謡史にも造詣が深い。本書は歴史学の手法で服飾史に切り込み、従来の近代服飾史の欺瞞に鋭くメスを入れる一冊となっている。

日本の女性の洋装化に影響を与えたのは、大正十二年(1923)の関東大震災であるとか、女性が下着を穿くようになったのは昭和七年(1932)の白木屋百貨店の火災がきっかけだったといわれている。これらは一種の都市伝説なのだが、家政学の服飾史研究家が書いた書籍や論文の中には、こういった虚説をあたかも実像のように描いているものが数知れず存在しているという。この問題に警鐘を鳴らすというのが、本書の執筆動機となっている。

「白木屋火災の神話にお墨付を与える服飾史研究家」という項では、筆者の論調はヒートアップする。「テレビやラジオで家政学の服飾史研究者がいい加減な解説をしていることが少なくない。それは随分昔から行われてきた」として、その典型例として平成十六年(2004)一月十四日に「トリビアの泉」という番組で、青木英夫氏(故人)が「白木屋火災によって女性は下着を穿くようになった」ことにお墨付きを与えたと批判する。

青木氏は自著「下着の文化史」にて「この火事があって以来、ズロースをはく人が増加してきた。といっても、せいぜい一パーセントぐらいだった」「ズロースは、白木屋の火事で騒がれたほど、下着の発達に対しては大きな役割を果たしたとは思われない」と明記している。筆者によれば「せいぜい一パーセントぐらい」という根拠も明確ではないようだが、いずれにせよ、根拠薄弱な都市伝説をあたかも事実のようにマスコミで話したとすれば罪は重い。

もっとも青木氏がテレビでどのように話をしたのかが本書では語られておらず、ひょっとしたら青木氏の発言をテレビ番組用に切り貼りして、面白おかしく放送した可能性もある。だとすれば青木氏を責めるより、そのように編輯して放送したテレビ局の方に責任があるのかもしれない。

本書は、どちらかというと女性の洋装化の歴史を追っている。確かに男性は明治二十年(1887)頃には、公務員の仕事着はほぼ洋服となり、学校でも洋風の制服(詰襟の学生服)が採用されるようになった。男性の洋装化の流れはこの頃にはほぼ方向性が固まったといえる。これに比べると女性の洋装化には時間がかかった。何よりも女性が洋装することは世間から奇異の目で見られた。洋装した女性は、「じゃじゃ馬」「お行儀がよくない」「不良学生」などと、常に批判の目で見られたのである。

明治十年代後半には鹿鳴館を象徴とするような欧化政策によって洋服熱が過熱したが、当時の女性の洋服にはいくつもの問題があった。①非常に高価 ②コルセットで締め付ける洋服は窮屈で着心地が悪く、健康面にも良くない ③活動的ではない等々。

これらの問題を解決するため、「衣服改良運動」が展開された。様々な識者が意見を戦わせ、実際に改良服を提案したケースもあった。本書にもイラスト入りで婦人改良服が紹介されているが、いずれもぱっとしない。今風にいえば「カワイイ」とは言い難い。やはり女性に採用されるには、値段や着心地、活動のし易さに加えて、何時の時代も見た目がおしゃれで可愛くないといけない。

第一次世界大戦が終結した大正八年(1919)以降、「服装改善活動」なる新たな動きが本格化した。第一次世界大戦後、欧米では職業婦人が増えていた。日本でも女性の社会進出が社会現象化していた時代である。この時期に児童や女子学生に洋服が浸透した。現代にも続くセーラー服が登場したのもこの時代である。しかし、女子学生は卒業すると和装に戻ってしまった。まだ洋装している女性は「モダンガール」と見られて、世間から冷たい視線を受ける時代であった。

明治以来、長い時間をかけて少しずつ女性の洋装化は浸透してきた。日中戦争後、国家総動員法が施行され、服装にも統制が加えられた。それでもスカートは女性たちの人気を集めていた。戦争が激化し、空襲が現実のものになってくるとそれが一時停滞した。女性はモンペやズボンを積極的に穿いたわけではない。戦後、モンペやズボンから解放されると、女性たちは競って魅力的なスカートを求めるようになる。筆者は「女性の洋装化は、戦前・戦中・戦後と連続しており、若い女性たちを中心に徐々に洋服着用者が右肩上がりに増えていった」と力説する。

では、戦後一気に洋装化が進んだのか、というと必ずしもそうではない。本書278ページには和服と洋服の市場規模の推移が掲載されているが、両者の市場規模が逆転したのはようやく昭和49年(1974)前後なのである(なお年間の売上金額は同等であっても一着当たりの単価差を考えれば、実際に和服を着る人数はもっと早くに逆転していたとみるべきであろう)。

本書では漫画「サザエさん」や「いじわるばあさん」に注目して、何時頃日常生活において和服姿が消えてしまったのかを推定している。筆者に推定によれば「サザエさん」に登場する磯野フネは明治二十九年(1896)前後の生まれ。フネは高女時代には着物に袴姿で通学している。「いじわるばあさん」の主人公伊知割石も、女学校時代着物に袴姿に下駄というスタイルで、フネと同世代と思われる。

フネも石も、外出着では洋服を着ている姿もあるが、基本的に日常生活では着物を着ている。両者は生まれながらにして洋服を着る機会がなく終戦を迎えた。高度経済成長期に突入しても、戦前までの服装観で生活を続けていた。日常生活で洋服に袖を通すよりも、着物の方が楽だったのだろう、としている。筆者によれば、昭和五十年(1975)頃を境に和服姿が日常生活から消えて行ったという。言われてみれば、私の父方の祖母は、フネや石と同世代だが、普段は和服であった。アルバムを見返してみてもいつも和服である。私の祖母の世代を最後として日常的な和服世代は退場したということかもしれない。

 

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