史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

パリ Ⅱ

2023年09月09日 | 海外

(パレ・ブロンニャール)

 

パレ・ブロンニャール

 

 慶應三年(1867)、パリ万博に参加するために徳川昭武とともにパリを訪れた渋沢栄一は、銀行家エラールに証券取引所に案内される。当時の証券取引所は現在パレ・ブロンニャール(Palais Brongniart)というカンファレンス施設となっている。この場所で渋沢栄一は、株式とか債権が売買される様子を見て、資本主義の原理を理解したのである。後に我が国資本主義の父と称される実業家渋沢栄一が誕生した場所と言っても良いだろう。

 

(国立図書館)

 竹内保徳を正使とした遣欧使節団は往路帰路にパリに滞在し、精力的に市内の名所を訪ねている。彼らが訪ねたのは、マドレーヌ寺院、植物園、フランス学士院、国立図書館などである。図書館は今も当時の姿のまま、しかも図書館として今も利用されている。久米邦武は図書館のことを「大書庫」と記している。日本書の棚には慶長年間に翻訳されたキリシタンの書籍や、曽我物語、太閤記などが並んでおり、それを見た一行はかなり驚嘆した様子である。

 

国立図書館

 

(フランス国立銀行)

 明治六年(1873)一月二十一日、十時に岩倉使節団はバンク・デ・フランス(フランス国立銀行)に到着している。久米邦武はフランス国立銀の建物を

――― 屋作ノ模様ハ、三層楼ニテ、磚壁(せんぺき)ヲ以テ成レリ、毎層ニ室房ヲ分チ、廊道ヲ以テ榮連シテ、甚ダ迂回ナレトモ、各房ヘ目的ヲ定メテ赴クニハ、高キ三階ノ上ト雖トモ、亦出入ニ易シ、其全局ノ結構ハ、一見ノ能ク了スル所ニ非ズ、両替為替ヲ取扱フ所ハ、三階ノ上ニアリ、此銀行ノ屋作ハ、第一世拿破侖(ナポレオン)苦心ノ図取ナリ

 

と称賛している。

 

フランス国立銀行(Banque De France)

 

 その後、八ページに渡って銀行の役割や機能について詳述している。特に国立銀行が紙幣を発行する仕組みについては、余程関心が高かったのかかなり詳しく解説を加えている。なお、我が国で初めて日本銀行券が発行されたのは、彼らの帰国から十二年後の明治十八年(1885)の拾円券まで待たなくてはならない。

 

BANQUE DE FRANCE

 

(パレ・ロワイヤル)

 パレ・ロワイヤル(Domaine National du Palais-Royal)は、十七世紀に建てられた宮殿および庭園である。「米欧回覧実記」では銅版画の挿絵で「巴黎「ローヤル」宮苑」と紹介されている。

 

――― 「パレイローヤル」宮ハ、中央ニ方庭ヲ抱キタル、大宮苑ナリシヲ、路易(ルイ)第十四世ノ宰相、有名ナル経済家ナル「リセリュー」ノ工夫ニテ、下層ヲ市廛(てん)トナシ、百貨ヲ鬻(ひさ)カシメタリ、此処ニハ珍玩、奇器、奢蘼ノ品、風流ノ具、金光玉華ヲ聚(あつ)メテ、攤陳シ売リ、酒店、食店、其中ニ雑(まじ)リ、中央ニハ方庭ニハ、緑樹陰ヲ展(の)ヘ、夜ハ気燈ヲ照シ、四囲ノ市廛ヨリ、百貨ノ光彩ヲ輝カスハ、黄金ノ気、庭ヲ包ンテ起ルトモ謂フヘシ、

 

 「米欧回覧実記」を読んで感心するのは、当時の知識人の漢語表現の豊かさである。現代人には馴染みのない漢語が続き、漢和辞典がないと読解不能である。それでもこの文章を通読すれば、パレ・ロワイヤルの華やかさが伝わってくる。市廛とは商店のこと。「鬻(ひさ)ぐ」とは「売る、商う」の意。攤陳とは店先に並べて販売する様をいう。

 

パレ・ロワイヤル

 

パレ・ロワイヤル

 

(ルーヴル美術館)

 

ルーヴル美術館

 

 それまでずっとティーシャツに半ズボンで過ごしていたが、最終日の朝、外の気温は20度を切っており、さすがに上に長袖を羽織った。フランスにきて一週間で少し季節が進んだのかもしれない。

 

ルーヴル美術館

 

ルーヴル美術館

ガラスのピラミッドが入口

 

 さて、有名なルーヴル美術館(Musée du Louvre)である。今回の旅では、とにかく使節団が巡ったスポットに足を運ぶことを優先したので、美術館でゆっくり芸術品を鑑賞する時間もなかったが、パリまで行ってルーヴル美術館にも行かなかったのでは後悔すると思い、最終日のわずかな時間、拝観することにした。手元のガイドブックには「予約なしでは入れないことがほとんど」とあったので、事前にルーヴル美術館のウェブサイトでチケットを予約発券することにした。拍子抜けするほどあっさり購入することができた。

 

 「米欧回覧実記」でもルーヴル宮を描写している。

――― 「チュロリー」宮ノ背後ニ連リテ、「ルーヴル」宮アリ、是ハ路易第十四世ノ代ニ築ク所ニテ、拿破侖第一世之ヲ修増シテ、「チュロリー」宮ト接連シタリ、前年ノ戦ニ此宮ハ完全ニ存シ、中ニ拿破侖第一世ノ遺物、名画、古器、雛形、諸械ヲ蓄ヘ、宝庫トナシ縦観セシム、殿宇峻巍(しゅんぎ)ニシテ、雕絵(ちょうかい)満眼、金華爛然(らんぜん)タリ、

 

 久米邦武の記録によれば、ルーヴル宮はルイ十四世が築いたとしているが、1200年頃、フィリップ・オーギュスト王がセーヌ川下流のノルマンディーからイギリスが侵攻してくることに備えて、パリを囲む城壁の前に建造した要塞がその起源というから、その歴史はずっと古い。ルーヴル宮が要塞から美術館へと変貌したのも、シャルル五世(1338~1380)の時代といわれる。

 

 予約時間の三十分前で既に入口に並ぶ人が三~四十人ばかりいて、その行列が予約時間になると十倍以上に伸びていた。取り敢えず予約しておいてよかった。

 空港に出発時間の二時間前に入ることを考えると、ルーヴル美術館で許された時間はわずかに一時間半程度であった。恐らくこの時間で私が見ることができたのは、全体の十分の一にも満たなかったのではないか。それほどもの凄い展示の量なのである。とても短時間で見切れるものではない。今回の旅の心残りはいくつかあるが、その最大のものがルーヴル美術館で十分な時間をとれなかったことである。

 

ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」

 

 ルーヴル美術館でも、最も有名で最も人気のある作品がレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」であろう。この作品のために一つの展示室の半分を割き、人が手を触れられないように規制線が張られている。作品の周りにはたくさんの人が集まっていた。絵画に疎い私は、この作品がどうしてこんなに人気があるのか、よく理解できていない。もっと美しい女性、もっと素敵な表情の絵もあるように思ってしまうのである。

 

ゴヤ「青い服の子供」

 

パルミジャニーノ

「アンテア(若い女性の肖像)」

 

 

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」

 

ダヴィッド「ナポレオン一世の戴冠式」

 

 

 

 西欧の作品に注目が集まりがちであるが、ルーヴル美術館にはアフリカや中東の美術品も多く収集されており、その展示も見応えがある。

 

ルーヴル美術館「アポロンの回廊」

 

 ルーヴル美術館の瞠目すべき点は、展示されている作品のみならず、その会場自体が芸術品であるということである。上はルイ十四世に因んで「アポロンの回廊」と命名された豪華絢爛たるギャラリーである。

 

モザイク画

 

 

 

 

 

 リアルで表情豊かな彫像作品にも見るべきものが多い。

 

「サモトラケのニケ」

 

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パリ Ⅰ

2023年09月09日 | 海外

 フランスは文久年間および慶應年間に幕府が使節団を送り、さらに明治五年(1872)には岩倉使節団が二カ月ほどパリに滞在している。幕末明治日本と浅からぬ縁のある国である。彼らの足跡を追ってパリから旅を始めることとしよう。夏のパリは、日が長い。朝は六時頃に日が昇り、日没は午後九時頃である。明るい時間帯は、できる限り市内を歩き回ることとしたい。

 ハノイからパリまで、エールフランス(ベトナム航空共同運航便)が直行便を運航している。フライト時間は約十一時間。ハノイを夜の十一時に出発して、パリには朝七時に到着する。サマータイムを採用しているフランスとハノイの時差は五時間である。

 出発が近付くにつれて益々円が安くなり、そのせいで随分と割高な旅行となった。円安は輸出企業には追い風になるし、海外からの旅行客によるインバウンド需要も期待できるとはいえ、多くの庶民にとってあまり有り難いものではない。今回は、安いホテルを渡り歩き、極力食費を切り詰めた貧乏旅行になってしまった。

 パリの宿泊先は、Tiquetonne Hotel(ティケットンヌ ホテル)という一つ星ホテルである。宿泊費は一泊約百ユーロ(約一万五千円)という値段でありながら、繁華街に位置し、観光のアクセスは抜群である。こういうロケーションにあるからこの値段なのだろう。自分としては「ビジネスホテル並み」を選定したつもりだったのだが、実際に部屋に入ってみると、テレビ、冷蔵庫やエアコンもなく、歯ブラシも髭剃りもついていない。一番困ったのは電源が部屋に一カ所、それも洗面台にしかなく、パソコンをやるにも洗面所近くにテーブルを移動しないとできない。生まれて初めて「ビジネスホテル以下」に泊まることになった。受付の兄ちゃんが、愛想がよく明るくテキパキしているのに救われた。これで受付が暗くて愛想がなかったら気が滅入るばかりである。

 

ティケトンヌ・ホテル(Tiquetonne Hotel)

 

 シャルル・ド・ゴール空港に到着して、最初にやるのはWifiの入手である。ハノイで予約していたWifiを空港の旅行者用デスクで受け取る。

 次に鉄道の駅へ行ってNavigoカードを手に入れなければならない。このカードの購入に五ユーロ、さらに三〇ユーロをチャージすると一週間、一ゾーンから五ゾーンまで鉄道、バスが乗り放題となるという優れモノなのである。五ゾーンまでということは、パリ郊外フォンテンブローまで、これで行けてしまうのである。空港では駅改札近くの有人チケット売り場でしか購入ができない。既に長い行列ができていたが、ここで少々時間を費やしてもNavigoカードを入手しておかなければならない。

 空港からパリ市内へはいくつかの行き方があるが、Navigoカードを入手したなら、鉄道(R線)を利用するのが早くて便利である。乗り換え無しにホテルの近くまで行くことができる。

 

鉄道R線の車内

市内に入ると混雑してくる

 

 岩倉使節団は明治五年(1872)十一月十六日にドーヴァー海峡を渡ってカレーに至った。久米邦武は

――― 此英仏ノ間ハ、僅ニ一衣帯峡ヲ隔ツレトモ、言語ニ音声ヲ異ニセルコト、怪ムヘキホトナリ、英人の音ハ沈鬱ナリ、仏人ノ音ハ激越ナリ、其言語モ亦源流ヲ異ニシ、全ク相変ス、食饌ノ設ケモ、頓ニ調味ヲ変ス、両国ノ間、古来互ニ相侵越シ、相交通スルコトモ幾千年、竟ニ一水を隔テ、互ニ其故ヲ守ル、国ノ経域ハ、山河ノ自然ニヨルカ、抑人民ノ結習ニヨルカ、両ノモノ共ニ改ムヘカラサルコト此ノ如シ、

 

と国境を越えると国情が一変する不思議を素直に表現している。

 

パリ北駅(Gare du Nord)

 

 使節団がカレーから列車でパリに着いたのは、パリ北駅と推定される。パリには、行き先によって北駅、東駅、リヨン駅、モンパルナス駅の四つのターミナル駅が存在している。

 

パリ北駅

 

 岩倉使節団がパリを訪れたのは、有名なパリ・コミューンから間もない時期である。使節団は至るところで一年前に起きたパリ・コミューンの痕跡を見た。凱旋門では砲弾跡を補修中であったし、彼らを出迎えたテイエール大統領という人物は、パリ・コミューンを弾圧した張本人であった。

パリ・コミューンは、1871年三月二六日から五月二十日にわたってパリで民衆が蜂起し、労働者階級によって樹立された革命政府である。

ナポレオン三世の第ニ帝政が二十年以上続き、その間、工業、貿易が盛んになった。しかし、1870年七月普仏戦争中の敗色が濃くなると退位に追い込まれた。代わって臨時国防政府が戦争を引き継いだが、1871年一月、プロシアに降伏した。パリ民衆はこれを認めず、蜂起して革命政府・パリ・コミューンを樹立した。パリ・コンミューンは、教会と国家の政教分離、無償の義務教育、婦人参政権などの政策を打ち出した。

 

パリ・コミューン記念碑

(モンパルナス墓地)

 

政府軍は、コミューンとは別に、1871年ニ月保守派・国民議会のテイエールを長とする新政府を作り、ヴェルサイユに臨時政府をおいて、コミューン軍の鎮圧に成功した。戦闘では三万人の市民が死亡し、一万人が死刑に処されたとされる。

 

久米邦武はテイエール大統領を老練熟達の政治家と称賛し、コミューンを反徒と呼んだ。マルクスがテイエールを「醜怪な一寸法師」と吐き捨てたのと対照的である。

パリに留学中の西園寺公望もパリ・コミューンの争乱を体験することになった。

 

――― 当時、予ノ寓居モ亦一戦場ニ係ル。飛丸雨注、煙焰昼暗シ(「陶庵随筆」)

 

 という有り様であった。西園寺もやはり共和政治を目指したコミューンを「賊」と呼んでいる。

 

(パリ・オペラ座)

 有名なパリ・オペラ座(オペラ・ガルニエ)は、来月のラグビー・ワールドカップ開催を控えて、前面にラグビー選手を描いた横断幕が掲げられていた。この国でもラグビーは人気競技である。

 

オペラ・ガルニエ

既にラグビー・ワールドカップ仕様

 

(インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン)

岩倉使節団は陸路パリに入り二か月半に渡って精力的にパリおよびその近郊を視察している。久米邦武はフランスに関する総説を含め八章に渡ってフランスおよびパリについて詳述しており、これを通読すると、当時のパリの様子が手に取るように理解できる。

「米国回覧実記」ではそれまで滞在していたイギリス、ロンドンとフランス、パリを対比している。

 

――― 英国秋冬ノ際ハ、常ニ陰霧濛濛トシテ、半ハ夜ヲナス、其中ヨリ来リテ巴黎ニ入レハ、気象恢闊ヲ覚フ、殊ニ巴黎中ニ於テ、爽塏ニシテ壮麗ナリト称スル、「アルチツリヨム」ノ広衢前ニ寓シタレハ、猶雲霧ヲ披キテ、天宮ニ至リシ心地スルナリ、

 

 「アルチツリヨム」というのはArc de Triompheのことであろう。「アルチ」というのが英語でいうアーチ(Arch)のことらしい。「アルチツリヨム」で凱旋門のことを指している。岩倉使節団は凱旋門近くのグラントホテル=現・インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン(InterContinental Paris - Le Grand)に宿泊している。慶應三年(1867)にパリを訪れた徳川昭武一行も当初このホテルに泊まっていた。

 グランドホテルは、名称は変わったものの今も当時の建物のまま営業している。イギリスでもそうだが、フランスも一五〇年以上も前の建物をリノベーションしながら大事に使っている。建物が石造であるからできる芸当であるが、そのおかげで幕末から明治初期にパリを訪れた日本人が見たものを、現代の我々も目にすることができるのは実に有り難い。

 

インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン(旧グランドホテル)

 

 パリを代表する名所の一つ、エトワール凱旋門はナポレオンの命により建設されたもの。1806年に着工し、三十年の歳月をかけて完成した。その時、すでにナポレオンはこの世の人ではなくなっていたが、1840年、彼の遺体がパリに移送された際にこの門を通って帰還を果たした。

 入場料十三ユーロを支払えば高さ五十メートルの凱旋門の最上部まで昇ることができる。最初に持ち物検査があり、そこでも少し待たされる。これが済めば、いよいよ二百八十四段の螺旋階段に進む。

 前を行く黒人の太ったオバサンがヒーヒーいいながら登っていて、少し進むたびに休むので渋滞を生じていた。オバサンの子供たちはさっさと上に行ってしまったが、オバサンは置いてきぼり。実は私も持久力には自信がなかったので、オバサンはちょうど良いペースメーカーになった。

 

パリ凱旋門

 

二百八十四段の螺旋階段を昇る

 

サクレ・クール寺院を望む

 

 「新凱旋門」と呼ばれるグランデ・アルシュ(次の写真中央の白くて四角い枠のような建造物)は、1989年にフランス革命二百年を記念してラ・デファンス地区に建設されたオフィスビルである。この地区は、パリ郊外にあって開発の進む新都心となっており、近代的な高層ビルが林立している。

 

グランデ・アルシュ(Grande Arche)を望む

 

(サン・マルタン門)

 サン・マルタン門(Porte Saint-Martin)はパリ市内に四つある凱旋門の一つ。ルイ十四世の戦勝を記念して建てられたものである。久米邦武が著わした「米欧回覧実記」ではパリ滞在中に見聞した場所を銅版画で紹介しているが、その中の一つに「巴黎「ブールヴァル」大街ノ旧城門」とあるのが、Boulevard通りに所在しているサン・マルタン門のことである。今も銅版画とまったく同じ姿を見ることができる。

 

サン・マルタン門

 

(サン・ドニ門)

 サン・ドニ門(Porte Saint-Denis)はルイ十四世のネーデルラント連邦共和国との戦いでの勝利を記念したものである。

 

サン・ドニ門

 

サン・ドニ門の装飾

 

 一つひとつの装飾(彫像)が見事である。ずっと見ていても飽きない。

 

(ショコラ博物館)

 

ショコラ博物館

 

 次いで訪問したのが、Bonne Nouvelle通りに面したショコラ博物館(Musée du Chocolat)である。ショコラ、即ちチョコレートをテーマとした博物館である。ただし、入場時間前だったために拝観はできず。

 「米欧回覧実記」の魅力の一つは、明治日本人の西欧近代文明との出会いである。

 明治六年(1873)一月二十一日、ゴブランの羊毛工場を訪れた岩倉使節団一行は、その後、チョコレート工場を見学している。

――― 是モ仏国ノ名産ナル菓子ナリ、「チョコレート」ハ、熱帯地ニ産スル、豆ノ一種

――― 其味香ニシテ、些ノ苦味ヲ帯フ、西洋ニテ食饌ヲ供スルニ、必ス菓子ノ台アリ

 と解説している。彼らの口にも合ったのだろう。

 

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「大塩平八郎の乱」 薮田貫著 中公新書

2023年08月19日 | 書評

教科書に必ず載っている大塩平八郎の乱だが、意外とその実態は知られていない。本書は大塩平八郎の乱を最新の研究成果を踏まえて詳述したものである。

本書の末尾には六ページに渡って大塩平八郎の檄文現代語訳が掲載されている。大塩は第一に「上に立つ者が贅沢を極め、大切な政治に携わる諸役人が公然と賄賂を授受あるいは贈答し」「縁故を利用して卑しい身分の者が出世し」「おのが一家のみを肥す工夫のみに頭を使い」「民百姓の負担は増えるばかりで世界全体が困窮し、人々が公儀を怨まざるを得ないありさま」と政情を痛烈に批判する。

彼の怒りに火を着けたのは「大阪の米不足をよそに江戸に米を回し、天皇の御在所である京都には回さないばかりか、近郷から五升一斗ほどの少量の米を市中に買い出しに来た者を逮捕するなどしている」事実である。これは東町奉行跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)が、西組与力の内山彦次郎と結託して行ったものである。

さらに大塩の批判の矛先は、大阪の金持ちに向かう。彼らは諸大名に貸し付けた金銀の利殖と扶持米の支給で莫大な利益を得ている。「町人身分のまま大名の家来、用人格などに採用され」「この時節、天災・天罰を見ても畏れもせず、餓死した貧窮者や物乞いする民を救おうともせず」「美食を常とし、妾宅などへも入り込み」「遊里の揚屋、茶屋へ大名の家来を招き、高価な酒を湯水のように飲」んでいる。

大塩の反乱は、民百姓を悩まし苦しめている諸役人(具体的には跡部と内山)を誅伐し、大阪市内の金持ち町人どもを誅殺することが目的であった。

筆者の見立てによれば、東町奉行の跡部良弼が、西組の与力内山彦次郎を使って江戸回米を企てたことによる「私憤」が乱の背後にあるという。さらには、奉行所の東西対立があり、いつの間にか西が優勢で東が劣勢に回っていた。大塩の主催する洗人洞の門人の多くは東組に所属しており、大塩はその利益代表になっていたというのである。

高邁な理想に裏付けられた檄文は人家の多い神社の殿舎などに貼り付けられて、民衆に広く読まれた。この檄文が奏功したのか、民衆の間で平八郎の人気は高かった。焼け出された者でも少しも怨まず、「大塩様」と尊敬した。戦後、市中に潜伏した大塩平八郎を捕らえれば「銀百枚の褒美が下される」との触れが出たが、「たとえ銀の百枚が千枚になろうとも、大塩さんを訴人されようか」と言っていた。

檄文は周到に用意されたように見える。これに反して乱に加担したのはわずかに総人数三百とされる。相次ぐ密訴によって決起の予定が八時間以上早められることになったという誤算もあったであろう。相蘇一弘氏の研究によれば、初動の人数は七十五人前後、最盛期でも一五〇人から二〇〇人程度としている(「大塩の乱関係者一覧とその考察」。幕府を震撼させた大事変にしては、拍子抜けするほどである。

戦闘は天保八年(1837)二月十九日の早朝に始まり、その日の午後四時頃に終結した。半日程度で鎮圧されてしまったのである。しかし、大塩平八郎をはじめ主な人物は、その後も逃亡を続けた。首謀者である大塩平八郎に至っては一か月以上潜伏を続けた。大塩は敗走後早々同志たちに「自死する」と言いながら、いったん大和への逃走を試み、単独行となったところで、縁戚の美吉屋五郎兵衛宅に駆け込んでいる。

大塩の逃避行の裏には、密かに江戸に送った「建議書」があった。建議書は老中への建策でありながら、水戸斉昭の存在が前提となっていると同時に、学問所総裁である林述斎への諫言となっている。

実は大塩平八郎は、佐藤一斎を介して大阪から水戸に米を送ることで水戸藩とは強い繋がりを有していた。また林述斎にも金銭を融資して、分割返済を受けるという関係にあった。

建議書において、大塩は現職老中の過去の汚職と、勘定奉行内藤矩佳、西町奉行矢部定謙、そして与力内山彦次郎の悪行を訴えている。林述斎と水戸斉昭が動いてくれるのを、大塩は大阪で潜伏しながら期待していたのである。

しかし、建議書は斉昭の側近藤田東湖には渡ったが、東湖はそれを斉昭には渡していない。江川英龍の上司である内藤矩佳が手を回したと推測されている。

大塩がいわば命かけで告発した「侫人」は、皮肉にもそれぞれ栄達を遂げている。

矢部定謙はその後江戸南町奉行に昇進したが、老中水野忠邦と対立し罷免。それを不服として絶食し、天保十三年(1842)、死去した。

跡部良弼はその後も江戸南町奉行や講武所総裁、江戸北町奉行などの重職を歴任。最後は若年寄まで昇ったが、明治元年(1868)、七十歳で死去。

内山彦次郎は与力の最上位職である諸御用調役を務め、さらに譜代御家人まで取り立てられた。しかし元治元年(1864)五月、大阪天神橋にて何者かに暗殺された。犯人は新選組説、攘夷志士による天誅説があるが、今も真相は闇の中である。

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岡崎 Ⅳ

2023年08月05日 | 愛知県

(光善寺)

 

光善寺

 

 この日は豊田市駅前のビジネスホテルのロビーに9時集合であったので、愛知環状鉄道の始発電車に乗って岡崎周辺の史跡を巡った。最初の訪問地は、西岡崎駅(JR)近くの光善寺である。深見篤慶(あつよし)の墓がある。

 

深見藤十篤慶之墓

 

 深見篤慶は文政十一年(1828)の生まれ。父は外山三輔。通称は藤十。雅号は松塢。二十四歳のとき三河国碧海郡新堀村の刈谷藩用達木綿問屋深見善恕の養嗣子となり、刈谷藩侍講村上忠順に国学を学び女婿となった。忠順の子忠明が松本奎堂らと交わるに及び、天誅組の資金を供給。のち京都の志士の活動資金として有栖川家へ献納した総額は二万両に及んだとされる。維新後は神社創建修復、学校創設に私財を投じ、明治五年(1872)、額田県学校幹事、酒人神社祠官となった。忠順のために珍書古籍を蒐集し、自らも国学や和歌の書を出版刊行した。明治十四年(1881)、年五十四で没。墓石の背面には篤慶の事績が簡潔に記載されている。

 

 墓石の写真を撮っていると、寺から老人が出てきたので深見篤慶について会話を交わすことができた。これから前庭天神社で篤慶の石碑を見に行くということを伝えると、篤慶が祠官を務めた酒人神社にも顕彰碑がある、と教えていただいた。調べてみるとここから二キロメートルほど離れており、今回の訪問は諦めた。

 

(前庭天神社)

 

前庭天神社

 

贈従五位深見篤慶先生之碑

 

 見上げんばかりの巨大な石碑である。公爵一條實孝の書。

 

(専福寺)

 

専福寺

 

 東岡崎駅から北に十分ほど歩くと旧東海道近くに専福寺がある。本堂の前に明治天皇行在所跡碑が建てられている。

 明治天皇は明治十一年(1878)十月二十八日と二十九日、二泊している。

 

明治天皇行在所跡

 

 専福寺まで半ば駆け足で往復して東岡崎八時十一分発の電車に飛び乗り、岡崎公園前(中岡崎)駅で愛知環状鉄道に乗り換え。八時四十七分に新豊田駅に戻った。ホテルに戻ったのは集合時間九時の五分前であったが、まだ一階で朝食が提供されていたので、五分で朝食を済ませた。その時点で集合時間は過ぎていたが、「まだ時間はある」ということだったので、部屋に戻って歯を磨き、何食わぬ顔で合流した。アクロバティックな史跡探訪であった。

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「近代日本外交史」 佐々木雄一著 中公新書

2023年07月29日 | 書評

ペリー来航から太平洋戦争に至る約九十年にわたる日本外交の歩みをわずか二百ページ余りに凝縮した一冊。

明治日本にとって大きな外交問題は条約改正であった。条約改正とは具体的には法権回復(領事裁判権の撤廃)と関税問題(関税自主権の回復もしくは関税の引き上げ)である。改正事業にはさまざまな取り組みが模索された。

その代表例の一つが井上馨外務卿の推進した文明開化路線である。悪名高い鹿鳴館でダンスパーティを開いた井上だが、外国人に内地解放をする代わりに法権を回復し、文明国に相応しい法・政治制度を備えることで条約改正を実現しようという戦略であった。

井上の跡を継いだ大隈重信は、外国人の裁判官任用といった妥協的内容を提示しながら領事裁判撤廃を目指した。しかし、外交担当者が是とした内容であっても、日本国内を納得させることはできなかった。結局、大隈自身が爆弾テロを受けて重傷を負ったことを機に大隈路線は頓挫してしまう。

青木周蔵外相、榎本武揚外相の時代も政府内の合意形成に躓き、成果を上げることはできなかった。次いで第二次伊藤博文内閣で外相に就いたのが陸奥宗光である。陸奥は前任者の失敗から学び、国内および政府内で合意を形成することに意を配った。この頃には憲法や裁判所構成法が公布・施行され、帝国議会も開設されており、これも陸奥外交の追い風となった。

またこの頃、外務大臣・外務本省・在外公館の総合的体制で外交を行う体制が完成した。それまで外交で必要とされる社交を優先して、裕福な華族から公使を起用するような人事が普通に行われていたが、ようやく外交の専門性や組織的取り組みの重要性がクローズアップされるようになったのである。

明治二十七年(1894)七月、我が国は悲願であった新条約締結にこぎつけた(日英通商航海条約)。新条約では、日本は内地を開放し、領事裁判が撤廃され、最恵国待遇も双務的となった。関税についても部分的に改正された。ただし、条約の発効は五年後であった。完全な税権回復は果たされていないし、批判される余地は多々あったが、折しも日清戦争が始まり、その結果、新条約に対する日本国内の批判は高まることはなかった。

この成功体験を通じて、日本の外交担当者は西洋諸国を中心とする国際秩序に公正さを認め、それに積極的に適合していくことで日本が十分に発展していけるという自信を得た。一方で条約改正にとどまらず日露戦争の講和を巡って、あるいは第一次世界大戦後のパリ講和会議における人種差別撤廃問題にしても、外交当局者とそれ以外の人たちとの感覚のずれは覆い難いものがあった。先回りして言ってしまうと、その乖離が最後には太平洋戦争へと繋がるほころびであった。

時代は帝国主義の時代を迎えていた。帝国主義というと弱肉強食の世界というイメージが強い。確かにそういう側面も否定できないが、外交上の主張や行動には一定の正当性が求められた。列強はお互いに牽制し、警戒し、協調しながら、他国が認める形で勢力を伸ばしたいのであって、日本もその規範の中にあった。むしろ非西欧国だったから、余計にほかの列強からどう見られるか、ほかの列強がどう反応するかということに神経を使い、外交担当者は正当性や公平性を強く意識していた。ただし、それは飽くまで列強間の論理であって、日本の従属下に置かれた台湾や朝鮮にしてみれば、全く公平でも正当でもないという点には注意を要する。

このような帝国主義的規範意識をもって外交を担っていたのは、大国で公使を経験した有力外交官たち(青木周蔵、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董、内田康哉、牧野伸顕、石井菊次郎、本野一郎ら)、つまり「外交のプロ」であった。本書によればこの流れに連なる存在が、伊集院彦吉、松井慶四郎、幣原喜重郎であり、「幣原は日本外交の嫡流」だという。彼らは既存の国際秩序の中で十分日本は発展することができると信じ、「目の前に利益を得ること、少なくとも損はしないこと」に注力した。ここでいう「利益」とは「領土、利権、経済的利得、将来的な主張の根拠」などをいう。

ところが第一世界大戦を経て、外交のあり方が大きく変容することになる。日本も対外膨張策に傾き、従来の外交のプロが担った外交の自律性は、特に世論との関係、あるいは閣内、政府内との整合という観点でも転換期を迎えることになる。

第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は国際連盟規約に各国民平等、差別撤廃の文言を入れようとしたが失敗に帰した。日本は人種差別問題に関する日本の主張を記録に残すことで折り合いをつけたが、これに対して国内世論は強く反発した。これを契機に日本政府、外交担当者とそれ以外の人々との温度差が次第に顕著となり、日本外交において深刻な意味を持つようになる。

第一次世界大戦を経て世界的に反帝国主義の考えが広がる。列強が共同で中国を抑圧していることが批判的に捉えられるようになってきた。そういう中で国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、従来の帝国主義は批判を受けた。軍縮が叫ばれ、戦争違法化の流れができていく。日本も伝統的な日本外交に回帰しようとした。即ち大勢順応である。ほかの大国が中国から手を引けば日本もそうする。日本だけが不利益を被ることがないようにバランスをとろうとした。

一方、この頃、「満蒙は日本の生命線」というスローガンが唱えられるようになる。日本政府も言論人も、様々な人が様々な場で「満蒙権益は日本の国防ならびに国民の経済的生存に関わるものである」と主張し、これが一因となって日本は国際社会との対決に向かってしまう。現代人の目から見れば妄言でしかないが、朝鮮半島を自国に組み入れた当時の日本人にしてみれば国を挙げて「満蒙は日本の生命線」と信じる根拠があったのであろう。

二〇年代の憲政党・民政党内閣期に外務大臣を務めたのが「外交のプロ」である幣原喜重郎であった。ところが、幣原の対中政策は日本国内で軟弱外交と批判されるようになっていた。

一九二〇年代から三〇年代は、政党内閣が次々と成立し、メディア・ジャーナリズムが勃興した時期である。日本外交も、国内のマグマに煽られるように方向転換を余儀なくされる。「外交のプロ」が国際秩序に配慮しながら自国の利益を追求する従来型の外交に飽き足らず、日本にとって不利な国際秩序を作り変えようという、今から見ればかなり無茶な「正義」を希求することになる。

国際連盟を脱退し、日中戦争を始めた日本は国際的に孤立を深めていく。外交という切り口で見ても、三〇年代は大きな転換点であった。その時代をリアルタイムで生きている人には見えないが、あとから振り返ると画期となる変わり目がある。筆者は「秩序の変動期でなおかつ日本外交が指導力を伴って軌道修正されていた原内閣期は、満州・満蒙についてもより柔軟な政策選択に道を開く好機だった」と指摘しているが、もちろんそれは「後々の展開を知ったうえでの後知恵」であることは否定できない。リアルタイムで生きている人の中にそのことに気が付き、ブレーキを踏んだり方向転換できる人がいたとしたら、それは真のヒーローであろう。いや、もはや神の領域かもしれないが、国家の進路を握るものは一歩でもそれに近づく努力をしなければならない。

 

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名古屋 南

2023年07月22日 | 愛知県

(富部神社)

 南区呼続(よびつづき)四丁目の冨部(とべ)神社は、慶長八年(1603)、清須城主松平忠吉が創建したといわれる。慶長十一年(1606)、病気快癒の報恩のため、本殿、祭文殿、拝殿、回廊などを寄進し、さらに神宮寺として天福寺を建てた(維新後、神仏分離により廃寺)。江戸時代を通じて、歴代の尾張藩主から黒印地として毎年百石が寄進された。

 

富部神社

 

 鳥居の横に明治天皇の駐蹕記念碑が移設されている。滞在は明治元年(1868)九月二十七日。

 

明治天皇御駐蹕之處

 

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名古屋 港

2023年07月22日 | 愛知県

(南陽神社)

 

南陽神社

 

 名古屋市港区の南陽中学の南にある南陽神社は、日清戦争以後の戦死戦病死者を祀る神社である。大正十二年(1923)、靖国神社から分霊を受けた。当時は南陽忠魂社と称していた。

 

鬼頭景義・勘兵衛宅跡

 

 境内には鬼頭景義・勘兵衛宅の長屋門が修理移築されている。

 鬼頭景義は、寛永八年(1631)から明暦三年(1657)に至る二十七年間、尾張・美濃で二十七ヶ所、二万二千余石にのぼる新田を開拓した人物である。この地に居住した景義直系の子孫には、代々勘兵衛を名乗る者が多く、そのため勘兵衛屋敷と呼ばれた。

 太平洋戦争で建物の大半が焼失し、現在は明治十三年(1880)、明治天皇巡幸の際に使われた長屋門のみが残されている。

 

明治天皇福田行在所

 

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名古屋 瑞穂

2023年07月22日 | 愛知県

(東ノ宮神社)

 

東ノ宮神社

 

 名古屋市瑞穂区神穂町の東ノ宮神社では、狭い境内に大正期に建てられた明治天皇覧穫之所碑と昭和になって建てられた明治天皇八町畷御野立所碑がある。

 

明治天皇覧穫之所

 

 題字は尾張徳川家の第十九代当主徳川義親(松平春嶽の五男)。

 

明治天皇八町畷御野立所

 

 当地は、明治元年(1868)に明治天皇が稲の収穫をご覧になった水田の跡である。

 

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名古屋 Ⅶ

2023年07月22日 | 愛知県

(ファミリーマート中川富川町店)

 

明治天皇御駐蹕之所

 

 この日、新居浜から名古屋に移動し、名古屋駅近くのビジネスホテルに宿泊した。岡山からの新幹線がよりによって信号故障により十五分遅れとなった。十五分程度の遅れであれば、まったく気にならないのだが、この日は日没までの一時間を使って、近鉄烏森(かすもり)駅周辺の明治天皇聖蹟碑を歩いて探訪する予定を立てていたので、気が気でなかった。

 ホテルに荷物を置いて、飛ぶように近鉄の普通電車に乗り、烏森駅を目指す。最初の訪問地は、佐屋街道沿いにある天神児童遊園地(名古屋市中川区長良町3‐2‐2)である。

 ところがそこに行ってみると

――― 当所に建立設置されていた『明治天皇御駐輦之所』の石碑は、長良八劔社境内に移設しました。          長良八劔社

と書かれた立て看板がポツンと置いてあるだけであった。

 日本国内に入った瞬間、ベトナムから持参したスマホが使えない状態になってしまい、グーグルマップで検索もできない。八劔神社がどこにあるかも分からないので、取り敢えず次の目的地である、冨川町のファミリーマートの前にある明治天皇碑を目指すことにした。

 十五分ほど佐屋街道を東に進み、長良橋を渡ったところに立派な石碑が建てられている。

 

 明治元年(1868)十二月十八日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したものである。

 

(長良八劔神社)

 

長良八劔神社

 

 佐屋街道を烏森駅方面に戻り、途中で店仕舞いをしていた老女に長良八劔神社の場所を訊いたところ、直ぐ近くであることが分かった。何とか日没までに行き着くことができた。

 本殿の裏側に明治天皇御駐輦之所碑が移設されている。明治二年(1869)三月十六日の滞在跡である。

 

明治天皇御駐輦之所

 

(名古屋別院)

 翌日は雨であった。地下鉄の始発に乗って東別院駅で下車。名古屋別院を訪ねた。

 織田信長の父信秀が天文十一年(1542)頃。熱田を掌握し、東方の今川に備えるために築城したのが古渡(ふるわたり)城である。現在、名古屋別院のある辺りに築城されていたとされる。

 

真宗大谷派 名古屋別院

 

古渡城趾

 

明治天皇行在所舊址

 

 明治十一年(1878)から明治二十七年(1894)まで、当地における明治天皇の宿泊は六回を数えた。近くには明治天皇名古屋大本営碑も立っている。

 

明治天皇名古屋大本営

 

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津島

2023年07月15日 | 愛知県

(浄光寺)

 

浄光寺

 

明治天皇 佐屋 行在所

 

 津島市片町の浄光寺門前に明治天皇の行在所が置かれたことを記念した石碑が建てられている。

 

(大地主神社)

 

大地主神社

 

 津島市埋田町の大地主神社には、聖蹟碑と明治天皇御小休紀念 椿と刻まれた石碑がある。

 この地は明治天皇が小用を足された場所で、後年この地に椿の枝を刺しておいたところ、根を生じて生育したため、明治十八年(1885)になって神社が造られたという。

 

聖蹟碑

 

明治天皇御小休紀念 椿

 

 周囲を探してみたが椿らしき樹木は見つけられなかった。

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