東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

チェ・ゲバラ没後50年

2017年10月24日 | 日記

今年(2017年)は、チェ・ゲバラが39歳という若さでこの世を去ってから50年目にあたります。そのため、日本でもいくつかチェ・ゲバラに触れられる機会がありました。チェは、どこに行くにもカメラを手放さなかったと言われています。恵比寿では、約240点もの写真を展示した「写真家 チェ・ゲバラが見た世界」が開催されました。その中の1枚に、チェがヒロシマで撮った原爆ドームの写真がありました。

映画『エルネスト』の冒頭は、日本外務省の意向を無視して、チェが汽車で大阪から広島に向かうシーンから始まります。原爆資料館や原爆ドームを見学し、慰霊碑に献花を終えたチェは、「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」とつぶやきます。

『エルネスト』は、チェ・ゲバラとともにボリビアで戦った、日系ボリビア人フレディ前村の生涯を描いた映画です。ヒロシマの心を世界に発信することに最も寄与したと思われる作品に贈られる「ヒロシマ平和映画賞」を受章しました。

全編スペイン語で、前村を演じるオダギリジョー、素晴らしいですよ。是非ご覧あれ。


佐伯敏子さんの逝去を悼む

2017年10月24日 | 日記

 佐伯敏子さんと私との出会いは1989年、杉並教組で行った平和ツアーです。8月5日の市内慰霊碑巡りのバスで私の隣に座られたのが佐伯さんでした。うだるような真夏の広島、市内100カ所程の慰霊碑を一つずつ訊ねて回りました。大きなやかんを抱え、ろうそくとお線香を持ち碑の前で手を合わせます。酷暑の中、私自身相当堪えましたが70歳を過ぎている佐伯さんのどこにこの様なエネルギーがあるのだろうと不思議でした。

  その日の晩、供養塔の前にござを敷き、車座になって佐伯さんの話を聞きました。 

  「1945年8月6日は、疎開していた長男に合うため前日から郊外の姉の家にいたので、私は直撃を避けられた。市内にいた母や夫の両親を探しに、まだ火の海となっている爆心地を駆けずり回った。まだ生存している重傷者達が無傷の私に助けを求めたが、家族を捜すので彼らを見捨てざるを得なかった。また、市内を歩くには道を埋め尽くす多くの死没者達の遺体を踏みつけるしかなく、この時の足の感触は今でも残っている。『足が熱く、人の上を踏んで歩いた。人間としてやってはいけないことをした。』

 直撃を受けた兄2人と妹はその後亡くなり、母は首だけの姿で見つかった。従兄弟を含め親戚計13人を70日間で失った。その間、私の親族・家族同士の間ですら『病気がうつる』と言って原爆症を発症した者に近づくのを嫌がったり、負傷者を一時的に別の家に預けようとしても、食い扶持が減ると言って断られたりすることがあった。戦争や原爆が人間の身体のみならず心も傷つけることを見せつけられた。」と話された。

 平和公園内には被爆による無縁仏を葬るための原爆供養塔があります。この供養塔の拝礼者はほとんどおらず雑草などで荒れ放題でした。佐伯さんは七万体もの遺骨が納められている供養塔の周辺の草むしりや清掃等を毎日行うなど献身的に活動されていました。また、供養塔を訪れる人々に被爆体験の証言活動をされていました。東京子ども派遣団でも毎年、子ども達の前で証言をしていただきました。

 佐伯さんはその後、脳梗塞で倒れられ入退院を繰り返されました。供養塔への日参や証言活動も止められましたが、自宅を訪れる人々に体験談を語られていたそうです。

 私は佐伯さんをはじめとする被爆体験者から多くの事を学びました。特に「戦争は人の心をも傷つける。」との佐伯さんの言葉はその後の平和への闘いの原点になっています。この言葉を今一度噛みしめ、反戦・平和の絶え間ない取り組みをしていきます。

  今回のご逝去を知り、驚きと悲しみに耐えません。ご生前のお姿を偲びご冥福をお祈り申し上げます。