蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判2

2021年03月22日 | 小説
(2021年3月22日)本書解釈の起点となる3の原点を 1理性論 2世界観 3未開文明論として、1におけるサルトルの立場を説明した(3月19日)レヴィストロースにおける1、理性論の原点を探ろう。彼は近代人にして科学に携わるものの常としてカント主義者であるを公言していた。カントの弁証法を述べる前にヘーゲル弁証法の理念を、前回の追加として探る;
弁証法的周回の起点がヘーゲルにあってはnégation(否定)。ここには即応反応、機械的拒否を感じる(理性はnégationしか選択できないとヘーゲル自身が述べている)。即座の否定が「弁証法の真理」なのだから人が理屈をこねてnégationを選択した弁明など説明する必要はない。ここにヘーゲル弁証法運動の整然性が見える。
一方でカントはRéfutation弁証法と知られる。
語は動詞réfuterの名詞で意味として:repousser (un raisonnement, une proposition, une opinion) en demonstrant sa fausseté誤謬を指摘しその説明(提案、意見)を再び取り上げる(Robert)となる。まず主題を吟味して、誤りを訂正するための否定手順を取るのだと教えている。主題に誤り(fausseté)が見つからなかったらfutation(反主題」を提起しない。脳髄反射を金科玉条と採り入れる御仁と異なり、知識人として「知性entendement」が作用している。個体が優秀でなく誤謬を見過ごしたら宇宙真理に到達できないのか。ツッコミ疑義にはそのとおりとしか答えようが無い。真理への誤解が人の歴史だった訳だから。
吟味…過程は「先験transcendantal」理性に支配される、これを先験的弁証法(dialectique transcendantale)とする。
それはまた、
<logique de l’apparence (par opp. à l’analytique qui est la logique de vérité ) L’apparence de rationalité consiste dans la rigueur du raisonnnement , mais cette rigueur n’aboutit pas à la verité, car les raisonnnements dialectiques appliquent aux choses en soi, ou en noumènes , des principes qui ne valent que pour les choses pour nous , ou phénomènes. (Dictionaire de la langue philo.Puf )
分析論理は真実を追求する論理であるが、弁証法は「形態化」(apparance)の論理である。形態化の論理行程は厳格に理性の中に存在するのだが、この厳格さは真理に到達しない。なぜなら弁証法理性は、いくつもの原理を形作るのであるが、それは物、我々、あるいは事象、それら個々にのみにしか値しないからである。
分かりにくい一文だが分解し理解しよう。

写真:2のノーベル賞受賞者(サルトルとジッド)サルトルは受賞通知を受け取ったが辞退した。自らの意思で受賞辞退者は人類でサルトルのみ・ネットから採取。



まず先験には分析理性と弁証法がある1。次に分析理性が真実理性で、その理性を用いてのみ「真理」に行き着く2。弁証法は真理を求める論理ではない。形態を探るのだとするこれが3。
形態とは(その物が)持つ事柄にのみ原理を形成するからである(一過性であり挿話的でもある)。弁証法の働き具合は個別的である。その形態化過程を他の物の形態化には応用できない。一般的化し得る分析理性とは逆となり、個別にとどまる。(以上は部族民の解釈)
(デカルトが得意とする)蜜蝋を例用して分析的解析と弁証法統合を試みる;
蜜蝋は形態、感触、色、匂い…などの特質に分析される。この特質の集合体が蜜蝋である。故に差し出された物体の特質を属性分析すれば蜜蝋か、まがい物かを判定できる。この思考方法が、モノの本質を暴く思考、すなわち真理に到達する理性である。
ある男が差し出された蜜蝋そっくり物を「吟味したが蜜蝋ではない」と反蜜蝋(これがカント曰くのfutation)を主張した。理由は蜜蝋とは「どこか一部が異なる」。その一部を探し出すため、男は己が頭に持つ蜜蝋を思い起こし目の前の現物と照らし合わせた。形、色、匂い….(この過程がapparance=形態化)。色に違いが見つかった。「この部の黄色は本来であれば赤」。指摘によりこの個体は「欠陥蜜蝋」と判定された。蜜蝋の範疇を外れる「蜜蝋崩れ」だった。
Apparanceを形態化と訳した。一般的に内実に対応するが至らない「見せかけ」として用いられるが、カント弁証法過程での目の前にある事象を「再現-表象」し吟味する理性としかつ能動性を込め、この訳語を選んだ。
頭脳での表象の働きとはなんのことはない、難波主婦がスーパーでリンゴに疵を見つけ「キズ物や、売り物にならんわ、安くして」と値切る買い物には、futation(faussetéの覚知)をきっかけに反作用(売り物ではない)、止揚(安くして)なる関西過程の弁証法が動いている。
Apparanceに至る過程を本書ではtotalisation統合化としている。サルトル用語であるがレヴィストロースも用いる。またサルトルはその動詞totaliser(統合する)において個の理性を喚起している(部族民蕃神の解釈)。ヘーゲル機会反応的の思弁と比べ一旦思考して真理につながる形態化を捉えている。
本題、レヴィストロースの理性論は;
いわゆる「構造主義」に立ち戻ることになります。現実は形でありそれは地域、時間限定の挿話的事象でしかない。人が頭に抱く表象が挿話的事象である形に対峙する。この対峙関係を構造と呼ぶ。現実(形)に真理は滞留していない。真理は形と表象の対峙にある、こう言えます(部族民の解釈)。
人が事象を見て(聞いて)それを表象として頭に残す作業はカント的先験理性に支配される。事象を属性に分解しその本質に迫る姿勢は「分析理性」です。それらを再構成して「構造化」する過程に「弁証法理性」が存在します。レヴィストロース自身が本文で「親族の基本構造」ではその進め方「分析して統合する」手法で親族を解析したと記述しています(後に引用する)。
歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判2了(2021年3月22日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする